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『葬送のフリーレン』における魔族のあり方とホメロス叙事詩における神々のあり方の連関について

『葬送のフリーレン』(以下、『フリーレン』)はアニメでも絶賛放送中の大人気漫画です。正直僕は最初食わず嫌いしてたのですが(流行り物に対しては少し経ってまだみんなが話題にしているかを傍観するくせがある)、読んでみるととても面白くて現在追っかけてる漫画の一つです。

『フリーレン』は主人公であるフリーレン(ちなみにこれはドイツ語の動詞frierenに由来し、「凍える」の意味。彼女の「冷たい」心からか)が、過去。ともに旅をした勇者の死に際して自らのあり方を反省し、人間のことを知るため旅をする話です。

普通の異世界ものやファンタジーものとは異質な点が、フリーレン一行はすでに世界を救い終えている、という点です。例えばドラゴンクエスト・シリーズなんかで定番の(ここがキモで、この定番を知らないと勇者とか戦士とか僧侶とかの定番ロールがよくわからないかも、まあわからずとも面白く観れるとは思う)魔王を倒して世界を救うというプロットがお決まりなわけですが、『フリーレン』は「その後」を描きます(そういう意味で「後日談」)。ここから『フリーレン』のテーマが戦いやアクションではなく、フリーレンの内面(とその成長?)であることがここからわかる、と言えるでしょう。

フリーレンは旅をします。その旅は、彼女が過去、ともに旅をした勇者ヒンメルの死に際して「なぜ私はもっとヒンメルのことを知ろうとしなかったのだろう」という後悔に端を発します。フリーレンはエルフという種族で、寿命は人間の何倍もあり、彼女からすれば人間はあっという間に死んでしまう種族です。そのため、深く関わろうとしなかった(どうせすぐ死んじゃうし、という感じ)。だがヒンメルが死んで初めて、彼女は人間を知りたいと思うようになります。ヒンメルの死が物語全体を動かしています。彼の不在が偏在的に影を落としています。そのことは、登場人物の繰り返し言う「勇者ヒンメルならそうした」という言葉に表れています。

『フリーレン』で最も重要なテーマの一つが魔族という種族の存在です。ちょっと意外なことに、エルフは一応「人類」に属することになっています(寿命全然違うのに!)。しかし、魔族は違います。フリーレンの言葉を借りると、魔族は「人の声真似をするだけの、言葉の通じない猛獣」です。このことが生き生きと描かれるエピソードとして、勇者一行が出会った魔族の話を見てみましょう。

第二巻で、とある人物がフリーレンに魔族との対話での解決の可能性をほのめかすとフリーレンは淡々と「魔族は人食いの化け物だ」と言い放ち、彼女は過去のエピソードを語り始めます——

勇者一行は見た目が幼い少女の魔族に出逢います。この魔族は村人の一人を食い殺しました。その殺された少女の母親が「私たちの娘を食い殺したこの魔族を殺してくれ」と頼みますが、その魔族は「痛いよ…お母さん…」と呟き、それを聞いた勇者ヒンメルは剣を振るうのを躊躇します。村長がやってきて、「この魔族に償う機会を与えてやろう」と提案します。なぜなら、と彼は言います、「われわれには言葉がある!」。フリーレンはヒンメルに「今殺しておかないと後悔するよ」と忠告しますが、彼もまた「フリーレン、僕たちには言葉がある」とヒンメルは魔族との対話の可能性を模索します。

しかし、、、。

魔族は自分に情けをかけてくれた村長を殺します。いったいなぜ?——魔族は言います。「私は用意しました。私が食べてしまったあなたの娘の代わりを」と言い、村長の娘を差し出します。ヒンメルが「その子は村長の娘だ」と言うと、「村長はもういませんよ?」と魔族はキョトンとした顔で返します。

人間的感情の欠如!この発言は恐ろしいほどに魔族の有り様を描いています。魔族にとって、自分がその人の娘を食べてしまった代償に、別の人間の娘をその人に差し出すことは理に適った行為なのです。これには勇者ヒンメルも絶句します。

このように、人間の天敵として、言葉を単なる人間を狩るための道具として用いる者として、魔族は描かれています。流行りの言葉で言うと「サイコパス」となるでしょうか。だからこそ魔族の中には人間のことを知りたがるような者もいます。人間を理解したいエルフ、フリーレン。人間を理解したい魔族。このような構造が『フリーレン』を規定しています。

閑話休題。

ここで私はホメロスの神々のことを思い起こしました。ホメロスに登場する神、特に『イリアス』に登場する神々に顕著なのが、人間とは異なる存在であるという自意識です。例えばアポロンという神が次のように言います。

「大地を揺るがす神よ(引用者注:これはポセイダオン(ポセイドン)のこと)もし私が人間どものために、あなたとさえ戦うようなことがあれば、わたしを正気の者とは思われぬであろう——憐れむべき人間ども、彼等は木の葉と同じく一時は田畑の稔りを啖って勢いよく栄えるものの、はかなく滅びてゆく、そのような人間のためになど——。われらはもう戦うことはやめて、人間どもを勝手に戦わせておけばよろしかろう」(『イリアス』第21巻、松平千秋訳、岩波文庫)

このアポロンの言葉には初期フリーレンの「人間なんてすぐ死んじゃうし」という見方と通じるものがあると思われます。人間を超える存在からの視点、という点で共通しています。

また、アキレウスの母である女神テティスもまた、アキレウスのことを理解し損ねるような描写が見受けられます。例えば『イリアス』第18巻でアキレウスは親友パトロクロスを喪くして悲しみに打ちひしがれますが、テティスはあまりピンときていないような印象を与えます。それどころか、アキレウスにある意味追い討ちをかけるかのような言葉すらかけます。

ホメロスの神々は、あえて人間的感情についてはそれほど敏感でないような仕方で描かれているのではないか、そうすることで人間の悲惨さや戦の持つ悲劇的な様がむしろありありとみられるようになっているのではないか、というふうに思います。

ホメロスの神々、特にテティスについてはこちらの論文をご覧ください(無料で読めます)



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