
G崩壊
イラウとぶちメグ
イラウは窓ガラスに指紋を残すのが大好きだった。そこに残忍極まりない極悪非道の、戦後最悪の凶悪事件を引き起こした実行犯が犯した紛れもない、嘘偽りのない直接の証拠、禍々しい悪夢そのものの実相をまざまざと垣間見る思いがするからだ。まっさらで透明でピカピカに光ったガラスに拇印を残して、イラウはにんまりとする。白く残った親指の瘢痕をつくづくと、惚れ惚れと眺め入る。灼きついた残像のようなそれはいつまでも消えない。
自分の残した指紋を誰か、氏素性も知らない赤の他人が見つける。それを想像すると、イラウは何ら刺激されることなしに、ただうっとりと見つめられるだけで射精する夢精にも似た喜びを覚える。これにはもちろんちゃんと依存性・中毒性があって、何度もマーキングを重ねていくうちに、イラウの住む界隈はイラウの指紋だらけになる。これはこれで結構な、嬉しいことではあったが、すぐにもの足りなくなる。それで隣り町に遠征したり、知らない町を訪ねて歩き、ぶらり途中下車のたびウィンドウショッピングしながら指紋を残していく。血痕はルミノール反応で青白く発光するが、イラウは指紋に天花粉を耳掻きの綿毛でポンポンすることで白く浮き上がらせる。迷宮状の紋様が世界と繋がる秘密の鍵を求めている。イラウはいつでもどこでも忘れずにいじれるように、ポケットの中に小銭を何枚か忍ばせジャラジャラいわせている。キーホルダーの付いた家の鍵でもいい。ポケットの中でそれをこねくり回していると随分と気持ちが落ち着く。さなきだに何も持ち合わせがなく、手持ち無沙汰で暇でしょうがない時は、両手の指同士を突き合わせ親指からお互いの指を時計回りに、順番に回していく。小指までいくと今度は小指から反時計回りに回していく。「臨兵闘者皆陣列在前」九字の印を結ぶ。イラウはボードキーのリアクションを尊ぶ。いつかキーが押し下がったまま、二度と戻ってこない。そんな世界線を想像して何度も繰り返し押し続ける。ボードキーは100%、イラウの不安を裏切り期待に応えて心地好いリアクションを返してくれるのだった。イラウは何ひとつ楽器を奏でられなかったが、ピアノ・オルガン・ハープシコード・チェンバロ・シンセサイザーといった鍵盤楽器奏者の指使い、というよりもむしろその鍵盤のリアクションを指に感じてうっとりし、サキソフォン・オーボエ・クラリネット・フルート・ファゴット・ピッコロ・ホルンのボタンの感触に鳥肌が立った。アコーディオンとバンドネオンはなんで神はこんなものを産ましめたのか⁉というくらいの、性感帯だらけの悪魔の楽器だった。そこから弾き出され紡ぎ出される肝心の音・メロディー・ハーモニーにはまったく興味がなかった。イラウにとって"ワレモノ注意"の荷物に詰められているプチプチ緩衝材を潰すことが、この世のすべてといってよかった。そのひとつひとつの空気の粒の中に存在する宇宙空間をひとつひとつ丹念に、無心になって潰していくことで、イラウは神とひとつになれるのだった。車の窓から手を出して進行方向に向かって掌をかざす。手の中に柔らかな、あたたかなもの、ふくよかな肌のぬくもりを感じてイラウはにんまりとする。産まれたばかりの無垢の記憶がもしあるなら、これがそれなのかもしれない。
ぶちメグには色がない。イラウから色の感覚をいろいろとレクチャー、手ほどきしてもらったのだが。「檸檬色」はレモネードの味だそうだ。甘酸っぱい初恋を思い出せという。「黄色」はまさしく、そのものズバリ"あたたかさ"に相当する。「橙色」はみかんの味とこたつの"あたたかさ"の相乗効果である。「茶色」はお茶の香り・渋み・苦味。またはう〇この臭いだとイラウに言われて、ぶちメグは分からなくなった。お茶の香りとう〇この臭いはまったく違う。別物で天と地ほど差があるものだ。それが同じ「茶色」だとイラウは言う。かてて加えてカレーのルーも「茶色」であると。う〇こ味のカレーか、カレー味のう〇こか、みんな悩むところなのだと。ぶちメグにもそれは食べてみなければ分からないだろうと。「赤」は火の熱さそのもの。火がついたように泣くから「赤」ちゃんだ。それから「赤」はトマトケチャップの味。とうがらしの辛さでもある。火を噴くような辛さとは舌が「真っ赤っか」ということだ。この「檸檬色」から「赤」までが暖色で、「黄色」を基準値とした"あたたかさ"のグラデーションになっているのだと。「紅葉色」は落ち葉を踏む音と足の裏の感触。つまりは秋そのもの。「赤銅色」は天狗の顔。「真紅」の薔薇や椿を黒澤明は「黒」で表現したのだと、イラウは得意げに花の下をこすって言った。「白」と「黒」ならぶちメグにも分かる。その間のグラデーション、「灰白」「薄墨」「グレイ」「半グレ」「アールグレイ」「ロマンスグレー」「鴉の濡れ羽色」「射干(ぬばたま)色」「腹黒さ」「ゼブラ」「漆黒」「ガングロ」だって分かる。イラウはさらに「紫」は煙草のにおい。ナスの味。しその香り。「紺」は絣の着物の肌触り。「青」は若さ、青春の輝きそのものであると。「水色」は水そのものだと。本来無色透明である水に色があるなんておかしいと、ぶちメグは猛抗議した。「確かにそうだ。」そこでイラウは前言を撤回して、「水色」は純真無垢な透明感と幼さ、青春そのものの「青」の中間色であり、まさしく子供時代(ジュブナイル)のことであると。「緑」は草木・森林・野原・山また山といった植物由来(ボタニカル)なものすべて。永遠不変(エバーグリーン)なるもの。楽園(パラダイス)・聖域(サンクチュアリ)・数学(プリンピキア)・定理・法則・理論といったものはすべて「緑」だと。「緑」の黒髪とは、神にも見紛う永遠の、という比喩表現である。「うぐいす色」はウグイスの鳴き声。「乳白色」は垂乳根のミルク味。シルクの肌ざわり。「肌色」は国と地域・人種によって異なる。「琥珀色」と「蜂蜜色」は同じ色といってよく、ハチミツの甘さとなめらかさ、飴玉のようなきらめきを持っている。だから「飴色」も「琥珀色」も「蜂蜜色」も一緒だ。「黄金色」は"あたたかさ"の豪華(デラックス)版といったところ。つまりはひと肌のぬくもり。「銀色」は「灰色」の特別(スペシャル)版。沈む夕日のさびしさ。鰯のにがみ。「銀」シャリとは、酢飯ひと粒ひと粒の光り輝くさまを言う。「鈍(にび)色」はその劣化(B級)版。つまりは腐った酢飯だ。「銅色」は「橙色」つまりこたつでみかんの特上(アップグレード)版。よって暖炉の火のそばでロッキングチェアに揺れながらブランデーを嗜む、となる。
それもこれもすべての色はイラウ自身が見て感じ表現している色で、全部がイラウ色に色濃く染まってしまっているのだった。そんなあくまで個人の感想をぶちメグが「はいそうですか」と安易に、おいそれと鵜呑みにすることは到底できなかった。ぶちメグは機械系が苦手で、さわるとすぐにそれは勝手に、全自動洗濯機みたいに自動的に壊れてしまう。まるで瞬時にエントロピーが最大値に達して崩壊、だだっ広い宇宙空間に雲散霧消して跡形もなくなってしまうように。だからぶちメグはなるべくモノにふれないように、白い運転手用手袋を常備して極力はずさないようにしていた。ひとに訊かれたら「手が荒れやすいから」と言い訳をする。知覚過敏でも潔癖症だからでも静電気が怖いからでもない。そんなぶちメグの手をはじめて見た時、イラウは信じられないという風に目を丸くし、蔑むように見下して憐みの表情を浮かべ首を振った。「全然気持ちよくない。」
これは気持ちいい、気持ちよくないの問題ではない。自分の手の内に核のボタンを持っている常識人(コモンセンス・メン)としての恐怖。自分の与り知らぬところで今日も誰かを傷付けてしまっているのではという不安。それでも最大限、自分の人生を楽しんで生きたいという葛藤。そういう相手を思いやるやさしい気持ちと、自分の本当にやりたいこと、主義主張を貫きたいという思いの相克の問題なのだということが、イラウにはまったくもって分からないのだ。自分にだけ分かって、他の誰にも分かってもらえないことがこの世の中にはたくさんある。世界は残念ながら自分の思い通りにはならない。ぶちメグはそれを受け入れる。自分にできることはモノクローム(白黒)の世界で、できるだけモノにさわらないこと。それは名画座で昔のサイレント映画を観るようなもので、すこしもの悲しい(レトロ)な気がしたけれど。そこへいくとイラウはふれること、そのものに喜びを見い出しているのだった。ふれることで世界を変えてやろうとか、病いを癒してやろうとか、新しい物事を生み出してやろう、可能性は無限大だとか、さあ今から走り出そう、いつだって遅すぎるということはないのだとか、そんなことはこれっぽっちも思っていなかった。イラウにとって最大の幸福は、今この瞬間(とき)のアクション(ひとふれ)とリアクション(反発)にかかっていて、それこそがすべて愛なのだ。
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