共同親権について

いきなり一発目の投稿としては重い題材ですね。
はじめまして。

ここ一週間ほどXで話題になっている共同親権。
離婚後、離縁した片親にも親権をという主旨の法案ですが、かなり反対意見もあります。
そのほとんどが「かつて被害者であった妻や子供」達です。なぜ実害を受けた人間の声が反映されないのか。それが疑問でなりません。
私はこの法案に対しては「反対」の立場です。
もしあの頃、共同親権なんてものがあったら。
公にはDVも虐待もなく、夫婦間の不和で処理されたであろう離婚。面会の強制などをさせられていたら、父と暮らさなければならなくなっていたら。
もっと酷い扱いを受けたのかもしれません。
母からの言葉の暴力も確かにありました。でも父の機嫌に左右される家の空気が無くなっただけでも私の中では平和でした。
もう父と関わらなくて済む、自分のテリトリーを荒らされる事も、交友関係を根掘り葉掘り聞かれることもない。
そうでなければ今私はこうして居られないでしょう。
表に出ない虐待は沢山あります。
家庭という小さな枠にどんな問題があるのか、外部の人間は知りもしないのです。
共同親権で奪われる平穏、命がある事を知ってください。
それは本当に「連れ去り」なのですか。
その人たちが言う連れ去りの原因はどこにあるのですか。
もう一度、きちんと被害者や虐待サバイバーたちの声を聞いてください。
今笑って生きられる人も、まだ笑えない人も。これ以上苦しめられ怯えて暮らさなければいけない法案は本当に法として成り立つのでしょうか。
幸福追求権という権利が私たちには等しくあるはずです。
この法案はそれを侵害する悪法でしかありません。
恐怖に支配される生活の無力感、その結果吐き出される人々の声を無視しないでください。

どうかこの法案の見直し、廃止が叶いますように。
かつて虐待児だった私の戯言でも、反対の一助になれますように。

ここから先は反対に至る私の経験をつらつら書いていこうと思います。あまり楽しい内容では無いので無理はせずに。

私の家庭はいわゆる「機能不全家族」でした。
父親の違う年の離れた姉と兄、母、そして私の父。
問題はこの母と父にありました。
母は自営業で自宅での商売を営み、父は某有名時計生産会社の夜勤勤務。朝に帰ってくる父はそのまま昼過ぎまで仮眠を取り夕方には出かけていきます。
その僅かな在宅の時間、当時3歳位だった私の記憶には、いい思い出などありません。
おもちゃで遊んでいても、父が起きてくれば容赦なく「片付けろ!」の怒号が飛びました。それが恐ろしくていつも泣いていたのを覚えています。
言うことを聞かなければ更に怒号が飛ぶので、私はいつも泣きながら母が自営をしている店舗スペースへ逃げ込んでいました。そこまで父が追いかけてこないのを知っていたからです。
美容院を経営していた自宅には常にお客さんがいました。周りも泣きながら母に縋る私を見ていましたが、当時は虐待などという言葉は一般的ではなく、お父さんは怖いものという価値観もあってか積極的に助けてくれる人は居ませんでした。
それでも、父が出勤するまで店で過ごしお客さん達に可愛がられているうちは安心できていたので、ある意味救われたのだと思います。
そんな暮らしは幼稚園に入っても続きました。
母は私が父を嫌わないよう手を尽くしていたのでしょう。お風呂に入ったり一緒に寝かせたりもしていました。
そして小学生になった私ですが、ここからも気を張る生活は続きます。
あまり勉強が出来る方ではなかった私を、父は激しく叱責しました。
字が汚い、この程度の計算も出来ないのか、なぜ宿題の内容が分からないのか。
とにかくそういう内容で声を荒らげられました。
また自分の気に食わない行動を起こすと物を投げ付けられる事も増えました。
父は身長は180cm近くあり力もある人でした。
そんな男の力で物を投げつけられればたんこぶ等も出来ます。けれど加減していたのかアザが残るようなことはされませんでした。
今思えばあれはあの人にとって躾でしかなかったのでしょう。暴力という感覚など無かったと思います。
小学校2年生になる頃には、もう父と風呂に入る事も拒否していました。とにかく一緒に居たくなかった。怖くて仕方ない相手でしか無かった。
何度も母に「離婚して欲しい」と懇願しましたが、子供の言葉など聞き入れては貰えません。
3年生に上がる頃、父は仕事を何度もサボるようになります。以前から度々そういうことがあり、パチンコで借金もしていたようですが、この時は「妻に仕事に行くなと言われている」と嘘をついて1ヶ月近く出勤していませんでした。
もちろん会社は解雇、母も呼び出されて初めてその話を聞いたと言います。
そこから一年ほどがいちばん酷かった時期です。
殴り合いの夫婦喧嘩、夜中に叫び声で起きてしまうこともありました。父は母の車の窓を割ったり物を壊したりが続きました。
ある日、当時習い事をしていた私の送迎時間にまた喧嘩が始まりました。
一度逃げるように家を出た父でしたが、少しすると戻ってきて車に乗れと言われました。私には逆らうという選択肢はありません。言われるまま車に乗り習い事へ。特段何も無くその日は自宅まで帰ることが出来ました。
ただ、そこで更なる仕打ちが待っていました。
母は父に着いて行った私に怒り、なんでついて行くんだ、少し考えれば分かるだろうと叱責しました。
そして11月の寒空に私を締め出したのです。
たった10歳かそこらの子供に、両親の仲を取り持つ術などあるはずもなく、また怒号を投げ物を投げるような相手に逆らう気持ちもあるはずがないと言うのに。
泣きわめく私の声に気付いた近隣の人が出てきてようやく母は私を家に引き入れました。そしてなぜ自分の味方をしないのか、なぜ断らないのかと再度叱責され頬を叩かれたのを覚えています。
母はまともだと思っていた私の中に、この人もまともでは無いという気持ちが芽生えたのもこの頃です。
この生活のせいか、学校の成績は今までより落ち忘れ物も多くなりました。もともと忘れ物もある方だったので教師は気に止めても居なかったでしょう。
この成績の低下に不満を持った父に横っ面を張り倒され鼓膜が腫れてしまったこともあります。この時、病院でその事を伝えましたが結果は「もともと炎症を起こしていて父のせいでは無い」との一言。どう考えても父の暴力のせいなのですが、それを助ける体制など当時はなかったのです。
更にはこの年で胸焼け、胃痛などにも悩まされるようになっていました。
そんな生活も5年生位になると少し落ち着きます。
喧嘩は少なくなりました。ですが職を変えた父は夜も家にいることが多くなり、晩酌をすると更に怒りっぽくなります。それがとても嫌でした。
ある日、滅多に目を覚まさないのに何故か夜中に目が覚めました。するとベッドの脇に父が立っていました。
呼びかけると「さっさと寝ろ」と言われそのまま再度寝落ちてしまったのです。翌朝その事を母や父にも伝えましたが、夢を見たんだろうと一蹴されてしまいました。
この頃、父は私の部屋や机の中を勝手に漁っていて、気持ち悪さがありました。
何をしに来ていたのだろうかとその答えは得られないままです。
更にテレビで男女の交際や性的な表現が出ると父は「お前はこんなことするんじゃない」と言うようになりました。意味がわかっていない私には何が悪いことなのかも理解できません。それでも執拗にそういうものを見るな、触れるなと言うようになったのです。更に床に体育座りのようにして本を読む私がたまたま少し足を開いていた所「なんて格好をしているんだ!エロい格好をするな!」と突然怒られたこともあります。もちろん何を言われたかその当時は分かりませんでした。
今思うと寒気がする発言です。
小学生の娘に性的な物を見ていたのではと思わされます。
思春期にも入っていた事から、私の中で父は「気持ちの悪い嫌な相手」へと変わっていきました。
中学になっても相変わらず、成績の悪さで叱責され部屋を漁られる頻度も増えていました。
逐一何を買ったのかをチェックされ息が詰まる日々。期末試験の順位が下がれば叱責され、上がっても約束していた事は全て反故にされました。
そして、両親の離婚を決定付ける事件が起こります。
その日、晩酌をしていた父に私は何か反抗的な事を言いました。内容は覚えていませんが、それがきっと気に触ったのでしょう。
部屋に戻った私を怒鳴り声と共に追いかけてきた父は、私の胸ぐらを掴みあげベッドに押し倒しました。
ただただ恐怖でした。必死に助けを呼びました。何事か怒鳴り続ける声だけが酷く大きく聞こえていました。
その頃、兄が義姉と姪と共に同居しており、兄が慌てて駆けつけ父を止めてくれました。
もし兄がいなかったら、止める人間が居なかったら。何をされていたのか分かりません。
これをきっかけに父は家を出て母は家庭裁判所で離婚手続きを行い一旦は平和が戻りました。
しかしそのあと、高校生になった私に母からの暴言が続きました。「役立たず」「穀潰し」そんな言葉を毎日のようにかけられ、頼りだった兄夫婦も家を出てしまい私の精神は追い詰められました。
その頃から始まったのがリストカット、OD、自殺未遂です。
長く続いた家庭不和と精神的な圧力に私は耐えられませんでした。
そんな私を見ても母は「自分の方が辛い」「お前程度でなんで鬱になるんだ」と否定的な言葉を投げました。
更に父は家を出ても私の行動範囲内に住んでいましたから、いつか街で会ったらどうしよう、という恐怖をその後十数年抱える事になります。

これ以上、苦しむ人が出ないよう。
共同親権法案に心から反対します。

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