ハノイの塔 第三部
石
1
石の町には一本の川が蛇行するように流れていて、わたしはぷるおんを連れてよく対岸にある公園に行く。そこには日傘を差して散歩する人がいて、短くなった冬の日の光を浴びようと寝転がる人もいる。ぷるおんは芝生の上でいろんな音を口から出しながら跳ねる。小さな体にぎゅっと詰まった力の種。太陽の贈り物。自然に宿る魂を爆発させて走る。とうとうおかしくなってバラバラに砕け散ってしまうんじゃないかくらい走り回るぷるおんは、わたしが言ってもなかなか帰ろうとしない。
そこでわたしは我慢する。以前のように怒鳴ったり抓ったり、引っ叩いたりど突いたり、憎らしくて殺してやりたいと思わない。これはわたしの成長なのか。それとも環境が一変し状況と境遇、経済状態がわたしに心のゆとりを、ひとにやさしく、おおらかに寛容にしているのか。もしそうなら、わたしの成長などというものはない。外の世界の状況次第で変わってしまうわたしなら、成長なんてどこにもない。わたしは過去の自分を顧みる。社会。世間。学校。友達。近所のひとの目。時代の風潮。流行で変わるわたし。
無視する抹殺者になったわたし。恥・外聞を憚って夜逃げし、ぷるおんと手を繋いでホームに立っていたわたし。ジェフに言われるまま多くのひと達の好意を無にして石に来たわたし。すべてはわたしの主体性のなさ。自信のなさ。心の弱さの表れだ。
わたしはもっと強くなりたい。どのような形でもいい。ぷるおんを背負って歩いて行ける女になりたい。わたしは真理を求めて厳しく闘う体操教師ジェフ・ギルドに従ってきた。写真銃によって魂を奪われた。それもあるけれども彼と共に石に来ることでわたしは、もっと力強い生活をこの手にしようと決めた。わたしはぷるおんと強かにこの現実の大海を泳ぎ抜く術を学ぼうと、紙を出た。
わたし達三人は今、川向かいの晩餐館に居を構えていて、そこにラジオ体操スタジオも併設されている。わたしはジェフ・ギルドの下、体操者になった。厳しい肉体の鍛錬と食事制限のため、元々太ってもいなかったわたしの体重は8キロ減り、体脂肪は12%まで落ちた。今ではわたしは自他共に認めるジェフ・ギルドの一番弟子と重んじられて、石の町の体操者も30名近くになろうとしている。わたしは自分がこんなにラジオ体操で変われるとは正直、思っていなかった。物心ついた時から摺り込まれてやっていたあれは一体、何だったのか。今思い返してみるとそれは、貧乏ゆすり。悪いクセのようなものだったとしか思えない。ジェフ・ギルドの身体にかかるとそれは一変する。
まず初心者の段階ではじめられるのは、超スローなモーションでなされるラジオ体操だ。第一を30分かけて行う。これは初心者としてやってみると予想以上に苦しい。すぐに諦めて辞めてしまうひとも多い。これが毎日続けられていくと、身体は如実に反応し変化しはじめる。
第二段階として超高速でのラジオ体操が行われる。これは息を止め一気呵成に1分以内ですべてを終えることができるようになるまで訓練される。
第三段階は普段のテンポのラジオ体操だ。しかし第一第二を経た今のそれは子供の頃から親しんだ、あのちんたらした河童の盆踊りのようなラジオ体操とは360度異なっている。ひとつひとつの筋肉。身体の位置。バランス。体位。体重移動。そのすべてが意識され確信され充実、変革、現実化される。
それはまったくもって生きていることの意味。世界の見え方。ものの捉え方。考え方が違ってくるようなものだ。目に見えることのすべてに気づきが増し、目に見えないことまで感じられるようになる。
この段階まで来ると、ジェフの「ストップ」が度々掛けられるようになる。体操中、ジェフの「ストップ」が掛けられると、体操者はその姿勢のまま止まらなければならない。どのような行為。まばたき。鼻のムズムズ。空かしたオナラも許されない。まるで時間を奪われた吸血鬼の町のようにわたし達は止まる。空中に静止する矢。鳥。雲のように。
最終段階においてフリーラジオ体操が行われる。ラジオでかかるすべての音楽。DJ。ラジオパーソナリティのフリートーク。CM。ジングル。BGM。効果音。ニュース。天気予報。交通情報。ラジオドラマ。スポーツ中継。国会中継。政見放送。記者会見に合わせて24時間体操し続ける。
これはマスターの称号を持つ者のみが許される究極の封神演義(演戯)であり、なまじっかの聞きかじりの人間なんかがやると、それは踊る阿呆に聴く阿呆踊りでしかない。ジェフ・ギルドの行う封神演義は、ニジンスキーの牧神の午後にも匹敵する。
わたしははじめてジェフのそれを見た時、彼は神ではないかとさえ思った。そして彼にひれ伏し畏怖し恐懼し帰依し懇請し体操者になることを誓った。
これは幻覚じゃない。現実に目の前で起こっている。奇蹟とも言っていい。
わたしは懸命に練習を重ね、少しでもジェフに追いつこうと無理もした。靭帯を伸ばして動けなくなった時は、晩餐館の主ポワイエが腕の良い接骨医と按摩。針・灸師を呼んでくれてすぐによくなった。自分がまさか、こんなに夢中になれるものを見つけられるなんて思いもしなかった。
わたしはジェフに傾倒し帰依し、半ば畏れ半ば妬みながら愛している。このような愛は一体、なんなのか。決して男女間の甘く睦まじい関係ではない。
これは命懸けの遊戯なのだ。決闘じみた師弟の愛憎。わたしはジェフを越えたいと思う。だけれどもそれは畏れ多いことだ。だからこそわたしは嫉妬し羨望し欲望する。神にも似た体操を体現するジェフ。カリスマ体操教師。グルを越えたいと切望する。希求する。それがたとえ禁忌(タヴー)を犯す最大の罪だとしても、わたしは罪を厭わない。それほどまでわたしはラジオ体操に魅入られている。
もうすっかり日が暮れて、わたしとぷるおんの他には公園に誰もいない。ぷるおんは薄暮の紅の中で頬を染め、目を爛々と輝かせ芝生を踏み拉いている。その足はすでに裸足で脱いだ靴はその辺に引っくり返っている。思いきり巻いたゼンマイが勢いよく発動して、最後の緩み切った余りの力でじたばたするぷるおんに無理から靴を履かせていると、捨てられたのか逃げたのかノミ取りの首輪が付いた犬が、ぷるおんの靴を咥えて尻尾を振る。
ひとの成長とはなんだろう。ぷるおんは成長しているのか。誰とも比べることなく、そのままの自分を真摯に生きていってほしい。わたしはぷるおんに靴を履かせ終わると、手を繋いで公園を出る。急に気温が下がった夜のはじまりの石畳に町の明かりが映り込み、わたしはジャカード織りのコートに首を埋める。ぷるおんのふわふわの白いセーターが、町に落ちるひと粒の雪のように世界に重なる。雪の夜、愛されながら窓から見た冬の星座の輝く炎の宴を繰り返す。過ぎてはまた来る快楽の渦に溺れながら、わたしは星の影から目を離せずにいる。まるで異星からの交信を待ち続けるマヤの神官のように。
なにを見ているの? 星。届かぬ手紙。捨てられた写真。得られなかった希望。恋。友情。町の中心に位置する円形広場には巨大な群像が、四方から集まってくる道とひとを見下ろす。オープンカフェで恋人同士が肩を寄せ合っているそばで、男と女が盛んに議論をしている。世界革命は必要かと。
「今のままで十分だ」という男と、チェ・ゲバラにかぶれた女は「革命は必要だ」という。「世界とひととの乖離が決定的である以上、革命はなされねばならない」と。「世界はそのように速くは変化しない。きみは先走り過ぎている。世界は思考のように速くは進まない」と男はいう。「世界は馬車馬の幻燈のように速く進んでいる。遅れているのはひとの方だ。革命は世界に追いつくための必然だ」と女はいう。
わたしはぷるおんの手を引いて広場を抜ける。誰もが自分に合った、自分らしい生き方をしているようにわたしには見える。花屋は花屋に。靴屋は靴屋に。ギャルソンはギャルソンに。恋人は恋人に。浮浪者は浮浪者に。街娼は街娼に。群集は群集に。見事に所を得て、自分の生き方を選んでいるように見える。そしてわたしだけが場違いで、ここに居てはいけない、間違いの存在。自分のしていることに自信が持てず、もっと他に自分に合った仕事。場所。ひと。生き方があるんじゃないかと思っている。
そして多分、わたしが見ている、ここにいる誰もがひとりひとり同じように、自分は所を得ておらず。待ち人来たらず。もっと他になにか、どこかで誰かが、と思っている。わたし達は永遠に満足することのないミダス王だ。
黄色い明かりの灯る夜のカフェのいつもの席に座っていたジェフ・ギルドが、わたしとぷるおんに気づくことなく立ち上がって、大聖堂に向かって歩いていく。
ゴシック建築の大聖堂は四面をステンドグラスで飾られた古い建物だ。正面壁(ファザード)は渦形文様と髭様装飾で埋まり、薔薇窓が頂きに広がる。軒蛇腹(コーニス)にはガーゴイル像と天使像が交互に突き出している。わたしはそれを見ると、いつも実家のトイレに飾ってあったウサギと亀の置き物を思い出してしまう。わたしはウサギより亀の方が好きだ。甲羅に陰陽の太極図の刻まれた亀。糾える縄となっている禍福。幸福の絶頂に不幸の種が蒔かれ、不幸のどん底の土に幸福の芽が生える道を、亀はゆっくりとしかし確実に歩く。
ぷるおんはドォーモに脅える。その暗き得体の知れなさ。底知れぬ顎を開く深淵の縁を覗き込んでいるようだ。ここから早く逃げ出せ。体操教師ジェフ・ギルドは金色のペガサスの把手のついた杖を突いて聖堂の中に入っていく。わたしは前牆壁の前まで来ると足を止め、ジェフを見送る。今のジェフはかつてのようにラジオ体操を血眼になって教えるということはない。わたしや他の古い弟子たちに師範代をするよう命じて、自分は他のことに身も心も奪われているように晩餐館を後にしていく。
わたしはどうしてもジェフのことが気になって、彼のあとを尾けてみたことがある。オープンカフェで書き物をしているジェフを「やさしいひと」のように、柱の陰に隠れて見つめるわたし。やがて彼は書き物をやめて立ち上がる。広場の通りを横切って大聖堂に入っていく。わたしは急いで彼のあとを追う。ナルキッソスを追う森のニンフ、エコーのようなわたし。ジェフは内陣を抜けて説教壇の下の壁にある小さな扉を潜り、中に入っていく。
わたしはあとを追いかける。細い廊下の先は大聖堂裏の家を通り抜けて、いかがわしい地区へと続いている。ジェフはそこで人と会っていた。わたしの想像していたような異性の影はなくて、その地区はかつての栄光を担保にして食べているような革命家たちの巣窟になっている。貴族を打倒し市民権を勝ち取ったひと達。全人類平等の恐るべき一大実験に着手したひと達。自治独立を目指し武器を取ったひと達。暴力ではなくデモ、集会、パンフレット、討論会。言葉のみで事を成そうとしたひと達。そうしたひと達はとにかく革命を起こしさえすれば世界が変わると信じていて、過去の栄光の記憶の中からつねに未来を見ているけれども、現在現実のことはすっぽりと抜け落ちている。
そこへジェフが加わることでジェフは何をしようとしているのか。何らかの現実的な、具体性のある組織を構築し、計画を実行しようとしているのか。それともジェフというカリスマ的指導者の下でカルト教団的な運動(ムーヴメンツ)を起こそうと企んでいるのか。わたしには分からない。ジェフのやろうとしていること。世界に参画参入し変容させようとする試み。彼は一個の人間をラジオ体操によって覚醒させ、そのひと自身のあるがままの個。現実。ありのままの真実を直視し、生きることを提唱することだけでは飽き足らず、とうとう世界線そのものを変容させ、人類を一度地獄へ突き落そうとするに至ったのか。わたしには分からない。
わたしはぷるおんの手を引いて広場を北へと抜ける通りを歩く。噴水の向こうに最近流行の極みにある「怒り発散小屋」が掛かっている。お金を払ってモノを壊したり。あたう限りのデシベルで泣き叫び喚き散らしたり。藁の山に火を点けて火の粉を散らしたり。部屋中所構わずお小水をぶちまけたりできる巫山戯(ふざけ)た小屋だ。
ぷるおんがぐずり出す。もうおねむの時間なのだ。移動売店で売っている大きな林檎飴を指差して、ぷるおんの気を惹いてみる。ぷるおんは不機嫌そうな顔の目をほんの少しだけ輝かせるような素振りをして、林檎飴とその隣りで売っている飴細工の動物を見上げている。ボトラー(水の売人)がペットボトルの水を売り歩く。町にはエナジーカーが力の仲介者として働いている。石の町はすべてを水素燃料で賄うインフラ整備が進められており、エナジーカーはまだ整備の行き届いていない各家庭にエナジーを供給している。
物と力が等価で結ばれた時から、あらゆる物質はお金になる。錬金術的に生み出される金と権力の癒着は相乗(シナジー)効果を発揮して、天文学的な数値に膨れ上がった。社会の形態をわたし達、ひとの手には届かない訳の分からない怪物。グローバルモンスターの手に委ねてしまった時から、アダム・スミスの見えざる手はわたし達を弄ぶようになった。もう後戻りすることはできないし、過去を変えることはできないけれども、ぷるおんに可能性を与えたい。
残された選択肢が多ければ多いほど、人類の未来は豊饒だ。系統樹のようにその種は栄える。何が良くて何が悪いのか、そんなことはその時、その場所に立った者だけが知ることのできる秘密だ。過去のあの時も、未来のその時も、現在を生きるわたし達が評価したり想定したりすることはできても、判断・決定し、実行することはできない。現場にいる当事者だけが現在を動かすことができる。わたしはぷるおんを連れて左の細い路地に入る。
わたし達は現在を生きてさまよう任意の点。現地人の当事者であるわたし達は何をしようとしているのか。ビロード地の空の下、煌々と明かりを灯す晩餐館の主ポワイエは、詩人上がり(詩人崩れともいう)の大富豪で、若かりし頃は詩を紡いで各地を放浪し、詩人の掃き溜め。痰壺。墓場といわれる833で荒野に叫ぶ説教者のように詩を吟じ、お情けの投げ銭を頂いていたという。ジェフに出会ったのもその頃で、意気投合したふたりは一時833の地でボヘミアン。ジプシー。ワンダラー。バガボンド。ヒッピーたちと語らい芸術村コミューン、クリスチャニアのような無法地帯を築いて自由な生活を謳歌していたのだけれども、くだらない恋愛感情の縺れで半年足らずで潰れてしまう。その後、亡くなった親の莫大な遺産を継いだポワイエはここ石で二年間に渡って晩餐会を催している。ジェフは古い友人との再会を果たすと、ポワイエから晩餐館の一画に心地好い居住スペースとラジオ体操スタジオを借り受ける。
わたしとぷるおんはそこの寄生する者に過ぎない。肩身の狭い居候だ。女一匹ならまだしも子連れ牝狼なのだから、自然と目立たぬよう。注意を引かぬよう。後ろ指差されぬよう。思慮深く奥ゆかしく。ジェフから三歩下がって息を殺している。
表玄関から部屋に上がっておねむのぷるおんを寝かしつけると、わたしは服を脱ぎ滞りなく用意された浴槽に浸かる。猫足に支えられた雪花石膏(アラバスター)の浴槽には、ローズオットーの花びら散る湯に泡が浮かび、主ポワイエの指示で日々、違った芳香のする石鹸がホタテ貝の殻の上の乗っている。ポワイエがわたしに気があることは来た当初から露骨に示されていたけれども、ジェフは意に介する様子もなく、わたしは蔑ろにされたような形で放っておかれている。わたしはジェフの何なのだろう。妻。パートナー。恋人。愛人でもない。ラジオ体操の師であるジェフの弟子としてのわたしは、何人もいる師範代のひとりでしかない。
魂を奪われているわたしは、ジェフに無視されることに脅える。もっと見られたい。わたしを離さないで。忘れないで欲しいと思う反面、どこかで打算的なもうひとりの狡い自分がいて、ぷるおんとふたり恙無く生きていける境遇を手に入れた安心感と、ジェフを利用したのだという後ろめたさがより一層、わたしにひたすらラジオ体操に打ち込ませる。わたしが師範代としてプリンシパルの称号を得るようになっても、ジェフが喜んでくれる様子はない。わたしは焦る。いつか捨てられるのではないか。このままジェフに追いつくようなこと。よしんば乗り越えていくような素振り。気配。周りの空気がちょっとでも変化し、わたしを見る目が尊敬の域を超えて崇拝。羨望。渇仰するような雰囲気。ジェフのカリスマ領域を少しでも侵す場面が生じるようなことになれば、わたしは即刻隔離され、追放されてしまうと。
かつて無視することで得た抹殺者の称号が、プリンシパルの称号を得た途端、たちまち無視されることに脅え、愛の喪失に慄く手弱女に堕す。わたしにはぷるおんがいる。愛はそれだけで十分ではないのか。ジェフとは一体何なのか。何者で究極の真理に飽き足らず、この現実世界環境で何を起こそうとしているのか。ジェフがなぜ殊更この世界線にコミットしようとしているのか、わたしには分からなかった。わたしは満足して惰眠を貪りたいのか。
それとももっと力強い生活をこの手に、動き出したいのか。
果てしない未知なる荒野に足を踏み入れるには、すこし年を取り過ぎてしまったのではないか。わたしは自分の肌を見る。ぷるおんは大きくなる。すぐにわたしに追いつき追い越していく。わたしは焦る。わたしは求める。ジェフを求める。急に泣きたくなる。夜の星を見ながら夫はわたしを後ろから抱き、背中越しにわたしの耳元で、
「愛している。」と言う。「わたしも愛してる。」と言う。浴槽から出てバスローブをはおる。鏡台に向かって座る。
髪をバスタオルで巻いて、顔に化粧水をつけ光沢のあるファンデーションを伸ばしていく。「イランイラン」の部屋の住人だった頃のような化粧はしない。ここではどこまでも奥ゆかしく淑女でなければならない。ナチュラルにグラデーションするアイシャドウに、こっそり隠したピンクの色でまぶたを縁取る。頬にも淡い桃色の刷け(チーク)を入れる。眉も濃くはしないで薄めにしなやかに。唇のグロスも目立つことのない淡い杏のものを。ひと通りの化粧を終えて全体のバランスを確かめる。タオルを髪から解くと、肩まで伸びた髪をドライヤーで乾かし、ブラシで梳く。アップにまとめた髪をピンで止めて、スプレーしながら整えていく。ウォークインクローゼットに入って予め、頭の中で組み立てシュミレーションした選択肢の中からライラックの光沢を放つシルクのローブ・デコルテ。イブニング・グローブとオルセー・パンプスを選んで晩餐会に降りてゆく。
これはジェフに居住スペースと体操スタジオを提供する条件として、館主ポワイエとジェフが取り決めたささやかな悪戯というべきものだった。晩餐会には毎日、必ずわたしが出席すること。「イランイラン」の部屋の住人だったわたしは、男の意のままに操られるのに慣れっこになっていたけれども、ポワイエの条件には頭にきていた。わたしはジェフの弟子で、ここでは居候の肩身の狭い身ではあるものの、ポワイエ風情にわたしの行動の自由まで奪われ拘束される謂れはない。わたしはそのように抗議したかったのだけれども、ジェフがその条件を鵜呑みにして受け入れた様子を見て、わたしは何も言えなくなってしまった。
わたしの自由を奪い拘束し、「ストップ」をかけることができるのはジェフ、あなただけなのに。わたしは着飾り、装い、仮面を被り変装する。素の自分は脅えと不安、不快と倦怠に満ちているのに、わたしは他人の視線によって自信を取り戻そうとする。無視する抹殺者のわたしは、注目される主客となって世界を征服する。一枚ベールを剥げばそこにはボードレールの見た骸骨が歩いていて、死と静寂に満ちた不毛の晩餐会で舞踏する人々は、生臭い腐臭を発して溶解する。
階段上に立つわたしは癲癇の発作に似た、自分自身を忘れ思いきりそれを嘲笑したい欲望に駆られる。けれどもわたしはそんな「怒り発散小屋」で行われるに相応しいことは、きっちり抑え込んでしまう。目立たぬように。人目につかぬように。ひとびとの間を彷徨うようにして隠れる。止まってしまえば目撃され標的とされて、すぐに好奇の目に晒される。このわたしとぷるおんを守る薄くて強力な煙幕を突き破るようにして、晩餐館の主ポワイエがわたしの肘を取り、今宵三度目のアントレ、牛フィレ肉のフォアグラソース和えが出されている席に引っ張っていく。その席で男ふたりが移民団の話をしている。
「あれは嘘だよ」とひとりが言うと、もうひとりが「奉仕活動までさせておいて嘘とは当局も随分腹黒いじゃないか」と言う。嘘だと言った男は、
「しかしね君。移民団がひとつの星では抱えきれなくなった人類を削減するため行われているという真実を、オブラートに包んで差し出しているというのは、なかなか魅力的な塩梅。乙な方便。やさしい噓じゃないかね」と言う。この男たちは去勢された牛だ。自分たちが種馬になれないもんだから、ひとのことを増え過ぎた鼠のように言って自らを慰めている。
隣りの婦人が「飼っていたヨークシャテリアが死んでしまった」と喋っている。「寿命ですか」と誰かが訊くと、「そのようなことはない。まだ人でいったら50にもなっていなかった」と言う。生きるべきか死ぬべきか、そう葛藤してやまない人の一生の中に命の輝き(ドラマ)は存在する。ひとはなぜ、このように好き好んで悩み苦しみを求めるのか。それは悩み苦しみそのものが快楽だからだ。
なぜ悩み苦しみが快楽なのか。それは人類・生命の過去が苦しみの連続であり、この苦しみを苦しみ抜いてきた者だけが生き残ってきたからだ。だから雁はヒマラヤを越える。鰹は泳ぎ続ける。鯉は滝を登る。蟻は巣を作り続ける。ヌーは大移動する。苦しみが世界を突き上げ突き動かし、苦しみ抜いた者だけが快楽に達し生きのびる。そんなことは何も知らずにわたしは、自分とぷるおんのことだけ考えていた。ペットは家族の一員だけれども、そのペットが人類のパートナーを越えて、ひとの命を左右する大きな存在になるのを誰も、ジェフさえ知らなかった。知っていたら彼は反英雄として立ち上がり、人々を導いていただろう。だけれどもジェフは「サタデーナイトフィーバー」のトニー(ジョン・トラボルタ)のように横に突き出した腰に手を当て、体の軸に沿って高々と掲げられた右腕は人差し指を立てているトニーのように、世界の舞台(ディスコ)に登場することはなかった。
2
大聖堂の薔薇窓の上で首を吊っているぼくを見上げることができたなら、それは運命が成ったということだ。幸いにもそのようなことは成らずに、前牆壁の小尖塔(ピナクル)にパラシュートが引っ掛かって、薔薇窓の上で首吊り人のように気絶していたぼくを、信心深いひとが見つけてくれた。ぼくは町の奇特な方たちの協力を得て地面に降ろされた。漆喰職人。レンガ職人。石組工。装飾(テラコッタ)工といった人たちで、教会付き司祭の指示の下、ぼくは聖堂の内陣へと。まるで磔刑に処されたイエスそのひとのように運び込まれたのだと。このようなことはすべて後から、ぼくが気絶から覚醒。覚醒から温かい食事。食事から爆睡。爆睡から覚醒した後、司祭からこと細かに仔細漏らさず聞かされたことだ。
ぼくは急に恥かしくなる。まるで磔刑に処されたイエスそのひとのようになんて。ぼくは反英雄以下の、何者でもないのに。斜視の男の目撃者。不法滞在者。ビンゴカード所持者。痔核保有者に過ぎない。ぼくはラビオリを食べる。これは中華で作る水餃子のようなもので、二枚の生地の間にひき肉、野菜、チーズなどが入っている。それがスープに入って出される。近所から手伝いに来ている夫人が教会裏の司祭の家の二階、ぼくのいる部屋の枕元まで運んで来てくれる。ぼくはゆっくり食事をとった後、司祭にぼくが石の町に来た一番の理由。目的のことを尋ねる。
「石の教育事業所はどこにあるのですか?」 これこそがぼくが鬼軍曹に痔核のボタンを押されパラシュートで降下し、あわや磔刑キリスト紛いの首吊り人になってまで石にやって来た理由。目的。挑戦だ。ぼくはあれから、薔薇窓の上で気絶してから何日経ったのか知らない。一日、それとも一ヵ月昏々と眠り続けていたのか。気づくと全裸でベッドに寝かされていて、着ていた服は持ち去られていた。非常に少ない貴重品といえる持ち物、家の鍵。自転車の鍵(こんなものはもういらない)。洗濯機に入れたティッシュのようになった移民申請許可証。縁が濡れて乾いてカピカピになったビンゴカード。携帯。それらが窓際の机の上に置かれている。
ぼくは窓のそばに寄って外を見る。裏庭に面したそこは植えられた木々が暖かな小春日和に薄い影を作っている。誰もいない。ぼくはベッドに戻る。天井を見上げる。漆喰の剥げたあとにまた新しい漆喰を塗り当てた跡が残るその天井に、新しい町に来たことを実感する。この前に泊まったのはダストボックスの中だった。そこにはハサミムシがいたし、黒光りする甲虫。捨てられ新聞紙にくるまれた食べかけのハンバーガーを食べた。それはそれで旨いものだった。どのような状況。環境。時代。風土であれ喜びがある。それが苦痛からの解放。小休止。気休めというささやかな喜びでなかったとしても、ぼくはまだ生きているし、痔核を除いて健康面はこれといって不都合なところはない。
これならぼくはまだ、なんとかやれそうな気がする。運命の輪はしっかりぼくの上に吊り下がっているとしても、怖れるものは大してない。
顔の中心を占める大きな鉤鼻、取って付けた付け合わせの目と口を持つ司祭は、
「教育事業所は大聖堂から左に入った通りの角、レストラン「オーラリ」の二階にある。」と言う。
ぼくの服をすべて脱がし、ポケットの中身を見ればぼくが無一文なのは司祭も気付いているだろうし、これ以上ここにいて司祭に迷惑を掛ける訳にはいかない。
「すぐ教育事業所に行きたいのですが、服を返してもらえませんか?」
「あの服は今、洗濯して外に干してある。物凄い匂いだったからね。もう乾いているだろうから取ってこよう。」と言って司祭が部屋を出ていく。
ぼくは臭かったということに敏感になって、腋の下に汗をかいてしまう。これではぼくが腋臭の男になって、ここを去った後「あいつは臭かった」と語り草にされでもしたら、ぼくはまったくもってとんだ磔刑キリストだ。「カラマーゾフの兄弟」に出てくるゾシマ長老の遺体からは生前の善行を嘲笑うかのような物凄い匂いを発したというし、首を吊った者は括約筋が弛緩して糞尿を垂れ流し、舌をだらりとタンスからはみ出た靴下みたいにして目を見開いているという。最期の時くらい納棺師に綺麗に死に化粧されて死にたい。
ぼくがシーツの匂いを嗅いだりしているところへ、司祭がぼくの乾いた服を持って戻って来たので、慌てて居住まいを正す。靴まで綺麗に洗って乾かしてある。これじゃあ弟子たちひとりひとりの足を洗っていったイエスとは真逆だし、マリアは高価な香油を主の足に塗り、自分の髪で拭うのであって、薄汚いスニーカーを亀の子たわしでゴシゴシ洗うのではない。はっきり言っておく。ぼくはキリストではない。まして反英雄でもない。だからといって靴まで洗ってもらって「はいそうですか」と、ここを立ち去れるものじゃない。ぼくは居たたまれなくなって、
「掃除てもなんでもやらせて下さい。これでは罰が当たります。」
司祭は「神の御心のままに。あなたはすべて許されています。」と言う。
ぼくは服を着る。ニットに黄色い星形シールが取れずに付いている。ここ石ではよもや差別的、侮辱的な仕打ちはあるまいと、気にすることなく表側を黄色い星形シールを胸に着る。
司祭の後に従って一階に下りると、家の納戸から網戸を開けて裏庭に出る。木陰の小道を抜けて表通りに出ると、広場の中心に立派な群像がある。大聖堂の正面まで来る。それは午後の光ですべての凹凸、浮き彫り彫刻、テラコッタ装飾が過去から目醒めた怪物の溜めに溜めた汚物のように露わにされている。集積された汚物の質量(マッス)がとてつもない醜悪さを見せて哄笑している。この地獄の凱旋門は始めからこのようだったのではあるまい。造られた当初は神と結婚した花嫁を讃美する、世のすべてに光を与える天国圏としてすばらしい印象(イマージュ)を見る人々、祈り希う人々、その時代に生きる人々に生きる勇気と慰め、死後の確信と安寧を与えていたに違いない。だけれども今の大聖堂は怪異な過去の秘密の函。永遠に謎のまま閉ざされた神殿に過ぎない。今の時代の人々を宗教で救うことはできるか。
宗教と宗教が対立する、国家間の争いの種となる神。ひとを救う神がひととの殺し合いに導く神は、ぼく達を苦しめる。苦しめるからこそ快楽であり、聖戦(ジハード)であり、天国へ行ける。
ぼく達は苦しみを喰らう獏だ。獏は夢を喰らい、ひとは苦しみという夢を喰らう。喰らった夢は現実となってひとは死ぬ。神の存在が現実を動かしひとは死ぬ。夢は現実に作用する。神は現実にコミットする。夢も神も集団幻想も、夢幻灯機関を作り出すものはたったひとつ、現実だ。自分が世界の鏡像で、世界は自分の鏡像となっているここでは、新たな任意の点は直ちに世界の中心であり支点であり作用点となる。この支点に立つわたしは神である。
あなたもわたしも新たに生まれる子は皆すべて神である。
そこには中心も辺境(リムボ)も上も下も失われて、皆々が神である。鉤鼻の司祭は大聖堂を指差し、
「わたし達の町の象徴。宝の箱。神の舟だ。」と言う。
司祭。鉤鼻に取って付けた目と口。額の禿げ上がった銀白の髪を後ろへ綺麗に撫でつけている。司祭の後に従って内陣に入る。十数枚に分けられた縦に細長いステンドグラスが、色という色を尽くして両脇に並ぶ。現(うつつ)に見える在るものは、ぼく達にバッハの無限階梯の錯覚を起こさせ天上へと誘う。天使の上り下りするヤコブの梯子はこのようなものだ。内陣正面には巨大なパイプオルガンとキリスト磔刑像がある。右には福音史家(エヴァンゲリスト)のための説教壇が、螺旋を描く階段から壁を突き破って現れる。
我れを忘れ恍惚の表情を浮かべているぼくを、鉤鼻を膨らませて横目で見ていた司祭は、
「ステンドグラス磨きをきみに頼もう。報酬も出すことにしよう。」
「それではぼくの気が収まりません。」
「神の御心のままに。すべての良い事はみな、上から来る。部屋も今までどおり使ってもらいたい。」
ぼくはその日からステンドグラス磨きをすることになる。職人たちに梯子を貸してもらい、手の届かない高い所はタオルを巻きつけた棒の先で擦り、まんべんなく丁寧に。普段はもう弥撒を行なうことはないこの大聖堂はとても静かで、内陣まで入って来る人たちはとても敬虔な人たち、神を愛し敬い祈りを捧げる人たちなので数も少ない。この教会は町の中心にあっても寂しい。だけれども存在を絶えず意識させられる偉大なる花嫁。グランドマザーだ。かつての栄光をひけらかすことなく、じっと沈黙して世の中を見ている。その目は皺と目脂に埋もれながらやさしく、慈しみに満ちて潤んでいる。ぼく達は自分の都合のいい時にだけ思い出して、なにかを頼み願う時だけ祈りに来るのだけれども、それでもここは温かく迎えてくれて拒むことはない。神はすべてを御存知だからだ。
一日の報酬。6千円ばかり司祭の手から頂く。ぼくは教会を出て左の通りに入る。オープンカフェにはペット連れの常連客が議論に興じている。議論というのは、
「トイレにはどのような芳香剤がよいか。」
「どこのエナジーカーの運転手が愛想がよいか。」
「高齢者専用マンションは現在の姨捨山ではないのか。」
「市長の前に、司祭の前にひとりの男性とひとりの女性が、立会人の長いお供を連れて行く。これがいわゆる正規の婚姻だ。ひとりの女性に、赤面もせずに、これこれの日のこれこれの時刻に、わたしは妻としてのわたしの褥にひとりの男性を迎えるのだと述べることを可能にする婚姻。これが群集の面前で結ばれ、葡萄酒とダンスの乱痴気騒ぎを経て、初夜の床までだらだらと続き、その初夜の床は淫行と売春の床となり、招かれた者たちの度の過ぎた想像力が、婚礼の日の名のもとに演じられる猥褻なドラマの細部をことごとく、辿ることができるのだ! このように若い花嫁を厚かましい視線の前に召喚し、血迷った欲望に売春させる慣習が、あなた方には恐ろしい搾取と見えないというのですか」 というようなことだ。
ぼくはレストラン「オーラリ」の前まで来る。天動説をベースに構築された天球儀を店の中心に置くこのレストランには火灯し頃、ガストロノミー(食道楽)たちが連日押し掛ける。常連客もいれば旅行客、一見さん冷やかし、家族六人でがっつり食べに来た人たち、夫婦で記念日を祝っている慎ましやかなテーブルがある。店の外に屯する人たちは焼き肉の匂いを嗅ぎながらパンをかじっている。ぼくはしばらく二階への上り口の所に立って見ている。
食事風景の中に愛を見てとったダ・ヴィンチは、だからこそ最後の晩餐に誰がユダであるかという謎を、謎のままに残した。そうすることでダ・ヴィンチは、この絵を見るひとがユダを探していつまでも晩餐に連なることを願って謎を謎のままに残した。絵の消失点はキリストの額にあって、その第三の目(チャクラ)は我々見る者、晩餐会出席者の心を射抜く。それは見る者に「ユダはおまえだ」と告げているではないか。キリストの目はおまえを見ている。絵の前に立った者は最後の審判の席に出廷している。
目撃者として。そこで見た者はキリストの裁きを受ける。「おまえがユダか、どうか」告げられる。罪深き者よ、悔い改めよ。悔い改めよ、罪深き者よ。それはぼくだ。目撃者がキリストの目によって射抜かれ、撃たれる。粉々に飛び散ってしまうぼくは見る影もない。そこは最後の晩餐にして最後の審判の場だ。エデンの東、ノドの地に去る者。目撃者。放蕩息子。不法滞在者。首吊り人。ステンドグラス磨き職人のぼくには救ってくれる誰もいない。
石の教育事業所はその二階の取っ付きにある。ドアを開けると腹黒そうな小狡い目に、ぼくの目はすぐに捕らえられる。そのひとにいきなり手を握られ固く掴まれて、椅子に導かれる。
「ようこそ。お待ちしておりました。」 とハメドリ教育事務次官補。ハメドリと机の上のプレートにそう記されている。誤記でもなんでもない。訂正もなにもされていないのだから。できることなら教育上いかがわしくない名前。ハチドリとか浜千鳥とか、モハメドアリとかであってほしかったけれども。そのハメドリ教育事務次官補が、
「お待ちしておりました。」と言う。
これは話が早そうと思うべきなのか。それともまた面倒な、厄介なことになる前触れなのか。ぼくは黄金の沈黙でハメドリ教育事務次官補の次の言葉を待つ。
「わたしもあなたが大聖堂の尖塔から降ろされるのを見ていたひとりです。まるでイエス・キリストのように。」
それを言われると恥ずかしさで顔が真っ赤になる。たった今そこでキリストの第三の目に射竦められて、「おまえがユダだ」と言われたばかりなのに。ぼくはさらに押し黙るしかない。せめてユダだというボロだけは出さないように。
「それであなたが移民申請許可証とビンゴカードをお待ちになっていらっしゃると、司祭から直接伺った次第です。」
吉と出るか凶と出るか。ぼくはさらに沈思黙考で答える風を装う。
「そこでわたしどもと致しましては移民申請許可証を再発行することに、何の問題もございません。ここ石ではとても残念なことに、移民申請する方が極端に少ないのです。わたしは石に配属されもう3年になりますが、甚だ心外な、まったく失敬極る噂が真しやかに飛び交っているのです。゛移民は当局の作り出した嘘゛だとか、゛地球の人員削減のための巧妙なるカモフラージュ・罠゛だとか、゛貧民掃討作戦のために「舟」というゲットーに閉じ込め、そのまま無重力収容所送り。エアロックが開かれ瞬時に宇宙デブリと化す゛とか。このようなあられもないフェイクニュースが町じゅうに拡散されており、石では移民申請がほとんどなされないのです。」
このような奇妙な噂を、あたかもハメドリ教育事務次官補自ら、仕事を増やしたくないために彼が自ら喋り散らしているような錯覚に陥りながら、その話を聞く。彼は住民税の減少を怖れる町の上役から鼻薬を嗅がされているのかもしれなかったし、ただ単に仕事をさぼって不倫の恋や未亡人とのアバンチュールを楽しみたかっただけなのかもしれない。いずれにしろ、ぼくの祖父母もそのまた上の世代も「舟」に乗って星々に移住して来たのだし、この星に住む人々はみんな、その祖先たちの系統樹に連なる立派な子孫たちのはずだ。
移民団を無かったこと嘘にすることは自分たちの存在も嘘・存在しないことにしてしまうことで、そのような幻影に満ちた戯言・迷信を、なぜ石の人々が拡散しているのか、ぼくには理解不能だった。世代が下っていくにつれて過去の偉業、栄光の歴史、事実が歪められ薄まり、忘れ去られていくのは仕方がないとしても、自分自身のルーツ。命のはじまりを否定して現実逃避するというのは。石になにか起こっているのか。どこの町であれ英雄待望論が聞かれ、強いリーダーシップが求められ、ちょっと悪い自己中の奴の方がいい仕事をするというような風潮。やさしいだけの奴はいらない。善悪を超越したカリスマ。清濁併せ吞む未完の大器。革命を希っている人たちがいるのは知っている。
新しいものは古くなり、残っていくのは古いものばかり。ぼくは祖母の昔話の中に生きる者の変わらぬ性。罪深い業。狭隘な視点。利己的な遺伝子を見る。
「星の人たちは婆ちゃんたちを心底、怖れ怯えてしまって。なかなか交渉の場に姿を見せてくれなかった。だけどようやっと話し合いが。これはお互いの言語のロゼッタストーン的解読、指差されたモノや人の行為をお互いの言語で名寄せしていくという地道で時間のかかる作業で、ようやっと筆談を交わすことができるようになった。
その結果、星の人たちは婆ちゃんたちを住まわせる居住地区の設定を約束してくれたんだ。婆ちゃんたちの目から見れば、そこはニューフロンティア。植民地だったけども、星の人たちから見ればそこは得体の知れん生命体を隔離・収容しておくゲットー。幽閉地だった。そこからは一歩たりと外へ出てはいけないし、半歩でも外へ足を踏み出せば断固たる処置を取ると言われて。婆ちゃんたちはようやっと植民をはじめることができると思ったんだが、なかなかそうはうまくいかんかった。
婆ちゃんたちは星の人たちの住む星に勝手に乗り込んだしだし、これは海賊同然の不法行為だ。星の人たちが必死に抵抗するのは当たり前だ。自分たちの星。自分たちの土地。自分たちの家族が「今そこにある危機」に晒されてるんだから。いずれは避けられん衝突とはいえ、婆ちゃんたちは極力穏便に、角突き合わせること。武力行使なく植民事業を進めたかった。団長の善雄さん一同、「非暴力・不服従」をモットーにしよう言うて。星の人たちが武力で解決しようとせん限り、婆ちゃんたちも武力を行使しない。これがギリギリの線。
家族の命が脅かされる所まで来たら、そこで「非暴力」は終わり。「不服従」だけ残る。自分たちが死んでしまったら未来の子供たち、おまえはここにいなかったんだ。」
そうだ。ぼく達は星の人たちを滅ぼしてその上に自分たちの繁栄を築いた。そこに他の存在を排斥して自己主張し、自分の命を守ろうとする本能。業が存在する。
ぼくは移民申請許可証を再発行してもらって教育事業所を出る。ハメドリ教育事務次官補はぼくがドアから入って来た時と同様、出る時も握手を求めてきて固く握る。この握手は一体何なのか。ひとり首尾よく強制収容所送りにした、歓びの握手なのか。ぼくは不法滞在者の何者でもない者。放蕩息子にして裏切りのユダ。目撃者にして首吊り人だから。教会へと戻る途中、誰だか見覚えのある人を見た既視感(デジャヴュ)に襲われ足を止める。
誰だろう。今にも思い出せそうな予感でズキズキし、脳の中の記憶棚を端から端まで棚卸し「あ」から順番に掻き回す。誰だ。このイライラと隔靴掻痒する脳の疼き。ジグソーパズルのワンピースだけぽっかりと空いた穴。出てこないクロスワードパズルの一文字。駄目だ。
大聖堂(ドォーモ)の前を通って裏庭に面した露地に入る。木々の間を抜け納戸の網戸を開けて司祭の家に入る。二階に上がり昨日まで寝ていた自分の部屋のドアを開ける。明かりを点けベッドに座って天井の上塗りされた漆喰、新しい漆喰と古い漆喰の色の違いを見上げる。そして思い出す。斜視の男の顔。それはロールシャッハテストの白と黒の文様のように不意に浮かび上がる。あの夜、ぼくは買い物袋を持って自転車を押しながら、空き地の闇に目を向けた。斜視の男はぼくに気づいて、内ポケットから何か黒光りするものを取り出そうとした。ぼくは家の角に入って死角になり、そのままアパートまで帰り着いた。あの夜、斜視の男はあそこで何をしていたのか。
ぼくは目を閉じ、ふいに悪寒が襲ってくる。あの男はここにいる。そういう実感が襲ってくる。逃げたい、逃げなければ、いけない。どこへ。このままここに、いやいけない。だけれどもお金がない。行く当てがない。斜視の男がここにいる。ぼくはグルグルと思考回路を経巡る模範解答のない問いにショートしてしまう。家を飛び出して木陰を抜け、闇雲に歩く。
噴水の向こうの薄闇に浮かび上がる見世物小屋が提灯を灯して町に参入している。石にも存在する夢幻燈機械(ファンタスマゴリー)に、ぼくは夢奪われる。入口に立つ小袖姿の丸髷の女に千円札を出して、三百円返ってくる。斜視の男がここにいる。ぼくはなぜ石まで来たのか。運命の輪と隣人の兄弟。漏刻とくさめ。自分自身から逃れて833へと。そして今は石。ぼくはなぜここに。移民団に入るために。ぼくはここで何を。斜視の男から逃れるために。833に戻りたい。その前に紙に戻って祖父の形見の腕時計を取り戻したい。けれどすべての元凶、巨悪の根源。世界の絶対必要悪。お金がない。ステンドグラス磨きをしながらお金を貯めて、紙までの切符を買うしかないのか。
ぼくは殺されるのか殺すのか。殺られる前に殺るのか。正当防衛。集団的自衛権なら暴力は許されるのか。お岩さんに皿を渡されて、壁に投げつけて次々に割っていく。一寸法師に打ち出の小槌を渡されて、廃品回収で集められた家庭用電化製品を次々に槌で叩いて壊していく。テレビの次は冷蔵庫。洗濯機。エアコン。コンポ。電子レンジ。金太郎に鉞を渡されて、廃車寸前のポンコツカーを鉞で滅多打ちにしてやる。あの男がここにいる。
取り調べ室の机の前に座り、「理由なき反抗」のジム・スタークス(ジェームス・ディーン)のように机を拳で殴る。中指の突き出た軟骨の上皮が裂けて血が迸るまで殴る。トール神に太槌(ムジョルニル)を渡されてベルリンの壁を打ち壊す。あの男がいる。防音室という世界の中心で愛を叫ぶ。ぼくは叫ぶ。ぼくはここにいる!
ぼくは叫ぶ。この道を行け! ぼくは叫ぶ。小さなことをひとつひとつ積み重ねることがとんでもない所へ行くたったひとつ方法だ!
ぼくの痔核が爆発して脳天を劈く。
3
それはごくごくありふれた、どんなペットでもよく見られる症状でこれといって獣医も気に留めていなかった。はじめ飼い主たちはペットの口が臭いと思う程度だったのが、それがだんだん嵩じて耐え難いほどになると、キスしても親近感が持てなくなってきた。最後には死臭に近い、魚の腐ったようなとんでもない匂いで目も当てられなくなった。元々生物には自己の体内、細胞のひとつひとつに「テロメア」という、ある一定の細胞分裂をカウントする装置が組み込まれている。それは60からカウントダウンが始まって細胞分裂するたび数が減っていき、0になるとこれ以上分裂できませんという遺伝子テロメアTTAGGGが発動する。
自爆装置ともいえるそれは死を飼い慣らしていると言ってもいい。生物は新陳代謝を繰り返しながら動的平衡を保っている。死を死にながら生きている。その膨大な細胞たちの生き死にの上にわたし達の身体は成り立っている。わたし達の存在。遺伝子。その星の苛酷な環境変化に対応してきた祖先たちの生き死にの上に成り立つ。ひとつひとつの死は飼い慣らされた、普段は完全に忘れ去られている事実だけれども、現実、目の前で命が失われた時、ひとは哀しむ。すべての生命の死に哀しむ。木々の枯れ死にも廃車になった車にも共産主義思想の死にも星の消滅にも。
そのペットの死はひとつの任意の点に過ぎなかったけれども、この点は次の点へと繋がる。点と点が結ばれ線となり線は円を描いて行動範囲(テリトリー)を拡げていく。ペットの口は匂いだし、歯茎が蒼く変色する。歯そのものが黄褐していく。これは典型的な歯周病の症状で、ペットたちは眠るままになったり狂暴化して飼い主に嚙み付いたりするようになる。狂躁と憂鬱を繰り返す行動のあと、突然死に至る。
その後狂犬病などの感染の例が頻繁に報告されるようになる。狂暴化した犬たちは飼い主をはじめ、人と見れば嚙み付こうとするので町の住人は外を歩くにも杖や棒きれ。傘。箒を持ち歩くようになる。狂犬病は人、家畜にも感染するので事態は徐々に深刻化し、元々犬のペット数がどこの町よりも多かった石では、狂暴化した犬が徒党を組んで町を徘徊し、物凄い遠吠えが石に反響して夜も眠れなくなる。そのうちフィラリア症なども蔓延するようになる。これは熱帯地方でしか見られない病だけれども、犬の心臓に寄生虫が入り込む怖ろしい病だ。人に寄生すると皮膚が固くなり足や陰部が肥大する。
このような症状が次々と人や犬に現れはじめ、他のペット。動物たち。家畜にも感染が拡大していく。
はじめは潜伏期間も長く一、二週間あったものが、だんだんと短くなって一日、二日で症状が現れる。これらの病に瞬く間に席捲された石の街路には人っ子ひとり歩かなくなり、町そのものが死者の町になったようで物音ひとつしない。あるのは犬の遠吠えと家の中に木霊す悲嘆の声。祈祷の声だけになる。町の獣医。ペット愛好家たちが緊急に立ち上げた救護班が懸命に事に当たったけれども、さまざまな症状が交錯し、伝染病が相次いで重なってしまったために病気の原因特定にひどく時間がかかる。あまりの感染者の多さに人手も物資も不足し、感染対策も皆無だったために罹患者は拡大の一途を辿ってしまう。ある人は狂暴化して人を嚙み、ある人は自死し、ある人は全身麻痺で動けなくなり、助けも呼べず死んでいく。
市長は直ちに緊急対策本部を設置して他の町にも救援要請を行なったけれども、このような事態に当局は何らの対策。準備。訓練。予測。想定もしてこなかった。他の町の市長にしても五十歩百歩の似たり寄ったりで、救援物資、救護班を派遣しようとは言うものの、未知の病原体に怖れをなして腰が重くなかなか動こうとしない。専門家も解決の糸口を見い出せず、ただ手を拱いて事態の推移を見守っているしかない。町は焦土の荒野と化したように風と弱々しい日の光に晒され、本格化した冬の到来で雪が散らつき、夜明け前の一番寒くなる時間には零下3℃まで下がる。
人と物と金の途絶えた町は、血液の巡らなくなった体のように急速に青黒く壊死していく。エナジーカーの力の注入もボトラーの慈悲の雨もない。乞食。ルンペン。不法就労者。不法滞在者。浮浪者が施しもなく路上で餓死していく。まずはじめに死んでいく者たち。弱者。少数者。負債者。敗残者。被害者たちが町に溢れ出し、死にたくない。まだ生きたいと幽鬼のようにさまよい、健康で裕福なひとを見つけて食いものにする。町の治安。秩序。安寧。快適性。利便性は完全に麻痺し、石が推進していた水素燃料によって賄うライフライン。電気。水道。ガスはすべてストップ。ダム。道路。橋。バス。鉄道。通信施設。学校。病院。公園といったインフラは放棄されてしまう。当局は警察。公安局。自衛組織を総動員して戒厳令(外出禁止令)を布き、町に強力な薬物を散布すると発表したけれども、そのようなことをまともに聞いている人は誰もいない。
にわかに巻き起こった一大騒擾の渦中にあって、石の人たちは我れを失い脅え戦き、震える体を抱いて家の中でひっそりしている。ひとりでも感染者が出るとその家は完全隔離。封鎖され、完全防備した保健衛生局員たちによって徹底的な消毒が行なわれる。当局はこの大災厄をペットの行動習性から「テリトリー」と名付ける。家で飼われていたペットというペット。動物は直ちに殺処分すること。ペットショップ。動物園。ドッグラン。猫カフェ。野犬収容施設。養鶏・養豚・放牧場。爬虫類飼育センターの生物もこれに準ずと発表する。この当局の厳命には動物愛護団体。獣医。トリマー。ペットショップボーイズ。トップブリーダー。飼育員。畜産業者。養殖業者から激烈な異議申し立てが起こる。彼らは町の大通りをペット動物たちと抗議パレードすることで徹底抗戦の構えを見せる。
これがまたさらに悪い結果を誘発して、今まで嚙まれていなかった人が噛まれたり、免疫を持たない人が感染したりして、石は廃墟の町になってしまう。元々狂犬病、フィラリア症、象皮病の感染力はそれほど強くなく、動物→ヒトへの経路もごくごく限られた範囲内のものだった。今回の感染増大の原因は夏の異常な猛暑。人々の飼うペットの増加。病原菌特定の混乱。僅かなワクチン備蓄。当局の対応の甘さ。他の町の救援の遅れといったものが挙げられる。
さらに状況を怖ろしいものにし追い打ちをかけたのは、これらの傷口感染、寄生虫によって起こっていただけの病が、感染を経るにつれ突然変異を起こし接触感染。飛沫感染。空気感染を始めたということだった。これにより人々は次々に斃れていくことになる。到来した真冬の大寒波で空気感染する者が莫大に増加し、これらの遺体を悼み葬儀を出し、納棺し埋葬する者もない。町は死臭に溢れ、墓地の穴も遺骸を埋めることなく放置したまま、蛆が涌き黒光りする甲虫たちでびっしり埋まっている。このような状況がどれほど続いたのか。記録のようなものをつけていた人はいなかったし、当局も正確な日時。数値を知っていた人もない。なす術なく見ているだけの人たち。ただ死んでいく親しい人々の亡骸のそばで嘆き悲しみ、涙の涸れてしまったあとは放心したように座っている他ない。
ここにひとりの獣医が簡単に経緯の報告をしている資料があって、この獣医が一匹目の症例を確認したのは11月7日で、「狂犬病と診断」とある。
それから11月8日以降、次々に飼われていたペットが運び込まれるようになり、「フィラリア症」「象皮病」などの症例が見つかっている。ここから感染は他の動物へも及んで、牛には「狂牛病」と「口蹄疫」が併発している。これらはまったく別の病原菌からの病であるのに、なぜ別の感染症が発生しているのか。人への感染が初めて確認されているのは11月7日から二週間経った11月21日。これは狂犬病になった犬に噛まれた飼い主で、ここでは傷口からの感染にとどまっている。
しかし7日から20日後の27日から俄かにカーブが急上昇し、この辺りから接触感染。飛沫感染。空気感染するウイルスに変異したと考えられる。その後一週間で人々の罹患は数千人を数え、それ以降数を増やし続ける。町は完全に麻痺してどこにも逃げ場はない。町の境界には検問が設けられ封鎖される。他の町への公共交通機関。車。バイク。自転車。徒歩であれ、すべての移動が当局によって差し止められる。
このような臨界状態にあった石の中に、ぽっかり空いたエアポケットのような小康状態が訪れている。石の人々は恐る恐る扉の陰から首を出し、顔を覗かせ、誰もいない。犬猫もいない。安全そうだと分かると、日の光を浴びるだけでもと外に出てみる。各々、誰もが他の人を警戒してあえて近づこうとせず、それぞれ間隔を十分とってはいたけれども、近況報告。死んだ人。生きている人の有無を確認しようとする会話だけは辛うじて交わされる。そうした開いた距離感の会話の端々。飛び交う情報の噂の館から奇妙な話が生まれてくる。「大聖堂の壁に犬猫の小便を塗る者がいた」という、実しやかな噂だ。この噂がすぐに石に広まると、犯人捜しのために町をうろつく者が出てくる。「あっちで塗っているのを見た」「なにやら怪しげなものを持っているのを見かけた」。あることないことでっち上げて、ただ帽子と杖を持って歩いていた人が、自称自警団の愚連隊にこっぴどい目に遇うことが頻繁に横行するようになる。
男がハンカチーフを取り出し靴の汚れを拭いただけで、それを見た町の娘は
「塗り屋だ!」と叫び、それっと一斉に飛び掛かった人たちは男を滅多打ちにして半死半生の状態にする。その勢いを駆って半ば押し込み強盗のようなことも続発する。胡散臭い人間を「塗り屋」と叫んで貶めるというような、魔女狩りめいた異様な事がさもありなんと罷り通る。
石の町は迷信と錯誤に満ちた中世的な振る舞いをする者が目立つようになる。まるで降霊術で招魂された過去の時代の幻影のような人たち。ある者は
「これは神の裁き。主の怒り。天罰が下ったのだ」と喚きふらして町を歩き、「悔い改めよ悔い改めよ」と叫びながら自ら全裸になり跪いて懺悔し、自ら持った鞭で自分を搏ち、悔恨の情に浸る。ある者は大聖堂前に立って叫ぶ説教者になる。
「わたしは反英雄であり、アンチクリストである。今、世界は落下しつつある。この落下を食い止どめ上昇へと転ずるには、我々の世界の消滅が必要である。そして0から始められる。そこには上昇しか存在しない。新しい世界の住人は誰か。わたしについて来る者は誰か。どのようなものか。どのような姿をしているのか。見えるのか。見えないのか。
我々は古い自分を脱ぎ捨て、新しい自分を獲得するよう迫られている。それには一度、死ぬことが要求される。覚悟は死と共に訪れる。再生は死と共に訪れる。捨て身で拾われた新しい生には見事な果実が実る。その世界はこのような世界ではない。我々には想像すらできない。この世界にあるようなものではないからだ。我々にとってその世界は存在していない。なぜなら、我々にはこの世界のものしか見えず。分からず。想像できず。この世界でしか有ることはできないからだ。死ぬことによってその世界へ行ける。」
このように「死のう死のう」と叫びながら人々を死に導くひとがいれば、「死ね死ね団」という革命家上がりの(崩れの言うべきか)連中が、この状況を好機と捉えて自由に人々を亡き者にする。無法の町と化した石にはもう人の動く影も形もない。あるのは不死鳥のような鴉の影と、神の異常なまでの偏愛を形にした、黒光りする甲虫類だ。
4
「ストップ!」 体操教師ジェフ・ギルドのこの言葉でわたし達は止まる。鼻水が垂れてきても気にしてはいけない。啜り上げ(スナッフィング)てはいけない。わたし達はラジオ体操第二の中程、足をガニ股に開きながら振り上げた両拳を顔の横まで引き下ろす。そのタイミングで「ストップ」をかけられる。ラジオ体操のポーズの中でもっとも恥かしいとされているこのポーズは、やる気満々のお父さんのするポーズで重量挙げのジャークをイメージしている。けれどもバーベルを持たない重量挙げは、気が抜けた馬鹿げた恰好になる。ジェフはまるで悪意たっぷりの確信犯的に、わたし達をこの様な陳腐なポーズで放置する。
わたし達は心を無にする。これは恥辱も苦痛も越えて涅槃(ニルヴァーナ)へと至るための道程、留(ソジャーン)のひとつだ。ジェフもわたし達も息を詰めて、流れる汗も凍るほどに絶対零度の霊域に入っていく。髪の毛一本雀の一羽も数えられている神は、石の町に硫黄の火の玉を投げ入れる。その臭いは石を浸し侵犯し凌辱する。「テリトリー」は猖獗を極め石を死者のテリトリーにしてしまう。わたし達は心を無にする。時間を止められたわたし達は石で、ジェフは神である。わたし達はジェフに帰依し依存し、魂を奪われている。時間を奪われるということは、魂を奪われていることだ。
弟子のわたし達はそれに従う。師のジェフが
「ストップ!」と言ったら止まる。それがわたし達のラジオ体操だ。次に動いた者、時間を動かした者が王殺しとなる。今のところジェフを殺す王は現れていない。身体を押されてもわたし達は石のように地面に転がるだけ。時間を忘れ自分を忘れジェフを忘れ夫を忘れる。あるのは「ストップ!」の声。止められた色と形。匂いと音。肌に触れる風は止み、舌を衝く五味は失われる。身体が悲鳴を上げ痙攣がはじまるのを呼吸を整えて抑える。
この世界にわたしひとり。がんばるマンポーズで世界を席捲する。謁見する。満悦する。わたしは王だと。誰もいない国の王だ。そして気づく。この世界を作ったのはジェフだと。彼が「ストップ!」をかけて作った世界なのだ。不毛の大地に一輪咲いた花がわたしなら、この大地を耕したのはジェフだ。農耕神ウェルトゥムヌスとしてのジェフ。
わたしは心が失われていく。魂はジェフの写真銃に収められる。
「止め!」 これはJUDOの「止め!」と同じ。ジェフは師であり審判であり王でありウェルトゥムヌスであり招魂者である。わたしは弟子であり抹殺者でありぷるおんの母親であり離魂者である。ジェフの弟子たちは「テリトリー」後、次々に離脱していった。ある者は死に、ある者は離反し、残ったのは僅か数名ほどだった。わたし達はそれでもラジオ体操を続ける。スタジオ内に流れるピアノ伴奏のままにわたし達は踊る。体操者から舞踏家へ。
師の背中を追って走り続ける。
「テリトリー」の発生以降、ジェフは忘れていた情熱を取り戻した回春の豚のように、もの狂おしいまでにラジオ体操の稽古をはじめた。わたし達弟子は身体が悲鳴を上げても、怪我と痛みを無視して続けた。無視するわたし。
弱者。少数者。被害者。負債者。敗残者。無能者を無視して生きてきたわたし。自分の痛み。哀しみ。苦しみ。恥辱。怒り。憤り。嫉妬を無視する。
ジェフが視姦し、わたしが無視する中、一匹の蝶が窓から入ってきてスタジオの床に落ちる。白い淡雪のような一匹の蝶がわたしの前で動かなくなる。
ラジオ体操を終えてスタジオを出ると、自分の部屋に向かう。晩餐館の廊下、階段には二年間連夜の晩餐会に訪れた客人(まろうど)。紛れ込んだ酔いどれ。請負徴税官。ろくでなし。ほいと。かたひ。無銭飲食者。夜郎自大。烏合の衆。破戒僧が足の踏み場もなく眠っている。わたしはその人たちの体を踏みつけながら廊下を進む。「我に続け」と屍を踏みつけ群集を振り向き、手を掲げる自由の女神。この群集は自分が何をやっているのか分からない、騒ぎたいだけの野次馬たち。わたしはこのトリマルキオンの饗宴から逃げ出したいと思う。外も内も死者に満ちている。晩餐館主ポワイエがわたしを見ている。奴隷上がりのトリマルキオンが、わたしをどうにかしてやろうと、つねにその視線を感じる。その熱を肌に頬にうなじに胸にお尻に腰に腿に感じるけれども、わたしは無視する。
ドアを開けて部屋に戻る。たくさんのぬいぐるみの中で眠るぷるおんを見つける。すべてがポワイエの贈り物。UFOキャッチャーで大人取りした玩具。不倫へと誘ういやらしい捧げものだ。ぷるおんは眠る。ウサギのぬいぐるみだけはいつも手の中にある。わたしは亀の方が好きだ。陰陽の太極図。白と黒の勾玉が互いを食み喰らう模様を甲羅に描かれた瑞饋の亀が、ピュタゴラスのY字路に差し掛かる。
ぷるおんは眠る。目を開けたまま。ストップしている。時間が止まる。わたしは汗の染みたスウェットの上にそのままカーディガンをはおる。王は存在するか。時間が失われるのは魂を奪われるのと同じ。わたしはぷるおんの頬に触れる。冷たくて怖ろしい。セントラルヒーティングで十分に暖められたその部屋。ぷるおんは冷たい。わたしは感じる。死は甘美なまでに神へと通じる愛情だと。ぷるおんを見ている。目を離さない。無視することができない。ぷるおんの死を。
わたしはぷるおんを抱いてジェフのもとへ走る。あのひとなら生き返らせるができる。わたしは屍の上を踏んでいく。呻き声。怒声。罵声。スタジオにジェフの姿はない。わたしは夢の中を泳ぐ水母のように思考の海を渡る。
ジェフならぷるおんを生き返らせることができる。彼なら。写真銃で魂を奪うように、与えることもできるだろう。ジェフは玄関で中折れ帽と金のペガサスの把手のついた杖を持ち、出かけようとしている。ジェフがわたしの腕の中のぷるおんを見る。彼はぷるおんの瞼を閉じる。そして出ていこうとする。
わたしはジェフを引き止め、彼に生き返らせてくれと言う。彼は魂を奪うことはできても、与えることはできないと言う。わたしはどこかに自分を置き忘れてきたような気がする。そしてもうひとりの自分を探す。わたしには分からない。なぜわたしは生き残り、ぷるおんは奪われるのか。わたしはぷるおんを求める。ぷるおんを懐かしむ。ぷるおんを憎む。ぷるおんを抱きしめる。もう離さない。ぷるおんを食べる。ジェフは背広の内ポケットから写真銃を取り出し、ぷるおんの顔を撮ろうとする。わたしは彼の手をはたく。ジェフはわたしの頬を引っ叩く。わたしはやり返そうとして、その手を取られ捩られる。わたしはジェフを許さない。
わたしはジェフに向かって口汚ない罵りを浴びせかけてやる。
「ED野郎」と。「バイアグラ愛好者」「TENGAマニア」と。ジェフは黙ったまま晩餐館を出ていく。わたしはぷるおんを抱いたままそこへ転がる。わたしは亡骸になったぷるおんと同じように世界が崩れ落ちていく。彼は言うかもしれない。たとえ外の世界が消滅しようと、自己の中に世界宿す者はそこからまた新たな生活と喜びを作り出して生きていくことができると。どのような状況。環境。境遇。時代であろうと生きるために、生活するために、喜びを見出していくためにラジオ体操を学んできたのではないか。
わたしには分からない。ぷるおんがいない。愛と憎しみと怒りと喜びのすべてを内包していたぷるおんを失い、わたしはどこに歩いていくのか。
ぷるおんを抱いて晩餐館を出る。屍。レギオンの豚たち。亡者の群れの上を歩いて晩餐館を出る。ポワイエの目がある。彼の目の前を通り過ぎる。存在など無視すれば死だ。晩餐館を出て門の前に立つ。わたしは待っている。死を待っている。
どこへ運び去られていくのか。死は生きる者の前から綺麗に拭い去られていく。死は死のままに放っておけば何も生み出されはしないと知っているかのように、死は自らの死を死ぬ。わたしはぷるおんを抱いて待っている。この現実が真理なら、ジェフの言う真理とは絶えざる慟哭を呼ぶ葬儀の祝祭劇だ。わたしは真理を憎む。あるがままの現実を見た者はそこに死しかないのを知る。ジェフは魂を奪う死に執着して写真を撮る。生を今に、この瞬間に止どめようする。写真銃で撮られ集められた魂は甦ることなく、中有をさ迷う。中途半端に生きながら死んでいる魂(リビングデッド)は不幸だ。
生まれ変わって0(ゼロ)からはじめることもできず、過去に戻ってやり直すこともできない。セピア色の瞬間に魂を閉じ込めようとするジェフは、監獄に囚人を留めておこうとする典獄長ルチフェロだ。
わたしはぷるおんを抱いて待っている。死が訪れるのを。わたしは愛する。死を。死を愛する者は生を征する者だ。わたしはぷるおんを食べる。
待っている。死を。
5
司祭の家の二階にある小さな部屋で目を覚ます。そこには隣人の発する奇声も蛇口から滴る漏刻の刻みも、運命の首吊り輪もない。ぼくは体を起こす。そしてしばらくお尻の穴の具合の確認に時間を費やす。これは非常に重要なことだ。日々の暮らし、安寧。生命の危機にも関わる最重要案件だ。ぼくは今日、とても具合が良いと感じて非常に嬉しくなる。窓の外を見ると緑を保つ木と葉を落とした木の枝の交錯する裏庭に、司祭がいて朝早くから焚き火をしている。何かを火にくべていて、よく見ると鼠の死骸らしい。
それも何十匹もだ。鼠がそんなに一度に死んでしまうものなのか、ぼくは知らない。司祭はハーメルンの笛吹きで、鼠たちをカナンの地に導いたのだと信じたい。
「婆ちゃん達は自分たちの持って来た種を蒔いて育て、家畜を養うことにした。地球化(テラフォーム)する必要のない星を選んだから、植物も動物もなんの心配、危険もなく成長してるみたいで婆ちゃん達はひと安心だった。婆ちゃん達は歌を唄ったり手作りの楽器で演奏したりして、毎日楽しく暮らしてた。だけどもその婆ちゃん達の出す音や、肉の焼ける匂い、穀物の醗酵する香りが、星の人たちにはどうにも耳鼻に衝いて気に食わないらしくて、度々婆ちゃん達の所に石を投げ込んでね。
時々、爆弾まで飛んでくる。その時、星の人たちは「誤爆」と称して毎回謝りに来たけど、悪意と作為、共同謀議があるのは見え見えだった。婆ちゃん達が畑を耕してたら丸っこい兎の糞みたいなのが飛んでくる。そのまんまの星の人たちが自分のう〇こを水で練って丸めたものだった。星の人たちが何を食べているかというと、木の樹脂から汲み取るゼリー状の流動食。いわばメープルシロップで、排泄するのはきな粉みたいな粉末(パウダー)状のものだけ。動物性タンパク質は一切口にしないのかというと、そうじゃなかった。移動謝肉祭(カーニバル)とものの本には書かれてるけど、これは文字通りの人肉食習慣儀礼(カニバリズム)だったんだ。
ちゃんと目で見たひともいる。とにかく婆ちゃん達には人肉を食す習慣はない。たとえ昔はあったとしても、今はもう流行ってない。団長の善雄さんも、たとえどのような状況に陥ろうと、同類相喰むことだけは禁じた。婆ちゃん達にはもう人身御供。御人柱。生け贄の慣習もない。鯨。イルカ。儒艮(ジュゴン)。猿。猫。犬。鳩を好んで食べるひともいなくなった。
場所と時代。文化の変遷で風俗・慣習は異なる。星の人たちの中にその習慣が残り続けてきたのにはよっぽどの理由と原因。歴史的意義と役割が存在してるんだろう。
そこに深く思いを致すことなしに星の人たちを野蛮人と責め立てて、頭ごなしに不道徳、非常識だと見下し、鬼の首でも獲ったように人非人、極悪非道の悪魔の所業だの言い立てて。「だから星の人たちを殺してもよい」ということにはならない。婆ちゃん達は星の人たちの歴史。文化。宗教。風土を学ぶことなく、彼らを責め立て怒らせて戦闘状態に入ってしまったんだ。
お互いの無知と傲慢。偏見と過信によって。星の人たちからしたら、なぜそのように他の動植物を殺し使役し、養っては肥え太らせ食べるのか、ということだった。なぜ自らの意志で自分たちの中から食べる人間を選び、尊重しながら食するという究極のリサイクル。リターン・トゥー・フォレバー(永久機関)を完成させないのだ、と。
どちらもお互いのことを深く知ろうとせず、性急に事を荒立てて武力で解決しようと図ったんだ。」
服を着換える。白いスニーカー。ジーンズ。黄色い星形シールのついたニット。バーバリーのコートを手に階段を下りる。バーバリーのコートは石工職人のひとりがもう着ないからとくれたものだ。みんな、ぼくが磔刑像のように吊り下がっていたせいで、信心深くこんなものをくれたりする。まったく辟易する。もしぼくがキリストの生まれ変わりで、ぼくが「反(アンチ)キリストだ」と宣言したりしたら一体、この人たちはぼくをどうするのか。
「ホサナ!」と叫んでロバに乗せ、やっぱり磔にでもするのか。ぼくは目撃者。不法滞在者。放蕩息子。今はステンドグラス磨き職人だ。
一階の食卓につくと、ちょうど司祭が裏庭から戻って来て、手を洗い席に着く。日々の糧を与えてくれる神への感謝の祈りをはじめる。手伝いに来てくれる寡婦がいて、朝食前には自分の家に帰ってしまう。彼女がいつも用意する食卓にはパンと玉ねぎとクルミの入った籠がある。ぼくも司祭と同じようにテーブルに肘をつき指を組み合わせて額を寄せる。
ぼくは死を怖れている。それは天国にいけるか地獄に堕ちるかということではなくて、せっかくこの世に有難い生を享けた身のぼくが、なにもできないしていないという不満。後悔。悲しみ。怒りに満ちているからだ。このまま死を迎えてしまうと、ぼくは死んでも死にきれまいと思う。それはぼくにとって生まれて来た意味。理由。証しというものが何も無いということで、これほどぼくを絶望的にするものはない。ぼくのような存在はまったくとるに足らない。自分などない。すべてのものは無に帰す。諸行無常の空の空なるかな(ナーティ・ナーティ)と悟ってしまえば簡単だけれども。
ぼくにはできない。これが生を享けたぼくの自己で、性。業。欲望だ。
生まれて来たこと自体、ここにいるぼくは間違っているのか。なぜここに?
どうして今?ほかの誰でもなくぼくなのか?同じ問いを問うている。
司祭と沈黙の行を保って食事を済ませる。仕事に行こうとコートを着ていると、司祭が
「この町は住みにくい町になってしまった。噂と迷信が飛び交い、神を信じる者は少ない。」
ぼくは何か言葉にしたかったけれどもなにも浮かばない。
「きみは833に行くのか?」
「紙に戻るつもりです。ぼくの故郷なので。」
「わたしにも故郷があったが、今では海の底だ。沈んだ町にはもう誰も帰ることができない。」
ぼくは「行ってきます。」と言って家を出る。
何もいいことのなかった紙にある深い憎しみも愛と表裏一体の一枚のカードで、紙が失われた時、ぼくは体のどこかに穴が空くだろう。父と母が死んだ時と同じように、ぼくはどこか他の町を彷徨って故郷を探し求めるだろう。そしてそれは決して見つからないだろう。司祭は信じる者は少ないと言う。
だけれども人は信じる動物だ。太古の昔から自然。祖先。英雄を神と崇め、巫女の告げる神の言葉を信じ、部落の内に集う人々と契約を交わし、隣人を信じ自己の命、家族を守り保ってきた。今の時代、信仰は排他的で政治不信は強まり、世間は正義風を吹かせ不寛容だ。にも拘わらず人は信じる動物であり続ける。医者。弁護士。税理士。FP(フィナンシャルプランナー)。詐欺師。占い師。迷信。噂。週刊誌を信じる。自分の都合のいいことを信じるのを止めない。
大聖堂の前牆壁(ファサード)に梯子を掛け、先端にタオルを巻きつけた棒を伸ばしてステンドグラスを磨く。この上から石をもう二週間見ている。
石の人たちは出歩かなくなり、ペット。鳩。小鳥たちは町から掻き消すようにいなくなった。人々は疑心暗鬼に陥り、他人と滅多に会わなくなり、噂と中傷。悪口と罵詈讒謗ばかりが世に満ちた。ぼくは梯子の上で棒を伸ばしステンドグラスを磨く。汚れが着実に落ちているのか、はなはだ疑問だ。タオルは汚れて黒くなっていくけれども、度々洗って取り換えるようなことは途中から億劫になってやめてしまった。
徒党を組んだならず者の精鋭たちが町を徘徊している。誰かが一声「塗り屋だ!」と叫ぶ。するとどこからともなく現れた人たちが寄って集ってひとりを殴り飛ばし突き飛ばし、抑えつける。ある程度やってしまうと、さっと潮が干くように人がいなくなる。それは上から見ていると、磁石に引き付けられる砂鉄のように見える。SからNに変わると瞬時に立場が逆転したかのように誰もいなくなる。人通りの絶えた町には死骸が転がっている。不死鳥の如き鴉がその腐肉を漁る。死があまりに当たり前になってしまって、生きているひとを見る方が驚くくらいだ。
生と死の、夢と現の境がはっきり分からなくなってくる。死は現だけれども、生は夢か。額に浮かんだ汗を手の甲で拭って、少し目眩がして梯子を降りる。月木の朝礼で貧血になって倒れそうになった時と同じの、頭の血がすべてどっかへ行ってしまったような感覚に襲われる。あの頃からもうすでにすへての血はお尻の穴の方に集結していたのだと、今になって思い当たる。
梯子の下には司祭と当局から来た人間。それからハメドリ教育事務次官補が狡そうな目付きで待っている。当局から来た人間が、
「君には死体運搬人として奉仕してもらう。君はまだ奉仕活動を終えていないということだから。」
ぼくはちらりとハメドリ教育事務次官補を見る。ハメドリ教育事務次官補は唇を尖らせ、箪笥の抽斗からはみ出た靴下のような舌先を見せて嘯く。
「仕方のないことだ。人出が足りないんだから。どうやら不法滞在者らしいし、石のためにひと肌脱いでほしい。」
鉤鼻に取って付けたような口と目の司祭を見る。司祭は小さく首を振ってぼくに応える。
「分かりました。」
ぼくは当局の人間から黒い覆面マスクを手渡される。町の住人からリンチに遭わないためと、死体運搬人という表徴の意味を持たせ人を近づけないためだ。聖堂前に止められたピックアップトラックに乗るよう言われる。当然荷台の方にだ。ぼくの他にも何人か、黒い覆面マスクをした人たちが荷台に乗っている。おそらくみんなぼくと似たり寄ったりの、寄る辺ない境遇なのだろう。ぼくは親近感を覚えることはあっても同情はしない。死体運搬人に自己憐憫はいらない。
死体運搬人に必要なのは感情を排した冷酷無比な肉体と、自己を生ける屍として仕事をこなす死体との親近性だ。トラックは水素ボンベを運ぶために使われていたもので、側面に記されていたENERGYの文字が消され、上からBODYとペンキで書かれている。トラックが動き出し、ぼくは黒い覆面マスクを被る。荷台の上から小さくなっていく3人を見ている。風が冷たくコートの前を合わせ、襟を立て深く首を埋める。この道を行け。
ぼくはぼくを信じる。狂信的なまでに。偏執的に。視野狭窄し狭隘に凝り固まったゴリゴリの原理主義者のように自分を信じる。他になにも信じるものはない。たとえそれが幻想でも。現実逃避でも。自分を信じることでしかこの状況を乗り越えられそうにない。極限まで堕ちてしまったとしても、自分を信じることさえできれば、そこに世界は在り生き残れるだろう。
トラックが止まる。荷台から下りると、道端に一体転がっている。すでに腐敗が進んでその顔はもう人の顔ではなくて、古い木の根の瘤のようだ。ぼくは目を背けようとしてどうしてもその顔。バラバラになってしまった部位を無理やり寄せ集めた顔を見る。醜い。醜いけれども、闇の奥に潜む真実を描いたフランシス・ベーコンの画だ。ぼく達死体運搬人は死骸へと手を差し延べ、荷台の上に引きずり上げる。死体運搬人なり立てホヤホヤ。ド新人ド素人のぼくは、鼻を捥ぎ取ってしまいたいくらいの腐敗臭と闘いながら、また荷台に乗り込む。他の運搬人たちはもう経歴が長いのか、存外平気そうな様子をしている。他の運搬人たちから見れば、黒い覆面マスクのせいでぼくもベテラン並みの年季の入った様子をしているのかもしれない。
次々と死体が荷台へと積み上げられていく度、ぼく達運搬人は狭いスペースへと追い詰められ、とうとう死体の上に乗らざるを得なくなる。この死体たちはもう死んでただのモノだと思おうとしても、ぼくの胃の腑。五臓六腑がそれを拒否し続ける。これは人だ。おまえと同じ。ついさっきまで生きていた同じ人だ。間違えるんじゃない!と命令してくる。ぼくは心の中で強く謝りながら、痔核持つ尻の下に死体を敷く。ぼく達は夥しい祖先たちの死の上に成っているのを自覚する。ご先祖様の死の栄光の上であぐら掻く現代人のぼくは、新しいものを古いものより喜ぶ流行好き(ミーハー)な人間だ。
過去をすぐに忘れて今を尊ぶ。度し難い鉄面皮。阿呆面。
荷台にうず高く積まれた死体が、生きているぼく達運搬人よりひどく存在感、量塊(マッス)が増してきて、ぼく達生者が死者の方に近づいていく。
運転手はトラックを止めて死体の量を確認すると、駅裏のバックヤード目指してトラックを走らせる。ぼく達はもう死体と異音同義語で生者とはお世辞にも言えない。疲労感。倦怠感。徒労感といったもの。もう生でも死でもどうでもいいというような投げやりな気持ちが他の運搬人にもあって、ぼくはともすると死体をモノのように扱ってその体を損傷させたりしてしまう。
この不毛な、行く当てのない堂々巡りの感じがぼく達運搬人を絡め取って、責め苛みはじめる。凍えるような寒さも忘れ死体と同化していく。トラックは駅裏へと入りバックヤードまで来て止まる。ぼく達は魂なし芳一になって荷台から下りる。
そこは深い穴が幾条も穿たれ掘られた墓地というよりも、これから芽株を植え付けるだだっ広いじゃが芋畑のような場所だ。だけれどもその穴には死体が、豊洲の魚市場に水揚げされたばかりのマグロのように入れられて外に溢れ、入りきらない死体が埋め立て地のゴミの山のように盛り上がっている。
これは多分、壮大な実験に失敗した神様の悪戯に違いない。そうでなければこのように人間が、万物の霊長にして歩く動物。笑う動物。言葉を道具にして関係を図る動物。社会を作る動物。遊ぶ動物。智慧持つ葦である人間がこのようなことになるはずがない。ぼくはこれを拒否する。夢だと豪語する。
夢幻燈機械(ファンタスマゴリー)が作り出したまやかし。ホーカスポーカスだと。
ぼく達は夢の中で犯す淫夢魔(インキュバス)のように死体を荷台から引きずり下ろし、穴に埋めていく。埋めていくのじゃない。盛り上げていく。
ぼくは何をしているのか。こんなはずじゃなかった。もっとうまく生きられたはずなのに。どうして、なぜここにぼくが、このように死体と戯れているのか。灰白の日の光がすべてを万遍なく照らしていて、この死体たちに不平等というものはない。平等という概念も必要ない。死者は生者ではない。平等は生者の見る悪夢だ。死体がすべてバックヤードの地の上に置かれてしまうと、ぼく達運搬人はふたたび荷台に乗り込んで町に戻る。
運搬人の中の誰かのお腹が嘲笑うかのように鳴る。なんということだ。あれ程死体と同位化し、生ける屍となり、生死を越えて滅私奉公してきたというのに。生の象徴。欲望の権化である食欲を感じるとは。ぼくは仲間たちが恥かしく感じられる。このような状況で、このような生死の対峙する究極の狭間にあってあろうことか、よくもまあ食欲など感じられるものだ。ぼくは怒りにも似た哀しみに我を忘れる。痔核をも、痔核さえも忘れる。このような生者の体たらく。死者に対して恥かしくないのか!このようなことだから石はソドムとゴモラの死に打たれたのだ、悔い改めよ!
その時、ぼくのお腹が鳴ってしまう。羞恥の極みで顔が真っ赤になってしまうのだけれども、誰も気付かない。ぼくはこの時ほど覆面マスクをしていて有難かったと思うことはない。これから一生ないだろう。覆面マスクをする理由にもうひとつ、付け加えることができる。それは自分の恥を隠すことができる。それは楽で安心だ。みんながマスクをしていれば平等感に溢れていて匿名性もある。けれどもぼくは拒否する。このような安直さに流され、他人の視線から自分を隠し自己を主張しないのは、「ぼくはここにいる!」と叫んだぼくの主義主張に反する。
ぼくは覆面マスクを脱ぎ捨てる。他の死体運搬人たちは驚いて、トラックに揺られていた体の動きが一瞬止まる。訝しむような、非難するような視線に晒されながら、ぼくは主張する。この道を行け。ぼくは目撃者で不法滞在者。首吊り人で裏切りのユダ。死体運搬人で、そしてなによりぼくはぼくだ。なんの疚しいところ。後ろ暗いところもないのなら、お天道様に顔を向けて生きろ。
石には雨後の筍のように死体が生えてくる。ぼく達死体運搬人は石の住人に死体そのもののように怖れられ、忌み嫌われ、唾棄される。けれども誰もぼく達に近づけない。だから遠くから石を投げられる。ぼくの左のこめかみに当たった石は、そのまま荷台の死体の上に転がる。ある死体はまだ死後硬直したまま、立派な石像のようだ。あるものは歯茎を剥き出し最期の笑いを笑っている。
当局によって設置された避難病院前には、多くの罹患者が入りきれずにたむろしている。みんな魂無しになっている。病院裏に回ると、この日死んだ患者たちの遺体が山積みにされている。ぼく達はそれをシーシュポス。賽の河原積みのようにあちらからこちらへ積み上げていく。ぼく達は地獄で永遠に働かされる悪鬼なのか。地獄の底で釜茹でにされる死者は悪人ばかりだというけれども、これらの人たちはみな悪人だというのか。ぼくは信じない。
地獄煉獄天国などという戯言を。地獄は今、ここに現実目の前に、ありありと在る。見えない遠い所。死後の場所にまた改めて殊更に、新しく作る必要なんかない。ぼくは信じない。死後の世界。天国の館。エデンの園など。
死後に天国に行って自分たちだけで喜ぶなんて、天国に行く人のするようなことじゃない。天国に行く人は地獄に堕ちる人たちと共に堕ちる人だ。
この地獄巡りの現実でのた打ち廻って生きている人だ。現実を、この地獄を生き抜いてなお諦めなかった人だけが行くのが天国だ。
ここの死体だけで一杯になったトラックは、川沿いに駅に向かう。ぼく達は死体の山に埋もれながら生死の境、夢現の間(あわい)を越えていく。意識を失うだけではまだ死体ではない。身体は活撥撥(ぱつぱつ)としている。豪奢な商館の前にひとりの女性が幼な子を抱いて立っている。その強い光を宿した燃える目を、ぼくは一度どこかで見た。幼な子は不自然な首の据わり方をしている。死んでいるのだ。トラックが止まって、ぼくは荷台から下りる。こんなふうに死体を生きた人の手から渡されるのははじめてだ。
やっぱり死体はモノではない。たとえ人形、石ころひとつであっても人の心がそのモノに宿れば、モノはモノではなくなる。命の失われた死体ではあっても、こうして手渡されると魂の不滅を感じる。ぼくは幼な子を腕に抱く。
手にウサギのぬいぐるみを持っている。母親の体温で温められた柔らかなその体を抱いて、ぼくは泣いてしまう。
これまでたくさんの死体を見た。子供も。美しい女も。筋骨逞しいミケランジェロの描くような男も見た。だけれどもこの子はなにか特別なもののように感じた。そこに体の温もりがあったからだ。そこに手渡される人と人がいたからだ。ぼくは母親になにも言えず一礼して、幼な子を抱いて荷台に乗る。母親は娘から視線を逸らすことなく、トラックが動き出し見えなくなるまでぼくの方を見ている。ぼくは幼な子を腕に抱いたまま、死体の山の上に放ることなんかできない。母親のことを思い出す。幼な子を抱いていた女性のこと。強い光を宿した目を逸らさなかった人。どこかで見ている。月読神社の社殿の前で御宮参りをした母がぼくを抱いて写っている写真。写真を撮ったのは父親。
トラックが駅裏のバックヤードに着いて止まる。幼な子を抱いたまま荷台から降りて、死体の重なる畑から少し離れた野の隅に子を埋める。手を合わせる。生きられなかった時間はどこへ消えてしまうのか。可能性の種だった命はどこへ行ってしまうのか。女性のこと。母親のこと。祖母のこと。すべての女性のことを思う。生んでくれた人たちにぼくができるのは「ありがとう」を言うことくらいだ。「子供が幸せに暮らしている。それが親にとって最高の恩返し。」ぼくにはなにもない。母親たちにこれからも感謝の雨が降り続きますように。仲間たちの所に戻って死体を穴に積み上げていく。
バックヤードはもう賽の河原積みそのもので、それはパゴダにもジックラトにも、仏舎利にもカッパドキアの奇岩にも見える。復活の日、ひとつひとつの死体が蘇り行進していく壮観のマスゲームは、さぞかし主もお気に召すに違いない。運転手がトラックから下りてきて、
「今日はこれで終わりだ。」と言う。 何が終わりなものか。これからもずっと死は在るし終わらせてはくれないだろう。
ぼく達死体運搬人は重い足を荷台の上に引きずり上げて、忘れていた冬の日の寒さ短さを思い出しながらトラックに揺られる。ぼくはバーバリーのコートを強く引き合わせて深く首を埋める。トラックが中折れ帽に金の把手のついた杖を突く男を追い抜く。荷台に座るぼくの目が斜視の男の目と合う。
現実感の中心が深く捩れて心臓が止まる。息もできない。あいつだ。あいつに間違いない。服の内側から黒光る物を取り出そうとした、あの男だ。
ぼくは脈打つ額を押さえて他の運搬人の間に紛れ込み、寒さを防ごうと装いながら姿を隠す。自己主張なんて今しなくても後でいくらでもできたのに、今さら覆面マスクを外したことを後悔する。奴はぼくを殺そうとするのか。
ぼくは殺られる前に殺るのか。激しい鼓動と葛藤が繰り返され、頭の血を誰かに吸い取られている錯覚に陥る。思考があまりに暴走し過敏になると、お尻の穴の痔核が疼き痛みを発して警告ボタンを押してくる。これが貧血と痔核の関係性だ。これ以上は危険という信号(シグナル)が点滅する。
奴を目撃したのはぼくだけで、目撃者は被疑者に疑われて追跡されて、抹殺されようとするのはヒッチコック映画の常套だ。ぼくは早く帰りたいと思う。どこへ?安全な場所とは。司祭の家は?いや危険だ。大聖堂は石の中心に位置し、ぼくはそこで仕事をしている。目撃者が毎日、人々に目撃されているという構図だ。
では紙へ。紙に帰ろう。列車とバスが常時出ているけれども、この大災厄(パンデミック)で公共交通機関は全面封鎖だ。ぼくはどこへ。とにかく気を鎮めて考える。ぼくは鍵をふたつ、月見荘206号室の鍵と自転車の鍵。こんなものはもういらないけれども。移民申請許可証とビンゴカード。ステンドグラス磨きで得た収入。12万少々持っている。町を出るには徒歩か、大枚はたいて闇タクシーか。当局に賄賂を通して便宜を払ってもらうか。
どれもこれも不可能に近い。混乱した頭を抱えたまま蹲る。どこにも逃げ場はない。
トラックが大聖堂前で止まる。司祭に何かいい方法は相談してみようと、荷台から転げるように下りて教会裏へと走る。何もかも凍えて強張っている。手は垢と泥にまみれて汚れ、滲んだ血とマメで黒ずんでいる。歳取った未来の自分の手を幻視しているのかと思う。かじかむ両手に息を吹きかけながら裏庭の木々の間を抜け、司祭の家に入る。司祭は食堂で祈りを捧げている。鉤鼻の先を赤くして禿げ上がった銀白の残りの髪を奇麗に撫でつけている。
「力になれず申し訳ない。あなたはわたしの息子なのに。」
そんな例えは今のぼくにとって焦眉の急ではないから、ぼくは無視する。問題は生きてここを出られるかどうかで、息子か否かじゃない。
「詳しいことは話せませんが、ぼくはある事情で今、すぐに石を出なくてはいけません。このようなお願いは大変心苦しいのですが、石を出る方法があれば教えて下さい。」
ぼくは司祭が眉を顰めて考えるのを見ている。ぼくは呆然として、食堂の奥の窓から見える外の狭い廊下を、斜視の男が歩いていくのを見る。そこは大聖堂のちょうど裏手に位置していて、男は廊下を渡りきり裏通りの古い家に入っていく。
「ぼくは行かなければ。失礼します。」 眉を上げた司祭は、
「待ちなさい。君は死体になれるか?」と言う。
ぼくは死体のことなら知っている。半ば死体に埋もれ生ける屍のようになって働いていたぼくは、もうすでに死者ではないのか。まだこの現実の中で生きて死者とは違ったものになれるのか。生者もまた、半分棺桶に足と首を突っ込んだ死者ではないのか。
「死体になれます。」
「わたしが霊柩車を呼ぶ。君は当局の要人だ。その死体となって棺に入ってもらう。霊柩車に乗せられた要人の死体となれば、検問で止められることはないだろう。」
「紙へ。」
司祭はぼくのために棺屋を呼び、霊柩車を手配してくれる。ぼくのために温かいカボチャのスープ。ズッキーニとトマトのサラダ。パンを出してくれる。物資の流通が一切途絶える中、まだこれだけのものがあるのは、石の信仰が地下水のように脈々と流れ続けているからだ。
「さあ食べなさい。」 司祭自らスープをよそってくれながら言う。ぼくは生き返る。これから死者になって紙に戻る。祖父の腕時計を請け戻す。
棺屋が家にやって来る。死が余りに日常茶飯となった今、遺体を棺に納め手厚く葬る余裕などもうどこにもない。それをこうしてぼくの棺のために呼ばれた棺屋はいそいそと、店にあった一番上等な棺を担いでやって来た。
棺屋もまた大聖堂の小尖塔(ピナクル)に吊るされたぼくを見ていたからで、ぼくをとうとう棺に納めることになったと聞いた棺屋は、自分自身をアリマタヤのヨセフになぞらえているのがありありと見てとれるのだった。
ぼくはうんざりしながら、叫び出したい衝動に駆られる。ぼくは目撃者の不法滞在者。首吊り人の死体運搬人。今回たまたま死体役に挑戦するだけだ。
斜視の男のことが頭から離れず、黙って棺屋の想像のままに任せておく。
司祭がぼくを白いシーツでくるんでくれ、棺屋とふたりでぼくを棺の中に納める。ぼくは本当に死んだような気になる。ふたりの声が次第に間遠になり、視界が閉ざされ暗く冷たい井戸の底に沈められたような。もう戻れないのではないか。紙にキスして生き返らせてくれる者もなく、このまま冥府魔道の黄泉の道行。火途・血途・刀途。三途の川を渡る。コーサル・ステュキュス・レーテー。まだ忘れたくない。すべての記憶を持っていたい。記憶箱に閉じ込めておきたい。自分の頭と体に自分自身を。そっちには行かない。
ぼくは生きる。
棺の側面に錐で空気穴が開けられ、息苦しさが若干薄れる。蓋に釘が打たれ棺が持ち上げられる。家の外に運ばれていくのが分かる。こうしていても夜の星々が見える。月もどこかにあるはず。ぼく達は常に、いつも変わらず月に見守られているけれども、ぼく達はたまに思い出したように、気が向いた時だけ月を見上げる。何もいいことのなかった紙の町。そこにキスしてくれる者もなく、自分で目覚めなければいけない。霊柩車に乗せられる。後部のハッチバックが閉じられる。運転席にドライバーが乗り込む。水素エンジンが始動する。その駆動音と共にぼくは母親の胎内で胎動する胎児に戻っていく。
ぼくはふたたび、再誕する。目覚めの日は遅く、漏刻の滴る音もない。隣人の獣声も。運命の首吊り輪も。ぼくは眠る。俳優は死体役からスタートする。死体役は決して動いてはいけない。たとえ監督のカットがかかろうとも。次の役をもらうために。ぼくは最高の演技をしなければいけない。
次の役をもらうために。
舟
紙の町で建設されていた舟は11月にはリベット打ちも終了し、今まで毎日町中に響き轟いていた槌の音が止むと、町は急に静かになって寂しくなる。錆止めの瀝青(ピッチ)塗りが始まると今度は、潮風に乗って異臭が町中を漂い、紙の住人は些か感情の抑制というものが効かなくなる。激しやすく、騒擾を好む傾向が顕著になってくる。捕まらない連続殺人の被疑者を反英雄に祀り上げて、その被疑者の載っている卒業アルバムの写真を引き延ばして作ったパネルにキスする者が現れる。鼻持ちならない市長を殺せと、被疑者のポートレートに向かってアピールする者がいる。
月見山に出た月をUFOと勘違いして、撮った映像を動画サイトに投稿する者がいる。「やさしいひと」がとうとう一致団結し、町中をデモ行進する。
あらぬ噂をすぐに信じ、迷信に凝り固まった住人たちが紙を混乱と喧噪の只中に巻き込みはじめると、緑のマフィン帽被った市長は断固たる処置をとるよう各部局に要請する。当局はお得意の放水車で住人を沈黙させようとしたけれども、紙の住人はものともせず当局側に立ち向かい、それぞれ手前勝手な権利。主義。自由と勝利を自己主張し、シュプレヒコールを上げパレードする。学業・仕事のボイコット。エスケープ。ストライキを決行。ピケを張りバリケードを築いて、プラカード。横断幕を掲げ町の至る場所を占拠する。
これに業を煮やした当局側は、催涙弾と強力な空力砲で対抗し、抗議行動
の速やかな鎮静化を図る。そのような紙の騒動を尻目に、舟の建設が最終段階に入る。第五次移民団の舟の建設は当初、833で行われる予定だったのだけれども、保守派青党の反対と平和原理主義者緑党の抗議があまりに激しかったため、833での建設は中止。急遽、海を挟んだ紙の町で建設されることになる。紙では雇用が生まれ、作業員の落としていくお金でデパート。商店街。歓楽街。乞食。ルンペンも潤い、町は俄か景気に湧いてその経済効果は何十億にもなる。
3年前から着々と建設が進められてきた舟もいよいよ、年の瀬も押し詰まった12月31日の大晦日に、完成の時を迎え進水式を待つばかりになる。
舟の全貌を一度も見たことのなかった紙の住人はその日、ドックの護岸。バース。出島の岬。港の突堤。テトラポットの上を人人人の影で埋めた。
朝早くから劈く祝砲が何発も上がり、冷たい空気の中を人々が息を白くしてわらわらとドックの方へ走っていく。その日ばかりは当局の敵だった人たちも火炎ビンとプラカードを捨てドックへと走り、舟が母屋から滑り落ちてくるのを待っている。緑のマフィン帽。シルクの手袋。ウグイス色のスリーピースで晴れの日を着飾った市長と、造船会社社長の手で斧が打ち振られ、繋留されていたロープが断ち切られる。総天然色(テクニカラー)の紙テープ引く舟が母屋から海へと引かれたレールを滑り落ちて、その全貌をバース沖に現す。
それを見た紙の住人たちは絶句する。それはドーナツリング状の3つの構造物から成っていて、この3つの巨大な浮き輪と言ってもいい代物は、大きさが大中小と異なっている。一番小さなリングにはアストロノーツのコクピット。居住空間。アスレチックジム。娯楽室。ライブラリー施設が入っている。中のリングが移民団1万2千人を収容する居住空間に当てられる。一番大きなリングに食糧庫。家畜小屋。武器弾薬庫。人工農園。各種物資のコンテナが積み込まれる。
この3つのリングが下から順々に大きいものから積み重ねられ、輪の中に5本の燃料タンクを抱え宇宙(そら)に飛ぶ舟になる。核融合燃料の重水素で飛ぶ舟はこれが最後だと言われていて、次世代の舟は反重力エンジンで飛ぶことになる。ハノイの塔と名付けられたこの舟に、第五次植民計画の移民団に選抜された人々、1万2千人がまだ見ぬ星。地球化(テラフォーム)する必要のない、地球によく似た星に向けて飛ぶ。
進水した舟は二千隻の曳航船によって833まで運ばれて、クロスロード・パーク内に設営された発射台上に引き上げられ、組み立てられる。
第五次移民団の出発予定日時は8月3日。午後3時8分33秒と決まっている。その3日前にはニュークリア・ボールパークで移民抽選会のビンゴ大会が行なわれ、そこで1万2千人の、新たな植民団が選ばれる運びだ。
紙の住人は海に浮かぶ3つの巨大な浮き輪に絶句し、呆けたように暫く見つめていた後、驚嘆し讃美する。我が町がこれを造ったのだという自負と誇りが胸内に去来し、自分も舟に乗って宇宙に行ってみたいと思う。思うけれども実際、ほとんどの人がそう思ってみるだけで現実に行動を起こすことはない。今の紙での生活に満足している人たちがほとんどで、この星に愛着を感じている。今度の移民計画にしても、他の生命種を滅してまで人類の生存圏を広めることに果たして意義があるのか。過去の記憶をまだまだ深い傷として覚えている人も多い紙の住人は、声に出して言わないものの心の内で大いに疑問を持っている。
それでも移民しようとする人たちはいる。好奇心、冒険心に富んだ人たち。新しい生活を新しい星で始めようとする人たち。自分の住む町で何もいいことがなかった人たち。犯罪者。前科者。あぶれ者。弱者(フラジャイル)。少数者(マイノリティ)。多重債務者。敗残者(ルーザー)。被害者。信仰の自由を求める人たち。イエズス会宣教師たち。
紙の住人は曳航されていく3つの浮き輪が見えなくなるまで手を振る。ハンカチーフを振る。帽子を振る。舟を建設した作業員たちは涙を浮かべて゛
団結゛と刺繡の入った帽子と旗を振る。舟は遠く海のしじまに去っていく。
時間が止まったように早春の海の霞の上に動かない。蜃気楼のように舟は消える。
つづく