「世界が100人の村」であってたまるか、という話

「何でも否定から入る人間は嫌われる」という言葉がある。

「なるほど、確かにその通りだ」と思う反面、人目を気にして本音をぶつけられないのもどうかと思う。
なんなら、ものをはっきり言う方が相手のためになるのであるからして…

と続けてしまうことからもわかる通り、生憎とぼくは幅広く人に好かれるような性格をしていない。
というか、はっきり言えばかなり人を選ぶ自覚がある。なんならぼくの方からも選ぶ。

それはそうと、好かれたい相手には十分に好かれているし、構わないと思う相手には相応に嫌われているので、それで良いと思っている。
(はずである。そうだよね?)

そもそも人に好かれたくてNOTEを始めた訳でもない。思いついた時、好き放題に文を書き散らしたくて始めたのだ。

何事も初めが肝心ともいうし、自分らしいスタイルで開始するのがいいだろう。
(というか、ここまでの文が既に否定的な気もする。)

というわけで、敢えて否定的なタイトルで、初回を始めてみたいと思う。

「もし世界が百人の村だったら」という喩えがある。
僕は、あの比喩にかなり極端な苦手意識を持っている。

この比喩は、世界の人口を割合で削っていって、「これだけの人が恵まれている/困っている」ということを、感覚的に分かりやすくするためのものだ。

その意義はとても、よく分かる。
使い勝手がいいのも、よく分かる。
子供から大人まで、ここまで直感的に分かりやすい比喩もないのだろう。

それでも。
それでも、納得できないのは何故か。それは、小数点以下が切り捨てられているからだ。

これが分数なら、分かるのだ。
小数点以下が、たとえ「...」という表記であれ、示されているなら、まだ分かるのだ。

けれど、この比喩は分かりやすさのために、小数点以下が文字通り消されてしまう。
これはいけない。
だって、ここで消されているのは、文字通り「個性を持った人間」であるからだ。

考えてもみてほしい。
貴方がもし、なかなか人に理解されないようなマイナー趣味を持っていたとしよう。
それがどれだけマイナーだとしても、貴方にとってはかけがえの無い、唯一無二のものだとしよう。

「世界が百人の村だったら」、その趣味を愛好する人数は「ゼロ」なのだ。
分かるだろうか。

あの数字は、小数点以下切り捨てである。
言い換えれば、世界人口の1%に食い込めていないものは、全てゼロカウントされるのである!

これは、考えてみればとんでもないことではないだろうか。
いるはずの人間をいなかったことにする。
あるはずの意見を、数が少ないというだけで封殺する。
まさしく多数決の暴力、悪しき慣習の残り火そのものだ。

というか、問いの立て方次第でいくらでも悪い使い方が出来る。
酷い話、ある特定の個人を狙い撃ちで無かったことにできる、被人道的な規則系である。

回り道は十分に通ったと思うので、ぼくがこの比喩を嫌いな理由を、ひとつの設問に込めよう。

「世界が100人の村だったら、貴方は何人?」
ゼロである。

そう、どう足掻いても、「このぼく/わたし」はゼロ人にしかなりえないのである。
小数点以下を切り捨てるときに、必ずやひとりひとりの人が切り捨てられているのである。

どうだろう。
なんだか、世界を百人に喩えることで「お前なんていなくてもいいからね」とか「人間なんて所詮は記号だからねぇ」とか、上位存在的な、こう、えらく上から目線なものの声が聞こえる気がしないだろうか。

だから、あの比喩は嫌いなのだ。
小数点以下として、確かにそこにあるはずのとのを無かったことにしてくる、あの比喩が。

そのくせ、あの比喩は決まって、いかにも恵まれない者の味方、というツラで現れる。
本物のマイノリティ、(恵まれているかどうかは知らないが)確かにそこにいる者をゼロとみなすような奴が、いかにも正義の味方の体裁で出てくる訳である。
必要とあらば、1%に届かないマイノリティ(と言うかぼく)のことを容赦なく切り捨ててくるくせに、である。

そうして考えを進めていくと、あの比喩に使われるイラスト(最近はいらすとやなのだろうか…)が、いかにも憎らしい笑みを浮かべているように見えないだろうか。
困った顔をした少年のイラストさえも、「でもぼくは1%に居座ったからね?」と、上から見下ろしてくるように感じないだろうか。

そうは感じない貴方、おめでとうございます。
住み良い世界にいるようで何よりです。

そのように感じた貴方、ありがとうございます。
貴方とは、良いお酒が飲めそうですね。

ここまで話せばお分かりの通り、ぼくは少し、いや大分、それなり以上にマイナー寄りな人間である。
そもそもこんな問題意識を持つ時点で、およそ「1%」を手にできる人間性はしていない。

なんなら、ここまでの議論を見た人は、意地悪な設問で僕を「1%」から外すことで、ざまあみろと笑いたくなるかもしれない。。。そんな程度の人間である。
それはそれだ。認めよう。

それでもぼくはここにいるし、この記事を読んだ貴方も、きっとどこかで生を謳歌していることだろう。

この比喩に共感できたかどうかに限らず、必ずや誰もが、いつかどこかで何かに向けて、足掻いていることだろう。

そこで、そんなみなさまのために、この比喩に一矢報いる方法…比喩の翻案をを考えた。
いや、主語を大きくしすぎたので訂正する。
正しくは、ぼくがぼくのために、考えた。

「もし宇宙が100個の星だったら」

どうだろうか。
宇宙のことがを考えれば細かいことは気にならなくなる、という言説があるが、まさしくその実践である。

この地球におけるマジョリティもマイノリティも、この広大さの前では敵うまい。

「食料が十分に行き渡っている人数は?」
ゼロである。
そもそも、食料の概念があるのやら。

「あのアイドルが好きな人数は?」
ゼロである。
というか、宇宙アイドルって何者だ。

「恋人がいる人数は?」
ゼロである。
いわゆる恋愛って、地球に特有の制度なんですよ。

「紙の本が必須だと思う人は?」
ゼロである。(本当は一人に届いてほしい。)

「サッカー派?野球派?」
いずれもゼロである。
いや、超銀河サッカーとか、コロコロコミック辺りにありそうだが。

「貴方のことを好きな人の人数は?」
ゼロである。
怒らないでほしい。
宇宙規模で見た人類なんて、所詮はその程度のもんですよ。

「◯◯は?」「××は?」「△△は?」
何を入れようが、どう足掻こうが、ひたすらにゼロである。

所詮は地球における割合なんて、宇宙規模に差し替えてしまえば塵芥って訳ですね。
これでもって、多数派へのリベンジは完了。
みんなめでたくゼロになってお仕舞いだ。

けれど、塵にも塵の意地はあるもので。
おそらくは地球派に立つみなさまには、ぜひ気合を入れて、諦めないでいただきたい。

というわけで、ここからが、個人的な本題。
ここまで語ってきた、二種類の比喩。

「もし世界が百人の村だったら」
「もし世界が100個の星だったら」

この比喩を前提とした上で、貴方は次の問いにどう答えるだろうか。

「"貴方"の人数は?」

その答えは、ゼロだろうか。
それとも、小数点以下、無限小にまで刻まれた彼方だとしても、確かに「〜000、コンマ1」として、存在するだろうか。

ぼくは、後者でありたいと切に願うし、願わくばこの無駄に長い駄文を読んでくださった貴方にも、自分の存在を「コンマ1」として、改めて確かめ直してほしいと思う。

その感覚こそが、自分を自分として生きること。
自分自身を、地に足をつけて生きるということに、確かに繋がると思うから。

ーーーところで、結局なんでこんなことを主張してたの?
ーーーこんな感じの人間です、って自己紹介になるかなって…。

こんな感じで、徒然と書いていくつもりです。
お後はよろしく無いけれど、初回はこんなところで。

こうした文章を書き慣れていないので、お目汚しが多いかとは思いますが。
本文中で話したような、「人類の〈0.00〜、コンマ1%〉が、なんだか頑張って書いてるなあ」くらいの気持ちで読んでいただければ幸いです。

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