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どんな人が政治家になるのが国の為になるのか?

政治家と聞いて皆さんはどんな言葉や事柄をイメージしますか?

勝手に想像すると

「世襲」  「お金」  「スキャンダル」
「選挙」

「安倍晋三」などなど色々あると思います。

 私は政治家と聞くと

どうしても 

    「神風特攻隊」

という言葉が浮かんで来ます。

 言葉というより、映像で見た

「離陸して行く零戦に手を振る戦友達」

 あの光景が浮かんで来ます。

なぜ政治家をイメージするとあの光景が頭に浮かぶのだろう?
悲惨な歴史と国家運営を重ねているのだろうか?

 今回それを考えてみる。

特攻隊は自分の命をも顧みず、任務遂行の為に突撃した方達です。 
 特攻隊員に思いを馳せると胸が熱くなります。 


「もっと生きたかっただろう」
「恋もしてただろう」「もっと家族と居たかっただろう」など沢山の事が想像出来ます。

「彼らはあの時どんな風に思って旅立ったのだろう」

国の為
 家族の為
   未来の為
と散っていった若者。


茨城県阿見町の予科練記念館の零戦レプリカここで訓練した若者18000人が戦死

そこには私には想像もつかない気持ちであったに違いない、そんな事を思うのであります。

国の為に勇敢に向かって行く、そんな事を政治家に重ねるのかも知れません。

特攻隊のような若者を二度と出さないで欲しいとも政治家にお願いしたい気持ちかもしれません。

そして政治家には歴史を軽く見ないで欲しいと思う気持ちかもしれません。

  昭和の政治家の中には事件で自分が人質と身代わりになったりする人がいました。

「たぶん今の政治家にそのような人物はいないでしょう」

私の想像ですが、身代わりになった政治家は

  「政治家とはこうあるべき」

というような強い思いがあったのだと思う。

ではなぜそのような思いがあったのか?

尊敬する先輩がいたのか?
当時の社会がそうだったのか?
人に教えられたのか?
歴史を勉強してか?
学校でそう教わったのか?
親から教わったか?
そういうものと自然に思っていたのか?

私が思うに全部なのだろうと思います。

そしてそれらを一番に評価する社会と国民性であったのだろう。

人としての拘り
政治家としての拘り
日本人としての拘り
父親としての拘り
様々な拘りが庶民の中にもしっかりと存在していたと感じます。

お金が沢山ある者がえらい
ではなく、強い者がえらいではなく
真面目だとか
与えられた役目を全うする
または
全うしょうとする姿を評価する社会だった。

つまり

「社会がそういう政治家を当たり前にに求めていたからだ」

しかし昨今は企業との癒着や自分達に有利にしてもらえるとか、テレビでの印象や雰囲気だ。

政治家のレベルとは日本国民のレベルに合わせて出て来るものだと感じます。

現代の政治家のレベルとは、
もしかしたら自分達
国民の映し鏡かも知れませんね。


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