記録と抵抗の場としての日記ー川上未映子『乳と卵』論
※レポートを加筆修正しました
○はじめに
川上未映子『乳と卵』(注1)は、一人称の語りに日記体が混在する構成がとられている。一人称の語りは夏子(「わたし」)が、日記体はその姪・緑子が担う。約半年前の母・巻子(夏子の妹)との喧嘩から、言葉を発することを自ら禁じた緑子は、第二次性徴に伴う身体の変化への嫌悪(生理や乳房の膨らみなど)、将来への漠然とした不安、母親への両義的な心情などをノートに日記として書き連ねる。
『乳と卵』では、豊胸手術のために緑子を連れ大阪から東京の夏子の家に泊まりにきた巻子らの3日間の様子が、夏子の大阪弁により語られる。物語は基本的に夏子の語りで進行し、緑子の日記は断片的に挿入されるに留まる。そのため緑子の内面を日記という形式で描くことは、自覚的に選択されたものだと思われる。このことは、会話において用られる筆談と思いを書き連ねる日記が、対比的に描かれていることからも裏づけられる。緑子が筆談に使用するのが「小さめのノート」であるの対し、日記に使用するのは「大きい方のノート」である。さらに筆談における文字が「肉厚」なのに対し、日記に書かれた文字は「震えるよう」である。このように作中では日記という形式が筆談と対比されるかたちで強調されている。では、緑子にとって日記とはどのような表現の場であったのだろうか。本稿では日記という形式が緑子にどのような思索を可能にしたのかを踏まえつつ、このことを明らかにしていく。日記体で描かれる小説の特徴の一端を、この検討によって浮かび上がらせたい。
①緑子の日記
物語終盤、酔った母親に絡まれ口を開くことになった緑子は、次のように言う。
「あたしはこわい、色んなことがわからへん、目がいたい、目がくるしい、目がずっとくるしいくるしい、目がいたいねんお母さん、厭、厭、おおきなるんは厭なことや、でも、おおきならな、あかんのや、くるしい、くるしい」。
会話の中で緑子が、たとえば「色んなこと」とはどのようなことなのか、或いは「おおきなる」ことがなぜ厭なのかを具体的に語ることはない。この場面での母親との会話において、緑子は自身も整理できない感情を、自らの頭で玉子を割るという形で表出することしかできていない。一方、後に述べるように、日記において緑子はそれらの感情をより具体的に記している。そのため、ここでいわれている感情の具体化こそが、日記によって可能になった思索のひとつだといえる。まずその感情が日記の中でどのように書かれているのかを辿っていく。
緑子の日記にはなにが書かれているのか。大別すれば、それは身体の変化に対する不安と母に対する両義的な感情であるといえる。スナックで働く母を厭いながらも心配せずにはいられないという緑子の感情については、特に母娘問題(母と娘の特異な関係により生じる諸問題)に着目する論者が様々に論じている(注1)。そのため本稿では、特に前者の問題に焦点を当てることで新たな論点の提起を目論む。
緑子は主に初潮を迎えることへの不安と乳房が膨らむことへの嫌悪感を日記に書いている。その不安と嫌悪感の根底には、以下のような心情がある。
「あたしはいつのまにか知らんまにあたしの体のなかにあって、その体があたしの知らんところでどんどんどんどん変わっていく。こんなに変わっていくことをどうでもいいことやと思いたい、大人になるのは厭なこと、それでも気分が暗くなる。どんどんどんどん変わっていく。過ぎていく。それがゆううつで、なんでかものすごく暗い。でもその暗さは厭、気分が厭、厭厭が目にどんどんたまっていって、目をあけてたくない」。
ここでは主に二つのことが焦点化されている。第一に、意思の外で自身の身体が変化していくことへの忌避感である。自らの意思では止めることができない身体の変化は、「自分で考え」ることに価値を置く緑子にとって耐えられないことである。別の箇所でも、「自分では止められへん」生理への恐れや乳房が「あたしには関係なくふくら」むことへの不満が書かれている。身体の変化という問題は、自らの乳房に違和感を抱く巻子らとも無関係ではない。たとえば野澤涼子は「身体は自分の意思とは無関係に変化し、自分の意思通りにはならない。そのことに直面しているのがこのテクスト(『乳と卵』ー筆者)である」(注2)と論じている。
けれどもその観点だけでは、「大人になるのは厭」という緑子固有の不満を十分に分析できない。この箇所では第二に、身体の変化に過剰な意味を見出してしまう自身への忌避感にも焦点があたっている。それは「変わっていくことをどうでもいいことやと思いたい」という表現からも明らかである。この表現からは、身体の変化を「どうでもいいことやと思」えないことへの不満が読み取れる。この表現は「大人になるのは厭なこと」という表現を用意する。このことを踏まえれば、緑子にとって「大人になる」とは自身の身体の変化に意識を向けざるを得ない状態に置かれることでもあるといえる。先に引用した会話において、緑子は「おおきなるんは厭」と言っていた。その感情は単に身体が成長していくことだけでなく、身体へ向ける自身の意識そのものが変わってしまうことへの忌避でもあった。では、緑子はなぜそれらの忌避を日記という形式で展開したのだろか。
②記録による異議申し立ての場としての日記
緑子は日記を「記録」として捉えているようである。そして特に「厭」という感情を記録することに重きを置いているようでもある。
「書くということはペンと紙だけあったらどこでもできるしただやしなんでも書けるので、これはとてもいい方法。これは記録といいます。いや、という漢字には厭と嫌があって厭、のほうが本当にいやな感じがあるので、厭を練習。厭。厭」。
緑子は文字を書くということに自覚的である。文字それ自体の雰囲気から「厭」という字を選択し、そこから整理のつかない自身の気持ちを記述しようとする。この選択に対して、都甲幸治は以下のように述べている。「厭とは上から石で押さえつけられる状態を指し、嫌は二つの間で心が揺れ動くことを言う。まだ自分の人生を自分で選ぶことのできない緑子には、与えられた選択肢で迷う余地など存在しない。ただ自分でも理解できない重苦しい状況のなかで抑えつけられたまま、嫌悪感に震えることしかできないのだ。だから厭と書き続けるのは正しい」(注1)。つまり「厭」という漢字を用いることで、緑子は半ば強制的に(選択肢を与えることなく)身体や意識に影響を及ぼしてくるものへの嫌悪をなんとか記録しようとしていたのである。
なぜその感情は記録の対象になったのか。それはそうした感情は常に忘却の可能性に晒されているからであろう。種々の要因で改変された身体や意識はやがて自明なものとして受け入れられる。そのうえ改変の記憶そのものが消え、所与の条件かのようにみなされもする。たとえば「大人」である夏子は緑子と自身の顔を比べ、「緑子は、今の自分の今の完璧さ、というものに気がついているのやろうか。わたしにも今の緑子と同じ年齢やった時があったはずなのに、そのときの自分のことがもうどこを探してもわからない」と述べる。ここでは自身の身体を評する意識が自明となり、それが他者にも向く様が描かれている。そうした意識の自明化への異議申し立てとしても、緑子の日記を位置づけられるだろう。
このことを、「大人になるのは厭なこと」という例を用いてより明確にしたい。先にも述べたように緑子にとって「大人になる」とは、自身の身体の変化に意識を向けざるを得ない状態に置かれることでもあった。そして緑子はそうした状態に対して忌避感を抱いている(「どうでもいいことやと思いたい」)のだった。緑子はこうした忌避感が薄れゆくものだと気付き、日記を書くことでそれをなんとか留めようとしているのではないだろうか。
クラスメイトの話や本の中では、初潮や乳房の成長は祝福するべきものとして語られており、緑子はその語りに違和感を抱く。「だいたい本に書かれている生理はなんかいい感じに書かれすぎてるような気がします」。しかしその違和感を周囲に共有することができない。ここに記録という手法で自らに違和感を言い聞かせる必要が生じたのではあるまいか。さらに初潮や生理を肯定的に捉えるか否かの態度に違いはあれど、そこに重大な意味を見出す態度それ自体は、周囲の人間と共通している。そのため緑子はその態度への違和感がなくなれば、周囲の人間と同じように自らの意識の変化に迎合してしまうという不安を抱いていたのではなかろうか。身体の変化に意識を向けざるを得ない状態への忌避感を記録し忘却を防ぐことは、その状態に迎合することへの抵抗でもあったのである。
○まとめ
『乳と卵』の緑子にとって日記とは、身体の変化とそれに伴う意識の変化への忌避感を確認する場であった。またそれを記録し忘却を防ぐことで、身体の変化に意識を向けてしまう態度そのものが自明化することへの異議申し立てを行う場でもあった。このことから小説における日記体の使用は、変化後のあり方が所与の条件とみなされることに抵抗すべく、身体や意識の変化のありようを記録する様子を具体的な文字とともに描写することを可能にするものだと結論づけられる。
○はじめに
・注1 川上未映子『乳と卵』、文春文庫、2010年。尚、初出は「文學界」2007年12月号。
①緑子の日記
・注1 斎藤環『母は娘の人生を支配するーなぜ「母殺し」は難しいのか』(NHK出版、2008年)や水上文「成熟と喪失、あるいは背骨と綿棒について」(「文藝」2021年春季号)など。
・注2 野澤涼子「川上未映子「乳と卵」の授業実践ー語り・身体・イメージをテーマにー」、『学芸国語国文学』50巻、2018年。
②記録による異議申し立ての場としての日記
・注1 都甲幸治「文字と身体ー川上未映子の小説」、『文藝別冊 川上未映子』、2019年。