ポップミュージック論と私
※この投稿は2019年、X(旧ツイッター)のフォロワーさんの企画に参加させていただいた時の投稿を一部修正して再掲載したものになります。
ポップミュージック論と私、出会いはjubeat saucerだった。
jubeat saucerは「bistro saucer」という、毎月新曲・他機種からの移植曲が追加されるというシステムで、ポップミュージック論は2013年の10月のbistro saucerで解禁されたものだった。
たしか当時同じ月で弐寺からZEDが移植されるという事で、いつもよりも
ちょっと頑張って解禁作業に勤しんだ。
ポップミュージック論、当時ポップン好きなフォロワーさんも多少相互
フォローになっていたからか、なんとなく曲のタイトルと、その曲がポップン初出ということは知っていたし、そもそも似たようなタイトルの著書の存在を知っていたので「そこらへんを意識しているのかな‥?」とも勝手に思っていた。
2013年10月某日、ポップミュージック論を解禁。タイトルも知っているし「どんな曲なんだろう‥」と気にはなっていたし、解禁した手前一度は触っておこうと思い選曲。曲が始まりプレーする。
‥
‥‥‥
・・・えっ、これ、ナンバガじゃん・・・・・・・・・・・・・
外見上は至極シラフでプレーしていたのだが、心の中ではヒザから崩れ
落ちる勢いだった。
帰宅して大急ぎで「ポップミュージック論 ポップン」で検索したことを
覚えている。
その時かは覚えていないけどポップン公式HPの曲コメを読んだ記憶もある。その曲コメントから、作曲者である脇田氏が、なんとなくではあるが自分と同じような系統の邦楽、世にいう「ロキノン系」を好きだったんだろうなぁ、というのは感じとれた。
そもそも「メガネロック」という言葉自体、デビューした当時のアジカン
(アジアンカンフージェネレーション)やくるり等、「メガネをかけていてパッとしない男子どもがかき鳴らすロック」みたいなものに対する「世間が付けたとりあえずの総称(バンド側はそれをどう思っていたのかは分からないけど‥)」みたいな認識があったから、その単語を持ってくる時点で「‥ははぁ~ん」みたいな感じもあった(笑)
ポップンでのキャラがナカジであるというのもなんとなく学んだ。相互フォローであったフォロワーさんやポップン系のツイート・RT等で、そのナカジというキャラは比較的人気のあるキャラなんだろうな、というのもなんとなく分かった。ナンバガのボーカルもメガネなのでそのキャラがメガネの時点で「ふんふん‥(軽い納得」とも思っていた。
ここで前出の「ナンバガ」について説明しておかないとこの文章自体ワケが分からないもので終わってしまう。
ナンバガ、本名(?)ナンバーガール。17年前の2002年に突如解散し、今年2019年の2月にまさかの再結成を発表、再結成の発表は、当時のツイッターを大いに沸かせた。
ナンバガは、自分の中では青春の1ページと言っても過言ではない。決して他人に薦められるような「良質な楽曲」とは程遠い楽曲・音楽性のバンドだが、それまで邦楽バンドを追っかける人生を歩んできていたので、「ハマる理由」や「良いと思う理由」みたいなのを考えたことはなかった。
当時「ロキノン系」というのは、「邦楽好きは知っているけど、いわゆる『世間一般』の人は知らない」みたいな、よくある「好きバンドを言っても『ふ~ん』『誰それ?』と薄いリアクションをもらって、言ったこっちが一方的にダメージを負う」みたいな、そんな感じだった。(今ほどネットや動画配信も発達していなかったし)
それまでの生活で、その「一方的にダメージを負う」のに心底疲れて辟易していた自分は、自分の好きなバンドを人に話すことはまずなかったし、ナンバガもそんな「人に話されることのないバンド」の一つではあった。
当時、幸運なことに同じ系統のバンドを好きな知り合いがいて、その人もナンバガの良さ(?)は分かってくれていたので「真のぼっち」ではなかったのは救いではあったけど、やはり当時多感な時期(?)なので、「自分がハマっているものを、もっと多くの人に認識してもらいたい」という欲はあったけど、かといって自分は積極的にプレゼンをするようなタイプでもなかった。
2002年に突如解散を発表し、その当時行っていたツアーをもって解散、解散ライブ等も行わないというスタンスで、自分は幸運にも解散前に学園祭でのライブを見ることが出来た。その知り合いと一緒に行ったライブで、ライブが終わって会場近くの公園のベンチでコンビニで買ったアルコールで乾杯してちょっとしんみりしたのだが、その知り合いの前で「自分の好きな向井(ナンバガボーカル・ギターの向井秀徳)がいなくなっちゃう~~」と泣いたのを覚えてる。
解散したナンバガは、自分にとって「思い出の宝箱に入れて、誰も知らない・誰にも知られない扉の奥にそっとしまってある」みたいな、そんな存在だった。解散後のメンバーそれぞれの活動とかを見ていて「再結成しないかなぁ~」なんて考えもしなかったし、そもそも再結成されても、あの時の思い出がヘンに崩れてしまったら‥という自分勝手な不安もあった。
ポップミュージック論を聴いた時、その「誰も知らない・誰にも知られない扉」が、脇田氏によって勝手にこじ開けられ、その中にある思い出の宝箱を勝手にあさられまくって中身を全部ぶちまけたれたような気分になった。
「‥あ、アナタ、なんでこの扉の存在を・・・」
10数年経って魂にうっすらと残っている「ナンバーガール」という傷跡をえぐり返されたような、心の満身創痍ではあったが、同時に「‥あの時のナンバガをこじらせている人が、自分以外にもいたんだ‥」と、おこがましい表現ではあるが「自分と同じような感覚だった人がいるんだ」と、ナンバガが活動していた時に自分が得られなかった「同士を得た光」みたいなものは感じられた。
ただ、脇田氏と自分との大きな違いな、脇田氏はそのこじらせを楽曲としてちゃんと昇華していることだと思う。これは自分の音ゲーマー人生が果てるまで叫び続けることだけど、ナンバガっぽさを残しつつナンバガ楽曲の持つ「毒っぽさ」や「トゲっぽさ」を極限にまで薄めてあの曲を世に放った脇田氏は天才だと思う。(まぁ多分、「こういうコード進行でこういう音色を使えばナンバガっぽくなる」という「方法論」みたいなのはあるんだろうけど)
ポップミュージック論の曲コメも「伝わる人には伝わるだろうし、分かる人はニヤリとできる」みたいなコメントで、何度も読んでは身もだえした。
音ゲーとアジカンつながりで相互フォローになった方にポップミュージック論の演奏を担当しているギラギラの音源を聴かせてもらったけど、そのギラギラの音源しかりポップミュージック論しかり、「ナンバガ好きだった人たちが、どうしても追ってしまうナンバガの影」みたいな感じがして、その気持ちが分かるだけに、いろいろ心に沁みるものがある。
(ポップミュージック論の冒頭の「How low,P.M.?」や辞世テンプレートの「梵天!」という「数字ではなくて言葉でカウントを取る」のはナンバガの影響が色濃く感じられるのと同時に敢えてナンバガを意識してやっているのかな?とも思われる)
(ナンバーガールのインディーズ版に収録されている曲の歌詞で「ずれた眼鏡をかけ直し」という箇所があるのだが、ポップミュージック論の歌詞の「ズレた眼鏡は捨てた」はここから引用しているのか‥?というのはいささか思い入れ過多の過剰な主観による推測になってしまうので「こういう一致もあったよ」くらいにとどめておきたい)
そんなこんなで、自分がポップミュージック論という楽曲にハマってしまったのは至極当然だったんだな、と今でも思う。
あいにく自分は音楽の技術的な知識が皆無なので「『ポップミュージック論はナンバガじゃん…!?』といわれても、どこが?」と訊かれると言葉に詰まってしまうのも事実ではある。
自分があの時聴いていたナンバガの楽曲の残像とでもいいますか、残像なので、もしかしたらちゃんと専門的に比較をすると一致度は低いのかもしれない。でもそこは、専門的な知識とか正確な比較よりも、ポップミュージック論に透けて見える自分があの時聴いていた楽曲の残像が、それがオマージュやリスペクトの類であることは理解できるので、もしかしたら完全なる独りよがりな思いこみなのかもしれないけど、その思いこみで5年も走れたのは、それはもう自分の中"だけ"では事実なのだと思う。
仮に自分に「ナンバガが好きだった」という背景がなくても「まぁまぁ良いんじゃない?」や「カッコイイんじゃね?」くらいには思ったかもしれない可能性はあるかもしれない。その勢いで絵を描きまくっていたかもしれなくて、結果今と同じ末路になっていたのかもしれない。楽曲のことからは少し離れるが、自分に5年も同じキャラを描かせたポップミュージック論には感謝というか、あの曲をこの世に出してくれてありがとう脇田潤、という感じではある。
楽曲は「作曲者はナンバガが好きだった」というのが非常に色濃く感じられて、その時点で共感とかそういったものを越えて「むはーーーーーーーーーーーーーーーっっっ!!!!!!」という感じなのだが、ポップミュージック論の評価できる点は楽曲以外にも、あのジャケ絵、あのジャケ絵が非常に秀逸だと思っている。今改めて思い返すと、jubeat saucerでの解禁の前に、リフレクに入ったのを確認はしているのだが、当時触った記憶があまりないし、触った記録(プレイデータ)はあるけど全く印象に残っていない、というナゾの空白時期もあったりする(笑)
あのジャケ絵、ただキャラの立ち絵だけ、という感じではなく、こぅ「ナカジというキャラを含めた『ポップミュージック論』の世界観」というをの表現しようというのが感じられて、自分がよくあのジャケ絵の秀逸さを「製作スタッフの『やりたいこと』がちゃんと表現されている」と表すのだが、どこがどうでそう思うのかを言い表すのが難しいのだが(苦笑)、あのジャケ絵はホントいいジャケ絵だと思うし、見飽きないし、ポップミュージック論が好きか嫌いかを抜かしても、単純にいい絵だと思う。
余談だが2016年に行われたBEMANI ROCK FESの物販のタオル、あれもよかったよね‥。あれもジャケ絵同様「『ポップミュージック論』の世界観」を表そうとしているのがちゃんと感じ取れるし、楽曲・ジャケ絵・タオルと「打ち出すイメージに一貫性」があったのが嬉しかったし、そのイメージが自分の感じているものとかけ離れていなかったのも嬉しかった。
長々と申し訳ありません。自分なぞが推さなくてもポップミュージック論はすでに多くの方に支持されている楽曲ではありますが、ポップミュージック論に対してこういう目線・姿勢で接してるヤツがいる、という事実を今回をきっかけに吐露させていただきました。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。
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