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ハノイの塔 第二部
833
1
アストロノートが躊躇いがちに気密服のヘルメットを取る。アストロネットは夢を見るけれども、届けられたのは悪意のある花棘草(いらくさ)だ。ぼく達光を見た者は泣きながら保健衛生局員に引っ張り出され、疫病対策のためのDDTを強力な噴霧器によって噴き付けられていく。全身特異な刺激臭にまみれてクシャミが止まらなくなり、ぼく達は涙と鼻水、よだれを垂らしながら保健衛生局員によって
「歩け(GO)!歩け(GO)!歩け(GO)!歩け(GO)!」と急き立てられていく。
ぼくはショルダーバッグを失くしているのに気づいて、慌ててコンテナの中へ戻ろうと列を外れた途端、殴られ三日月型の角のついた棒で列の中へ押し戻される。ぼくは寒さとひもじさで震えながら、とんでもないところに来たという後悔で一杯になり、こんなことなら紙のアパートでじっとしておけばよかったと思う。貧しさにはいくらでも耐えてみせようけれども、このような一寸の虫けら以下悪玉菌同然の扱いと保健衛生局員の嘲笑には我慢できない。よくもまあ平和と正義を標榜する約束の町と言えたものだ。
ぼく達は30人ほどのグループでひと塊にされて湾港端のフェンス際で、保健衛生局員達によって容赦仮借ない放水攻めにされる。ぼく達はひと塊に丸く丸まり少しでも表面積を小さくしようと頑張る。しかしぼくはそのフンコロガシの糞めいた集団の中から昂然と首をもたげて、平和と正義の表徴とされる英雄のポーズ「両足を前後に大きく開いて上半身を立て、両手を上にまっすぐ伸ばす」ポーズで対抗する。これは当局に叛旗を翻す復活の烽火だ。
しかし水の勢いに圧されてたちまち体勢を崩され、当局に対する侮辱と受け取った保健衛生局員達に恰好の標的にされる。
ぼくはフェンス際の角に押し込まれ押し付けられながら、湾港の出張った岬に立つチンパンジーのハム像を睨みつける。おまえが真っ先に宇宙に飛び立ったばっかりにぼく達はこんな目に遇う。限りない貧富の差の中にあって人は卑屈になり、精神を破壊されて別の人格になって一生を終える。ぼくはどこまで堕ち、どこまで耐えられるか。どこまで闇の中にあって光を見、光を見続けて生きていかれるか。ハム!おまえと勝負だ!ぼくと勝負しろ。ぼくが勝つかおまえが負けるか。相手は4歳のチンパンジーだ。なのに世界初のアストロノートで、それは未来永劫変わることのない歴史上の類人物なのだ。
ぼくはここでは住所不定。年齢不詳。無職の不法滞在者だ。どれだけ逆立ちしてもでんぐり返ってもぼくの像が岬の突端に立つことはない。放射器の水圧でよろめき口を塞がれ、呼吸できずに白目剥く。意識が遠去かる最中にあっても、ぼくは岬の突端のハム像を睨み続ける。意地だけが残ってそれも闇に消える。
目が覚めるとすでに空は夜明け前で、時間の感覚がどうにも戻ってこない。今日が何日何曜日なのか。普段は気づきもしない、どこにでもある時間の流れが、はなはだしく疎外され忘れられている。持たざる者のぼくがかろうじてデニムのポケットに入れていたもの。自転車とアパートの鍵。こんなものが833で何の役に立つか!尻ポケットに財布。中に10万といくらか。失業者認定カード。もう一方に携帯。防水仕様ではないから電源が入らない。ビンゴカード。移民申請許可証。ビンゴカードはラミネート加工されていたけれども、紙の移民申請許可証はほとんど原形を留めておらずボロ屑だ。これでは許可が下りないんじゃないだろうかとぼくは心配になり、とにかく833の教育事業所を訪ね再発行してもらうことに決めて、立ち上がる。
蠍の尾のように湾曲する岬の突端に、夜明けの空をバックにしたチンパンジー。ハム像のシルエットが浮かび上がる。長い両手をだらりと垂らして心持ち膝を曲げ、尻の突き出た恰好で、悠遠な時の流れの向こうを見ているハムの顔は、人類の捨て石となり隅の石となり礎となり、岬の突端に立つ英雄として、とても美しい顔だと思う。それだけにぼくは憎らしく、恨めしいと思う。世界初のアストロノートはぼくでありたかったし、人類の誰もがみなそう夢見た。しかしその座はチンパンジーに奪われてしまった。世界の現実がひとつである限り、ハムを否定することはできない。ハムを否定した瞬間にこの世界は崩れ去り、消滅する。それが歴史的偉業。絶対的事実。真理というものだ。与えられた過去は受け入れるしかない。
ぼくはこのグリットごとに分けられた833の通りに一歩踏み出す。夜が明けたばかりなのに住人はそこかしこに固まり、集会のようなものを開いている。誰もが緑色のもの、Tシャツ。カーディガン。ズボン。スカート。帽子。靴。靴下。緑一色のものを身に着けている。緑の文字で書かれたプラカード。看板。風船。横断幕が至る所にある。そこが選挙事務所前の溜まり場だと気付いたのは、グリットの角に馬鹿でかいポスターがあったからで、その男は緑党から市長選に出馬したゴリゴリの平和原理主義者だった。熱狂的な支持者たちは夜明け前から事務所前に集まって、残り一週間の選挙戦をどのように展開し、宿敵青党の候補者の裏をかき恥をかかせ虚を衝いて鼻を明かし、度肝抜いて寝首を掻いてやろうかと、フェイクニュースを撒き散らして虚々実々、虎視眈々と策を練っている。
彼らの得意とするのは、被害者を装って浮動票持つ若者の同情を買うという遣り口で、これまで何度もその手段で成功させてきた。被害者。弱者。少数者(マイノリティ)。前科者。敗残者の権利が(建前上)最低限保証されている平和と正義の町833では、このような我と我が身を傷つけて相手を欺く手法が罷り通る。
選挙事務所前にたむろする何人かがぼくを見るなり唾棄するように顔をしかめ、中には本当に唾を吐く者もいる。ぼくが近づくのを見てもそっぽを向き、完全に無視を決め込む。これはどういうことなのか。平和と正義を愛する833は、弱者。少数者(マイノリティ)。被害者。敗残者にやさしい町ではなかったか。ぼくは教育事業所のある場所を訊こうと思って近づくのだのだけれども、何人ものひとに無視され、手を振って追い払う仕草をされ、ぼくが話しかけた途端くすくす笑い出す者もいる。
ぼくはやっと自分のニットの左胸に黄色い星形のシールが貼られているのに気づく。剥ごうとしたけれど強力な接着剤が使用されていて、切り取らない限り無理だ。これには何の意味があるのか。このまま笑われ蔑まれ侮辱され続けるのは嫌だったから、ぼくはニットを裏返して着る。縫い閉じの目が盛り上がり、フックで吊り下げやすくなっているタグが異様に目立つ。服は随分乾いていたけれども、靴の中が嫌な感触と音を立ててぼくの心を苦しめる。この黄色い星形シールはおそらく、不法滞在者のための烙印で、ぼく達不法滞在者は833の住人ではない。833の住人でなければ弱者。少数者(マイノリティ)。被害者。負債者。敗残者。前科者でもなく、何の保障権利もない何者でもないということだ。
足早にこの通りを抜けて、ポーチの前にパンダカーの止まる警察署前まで来る。建物の中からプレスリーの「監獄ロック」がガンガンに聞こえてくる。保健衛生局員たちのぼく達に対する害虫駆除処理のような対応を思い出してまた沸々と怒りが込み上げてきて、警察官もまたそのような態度を示してくるんじゃないかと、入るのを躊躇う。他に頼りにするあてはなく、向こうが横柄な態度で出てきたらすぐさま署を後にすればいいと思って、ぼくはスイングドアを開ける。扉の近くで薄いコーヒーを飲んでいた、大人が手を広げてふた抱えくらいはあろうかという、大木の太さを計る単位を使わなければいけない腰回りをしたアカプルコ人の警官に、
「すいません。教育事業所までどのように行けばよいか教えてもらえませんか?」 紙気質特有の、自分を卑下し遜(へりくだ)った自虐的態度で訊ねる。警官は飲みかけのコーヒーカップを持ったまま、
「前の道をクロスロード・パークまで出て、南に1グリッド。左に見えるビルに入っている。」
「ありがとうございました。」 ごく普通の対応だ。黄色い星形シールがないせいだろうか。ぼくは急に気が楽になって怒り強張っていた肩肘の力を抜く。クチャクチャと不快な靴の音を立てて、広く空間が開けて空が見えている所がクロスロード・パークだろうと歩き出す。
パーク前にはすでに舟の看板が立っていて、予定されている発射台の設置場所にはフェンスが張り巡らされ、ステンレスの足場が組まれている。ぼくは浜田教育事務次官補の説明に出てきた場所に、今来ているのだ。そして伝説のベースボールプレイヤー、ピーチローの言葉。
「小さなことをひとつひとつ積み重ねていくことが、とんでもない所へ行けるたったひとつの方法。」 ぼくはクロスロード・パークに来ている。
ジョガー。ウォーカー。犬の散歩。遊歩者。路上生活者。練習するパフォーマー。トランぺッター。手風琴奏者。二胡奏者。ラジオ体操者。太極拳家。極真空手道場の子供たち。舞台稽古。「やさしいひと」。濡らした布を巻いた棒の先で道にコーランを書くひと。アクセサリー売り。ポストカード売り。犬の散歩を装うパトロール要員。空中浮揚修行者。清掃員。サイクリスト。ローラーブレードランナー。ぼくはクロスロード・パークに来ている。
任意の点は交点と接触し、分岐点へと進む。ひとは絶えず分岐点・岐路・過渡期に立っているのに、それに気づかない。ふと進んだその先がぼくを思わぬ所へ連れて行く。
南に出る道を見つけて1グリッド。総鏡面張りの高層ビルが目の前に、爪を立てたように聳える。こんな立派な建物の中に教育事業所が入っているのだろうか。入口に「アスレチック・クラブ」と記されている。雪花石膏(アラバスター)の床面。壁面。天井に囲まれた受付カウンターに座るひとに、
「教育事業所は何階ですか?」と訊く。
北欧系の碧緑の目をしたそのひとは、しばらくぼくを見ていたあと
「33階でございます。」と答える。丁寧な対応だ。すこし間があったのは気になったけれども、ここでもぼくはごくごく普通の一般人として、エレベーターのあるエントランスホールに入っていく。光触媒によって常に清潔。無味無臭。無機質に保たれたグランドフロアには指紋。声紋。体臭。筆跡。耳形。虹彩。顔。個人を特定認証するすべてが消し去られてしまう。ぼくは早くエレベーターが来ないかと頭上の数字を見上げる。ぼくはなんといっても臭皮袋と言われる人間なのだし、こんなところにじっとしていたらますます自分の穢さ。醜さ。憐れさ。意地汚さ。いやらしさ。卑屈さ。哀しさが誇張され、膨張し破裂して小間物を打ち広げ、収拾がつかなくなる。
受付のあのひとはその時、どのような対応を見せてくれるというのか。吐瀉。汚物。失禁。脱糞したぼくをピエタ像のマリアのように抱き上げて、汚穢の海の中おしめを変えてくれるとでも?無機質。無表情。無関係。無関心で無視され、何も無かったことに?そのような対応をされるくらいなら、思いきり泣き叫び罵り悪態をついて駄々をこねてやる。ぼくはここにいるのだと存在を証明するために。自己を主張して宇宙の一点に存在を確保するために。ぼくは断固として拒否する。
もう相手に気兼ねし遠慮して我慢をして、自分の存在を否定し抑えつけ消し去ってしまおうと声を上げもしない。おならもゲップもぐうの音も出ず自家中毒を起こし精神を病むなんて、ぼくは断固拒否する。ぼくはここにいる。
扉が開くとすばやく箱の中にすべり込んで、自分の居場所を確保する。
ぼくは今、箱の中にいる。コンテナから光を見る。新しく生まれるぼく。生まれてくることは遊びだ。殻を破って出て来たばかりのヒヨコは好奇心旺盛で、無知で世間知らずなためにどんどん外へ首を突っ込んでいって、危険な目に遇って死ぬ。
扉が開くとそこは25mプールで、青い水面を天井に映している。プールのそばのカウンター席にボディビルで鍛え上げた屈強な肉体の男たちが全裸で、ボクシンググローブを嵌めたまま立っている。カウンターに寄り掛かって仲間との会話を楽しみながら、出された殻付き牡蠣にレモンを絞って食べている。ここはどういった星の名の下に行われている遊戯なのだろう。迷い込んだぼくの方が馬鹿みたいだった。33階であることを壁の数字で確認する。その時、受付カウンターの北欧のひとの、返事までの少しの間を思い出す。どうしてこのようなことをするのか。ぼくを陥れて嘲笑することで何を得るのか。見れば男たちはそのままの恰好でスパーリングを始めている。
窓の外には833のグリット群の眺望が、それぞれ自己主張してバラバラであるように見えながら一箇の生命形態を成している。それは毒々しいまでに増殖し抑制される生と死の、拮抗する驚異のバランスの上に立つ人体そのものだ。
ぼくは魅入られるようにしてそこに立っている。すぐ真下にクロスロード・パークのぽっかり空いた空間が見える。あそこから舟が出るのだ。ぼくはまだビンゴした訳でもないのに粟立って、乗ることができると信じた。破壊されたままのベースボール・パークが右端に見える。星の人たちが核を撃ち込んだ破壊の遺物は今、驚異博物館に展示されている。世界中を巡回展示された核弾頭も、今では誰の目を引くこともなくひっそりと博物館の片隅に眠っている。銀河系上の至る所に地球型の惑星があると知った時、人類はどのような顔をしたのだろう。狂喜したのか。奇蹟の星からの陥落に激怒したのか。目ぼしい星を地球化(テラフォーム)しようと空しい努力を続けていた人類は、自分で自分の映る顔を初めて見た時のように、こんなのは自分の星とは似ても似つかない、世迷星。紛いものだと叫んだのか。
人類は異星の知的生命体を自分自身になぞらえて、二重写しにして想像する。ひとは自分の感じられたもの以外からは想像しようがないからだ。それで祖母たちも失敗している。
「婆ちゃんたちが初めて舟を降りていった時、星の人たちは思わず後退りして遠巻きに、婆ちゃんたちを取り囲む形になったんだ。婆ちゃんたちのあまりの臭さに、星の人たちは我慢できなかったんだよ。しばらく話すことも手を握り合って挨拶することもできなかったんだ。
そのうち勇気ある星の人のひとりが婆ちゃんたちの舟の近くまで来て、喋りはじめたんだが、その声の小さいこと小さいこと。婆ちゃんたちは今の婆ちゃんのように耳が遠い訳じゃなかった。婆ちゃんはまだピチピチした10代だったんだ。なにも聞こえかったもんだから、
「はぁ?」と思わず大きな声で訊き返したんだ。そしたらその星の人、勇気を出して婆ちゃんたちの舟まで先遣大使として来てくれた人が、長い耳を押さえてぶっ倒れて痙攣はする泡を吹くのたうち回る白目剥く、で頓死してしもうた。
一番最初の星の大使を殺してしもうて、これは大変なことになったと団長の善雄さんをはじめ、みんな顔を真っ青にしてね。謝罪と友好の証としてなにか贈り物をしようということになった。話し合った結果、舟で大事に飼われていた羊を一匹、贈ることにしたんだよ。ここまで家族同然のように育ててきた羊だったから、とても辛いことだった。舟から降ろしてやって星の人たちの方へお尻を叩いてやったんだ。
これがまた大誤算の裏目に出てしもうて、羊はしばらく戸惑ってなかなか星の人たちの方へ行かなかったんだが、ようやく彼らに近づいていった時、
「メェェェエ!」と鳴いたんだ。それは星の人たちの所に送り込まれた生物爆弾のような効果を発揮して、羊の周りにいた半径50m四方の人たちが初めに来た先遣大使みたいにばったり頓死してしもうて、星の人たちに拭い難い怨恨を植え付ける結果になってしもうたんだ。
ファーストコンタクトの失敗に続いて、植民のための借地交渉もうまくいかず決裂してしもうた。そりゃあそうだろうよ。最初の先遣大使は無残にも亡きものにされ、次は生物爆弾を送り込まれて死傷者多数。甚大な被害に遭われた方々にはお詫びのしようもない。もし立場が逆だったらと考えてもみるがいい。すぐに戦争がおっ始まってもおかしくなかったんだ。」
ぼくは゛異性゛の知的生命体がどのようなものであるかさえ知らない。その知的生命体はぼくより遥かに賢く、口喧嘩では手もなく言いくるめられて論破され、ぼくは反論できずに黙り込む。異性生命体は過去の記憶、数字、言葉、行動を克明正確に憶えており、被告人のぼくは弁明の余地なく、検察官の女によって立証・立件された一件は疑問の余地なく自白を余儀なくされる。容赦仮借のない取り調べ。証拠の列挙に逃れられないと悟った男は涙ながらにこっくりとうなずく。
ぼくは降りて行ってあの北欧のひとの顔を見てやろう。どうしてこんなことをしたのか。ただ面白がってやったのか。それともぼくが気になる存在で、からかって気を引きたかったのか。そんな怒りと妄想を逞しくしながらエレベーターで1階のグランドフロアに下りる。エントランスホールの向こうの受付カウンターを見る。北欧のひとはそこにおらず、変わって背の2m近いソマリア人が立っている。逃げたのだ。逃げて柱の陰か監視カメラの映像だかでエレベーターから降りてきたぼくがどんな顔をしているか、間抜け面の阿呆を見ているのだろう。ぼくは受付カウンターにいるソマリア人に、
「教育事業所はどこですか?」と訊く。ちょっと切れ気味だ。
ソマリアのひとは分厚い唇にピアスをつけた皓い歯を見せて、
「向かいの図書館の二階です。」とはっきりとした口調で自己肯定感たっぷりに喋る。どうしてだ?なぜあのひとはウソを。ぼくは礼を言ってビルを出る。向こう側の通りまで途切れた車の合間を縫って渡り、図書館の前に立つ。
立派な女性立柱像(カリアティード)が並んで出迎える階段を、少し戸惑いながら上っていくと、そこに古(いにしえ)のトーガを纏ったヒッピーたちが目敏くぼくを見つけて駆け寄ってくる。吟遊詩人を気取る有象無象の愚者の群れが、ぼくを有無を言わさず取り囲んで、各々手前勝手に自ら作詞作曲した詩を吟唱しはじめる。へクサメトロンだかイアムボスだかエレゲイアだか訳の分からないものを朗々と、中には伴奏するキタラ奏者まで連れて現れ、これ見よがしの自信たっぷりに吟う者までいて、ぼくは頭が可笑しくなりそうになる。そんなクソ詩吟が一曲終わるたびごとに詩人は跪き、両手を差し出して視聴料を要求してくる。ぼくはこの地獄の第八圏のような渦中から逃れようと財布を取り出した途端、その財布ごとどこかに持ち去られてしまう。ぼくは詩人たちを引っ掴み、
「このクソ野郎!」と、「クソ味噌野郎!」と罵倒する。その有象無象の愚者の群れの中で、ぼくは目に涙を浮かべながら財布を取り戻そうと七転八倒していたしていたけれども、とうとう蹴倒され踏みつけにされ、けちょんけちょんに踏み躙られたのを最後に、詩人たちは引き上げていく。
ぼくは石段の上で半英雄のポーズ「片足だけ腿の横まで踵を持ってきて手で抑える」で寝転がり空を見ている。空はどこでも青くぼくはまたひとりになる。脱げた靴が頭のそばに転がっている。ぼくは半永久的に乾きそうにないその靴を履いて図書館の中に入る。現実にあぶれて夢の中に生きる人たちがここにもいる。はじめて借りた本を覚えている。ぼくはそんなことだけは覚えている。紙の図書館で借りた「しっぽなしさん」というひらがなばかりで書かれた本だった。海岸に食べものを探しに来たネズミが蟹にしっぽを切られてしまって。これがしっぽなしさんだ。しっぽなしさんが海岸に流れ着いたギターの穴の中で眠っていると、いつしか海に出てしまっている。しっぽなしさんが弦をつま弾いて歌っていると、タコの大群が寄ってきて岸まで送ってくれるという話だった。
ぼくはこの本を図書館に返さずじまいで、ずっと家の本棚の隅にあった。それは今日まで生きてきて返せなかった物のひとつで。友達に借りたゲームフト。マンガ。バレンタインチョコのお返し。飛んだバイト先の制服。元カノのCD。そのような物のひとつひとつがぼくの記憶の引き出しの中にひっそりと、今も静かに思い出されては埃を払われて、また闇の底に沈んでいくということを繰り返す。もし「しっぽなしさん」がその時、ちゃんと図書館に返されていたら、ぼくが「しっぽなしさん」を今でも思い出して返さなかったことを悔やむなんてことはない。今もぼくの記憶箱の引き出しの隅に眠るこの返されなかった「しっぽなしさん」は、ぼくの一部となってひっそりと思い出され続ける。
二階に上がる階段を見つけて教育事業所のあるフロアに入る。パーテーションの向こうにいたのは巨漢で丸々と腹の突き出た押し出しの強いひとで、ネームプレートにハル教育事務次官補とある。紙の浜田教育事務次官補と同じスーツを着ているけれども、ハル教育事務次官補の方が着こなしもよく、ネクタイの趣味もコーディネートも申し分ない。ぼくは尻ポケットから灰皿の敷布(ドレープ)のようになってしまった移民申請許可証を取り出して、ハル教育事務次官補の綺麗に整理整頓された机の上に置く。
「これを再発行して下さい。」 ぼくは紙特有の卑屈で自虐的な懇願口調にならないように気をつけながら、これがさも当然、正当な権利で保障された主義主張であるかのように、半ば横柄ともいえる自己肯定感たっぷりの態度でハル教育事務次官補の前に立つ。ここ833では自己主張しない者、声を上げない者、泣き寝入りする者は当然のように暗闇の底に追い込まれ、閉ざされ、置き去りにされる厳しい場所だ。
ハル教育事務次官補は巨漢に似合わぬ長くしなやかな指先を伸ばしてドレープ状の移民申請許可証をつまみ、仔細に吟味検討していたけれども、とうとうこれを投げ出して、
「これは再発行できません。」と言う。あまりのことにぼくは呆然とし、気の遠くなるような、貧血で倒れる前の心地好い意識の流れ、識閾野に拉致監禁される気分を味わう。
「それでは困るんです。なんとかしてもらいたい!」 なめられることのないよう威しすかし、恫喝してでもこの移民申請許可証は再発行してもらわねばならない。これ一枚にすべての事。燈台の反射盤磨き。紅葉狩り。お婆さんのよだれ。犯人と思われる被疑者の目撃。取り出される黒光る凶器。密航。暗黒への挑戦。再誕。女の噓。サンダルの跡――すべての事が無駄になってしまう。何よりも自分の人生が変わりかけている、自分自身が変容しつつあるこの過程。この道程。任意の点が交差し分岐点へと差し掛かるこの道を行きたい、止まりたくないとぼくは必死に訴える。
しかしハル教育事務次官補は駄目だ。出来ない。不可能だ。拒否する。お断りだの一点張りで、お役所仕事のにべもない対応をしてくる。ぼくは頭に血が上り、さっきの貧血状態から一気に高血圧に達したものだから、何がなんだか分からなくなる。もうどうでもいい、なるようになってしまえと、
「それならもう一度、移民申請許可証発行のための奉仕活動をします!」と口走る。またよだれでもクソまみれでもなんでも持って来いといった気持ちでハル教育事務次官補に、男の生き様。不屈の精神というものを見せつけてやろうと豪語してしまう。
ハル教育事務次官補は嘲笑うかのようにネクタイを上から下へ撫でつけながら、
「833の移民申請期間は一週間前に締め切らさせていただいた。」
ぼくは諦めない。なぜならこんな啖呵を切ってしまった手前、もう後には退けないし、ここまで来たからにはもうどこへだって行けるからだ。
「ではどこへ行けばまだ申請発行していただけるのか?」
「石に行けばまだ移民募集を受け付けていますから、そこで申請発行可能です。」
ぼくは教育事業所を飛び出す。こんなところへは二度と来たくない。そうだ、石に行こう。石に行かなければならない。石に行くべきだ。石に行くには飛行機に乗らねばならず、飛行機に乗るためにはお金が必要だ。ぼくはそこではたとまた行き詰ってしまう。どのようにして金を工面しよう、吟遊詩人でもやろうか、イヤだ! あんな乞食以下の追い剥ぎになんかぼくはならない。昔の偉大な詩人たちがこの現状を知ったら、自分たちの末裔がこんな恥晒しなことをしていると知ったらどう思うか。
ぼくは図書館を出る。失業者認定カードもない今、ハローワークに行ってもお役所面のおざなりな対応が待っているだけ。体よく追い払われる野良犬。不法滞在者の何ものでもない。今夜泊まる場所も探さなくては。この胸糞悪い黄色い星形シール付けた一不法滞在者に、手を差し延べてくれる者などない。保健衛生局の奴ら。アスレチック・クラブの受付。クソ吟遊詩人ども。公僕のハル教育事務次官補。一不法滞在者を見下し侮蔑し、嘲笑した833の人たちの態度。ぼくは許さない。
ぼくは自己を主張する。ぼくはここにいると。再び生まれてここに生きていると。おまえの言いなり。思い通り。法と掟。規律と秩序通りにはならないと。ぼくは断固として主張する。詩人のようなクソ言葉ではなしに、思考と行動でもって。記憶と行為。心と身体でもって断固として自己を主張してやる。833の衢、クロスロード・パークに戻ってくる。
ベンチで新聞紙を被って眠ろうか。ドーベルマンを連れて散歩する振りをしたパトロール要員があちこちにいる。パークは10時にはゲートが閉ざされ、朝の6時にならないと開かない。ぼくは遊歩者の振り、これはニットを裏返しに着てサンダルの跡をいっぱい付けたぼくにははなはだ困難な演技ではあったけれども、そんな風を装いながら隠れることができそうな場所。監視の目を逃れられる木の上。WCの掃除用具ロッカー。池のほとりの洞穴など覗いて回る。目ぼしい所には巧妙に仕掛けられた監視カメラが存在していて、とても姿を消せそうにない。
ぼくはひと所にいるのを怖れて彷徨い歩く。影を踏まれるのを怖れる子供のように逃げる。止まってしまったら今にも放水ポンプで水を浴びせかけられるかのように。心臓の鼓動めいた強迫症に駆られて。動き続けなければ死ぬ鮪のように歩く。赤い靴ではなくて白いクチャクチャと音立てる靴で歩く。足が止まると負けのフットボールプレイヤーのように、ぼくはパークを巡る。東側に出る通りを歩いていくと、青一色の旗が掲げられた一画が見えてくる。ここが平和原理主義者の緑党と熾烈な市長選を展開している、保守側の青党の選挙対策事務所らしい。青でボディペインティングしたヌーディストたちがシュプレヒコール
「緑の蠅に糞を!」と叫んでいる。
゛青の時代へようこそ゛の横断幕の掲げられた交差点から破壊されたベースボール・パークが見える。名称をニュークリア・ボールパークと改められた建物が、コロッセオめいた荘厳さで道行くひとに隔絶した時代の縁(よすが)としている。この悲しい出来事。星のひと達の尊い命。犠牲となり絶滅させてしまった星のひと達。その歴史の上にある自分たちを示すなによりの証拠物件として。この遺跡を訪れて涙を流す者はひとりとして存在しない。
あるのは都市景観(ランドスケープ)に組み込まれたオブジェ的なもの。歴史的意味合いを含めて観光名所化する833の思惑。客の落としていく金銭の音。町の深みを表そうとする世界の目を意識した虚栄とエゴ。露わにされ白日の下に曝け出された性器(ヴァギナ)。
ぼくは暗くなり始めた空を背景にして刻々と闇に埋もれていくボールパークを見ている。その周辺に沿って歩く。かつて上がった歓声。怒号。野太い野次。罵声。絶叫。悲鳴。喝采のことを思ってみる。核弾頭の落とされた命の迸り。歴史の生き証人の言葉を思う。
「そりゃあピカっと光ってね。なにかと思って空を見上げたらいきなりドーンと来てね。地の底が抜けたと思って腹這いになったところへ物凄い爆風が、何もかも吹き飛ばされて。わたしはとにかく熱くて熱くて目を開けておられなくて。闇雲にどこをどう走って逃げたのか憶えてない。いつも学校へ行く時に通った道が全部瓦礫で埋まって。そこから引き返して川の方を見たらもう、ひとの頭でいっぱいで水なんかない。
わたしは怖ろしくて怖ろしくて空を見たら、入道雲より大きい雲がわーっとこう、わたしの頭の上へ被さってくるように湧いてる。わたしはその時綺麗じゃなあと思った。こんな雲がどうしてできたのかしらん。ほんとに綺麗じゃとしばらく魅とれておったの。周りはひとの呻き声。悲鳴。すすり泣く声。囁き続ける声が溢れておったのに。」
ashurkorkur(変わった話を持つひと)といわれる語り部が、ボールパークの遺跡のそばに座って当時の状況を語って聞かせてくれる。ぼく達は忘れてしまい、話を聞いて思い出し、また忘れる。ここにはもう何もない。歓声が聞こえてくることも断末魔の声が囁かれることもない。
夜が更けるとボールパークの周りは人もまばらになり、急に秋の風が身に染みて寒さに凍える。ぼくはこの寒さをしのげる場所はないかと暗く虚ろな目をして探し回る。路上で凍死する者が毎年何万人も出るここ833は、荒寥とした凍てつく向かい風がぼくの体の中心をもろに吹き抜ける。コーヒーの匂い。はずれじゃん。涙を堪えようと必死に上を向いて、見えない星を見ている。こんな日もあったあんな日もあったと思い出すにつれて涙が溢れて、ぼくは堪えきれずにうずくまる。なにもいい事のなかった紙を離れてここまでやって来たけれども。
ふと目を上げると「やさしいひと」が遺跡の柱の陰からぼくを見ている。そうか、ぼくは弱者(フラジャイル・フラジール)。少数者(マイノリティ)。敗残者(ルーザー)。被害者。負債者。罪人。前科者。異邦人。住所不定。年齢不詳。無職。不法滞在者だ。よろしい。ぼくはそれを受け入れる。与えられたのなら受け入れよう。やがて来たる栄光の日々を夢見る夢遊病者だと受け入れる。ぼくは「やさしいひと」に見守られながら、ハンバーグの匂いのする方へ誘われていく。ボールパークの端に設置されたダストボックスを開けると、食べかけのハンバーガーが包装紙にくるまれたまま捨てられている。ぼくは躊躇わない。包装紙からハンバーガーを剥き出しかぶりつく。おいしい。
ぼくは涙と共にハンバーガーを食べる。涙と共にハンバーガーを食べた者だけが人生を知ることができると言ったゲーテと同じくらいに、ぼくは知る。愛と感謝の気持ち、いっぱいの喜びでもってぼくは完食する。「やさしいひと」以外、誰も見ていないのを確かめて、ぼくはダストボックスの中に入って、ここでひと晩明かすことにする。中は湿ってはいるけれども暖かく、毎日収集されているらしくそんなに不潔な感じはない。ぼくはゴミの上の方にあった綺麗な新聞紙を広げて、体を包み込んで温かくして眠る。
母親の掛けてくれた毛布に負けないくらい温かくして。そうだ。ぼくは生きるために食べ、生きるために眠る。明日を夢見て目を瞑る。
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くしゃみをして目が覚める。ひと頃治まっていた痔核がまたぶりかえしていて、がっかりする。月見荘102号室の男は仕事で朝、家を出る時、毎日決まって必ず玄関先でくしゃみする。それはその場所になにか憑いているのか。ルーティンなのか。男はそれを知らずにやっているのか。ぼくが痔になったのは16の頃だ。部活動に入っておらず学習塾にも通っていなかったぼくは毎日、学校が終わると道草ばかりして家に帰らなかった。遠回りしていけばそこに何かきっとある。何か新しいもの。気づかなかったもの。見落としていた大事なものがきっとそこに見つかると思っていた。
だけれども何も見つからなくてぼくは焦る。ただ毎日夕日が落ちていくのを見ながら、今日も何もせず、何もできず、何も見つけられなかったと思っている。そんな時、ぼくは痔になる。血を見た時はゾッとした。周期的に巡ってくる血を見る習慣なんてなかったから。ぼくは24時間、行住坐臥。お尻の穴が気になって仕方がない。排便は拷問となり、このような恥部を気楽に晒け出せる無二の親友なんていなかった。耐え難い拷問沙汰に夜も眠れなくなって、ついに恥を忍んで近所の薬局にボラギノールを買い求めに行く。坐薬はなんだか怖かったから塗り薬を選んで、ひと月ばかり塗布していると症状は随分と緩和されて、用便を足すのも気が楽になった。もうこれで大丈夫と思って朝、思いっきり気張ったりするとまたぶり返す。カチカチの便でもって擦り上げられ炙り出される括約筋がぶるぶると痙攣し、血の気の引いていく感覚と共に悲鳴を上げる。ぷっくり膨れ上がった肛門を指でそっと触れていると、このままぼくは「明暗」の主人公津田のようになってしまうんじゃないかと怖れた。漱石先生はよくもまあ痔の手術の話など書けたものだ。
ほくにはそんな勇気はない。世界の終末(ラグナロク)のような疼痛が背後から、ずしんと突き上げられてくる、この重く固い罪の石をつねにぶら下げているような感覚は、とても文字で表現する気になれない。
ぼくは痔核の痛みに耐えながら、そろりとお尻を浮かして位置を変える。それがまた奇妙な浮遊感をお尻の穴に与えて震え、憂鬱になる。833くんだりまで来て痔雷を踏むとは。ぼくは気持ちを落ち着けようと深く息を吸って吐く。新聞越しに強烈な異臭が胸を衝いて息を吞む。居場所を忘れていた。
ダストボックスの外側で靴の足音が近づいて来る。蓋が開き何かがぼくの頭の上、くるまった新聞紙の上に落ちる。蓋が閉じられ足音が遠去かっていく。しばらく待って誰も来ないのを確かめると、頭の上の新聞紙をそっと剥いで見る。
光り輝く永遠の未来を約束する指輪だった。ダストボックスに婚約指輪を捨てる。そういうひとがいる。ぼくは彼女と一緒に買った指輪を川に投げ捨てようとした。だけれどもできなかった。ぼくはその指輪を連綿と持ち続けて、アパートの机の引き出しに大事に収めてあるままだ。ぼくは過去の記憶に搦め取られて堂々巡りを繰り返す。思い出される過去は擦られ磨滅する度、ますますカラット数を上げて光り輝く。それが辛く哀しいものであっても、永遠の未来を約束するかのように。失われることはない。ぼくは過去がいっぱいに閉じ込められて磨き上げられた指輪を、しっかりとポケットに収める。
女のひとには悪いけれども。いや、女のひとだったと断定することはできない。それは早計というものだ。女装趣味のドラァグクイーン。お金の代わりに指輪をもらった男娼。価値も分からず成金社長から盗んだカモシカのような足をした少年。騾馬に乗ったサンチョ・パンサかもしれない。誰のものであれ、ぼくはこの指輪を売って石への航空チケットを手に入れよう。指輪は用なしでダストボックスに捨てられ、ぼくの手で質屋へと運ばれる。ぼくに指輪を請け出す理由はない。質流れする指輪はその後、ますます光り輝く過去の魔術的幻燈機械(ファンタスマゴリー)となってひとの心を惑わし、魅了し続ける。
耳を澄まし心をからっぽにして、ダストボックスの周りに誰もいないのを確認する。そっと蓋を開ける。冷んやりとした空気がぼくの喉元からお尻の穴までを握りしめて、ぼくは失禁しそうになる。靴は乾いていたけれども、痔核が戻ってきてしまった。ダストボックスを出て足早に南の通りへと向かう。保守党の青い選挙対策事務所前には大量のビラが机の上に積み上げられて、ビラ配りの人間が待っている。この寒さにも拘わらずタンクトップ、トレパン、ヘッドバンドでエアポッドを耳にしたひとが走っている。その走りは軽快そのもので羨ましくなる。きっと痔核なんて持っていないし、息を弾ませて肩の毛が朝日に光る。
アストロノーツ関連グッズの売られている店と美容院の間の路地に入る。まだ開店前の時間だ。ぼくは両手に息を吹きかける。息も心なしか白いし、この通りは臭いと感じる。嫌な予感は必ず当たる。7、8人の集団がアパルトマンの階段近くにたむろして、こっちを見ている。ぼくは目を合わせないよう、叶うことなら存在が消えていて気付かれないよう願いながら横を通り抜けようとする。彼らに壁を作られ道を遮られて、目の隈を真っ黒にして暗黒の淵を覗いて来たような男に、
「なんの用だ?」と訊かれる。
「別になにも。」 用があるのはぼくの方ではなくて、いつも否応もなく外の世界の方がぼくに干渉してきて傷付ける。ぼくは生まれ変わった気でいたことも忘れて力なく俯く。自己主張も権利も保障も主義もない。あるのは黄色い星形シールの不法滞在者。その成れの果て。
「ここがどこか知っているのか?」 暗黒育ちの父(てて)なし子の男が訊く。父(てて)なし子かどうか気になるんだったら、本人に直接訊いて欲しい。もし間違っていたのなら申し訳ない、ぼくの偏見だったと今ここで謝っておく。
「833です。」 ここは833だ。泣く子も騙す833。夢と希望を乗せて舟が出る、光の街。鋏の町だ。
「違う。ここはプッシャー(ヤクの売人)ストリートだ。」
ぼくはそのような薬を必要としない。必要とする薬はボラギノールだけだ。
お兄さんたちの売っている薬なら、ぼくは脳内にいっぱい持っている。想像力という物質だ。
「いるのか?」
「いりません。」
「失せろ。」 ぼくは服が裏返しだぞと指を差され、笑われるのを後ろの方で聞きながら通りを抜ける。
惨めな気持ちのままグリッドを渡り、【質】の看板を探す。けれどもそのような看板はどこにもない。833に質屋はないのか。そんなはずはない。
ひと・金・モノのあるところ、質屋のないはずがない。ぼくがそこら中のビルの看板、ネームプレート、電飾を見て回っていると、皿天秤の描かれた絵を見つける。これが質屋なのではないかと思って、ぼくはその超高層ビル。頂きがボーリング゛のピンになっているビルに入ってみる。皿天秤の絵が描かれているのは82階。
今度はエントランスのフロントなど見向きもしないで、アトリウムのあるリバティ様式のホールを抜ける。床一面に敷かれた鏡板の上でダンサー達がタップを踏んでいる。グレゴリー・ハインズそっくりの男がぼくに向かってウインクしてくる。エレベーター前、蛇の目と青海波の模様が入った扉が開いて、82階を押す。今度こそは騙されたりしない。自分の力で見つけ出す。強い意志でもって上がっていく階数を睨みつける。39階で止まって入って来たひとは、日焼けした肌に赤地に金の刺繍で〇金と入った前掛けを着けている。手にハイボールのグラスとフィンガーボールを持っている金髪の美熟女だ。ぼくは驚愕も興奮もしないようにする。ここはアスレチック・クラブじゃない。ここは質屋の入った立派なビジネスセンターのはずだ。
これは何かの間違いなのか。ひょっとするとあの天秤は、臓器売買の印。幼児ポルノ売春の印。マアト女神の羽根と死者の心臓を量る天秤なのではないか。ぼくはイライラしてくる。早く着けばいいのに。お尻の穴がぢんぢんする。もう二度とゴミ箱に捨てられたマスタード入りハンバーガーなんか食べない。
女がウインクして80階で下りてしまう。ウインクは何かの合図なのか。あとにシャネルの5番の香りが残って、ぼくは勃起してしまう。
82階には「夢と魔法を信じる人たち」アルケミストの支店とネットカフェがある。バニシングポイントにどっぷり浸かった若者が、獣の雄叫びを上げてハンドルを握る。月見荘の隣人の兄弟は今日もどんちゃん騒ぎをしている。漏刻は刻まれ続け、時の裏側、トポロジー的に穴の空いた排水溝(対蹠地アンチポデス)に出ていく。ぼくは月見荘を捨てた。何もいいことのなかった紙の町。
皿天秤の絵の描かれた真鍮プレートには「黄金計量師又は贋金鑑識官」と記されている。これは質屋なのか、質屋じゃないのか。ドアを開けて中に入ると、禿頭で赤ら顔のもっさりした白美髯を胸まで垂らす老人が、窓から望遠鏡の筒先を出して覗いている。老人は入ってきたぼくに気づくと、椅子に座るようぼくを促し、自分も向かいの書見台の付いた机の前に腰を下ろす。ぼくはひっそりとお尻の穴を大殿筋で引き締めて庇いながら、老人にそれと気づかれないように座る。老人は机に両肘をつき、組んだ指をピアノでも弾くように順番に動かす。そしておもむろに、
「小さい鉄の玉と大きい鉄の玉を塔の上から同時に手を離した時、小さい玉も大きい玉も同時に着地する。」
ぼくは老人の言葉の意味は分かったけれども、この比喩によって何が言いたいのか分からなかったから、黄金の沈黙で答える。
「ある鉄の玉を三角形点Aの頂点から鋭角の頂点Bの低点まで落下させる時、点AからBまで斜線に沿って落下させる場合よりも、クロソイド曲線に沿って落下させる場合の方が速い。」
贋金鑑識官は贋金と見抜いた場合、ポリスマンを呼ぶのだろうか。それとも賄賂を出せば見逃してくれるのか。贋金を賄賂で見逃すということは、贋金にも価値があるということだ。イミテーション。模造品。ダミー。物真似。パクリ。パロディ。パスティーシュ。擬古文。そっくりさん。影武者。海賊版。二次創作にも価値の生じる世界にぼく達は生きている。老人の世界解釈が行われる。
「この世界は落下しつつある。それを誰も止めることはできない。この落下速度をいかに遅らせるか、ということだ。人々をパニックと恐慌に陥らせることなく、痛みをモルヒネで散らしながら、できればそれと気づかれることなくいかに人々をソフトランディングさせるか、ということだ。
人々が皆、落下傘を着用しておいてくれればいいと思う。しかし人々が皆、生命保険に加入し、すべてのひとの支払い規則が満たされた場合、保険会社は破産する。そうならないようにこの世界には助かる人と助からない人がいる。生きる者と死ぬ者に分かれる。生きる者は落下傘を着けて速度を緩め、自由落下する。死ぬ者は落下傘なしでクロソイド曲線に沿って死に至る。」
赤い頬とその瞳、美しい白髯は波打って光を放っているけれども、老人は憂いと哀しみに満ちている。
ぼくはここに来た理由を思い出して、さも大事な物。祖母の形見でもあるかのように勿体ぶって拾った指輪をポケットから取り出し、机の上に置く。老人は早速ルーペを机の引き出しから取り出して、入念に指輪を鑑定する。
「゛P・Nへ゛とあるが、これは誰のイニシャルか?」
老人は唐突に訊いてくる。その声は甲高く聞き難いまでに高音になる。歯軋りして我慢しようとする。けれどもなんとも聞き苦しい。しかしP・N?P・Nって誰だ。ろくすっぽ見もしないでいたのがいけなかった。P・N 咄嗟の出まかせで、
「日月ポーラ、ぼくの祖母の形見の指輪です。」 ぼくの祖母の名前はイネだ。口から出まかせでこんな嘘が言えたことにほっとし気を許した途端、痔核が地の底から忘れるなと疼く。ぼくはどこへ逃げようと運命の輪、死から逃れられない星の下に生まれた。縛り付けられ永遠に回り続けるイクシオンの輪。糞を転がし続けるシーシュポスの罰。確かにぼくは繰り返される苦しみの過程の中に恍惚と、喜びを見い出して生きる一修行者でありたいと希った。でもそれは、伝説のベースボールプレイヤーピーチローの言葉。
「小さなことをひとつひとつ積み重ねることがとんでもない所へ行くたったひとつの方法」という言葉を鵜呑みにしたからだ。
「1万。」
「え⁉」 心の準備ができてなかったから、たったの、と思ってしまう。祖父の形見の腕時計と比べてしまったのだ。まったく可笑しな話で、この指輪は祖母の形見なんかじゃない。ダストボックスの中で拾った赤の他人の物。入手経路はタダのわらしべ長者的儲け物なのだ。それをたったの、と思ってしまうぼくの傲慢さ。欲深さ。破廉恥さに痔核が音立てて疼く。ヘタすれば窃盗罪にも問われかねない危うい橋を渡るこの状況下で、安いとか低いとかそんなことを言える立場でも身分でもないことは重々承知しているにも関わらず、ぼくは
「あんまりじゃありませんか。祖母の形見が1万だなんて。そりゃちょっとあんまりだ。足許を見過ぎてる。もうちょっと、なんとかなりませんか。」
言っておく。くれぐれも誤解なきようにして頂きたいけれども、ぼくは詐欺師じゃない。犯罪者でもない。確かにこの指輪は祖母の形見ではないし、ダストボックスに捨てられた指輪。拾った指輪。肥溜めに鶴の、誰だか知らないふたりの未来を永遠に約束された指輪だ。
だからこそ、この指輪のために弁護して少しでも価値高く質に入れてやりたい。おまえは必要とされていたんだ。もう少しでうまくいくところだったんだろうけれども、縁がなかっただけだ。次こそはきっとうまくいく。幸せになれる。それまでの我慢だ。辛抱だよ。おまえは美しい。どんな指輪よりも価値がある。存在する価値。意味があるんだ。それを証明し励まし捨て鉢にならずに、自分自身を磨き続けてほしいと希ったからだ。決して私利私欲のため。老人を騙してやろうとか、裏をかいてやろうとか、耄碌したジジイからたっぷりぼったくってやろうとか、虎の子の年金から搾り取ってやろうとか、そんな悪意を持って言った訳じゃない。
どのような理由であれ捨てられてしまったモノの価値。勿体無いの精神。なによりも過去の記憶の詰まった思い出の品。手垢にまみれ手間暇かけた職人の技と巧みを弁護する。ひとの労働価値を誰が決めるのかというマルクス資本論的見地からの問題提起でもあったのだ。モノの価値がひとの幸不幸を左右する、そんな瀬戸際にぼくは立っている。いや世界中のみんながそのような状況の中に立たされている。モノの価値はひとの労働価値によって決められ、その上がり下がりでひとの禍福が分かれる。株価も貨幣価値もひと、国への信頼。信用。価値によって左右し、その鰻上り蝦の後退りでひとの泣き笑いが決まる。
モノ・株・貨幣の価値が先かひとの労働・信用の価値が先か、ぼくは知らない。時にモノ・株・貨幣の価値が先になってひとの価値が下落する。失業者。負債者。破産者。自死者。心中が町に溢れる。命の価値が鴻毛よりも軽くなる。止めることの出来ない魔術的幻燈機械(ファンタスマゴリー)となった市場は、神話の怪物となってひとを喰らい尽くす。
「1万。それ以上でもそれ以下でもない。」 くたばれ資本家ども!ひとの価値を数字で弄ぶ骰子転がし。賭博者。魂を売り飛ばす遊戯者め!
「じゃあ、それで。」
ぼくは資本家に屈する。労働を切り売りする。ぼくの父親もプロレタリアートだった。車を新車で買えなかった。一戸建てなど夢の夢。賃貸ローンの生活に終始した。母はプロレタリアートの父と結婚した。同じような境遇と環境で育った父と母。貧しくて上の学校に進めずに就職したふたりは意気投合して、ぼくが生まれる。
「それでも地球は回っている。」
老人は指輪を机の抽斗にしまうと、螺鈿細工の筥の中から渋沢栄一のピン札を取り出して机の上に置く。ぼくはそれを三つに折り畳んでポケットにしまう。老人はもう窓際に寄って望遠鏡を覗いている。
「石行きの飛行機チケットが欲しいのですが、どこへ行けばいいですか?」
「ここで売っている。」
黄金計量師又は贋金鑑識官は金券ショップ店員でもあるということか。
「できれば一番格安チケットを‥‥」 格安という言葉を発した時、ぼくの痔核が口ほどにものを言うのを感じる。あの時の屈辱。保健衛生局員たちの嘲笑。引っ詰められ閉ざされ垂れ流され再誕し消毒され放水され放置され痔核したあの恥辱まみれ汚辱まみれの日。そのようなことに再び巻き込まれてしまうのではないかという危惧、怖れがふと頭を過ぎる。
でもぼくは行かなくてはならない。もう一度移民申請許可証を得るために。立ち上がるために。ぼくはここにいると自己を主張し、存在を。価値を。身分を証明するために。不法滞在者から移民団の一員としてここ833から舟に乗って旅立つために。
「1万。」
「えっ。」 そうか。世界はこのような仕組みで成り立っているという訳。プラスマイナスゼロサムゲーム。何かを得るためには何かを捨てる。
「幸福を得るためにはそれとぴったり同じ分量の不幸が必要なのだ。」と言ったのはドフトエフスキー。ぼくはポケットから三つに折り畳んだ渋沢栄一のピン札を取り出し、折り目を正して机の上に置く。全天が地球を中心にして回っているのか。地球が恒星の周りを回っているのか。同じひとつの事象をふた通りに解釈することができるように、指輪もまた万札と航空チケットのふたつに解釈できるということ。ぼくは動く方を選んだ。それでも地球は回っていると信じたい。紙のアパートの漏刻と運命の輪と隣人の謝肉祭とクシャミから抜け出し、833に来ることを選んだ。この道を行け。
老人は切手シートのような透明な膜のついた台帳を取り出し、中に挟まれた一枚のチケットを引き抜いてぼくに手渡してくれる。
「これからすぐに地下鉄(チューブ)で行けば飛行機に間に合う。」
「地下鉄(チューブ)ってどこに?」
「ビルを出て右の四つ辻(スクエア)に入口がある。」 老人は窓際に寄って望遠鏡を覗く。それでも地球は回っている。
ぼくは黄金計量師又は贋金鑑識官並びに金券ショップ店員に頭を下げてドアを出る。エレベーターで地上階に下りる間、放心したようになって玉袋の裏返る感覚に耐える。扉が開いてエントランスを抜けビルの外に出る。老人は急げば飛行機に間に合うと言った。今が何時でこのチケットが何時何分発の石行きチケットなのか。チケットのどこにも時間が書かれていないのはどういう訳なのか。
すべての疑問を宙ぶらりんにしたまま、ビルを出て右に歩いていると、天体観測所のようなドームが光るミュージックホール前に、地下鉄入口を見つける。階段を下りていくと、ポップでキッチュなグラフィティで目が冴えてくる。スプレーガンで紡ぎ出された識閾野のチューブ内で、ぼくはエアポート行きの切符を買おうとしてはたと蹴躓く。小銭の持ち合わせがない。
チケットはあるけれども切符が買えない。このような時、グラフィティアーティストたちはどのようにするか。ぼくはチューブ内の電話ボックスに入って注意深く観察する。彼らスプレーガン持つアーティストたちは、ICカード持つ利用客の後にくっ付いて自分も一緒に入ってしまう。ぼくは彼らアーティストたちの見計らうタイミング。人選。行動様式を何度も頭の中で繰り返しイメージトレーニングを済ませると、一発勝負の実践に移る。
やって来たプエルトリコ系の巨木の幹周りを計る単位、ふた抱えのウエストを持つターゲットの後に尾いて難なく改札機を通過する。ホームに立って待っていると、ものの数分でエアポート行きの電車が総天然色(テクニカラー)のチューブ内に、舌を押さえるステンレスのヘラのように挿入されてくる。ぼくは思わずえずいてしまう。えずきがお尻のブラックホールにまで轟く。ぼくは涙目のままグラフィティの施された銀白色の車体を見つめる。
理性という検閲を潜り抜けて無意識は、車内の蠅除け蛍光灯の下に新たな驚異物を乗せて走り去る。識閾野のチューブを通るこの電車は、思考の速さでエアポート内にある地下ゲートに直接繋がる。
機上
ぼくはクルド人難民の集団の後に尾いて改札機をパスする。搭乗ゲート前に立つ化粧の下のスカーフが風に靡く形で固定された空港業務員が、通り過ぎる搭乗客に深々と頭を下げる。ぼくは受付カウンターの空港業務員にチケットを提示する。化粧の仮面の相好を崩した受付業務員は、搭乗ゲート奥に手を差し延べる。搭乗ゲートを潜ると、屈強な空港業務員に羽交い絞めにされて荷物運搬用のエアポートカーに乗せられる。車はボーイング747型機の向こう側に一機だけ止まっている軍用ヘリ、オスプレイに近づいてぼくはタラップに上がることなく屈強な空港業務員に持ち上げられ、ヘリに放り込まれる。
そこは立ち乗り専用のミリタリークラスで、戦闘準備の完了した兵士たちがいつでも迅速に降下できるよう設計された、パラシュート付きの営倉だ。そこへ約100人程がパラシュートを背負わされて、ラッシュアワーの通勤客同様吊り革に掴まっている。あいにく吊り革を掴めなかった者は人と人の濃密な関係性の間で宙ぶらりんになり、半ば無重力の状態で上空を運ばれていく。当然、嘔吐する者。えずく者。しわぶき。クシャミ。鼻水。啖。涎を垂らす者が出てくるけれども、そのようなことは一切考慮されない。石まで1時間弱のフライトだけれども、その間なんぴとも用を足すのは不可能で直立不動の姿勢のまま、戦場に架ける橋の捕虜たち同様耐え忍ぶしかない。
ぼくはあの紙から833への非人道的、強烈無比な体験があったために、比較的楽な気分でいられる。もちろん痔核は疼き周囲の腋臭、貼られた湿布、正露丸、加齢臭、口臭は耐え難かったけれども、そんなことはもうある程度慣れっこになっている。
「経験とは労働の実りであり、体験とは無為に日を送る者の夢幻燈機械(ファンタスマゴリー)。」ヴァルター・ベンヤミン
ぼくは体験者だ。周りを見回してみてもぼくのように気楽にしいてる者などひとりもおらず、みんなひどく憔悴し格安の誘惑に乗った自分をひどく呪っているように見える。ぼくはこんな所で深い優越感を味わうことになって、ひどくこそばゆい感じがしたけれども、それもこれもすべてはぼくが尋常でない底の底、惨めで最低な汚辱。屈辱。破廉恥にまみれた現実を味わってきたからだと思うと、なんだか悲しいような恨めしいような、弄ばれているような気持ちになる。苦痛の軽減、緩和、小休止の喜びではなく、純粋な混じり気の無い欲望の満足、喜びが欲しい。
盗られるものは何も持っていないし、石に行けば行ったでそれから無一文で、どうなることやら皆目見当もつかなったけれども、とにかく今、ぼくは自由だ。石上空へ近づいたと思われたその時、機体横のスライド扉が開けられ物凄い風圧とツインプロペラの爆音がぼく達乗客を阿鼻叫喚の階へと立たせる。インカム付きヘッドセットにミラーグラスのCAが降下のサイン。下向きに親指を立てるジェスチャーをする。
「パラシュートを装着して下さい。」 不安と恐怖に慄く最中にこのようなアナウンスが頭上のスピーカーから入る。ぼく達ミリタリークラス100人の乗客は、少しでも開け放たれた地獄堕ちの門から遠去かろうと、冷たい空気に触れるのを嫌う冬山の猿のように犇めき合い、いんぐりもんぐりおしくらまんじゅうする。鬼軍曹が扉に近い者から次々に下界へと放り出していく。人体という驚異の小宇宙(コスモス)が、中有をさ迷う蜘蛛の糸(ゴッサマー)のように奈落の底に堕ちていく。阿鼻叫喚が風圧とプロペラの爆音で掻き消され、扉の縁にしがみ付いて離れない者。腰を抜かして立てない者。失禁慟哭して首に下げたロザリオを爪繰る者。容赦なく引き剝がされ、蹴落とされ、突き飛ばされる。
ぼくはありえない。こんなことは絶対にありえない。非人道的だと思いながら後ろへ後ろへ後退り、そこら中にいる人を引っ張り小突いて逃げる。機内はパニックで乱闘騒ぎとなる中、降下は粛々と進められていく。追い詰められたぼくはどうとでもなれと、自ら進んで飛ぼうとした。けれども下の石の町にほんの小さなクラゲのような傘がぽつりぽつりと、咲くのが見えた途端、ぼくは反英雄のポーズ(両足を前後に大きく開いて体を反り、片腕を内側にひねりながら大弓のように撓ませる)をとってしまう。この状況下であろうことか、反英雄のポーズを。
鬼軍曹は有無を言わさず、ぼくのお尻の穴(ブラックホール)にアーミーブーツを食い込ませたので、ぼくは血の爆裂と共にぶっ飛ぶ。最終兵器痔核のボタンを押した鬼軍曹を呪い、自由落下していく自分の体が石の重力によって吸い込まれ、回り続ける。ぼくはここで失神したら終わると思ってパラシュートの紐を引く。開いた傘で引き起こされた空気抵抗が、鬼軍曹のひと蹴りに優るとも劣らぬ衝撃をぼくの痔核に与えて、血の気の引いていく感覚を最後にぼくの記憶が飛ぶ。
つづく