小説『蟻の棲み家』感想
思考の排水と物書きの修練のために、感想文を書いてみる。
ネタバレありのため注意。
TL;DR
連鎖していく貧困家庭の業をメインパーソナリティである末男を通して描いているドキュメンタリーであり、その中で起こる事件を外側の視点から描くサスペンスの面も持つ。
正直、文章が読み辛い
家庭環境とそれを取り巻くコミュニティによって人間は形作られ、生まれ持った知性があってもそのベクトルは正にも負にも向きづけられるといったテーマと思っていたが…?
貧困家庭に生まれた末男はそうだが、医者の息子として生まれ裕福に育った翼を説明できていないためあまりしっくりこない
生まれつきいい人も悪い人もいるけど、いい人でも環境が悪かったら悪事を働くよってことかもしれない
帯で衝撃のラストが仄めかされており、期待して手に取ったものの、それを上回らなかった。
概要
時は現代。板橋区で2件の殺人事件が起こる。被害者女性は売春で生計を立てていた女性2人。どちらも銃弾で頭を貫かれていた。雑誌記者の木部はこの事件をよそに、食品工場恐喝事件の取材に取り組んでいた。恐喝者の素顔を追っていくと、殺人事件との接点が少しずつ明らかになり…。
感想
正直なところ、全体的に文章が読み辛い。描写がとにかく冗長である。読みづらさを感じた要因は3つある。1つは登場人物が多すぎることだ。木部が情報源にしている刑事、恐喝されている工場長、編集部の上司、容疑者の母など、ほかにも種々雑多な登場人物が存在しており、それぞれ名前を持っている。しかし、メインで重要な情報をやりとりするキーパーソンは刑事と容疑者周りの人物ぐらいである。名前が多すぎることは承知しているのか、巻頭部分に登場人物一覧のページがある。たびたびそこに戻って、この人は誰だったかを思い出していた。サスペンスとしてのリアリティを出すために登場人物を配置した結果かもしれないが、挿絵のない小説では各々の名字と職業を記憶しておくのは難しかった。2つ目は、一文が長すぎることだ。地の文でも、会話文でも、説明的な口調で一度に何行も話すため、疲れる。さらに、地の文でも会話をしていることがあるため、あれ?これは会話だったのか、と読み返すこともしばしば。さらに登場人物が多く(前述)、喋り方に特徴ない人々ばかりなので、誰が喋っているのかわからなくなる。古文の試験のように、話者の推定能力が求められる。3つ目は不必要な情景描写が多すぎることだ。情景描写は時間的・空間的な説得力を持たせたり、登場人物の心の内を風景で表現する働きがある。しかし、この小説内では懇意にしているテレビディレクターに会って雑談するような重要度の低い場面(読者にとって新しい情報が出ない場面)ですら、駅の看板がギラギラと光っていたことや、駅のロータリーにあるタクシーがどう停まっているかまでを教えてくる。終盤にキーとなるどんでん返しを入れたいので、前中盤に情報をあまり入れたくなかったのかもしれない。中盤まではこういった情報量のないページが多い。全く話が進まない訳ではないが情報量の増え方がかなり緩やかで、電車に乗ってこの本を読むとよく寝落ちしていた。
いきなり読みにくいことに散々文句を言ったが、内容に関してはよく取材されていると感じた。板橋区のバラック街とそこに住む人々、その生活。子の世代まで伝染する貧困と繰り返されるネグレクトの描写については非常に解像度が高く、読む人の心に残すものがあるだろう。特に幼い末男視点で書かれているプロローグの情景描写は、バラック街の雑多さと暖かさを感じるようなノスタルジックなものになっている。その反面、成長につれて母親の歪さに気づいていき、街の汚い部分に目がつくようになっていく…。母親が歳を取るにつれて客を取れなくなり、末男も自転車泥棒して母子家庭に金を入れることを強要されるなど、実際の非行少年の経歴としてはサラブレッドといえる描写ではないだろうか。
末男は前述の通り非行し、少年時代に前科が何度もついたものの、根は真面目で素直という描写がある。高校時代に強盗をやったが、その人柄から高校の教師が融通を利かせてねじ工場に就職できた。ねじ工場では金庫破りの罪をなすりつけられてやめることになるが、辞める際にそこの社員から借りた5000円を律儀に返すなど、人柄のいいエピソードがある。5000円を借りて返すのがいい人エピソードとして描かれるのは、高卒で働くねじ工場としてやや生々しい解像度があるように思える。また、末男の父親は企業の研究者であることが仄めかされるなど、地頭のよさを示唆されている。
以上から、末男は貧困な家庭に生まれていなければ悪事に身を染めていなかったのではないか?と木部は考察していた。実際のところ、それはその通りかのよう思う。ただ、翼のように恵まれた環境で育ったものの借金で女衒に手を出す人もいるので、言えることは『遺伝子でいい人か悪い人か決まるけど、いい人でも生育環境が悪いと悪い人になる』といったところだろうか。末男は被害者女性二人をその手で殺している。今まで拳銃を撃った経験もなく、人を殺した経験もなく、あっさりと殺せたのは、売春婦には生きる価値がないという偏見を持っていたからだろう。それは、母親からの学びであり、憎しみでもある。
翼は親が医者であり、恵まれた環境で育ったものの素行の悪さが家庭で問題視されており、最後は親の手で引導を渡された。愛里の母や被害者の家族など、子が売春や非行などよからぬことをする親の気持ちとしては、縁を切って関わりたくない気持ちがあるという。翼はある意味ネグレクトされてしまった被害者(自業自得ではあるが)とも言えるかもしれない。