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喫茶まほろば

仕事帰りの夕方。

僕は少し疲れていた。
駅へ向かう足取りは重く、
肩には目に見えない荷物を背負っているようだった。

普段ならそのまま家に直行するところを
なぜか今日は、どこかで一息つきたいと思った。

ふと横を見ると、そこに古い喫茶店があった。
ガラス越しに見える店内には、年季が入った木のテーブルが並び
柔らかなランプの灯りが漂っている。どこか懐かしい雰囲気だ。

「いつも通る道なのに、全然気づかなかった」

戸を引くと、チリン、と小さなベルが鳴った。
店内は驚くほど静かだった。まるで時間が止まったような空間。
カウンターの奥から、初老の男性がゆっくりと現れた。

「いらっしゃいませ」

穏やかな声に、少しだけ肩の力が抜けた気がした。
僕はカウンターの端に腰を下ろし、

「コーヒーをください」

と伝えた。

程なく、豆を挽く音が聞こえてきた。
何とも言えない心地よいリズムに、空気がゆっくり動き始め、
少しずつ香ばしい香りが広がっていく。

その香りのせいか、僕は、ふうーっと息をついた。
そして最近の自分が、いかに余裕をなくしていたかに気づく。
仕事に追われ、スケジュールに追われ、休みの日は家で寝ているだけ。
そんな毎日。

仕事は嫌いじゃない。
ただ、人生ってこんなものなのかな?と思うことがある。
僕はもっとやりたいこと、あったんじゃないのかな。

コーヒーが運ばれてきた。店主はそっとカップを置いた。
湯気の向こうに、薄い琥珀色が 揺れている。
一口飲むと、香りの奥に、ほのかな酸味と甘みが広がった。

「あ、美味しい…」

そして体の奥からじんわりと温かさが満ちていく。
まるで、誰かに「よく頑張っているね」と励まされているみたいだ。

確かにこのままでも、いいのかもしれない。
でも、もっと自分の心が喜ぶことをしたい。
例えば、どこか旅行に行くとか…
美しい景色を見て、美味しいものを食べて、温泉に入って…
そうだよ!これからはもっと自分にご褒美をあげよう。

「もしかしたらここのコーヒーは、これまで頑張ってきたことへの
神さまからのご褒美かもしれないな」

コーヒーを飲み終えると僕は立ち上がり、会計を済ませる。
「美味しかったです」と言うと、店主はニコリと微笑んだ。

店を出て歩き出す。足取りは不思議と軽かった。
コーヒーが本当に美味しかったし、心も軽くなっていい気分だ。
また帰りにあの喫茶店でコーヒーを…そういえば
あのお店、なんて言う名前なのかな。

振り返ってみると、喫茶店が見当たらない。

「おかしいな…」

少し戻ってみたがやはり喫茶店はどこにも見当たらない。
さっきまでいたはずの場所には、ただ古いビルが並んでいるだけだった。

でも、それでいい気がした。名前も分からない喫茶店だったけど
大切なことに気づけたのだから。

僕は再び駅に向かって歩き出した。
その時、ひゅーっと風が吹き抜けた。
その風は、ほんのりとコーヒーの香ばしい香りを運んできた。

喫茶店は消えていたけれど、
僕の心の中にはまだ、その香りが残っている気がした。


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