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バロックの四季(連作ゲイ小説「クラシックなオトコたち」第1話)

【前奏曲】
 土曜日の夜の新宿二丁目で、吉川祥治は浜名紘一と出会った。
 元号が昭和から平成に変わるまで、まだ数年あった頃の話である。祥治は大学を卒業して東京都の公務員になったばかりであった。
 スマホはおろか、パソコンもガラケーも、いやポケベルでさえ無かった時代である。今とはくらべものにならないほど、マイノリティーとしての抑圧に縛られていた同性愛者の男たちは、出会いを求めて、二丁目のゲイバーやスナックに集った。祥治も、その一人だった。
 ゲイバーというと、必ず女装したママとホステスがいて男の客をもてなすと考えるのは(じっさい、祥治も中学生くらいまではそういうイメージしか持っていなかったが)、まちがいである。そういうところも、もちろんあるが、大多数の小さなスナックには男の服装をした男たちしかいなかった。マスターも店員も客も、みんなそうである。
 彼らは、もちろん、化粧などしていない。平日は、仕事帰りそのままの格好の者も多い。酒を飲みながら(アルコールに弱ければ自分はソフトドリンクを飲んで、店員に酒をご馳走すればよかった)、客同士、話の上手なマスターを巻き込みながら、同じマイノリティーだけしかいない安心感に支えられて、開放された気分で会話に興ずる。会社の同僚の前では絶対に口にできないゲイとしての話題も、ここなら何の気兼ねもない。それがまず基本だった。もちろん、そういう客同士の中から、自分にとっての理想的なパートナーが見つかれば、それ以上何も言うことはない。祥治は、こういうタイプのゲイスナックにしか通わなかった。
 彼は、思春期の訪れとともに、自分がゲイであることを微塵も疑わないようになった。ことさらに女嫌い、というわけではない。頭の回転が速くて話の面白い子、思いやりのある優しい性格の子、さっぱりした気性の面倒見のいい子、などなど好ましいと思う女子はいくらでもいたし、彼女らと会話をかわすことは、楽しくもあった。こんな子と家庭を築けたらいいだろうな、と思ってしまう女子さえいたのだ。
 しかし、祥治は、ほとんど毎晩自慰行為を欠かせないほどの健康的な男子でありながら、彼女らに対する情欲というものが、自分の中に皆無であることを、認めないわけにはいかなかった。肉体的欲望を伴った、「あいつが好きだ」という心情は、常に男に対して向けられており、女性的な柔和さに心が慰められることはあっても、まごうことなき女その人も、女の扮装をした男も、完璧に祥治の性愛の対象外だったのだ。その完璧さは、揺らぐことがなかった。彼は、そういうタイプのゲイだったのである。
 学生の時に新宿二丁目にデビューしてから4年。祥治には、常連として通う店が2件あった。その夜も、いつものように、まずはクラブ『Ⅼ』に直行した。クラブなどというとお高いところを連想してしまうが、20人も客がやってくれば満席になる、気取らない店だった。ここかしこで、おねぇ言葉を駆使した丁々発止の会話が繰り広げられている。その中に混じることが、祥治には、何よりも楽しい。
 彼は、大学でも、就職してからは職場でも、自分を周りに対して「普通の男」として見せたいという気持ちが強かった。というか、そうしなければならぬという強迫観念みたいなものがあった。今の職場でも言葉遣いにはかなり気を使っている。おねぇ言葉なんてもってのほかだ。だから、この店に通い始めた頃は、ごく普通の男言葉で通していた。しかし、知り合いの客が増えてきた気安さから、試しにおねぇ言葉で会話してみたら、そのあまりの面白さに、やめられなくなった。
 会話の滑らかさ、ウィット、周りを唸らせるスパイスの利いたひとこと、阿吽の呼吸としか思えない鋭い切り返しの応酬。おねぇ言葉の独特の抑揚とリズムは、これらのことを難なく祥治にも可能にしてくれたのだ。職場で封じ込めているゲイの本性というものを、おねぇとして発散しつくし、何か憑き物が落ちたような軽々とした心持ちになると、マスターにお勘定をしてもらって祥治は次の店に向かう。メンズスナック『R』である。
 「祥チャン、これから『R』に、行くんでしょ?」
 「そうだけど」
 「マスターによろしく言っといてね。イイ人がいるといいわね、『R』に」
 「アリガト!}
 二丁目通いは長いのに、祥治にいっこうに「恋人」らしきものができないことを、マスターは気にかけてくれているのである。
 『R』は、『Ⅼ』よりもさらにこじんまりした店である。細長い店内には、カウンターしかない。椅子の数はわずか11にすぎなかった。そして、やって来る客は、スーツ姿の男たちばかりだった。もちろん、ノンけ相手の店ではなく、れっきとしたゲイスナックなのであるが、流麗で活発な客の話し声で満ちていた『Ⅼ』とちがって、ここの男たちはごく普通に静かに話した。というより、この店に来たらおねぇ言葉はそぐわない、だから使わない。そんな雰囲気が店内にはあった。
 大学の4年生のときにこの店を見つけ、ブレザーをかならず着用して入店していた祥治も、就職してからはスーツである。このころ、週休二日制はまだ一部の民間企業で始まったばかりで、公務員の世界では、やがては導入されるのだろうけど、まだまだ先のことだった。祥治の職場の、気のいい先輩も、「そのころには、俺退職だなぁ」なんて笑っていた。
 土曜日でも、半日だけではあるが、みんな会社や学校があったのだ。この夜、祥治は、土曜日なのに、午後にかけて残業が入ったため、仕事帰りにスーツ姿で二丁目に直行した。もっとも、『R』に来るには、そのほうが好都合だったのだ
が。
 「いらっしゃいませ」
 自分自身もサラリーマンみたいな服装のマスターが、にっこり微笑んで、祥治を迎え入れた。
 「こんばんはマスター。ちょっと、ご無沙汰でした」
 「どこで浮気してたんだい?」 
 と、入り口から二つ目の椅子に座っていた、40がらみの男が言った。マスターは、客に対して、軽口をたたくことはあっても、こういう言い方はしない人である。
 祥治は、曖昧に笑うだけである。外見は決して悪い男ではない。むしろ、祥治のタイプと言ってよい。しかし、言葉遣いがねちっこくて、人の話の揚げ足をとってしつこく食い下がるところがあり、祥治はこの男が苦手、というより軽い嫌悪感を持っていた。
 そういうことを、マスターは心得てるから
 「土曜日で混んでくるかもしれないから、祥治くん、一番奥の席、埋めちゃってくれないかな」
 と言う。その最奥の席から二つの椅子を隔てたところには、祥治が気兼ねなく話すことのできる仲にまでなっている、感じのいい二人組の客が座っていて、こっちにおいでよと、手招きしてくれている。祥治は、ありがたくマスターの指示に従う。できれば同席したくないその男から一番離れた椅子に、祥治は座ることができた。
 混んでくるかもしれないという、マスターの希望的観測は見事に外れて、客は四人のままだった。二人組相手の話は楽しかった。お気に入りの女性歌手のコンサートに、明日の日曜日に一緒に出かけるというようなことを、穏やかに押しつけがましくなく話す二人である。
 祥治は、ちらっと腕時計を見た。終電の時間まで一時間を切っていた。店から山手線の電車に乗るまでに、若い祥治でも、徒歩20分は見ておかなければならない。就職したばかりの薄給の身分である。タクシーを使うわけにはいかない。ここは夜の街だし、この店は朝の四時ぐらいまではやっているから、始発電車で帰ってもいいけれど、さすがにそんなことをすると、せっかくの日曜日を一人暮らしの部屋で昼過ぎまで寝て過ごすことになりかねない。それから掃除や洗濯をしたら、もう次の日は月曜日だ。
 今夜は格別のことがおこりそうにもない。切り上げ時かな、とふんぎりをつけ、三分の一ほど残っていたカンパリ・オレンジを飲んでしまおうと、祥治がグラスに手を伸ばしたときに、
 「あの・・初めてなんですが、、いいですか?」
 と言って遠慮がちに入ってきた客があった。それが、浜名紘一だった。
 このころは、サラリーマンのスーツと言っても、昨今のようにリクルート色一辺倒というわけでもなかった。紘一のスーツは、明るめのグレーで、高級感はなかったが、手入れが行き届いていて清潔感があった。そして、そんなに背は高くないけれど引き締まってすらっとした体型の紘一にぴたっと合っていた。そのみごとな立ち姿に祥治は目を奪われた。
 紘一は、入って来た入り口のすぐそばの席に座った。祥治からは、最も遠い席である。隣には、例の、ねちっこい話し方の男が座っている。
 「そんな端っこに遠慮して座らなくても、真ん中、空いてますよ」
 とマスターは言ったが
 「いえ、ここで」
 と、紘一は動こうとしなかった。例の男が、にやけた顔をした。自分のことを気に入って、あえて隣に座って動こうとしないのだと、自惚れの誤解をしたのだ。
 ジン・トニックを紘一の前に差し出しながら、マスターが聞く。
 「お仕事帰りに寄ってくださったんですか?」
 「いえ、俺、東京のもんじゃないんです。きょうは、会社の出張で」
 H市から来たのだと、紘一は言った。明るい風光の大きな湖と世界的な楽器製造会社で知られる町である。
 「へぇ、じゃ、今夜は新宿泊まりなの?」
 ねちっこい口調で、例の男が絡んでいる。
 「そうですね」
 「どこに泊ってるのぉ?駅の近く?」
 「ええ、まぁ」
 ホテルの名前を口にしないのは、言いたくないということだ。それが、この男には通じない。片っぱしから西口の一流ホテルの名をあげて、食い下がっている。
 この店は、静かな音楽を低めの音量で流している。ストリングスの、人口に膾炙した旋律の曲がかかっていた。マスターが話題を転換しようと試みた。
 「ああ、この曲、なんて言うんだっけ? 曲名が出てこない」
 二人組の一人が答える。
 「もとは、確かクラシックのピアノ曲のはずだよ。イージーリスニング風にしてあるけど」
 祥治には答えがわかっていた。原曲はベートーヴェンのピアノソナタ第8番の第二楽章である。ただし、『悲愴』という原題ではちょっと重すぎるのか、違う曲名になっていた。こういう場所ではめったに口にしないけれど、祥治はクラシックが大好きで、特にベートーヴェンについては、なかなかうるさい。
 会話に難渋したとき、音楽の話題を持ち出すのも、一つの有効な策ではあるけれど、それは音楽のジャンルによる。「僕、ほとんどクラシックしか聴きません。一番好きなのはベートーヴェンです」と正直に言うことが、未知の相手と仲良しになる近道であるとは、とても思えない。むしろ、逆効果だろう。まれに有効なこともあるだろうけど、それはそういう相手に恵まれたときであって、そんなことが起こる確率はかなり低い。祥治は経験でそれを知っていたから、黙っていた。言いたくて、うずうずはしていたが。
 二人組のもう一人が言った。
 「クラシックのピアノ曲ねぇ。ショパンとか?」
 こらえきれなくなった祥治は、口走った。
 「ベートーヴェンだよ」
 全く同時に声を発した者がいた。
 「ベートーヴェンですね」
 浜名紘一だった。紘一と祥治の声はぴったり重なって、狭い店内に響いた。二人は、お互いを見つめ合った。
 一目で見るものを惹きつける顔、というのではなかった。大勢の中に立てば、むしろほかの個性的な顔立ちに紛れて、埋没しそうな感じもする。しかし、しばらく視線を合わせていると、固くぎゅっと結んだ唇が意志の強さを思わせ、それに呼応するようにしっかりと黒くて太い眉毛の下には、やや大きめの両眼があって、知的な光をたたえながらも、どこか人懐っこかった。程よく焼けた浅黒い肌の真ん中には、すっきりと通った鼻筋があった。美男というよりは、男前という言葉の方が、しっくりくる顔立ちだった。
 祥治は思った。この人、顔は地味。きっとモテ方も地味。しかし、途切れることなくモテ続けているに違いない。 
 マスターと二人組の眼に、暖かい光が宿り、唇が優しく緩んだ。マスターは問う。
 「二人ともクラシックに詳しいんですね。ところで、お客さん、お名前、なんてお呼びすればいいんですか?」
 「コウイチです」
 二人組の一人が、わかっているくせに、祥治の方を向いて問う。
 「アナタのお名前は?」
 「ジョージだよ」
 「ベートーヴェンって何て名前だったの?」
 「ルートヴィヒだよ」/「ルートヴィヒですね」
 二つの声はまた重なった。
 「やっぱりそんな端っこにいないで、こっちへいらっしゃいよ」
 マスターは、はっきりと、祥治の隣の椅子を指さした。紘一は素直にマスターの指示に従った。紘一の隣で、ことの一部始終を見ていた例の男は、憎々し気に唇をゆがめると
 「マスター、お勘定!」
 と不愛想にいうと、千円札を数枚投げつけるようにして、店を出て行った。
 並んで座ると、紘一は律儀に自己紹介をした。ハマナコウイチ、31歳。祥治も黙っているわけにはいかなかった。キッカワジョージ、22歳。そして、あ、そうだというふうに腕時計を見た。終電の時間まで25分を切っていた。
 「電車の時間ですか?」
 「はい」
 「もう、帰らなきゃ、いけないのかな?」
 「あ、それは・・・」
 「明日の予定は?」
 「掃除と洗濯」
 「2時間もあれば、充分だよね?他に用事は?」
 「ありません」
 「だったら僕のホテルに来ませんか?シングルが取れなかったので、会社がツインの部屋の料金を出してくれました。そうでなければ泊まれません。俺の給料では贅沢すぎるところです」
 バブルの到来がそう遠い日のことではなかったころである。
 「どこのホテルなんですか?」
 「西口のWホテルです」
 再開発が進む高層ビル街の一角に、開業したばかりのホテルだった。ビジネスホテルと銘打ってはいるが、祥治の今の経済状況でおいそれと泊まれるホテルではなかった。
 「僕、ベートーヴェンの交響曲、全9曲について語り出したら止まりませんよ。一晩じゅう喋ってるかも」
 「受けて立とうじゃありませんか。ただし、僕はモーツァルト。最後の8曲のピアノコンチェルトですよ」
 「いいですね」
 「でも」
 「でも?」
 「喋り疲れたら、その後はどうしようか?」
 祥治は顔を赤らめて下を向いたまま、小声で言った。
 「僕、全てお任せします」

 店の前からタクシーに乗った。新宿の夜景をまじかに見渡せる22階の部屋は、どこもかしこも出来立てほやほやみたいにピカピカしていた。一人ずつ順番に軽くシャワーを浴びた二人は、備え付けの部屋着を羽織って、窓際のテーブルに向かい合って座った。
 「もう、酒はいいかな」
 「そうですね、冷たい水だけでもいいくらいです」
 氷の浮いたポットから、それぞれのコップに冷水を注いで、気持ちよさそうに紘一は飲んだ。案外に大きい喉仏がごくっと鳴った。大人の男の喉だった。祥治も飲んだ。わずかに唇の両端にこぼれ出た水を、無造作に右の掌で拭うその仕草は、まだまだ少年のものだった。
 そして、二つあるベッドに、別々に、ゆっくりと横になった。
 二人は、静かに、天井に向かって話し始めた。紘一は、巧みに、交響曲の話題をそらしていたから、話題はもっぱらピアノ協奏曲のことになった。紘一はK488の第二楽章について、祥治は作品37の、やっぱり第二楽章についてだった。両者の静謐の魅力について、それぞれ控えめながら熱弁をふるっているうちに、紘一も祥治も、気持ち良い眠りに落ちてしまった。
 目を覚ましたら、カーテン越しに、外がうす明るくなっているのがわかった。祥治は、隣のベッドに目をやったが、紘一の姿はなかった。彼は、窓のそばに立って、東京屈指の夜の街の、その夜明けを、自分の眼で確かめようとしていた。
 「ああ、目が覚めた?」
 「今、何時ですか?」
 「六時ちょっと前だよ」
 「二時間しか寝てないんですね」
 祥治は、紘一の横に立った。大都会の窮屈な空に、それでも昇っていこうとする太陽の、一番上の部分の弧が姿を現したと見て取った瞬間、部屋の中にかすかな光が差し込んできた。それに促されるように、二人の唇は重なった。情事は夜明けとともに始まった。
 チェックアウトまで30分を切っていた。今度は、二人一緒にシャワーを浴びて、大急ぎでスーツを着て部屋を飛び出した。22階のエレベーターの前に立った時、制限時間はあと5分のところまで来ていた。こういう時のエレベーターは、なかなか来ないものである。フロントのある階で扉が開くのを待ちかねて、紘一はルームキーの返却場所へ小走りにかけて行く。係の女性が、にこやかに笑ってそれを受け取った。
 二人は、これも開業したての、窓の大きな広々としたレストランで昼食をとった。ドタバタしている間は空腹を感じている暇など無かったが、目の前に食事が供されたとたん、二人は猛烈な食欲の虜となり、あっという間に洋食の皿は空になった。お互いのことなど見ていなかった。
 食後のコーヒーを飲みながら、やっと人心地つくころになって、祥治は、燦燦と降り注ぐ真昼の陽光の中で、カップを握る紘一の左手を眺めていた。喉仏と同様、思いのほか少々武骨な掌である。祥治にはそう見えた。しかし、長い指の動きはしなやかだ。この指こそが、先ほどまで、祥治の、22歳の青年としてはやや華奢な肢体を、くまなく、まるで舐め廻すように這っていたものなのだ。その間、何度も何度も、意志では封じ込めることのできない、祥治の歓びの叫びが、部屋中に響き渡った。紘一は、それを全身で受け止めてくれていた。
 あんな声、絶対に聞かせられないなぁ、あの人たちに。あんな姿,死んでも見せられないなぁ、あの人たちに。祥治は、心中深く、ひそかにそう思う。あの人たちとは、まだまだ元気な彼の両親のことである。ここまでは親思いの殊勝な孝行息子だったが、生身の男としての本音の呟きも同じ心のうちに聞えてくる。
 こんなにいいものなんだなぁ、セックスって。
 その、無言の呟きとほぼ同時に、紘一が、祥治の顔を覗き込むようにして言った。
 「何考えてるんだい?」
 聞こえるはずのない、羞恥に満ちた内心の呟き。そうだ、聞こえるはずがない。
 祥治は、改めて、コーヒーカップを握る紘一の左手の指を眺める。
 それなのに、この人は見透かしている。スーツで武装した僕の体の、ここかしこに、この指の感触が残っていることを。
 祥治は、ほんのりと、顔を赤らめる。しかし、俯くことはしなかった。ちょっとばかり、意地を張ってみたくなった。そして、じっと紘一の眼を見ながら、言い返した。
 「紘一さんと同じ事をだよ」
 「スケベなんだな」
 「お互い様でしょ」
 二人は、声をたてて笑った。紘一の口調が変わった。
 「祥治君、まだ時間、だいじょうぶかい?」
 「ええ、全然。紘一さんこそ、新幹線の時間があるんじゃ?」
 「『こだま』の自由席に飛び乗れば、二時間で着くからね。夕方まで、時間はたっぷりある。それで、ちょっと連れて行ってもらいたいところがあるんだ」
 予想外の申し出である。
 「いったい、どこですか?」
 「湯島天神」
 もっと予想外の返事だった。
 「姉貴の子供がね、まだ6歳の男の子なんだけど、なんと受験をするっていうんだ」
 「最近、増えてますよね、小学校の『お受験』」
 「そんなことやめとけ、もっとのびのびとさせればいいじゃないか、って言っても,俺の言うことなんか聞きゃしない。アンタに子育てのことに口出しする権利はない、とまで言われた。痛いところを突かれちゃったよ」
 祥治は、黙って続きを聞くしかなくなった。
 「でさ。やっぱり、あいつ、テッちゃんを見てると、なんか健気に頑張っているというか」
 「甥御さんが、可愛いんだね」
 嫌味でもなんでもなかった。
 「まぁ、なんていうの、親バカならぬ叔父バカってことかな」
 「それで、学問の神菅原道真、湯島天神のお守り、ってことなんだね」
 「ご明察。俺にはただ見てるだけで、なんにもできないからなぁ。せめて、ニッポンいちの受験の神様のお札ぐらいはって、思ったんだ。祥治くん、笑わないでくれよな」
 「テッちゃんて言うんだね、その子」
 「そう。哲雄っていうんだ。哲学のテツに英雄の雄」
 「浜名哲雄くん?」
 「いや、姉の子だから、苗字は違うよ」 
 「あ、そうか」
 「天竜って苗字なんだ、姉貴のダンナ。だから、テッちゃんは、天竜哲雄」
 「なんか、カッコいい名前だねぇ」
 「俺の人生に、俺の子供が登場することは絶対ないわけだろ?。そのせいもあるのかな、上の女の子、つまり姪も、可愛くてしょうがないんだ」
 紘一の口調に、やや沈痛な響きがあった。祥治は、あえて茶化した。
 「もったいないなぁ」
 「何が?」
 「さっきの紘一さんなら、子供なんて、軽く100人は作れそうなのに」
 「おぞましいこと言うなって」
 「でも事実です。この僕が言うんだから間違えようがないもん」
 「だったら、それは、祥治君だって、人のこと言えないんじゃないんですかぁ?」
 ぎょっとするような発言ではあるが、紘一は元の明るい口調に戻っている。祥治は、内心ホッとした。
 紘一が、天神様のお守りを大事そうにスーツの内ポケットにしまううちに、あたりは薄暗くなってきた。さすがに、本格的なレストランでディナーを取っている時間はなさそうだ。二人は、お茶の水まで歩いて、駅前の店でカレーライスを食べてから、別れた。
 また会えるかな、などと、そんな回りくどいことを紘一は言わなかった。
 「今度は、こっちへ来なよ。新幹線で」
 祥治も、一切の無駄を省いて言った。
 「楽しみだなぁ。H市って言えば、食べ物、鰻でしょ?」
 「ジモティーだけが知っている、とっておきの店に連れてってやるよ」
 「サイコーですね」
 「松・竹・梅なんて気取ったことは言わない店でね。メニューは、小・中・大・特大なんだな。祥治くんには、好きなだけ元気にぱくついてもらいたいね。さっきみたいに」
 「また、そういう卑猥な言い方をするぅ」
 「だって、事実だもんね」
 もうすぐ、東京駅行きの電車が来る。反撃するなら、さっさとしなきゃ。
 「じゃ、お伺いしますけど」
 「なんなりと」
 「僕がぱくついていたのって、その小・中・大・特大のどれだったんですか?」
 「それを一番よくわかっているのは、ほかならぬ君自身でしょ?」
 反撃できたんだろうか?多分、失敗だろうな。
 祥治は、紘一が乗った電車のドアが閉まるのを待たずに、手だけを振って、自分が乗るべき下り電車のホームへ向かって歩き出した。また、会えるのだ。あっさりと、別れた方がいい。
 二度目のデートの日程は、電話で相談して決めた。その日の五日ほど前に、紘一から速達の封書が届いた。その中には、往復の新幹線の乗車券と『こだま号』の指定席特急券が入っていた。往きは普通車だが、復りはグリーン車を奮発してあった。自筆の手紙にその理由が書いてあった。日曜日の夕方の上り列車なので、普通車の指定席は売り切れでした、と。律儀なことである。祥治は苦笑せざるを得ない。グリーン車なんて買ったのは、別に祥治に対してカッコをつけたわけでも、見栄を張って分不相応な贅沢をしたのではないと、紘一は言いたいのだろう。
 そんなこと、僕、とっくにわかってるよ。あなたはそういう人ではない。
 一人の部屋で、250㎞も離れたところにいる紘一に向かって、祥治は囁きかける。
 紘一は、俺の部屋に来てもいいんだぜ、とも言ってくれた。祥治は、心が動いたが、やっぱり辞退した。まだ、二度目なのだ。それならと、紘一は湖のほとりにある有名な温泉のホテルを予約してくれた。それはそれで申し訳ないと祥治は思いながらも,こみ上げてくるうれしさをおさえることはできないのだった。
 夢のような二日間だった。
 ただ、最後は少々慌ただしかった。湖の観光船やロープウェイに乗り、江戸時代の関所跡などをクルマで巡っている間に、新幹線の時間が迫って来たのだ。駅までの道は、日曜日の夕方ということもあって渋滞していた。紘一は、クルマを駐車場に入れて新幹線のホームまで祥治を見送るつもりだったが、それはあきらめて、新幹線乗り場の直近と思われる路上で、派手にハザードを点滅させながら、祥治をドアから押し出した。
 「気を付けて帰れよ。向こうに着いたら電話くれ!」
 という紘一の声を、祥治は小走りしながら背中で聞いた。
 脱兎のごとく改札口を通り抜け、跨線橋を走って上り下りして、ホームにたどり着くと、『こだま号』がホームに滑り込んでくるところだった。グリーン車のドアは、祥治の目の前で止まった。 
 こんなゆったりした椅子には生まれてこのかた座ったことが無いなと、リクライニングを目いっぱいまで使ってくつろぎながら、祥治は上がってしまった息を整えた。隣の席は空席である。ここに、紘一がいてくれたら・・・。それは、ないものねだりというものだ。この列車は東京へ向かっているから、H駅より名古屋寄りにある湖は、もちろん通らない。もう一度湖を見たい・・・というのも詮無いことである。今はただ、この心地よい揺れに身を任せればいい。
 目を覚ますと、左手に山手線の電車が走っている。まもなく、終点だった。
 電話の向こうで、紘一の弾んだ声が言う。
 「今度の終末か、その次か、そっちに行きたいんだけど、都合つくかな?」
 こみ上げてくるうれしさを抑えきれない祥治だったが、それでも手帳を確かめねばならなかった。確か、今週末は、日曜出勤のはずだ。
 「今週末は都合悪いです。その次で、いいですか?」
 「了解。今度は、出張じゃなくてプライベートだから、土曜日の昼から、一緒にいられると思うんだ」
 「前回と同じですね。うれしいな」
 「それじゃ、これから、Wホテルに電話してみる。ちょっと待っててくれな」
 今度は自腹を切るんだろうな。あんな高い値段のところじゃなくても、いいのに。
 20分ほどして、紘一からのコールがあった。
 「こないだと、同じ部屋がとれたよ」
 ちょっと、得意そうだ。
 「それで、日曜の午後なんだけど・・・」
 その口調が、湯島天神の時と似ている。
 「また、どこかへのご案内をご所望ですか?」
 「そうなんだ。K駅って、ホテルからそう遠くないよな?」
 「新宿駅から、快速に乗って、15分くらい、かな」
 「東京に行くんだったら、一度ここに行ってみろって、クラシック好きの友達が言うんだ。駅から3分ぐらい歩いたところに、雰囲気のいい名曲喫茶があるって。親父さんが、凝り性の人で、すっげえ真空管アンプとかスピーカーとかいろいろ揃えてあるらしい。レコードも豊富にあって、リクエストすれば、好きなレコードを、その装置でかけてくれるんだってさ」
 これには、祥治も、興味を持った。
 レコードとは、30センチの円盤、LPレコードのことである。CDは、すでに販売が始まっていて、扱いが手軽で、文字通りコンパクト、場所を取らなかった。針なんてないから、カートリッジの交換などという、面倒なことからも解放されていた。LPレコードは、ちょっとのことで疵がつきやすく、そのわずかな疵が致命的なダメージになることも多々あって、取り扱いには神経を使ったものだが、CDなら楽勝だった。ただ、高音質なのはまちがいなかったが、高額だった。それに、硬音質でもあって、なかなかCDの音質に馴染めないというオールドファンは多かった。まだまだアナログのLPレコードは需要も人気もあったのである。
 現在はまず見かけないけれど、この店のように、開店時間中ずっとクラシック音楽を流し、リクエストに応えて客が希望する曲や盤をかけてくれる『名曲喫茶』は、いたるところにあった。
 「すてきですねぇ。行ってみましょうよ!」
 「じゃ、決まりな。次の次の土曜日、11時ごろに着く『こだま』に乗るよ」
 祥治は、紘一を東京駅の新幹線ホームで出迎えた。二人は、もちろん、スーツではなかったが、ジーンズやポロシャツというのでもなかった。クラシックなスラックスにそれぞれが選んだ色合いの上着がよく似合っていた。
 「お昼、どこに行きたいですか?」
 紘一は、東口の伊勢丹デパートにほど近い、老舗の天ぷら店の名を挙げた。夜は、フラメンコのショーで名高い店に、7時の回の予約が取ってあった。ホテルのチェックインは2時。
 巨大な伊勢海老の天ぷらを頬張る祥治を、楽しそうに紘一は眺めている。何か言いたそうだ。何を言いたいのかは、わかっている。もう三度目だもの。口封じの意味もあって、祥治は、やはりクラシック好きの友人から仕入れた情報を提供した。
 「その名曲喫茶ね、なかなか厳しい店みたいですよ。クラシック音楽鑑賞店って看板が出てるらしい。レコード演奏中は客同士の私語厳禁。鰻とか海老天とかをネタに,いかがわしい軽口を叩いちゃダメですよ、紘一さん」
 「ご忠告、肝に銘じます。それでは、せっかくこの店に来たんだから、ジャンジャン注文していっぱい食べてくださいませ。五時間ぶんな」
 「7−2=5、ですけど、最後のぶんってなんですか?」
 「まだそんな野暮なこと言うんですか?君と僕の仲で」
 夕食の後は、喫茶店で少し時間をつぶして、『R』に二人揃って顔を出した。例の、ねちっこい話し方の男はいなくて、いつもの優しい二人組だけだった。マスターと二人組は、目を細めて紘一と祥治を見る。難しい受験にやっと合格した息子を眺める母親みたいな眼だ。
 ヴァイオリンとピアノで、素朴で弾むような心楽しいメロディーが流れてきた。
 「これ、なんて曲?」
 「ユモレスクだよ」/「ユモレスクですね」
 「誰の曲?」
 「ドヴォル」
 「ザーク」
 「どこの国の人?」
 「チェコ」
 「スロヴァキア」
 連邦国家だったチェコ=スロヴァキアが分離するのは、もうすこし先のことである。
 『R』を辞去しても、まだ10時を回っていない。二人は、心地よい微風に包まれて、二丁目からホテルまでの道を、30分もかけて、ゆっくり歩いて行った。
 深夜にホテルに戻ったわけでもないのに、二人は朝寝坊だった。ホテルのレストランで、遅い朝食をとっていると、小雨が降り出した。二人は、傘をさして新宿駅まで歩いた。K駅で国電を降りたときには、雨はやんでいたが、重苦しい雲がたちこめていた。
 歩いて3分のはずの名曲喫茶は、なかなか見つからなかった。昼間から客引きが立つような怪しげな店もある、入り組んだ小路を、紘一と祥治は、何度も行ったり来たりした。電信柱の番地表示が、ふたりが件の店のすぐそばまで来ていることを示していたが、店名の看板が見つからない。
 やっとそれを見つけたのは祥治のほうだった。
 「あった、あった。でも、これじゃわからないよねぇ」
 「宣伝する気、ないんじゃねぇの?」
 蛍光灯の白い明りが内側から照らす板面に、黒書きの店名が書かれてあるだけの、ごく小さな看板が、路上に、無造作に置いてあった。
 看板の奥は階段である。登ってみるしかなさそうだが、なんだか、陰気な感じのする空間だった。頑丈一点張りの武骨な雑居ビルは、全身がすすけているように、汚れていた。こんなところに、ほんとにクラシックの名曲喫茶なんてあるんだろうか。そう思わずにはいられなかった。それでも、2階に上がっていくと、二つの店が、昼間から営業しているようだった。他の店のドアは、固く閉ざされている。営業は夜になってからなのだろう。
 右手奥から、サックスらしいテンポの速い曲がドア越しに音を漏らしていた。ジャズ喫茶であるらしい。その左手前には、もう一軒店があって、ガラスがはまった重そうなドア越しに、店員らしき人物が動いているのがわかった。ドアの中央部に、紙が貼られており、流麗な毛筆で、こう書いてあった。
 <当店は、音楽鑑賞店です。客席での会話は、固くお断りします>
 どうやら、ここで間違いなさそうだった。紘一が先に立って店内に入った。祥治も続いた。
 店は、混んでいた。二人並んで座れる席は、正面の大きなスピーカーのすぐ横の席しかなかった。紘一と祥治は、そこに体をくっつけ合うよにして座った。それほど、テーブルも、椅子も狭かった。華奢な祥治はまだよかったが、紘一にとっては、この椅子は明らかに小さすぎた。
 上品な初老の婦人が、素人くさい手つきで、おしぼりと水のコップを二人の前に置いた。素人くさくはあったが、不愛想ではなかった。あとで祥治は知ったことだが、この人が、凝り性の店主の奥さんなのだった。
 もう一人、背の高い、ちょうど紘一と祥治の中間ぐらいの年齢の青年が、きびきびと店内を動いていた。彼は、曲が終わると、カウンターの奥で仕切られた、レコードプレイヤーが置いてある空間まで行って、素早い動作で、レコードを裏返したり、新しいレコードにかけ替えたりしている。そして、客席に向かっておかれている二枚のホワイトボードに、今始まった曲とその次にかける曲の、作曲者・曲名・演奏者を黒のボード用マジックで書いては消していた。それぞれのホワイトボードの横には、そのレコードのジャケットが並んで立てかけられる。
 祥治は、この青年に、「のっぽくん」という渾名を奉ることになるが、それは、もう少し先のことである。
 紘一はブレンドコーヒーを、祥治はレモンティーを注文したが、なかなか飲み物は出てこなかった。というより、できるだけ早く注文の品を提供しようというつもりはないようだった。音楽を聴いて、お待ちなさい。クラシックは、長い曲が多いでしょ。にこにこと笑顔を絶やさない店主夫人がそう言っているような気がした。
 やっと運ばれてきたカップのソーサーには、勘定書きの紙が乗っていた。真ん中あたりに、横にミシン目が入っている。下の部分は、リクエストカードである。入り口のすぐそばの書棚に、作曲家別のクリアファイルがあって、それがこの店が所有するⅬPレコードの一覧であった。リクエストをする客は、この中から曲を選び、作曲者・曲名・レコード番号を、5センチ四方くらいのリクエストカードに書いて、ミシン目に沿ってそれをレシートから切り離すと、カウンターに座っているさっきの青年の所に持って行く。レコード番号を記すのは、同一の曲のレコードが何枚もあるからである。特に、バッハからベートーヴェンまでの後期バロックと古典派が充実しているようだった。
 『新世界交響曲』の第三楽章が終わりかけているころに、二人は席に落ち着いた。フィナーレを並んで座って聴きながら、その圧倒的な迫力に、紘一も祥治も度肝を抜かれた思いだった。私語厳禁を忠実に守るように祥治から言い渡されていた紘一だったが、内緒話さながらに祥治の耳元に口元を近づけると、こう囁いた。
 「すげぇな。かなり本格的なんだ。自分の部屋じゃこうはいかないよな」
 祥治も同感であるから、首だけ縦にふった。耳たぶに触れる紘一の唇の感触が、なまめかしい。集合住宅の下宿に一人住まいの自分には、こんなふうに音響空間そのものを楽しむことはできない。『英雄交響曲』をオーディオで聞くときには、それなりに音量には気を使っている。
 ここで聞いてみたいな、『英雄』の全曲。そんな祥治の願いとは裏腹に、交響曲はその後、かからなかった。大音量に疲れた客たちの耳をいたわるよに、静かな歌曲が流れる。聴いたことのある曲だと思いながら、祥治はなかなか曲名を特定できなかったが、ドイツ語としては少々柔らかな発音のバリトンが歌い上げはじめたところで、グリーグだとわかった。
 <Ich liebe dich, wie nichts auf dieser Erde,ich liebe dich in Zeit und Ewigkeit!>
 紘一が、狭いテーブルの下で、そっと祥治の手を握った。
 その次は、バッハの『無伴奏チェロ組曲第1番』だ。自分には渋すぎる。そう祥治は思った。しかも、モノラル録音だ。こんなすごい再生装置がそろっているのに。クラシックが好きと言っても、このころ彼の関心は、まだまだ、古典派からロマン派中期にかけての交響曲と協奏曲に集中していた。そういうものを、なるべくクリアな、広がりを感じることができるステレオ録音で聞きたかったのだ。たった一本のチェロで、ぶーかぶーかやっているだけ。若い彼は、そういうものの滋味を汲み上げて音楽鑑賞の経験の中に積み上げていく段階にまでは至っていなかった。ただ、プレリュードの冒頭を聴いて、なんだ、このメロディー、この曲のだったのかと、一人で納得するだけである。
 ブラームスの『ピアノ四重奏曲第一番』が流れて来た。祥治にとって、ブラームスは、なかなか手ごわい相手だった。『交響曲第一番』を聴くときなど、身構えてしまって、つい体のどこかに力が入ってしまう。でも、初めて聴く曲ではあったが、ブラームスの室内楽ってのもたまにはいいなと、そんなことを考えている祥治であった。
 紘一が、入り口のそばの書棚のクリアファイルから一冊を抜き出してきて、それをパラパラとめくりながら、リクエスト用紙に何やら書き込んでいる。それを見て、祥治は、そういえばまだ一曲もモーツァルトが流れていないことに気づいた。大好きなピアノコンチェルトのどれかでもリクエストするんだろう。しかし、ファイルの背表紙のタイトルには、ただ一行、ベートーヴェンと書かれていた。
 「モーツァルトじゃないんだね」
 「うん。今日はベートーヴェンにしたいんだ」
 気を利かせて、僕の好きな交響曲にしてくれたのかなと、ちょっとうれしがっていたら、「のっぽくん」が、何も書いてないホワイトボードの横にジャケットをポンと置いた。名ピアニストの晩年の顔に見覚えがあった。ヴィルヘルム=バックハウスである。あ、そうか、ピアノ協奏曲ってこと?
 そのどちらでも、なかった。
 弱音で、しかし、両手の、まるで弾丸でも打ち出すような隙のないリズムの打鍵の中から、右手に浮かび上がる軽やかなフレーズ。聴き手を引き込むにはそれだけで十分であった。
 祥治は身動きがならなくなった。
 息遣いは、どうか。このピアニストが生み出している、たった一回だけの、この場だけの、「間」、というものに、みずからの呼吸を合わせるだけだった。
 後半楽章に入り、遠慮がちにロンド主題が姿をあらわすと、紘一がそっと祥治を、自分の方に引き寄せた。祥治と紘一とヴィルヘルム。三人の、生きて呼吸をしている肉体の鼓動が、祥治の中で一つになった。そうでありながら、紘一と祥治の身体は微動だにしなかった。
 ロンド主題は、何度も響いた。最初の、四分音符ー付点四分音符ー八分音符の三つの音のつながり。ピアニストは、どれ一つとして、同じようには叩いていない。祥治も、どれ一つとして、同じように受け止めてはいなかった。その、それぞれにおいて、テンポ・強さ・音の粒の大きさが、ぴたりと、今この時の祥治の心情と重なって、寸分のずれもなかった。
 このまま、永久に時間が止まってしまえばいい。言い古されたフレーズである。祥治は、机上で読み知っていただけのこの言葉を、自分自身の現実として感じていたのである。
 気がつくと、あんなに混んでいた店内から、ほとんどの客の姿が消えていた。日曜日の、夕方と夜の境目のような時刻である。みんな、それぞれの塒に帰って、やるべきことがあるのだろう。「のっぽくん」の姿も、いつのまにか消えたいた。いま、ここにいるのは、紘一と。それに中年の女性客が一人だった。
 目鼻立ちのはっきりした、なかなかの美人である。どこか、華やいだところがあって、薄暗い店内で、彼女の周りだけがちょっとだけ明るい感じがした。きりっとした表情には、やや勝気な性格がほのみえているが、それが少しも嫌味ではない。
 カウンターから奥さんが顔を出して、残った3人の客の、誰に向かうともなく、言った。
 「コーヒー豆が切れてしまったの。自宅まで取りに行きたいんだけど、お留守番お願いしていいかしら?」
 三人は、顔を見合わせて、同時に奥さんに向かった頷いた。
 「ごめんなさいねぇ。5分もかからないと思うんだけど」
 という言葉を残しながら、奥さんは、ドアの外に消えた。
 静寂が残った。無音の空間から、紘一の発する、自分への呼び声を、祥治は聞いた。
 静かな語りかけであったが、容易ならざる響きが籠っていた。悲し気に祥治を見つめる黒い瞳。ついさきほどまでの紘一ではなかった。
 「祥治くん」
 祥治の背筋が、ちっちゃな椅子の上で、ピンと伸びた。
 「俺、カナダに行くことになったよ」
 「北米のカナダ、ですか?」
 「そう。ヴァンンクーヴァーってところ。転勤なんだ」
 紘一は、あれこれ説明する前に、一枚の紙を、そっとテーブルの上に置いた。辞令であった。
 祥治も無言で、その辞令を読んだ。読みながら、心の中で呟く。紘一さんらしいやり方だね。僕と別れるためにでっち上げたデタラメじゃないんだよって、言いたいんでしょ。僕、とっくにわかってますよ。あなたはそんな人じゃない。
 「いつ、決まったんですか?」
 「俺が知ったのは、おとといさ。思ってもみなかった、この俺が海外赴任だなんて」
 二週間前の電話口で弾んでいた紘一の声を、祥治は思い出した。あの時は、まだ知らなかったんだね。紘一の心情を思いやると、祥治は胸が苦しくなった。どうやって言い出そうか、どう言えば祥治を傷つけずに済むか。紘一は、さんざん考えて、ここに来たにちがいないのだ。祥治には、それが痛いほどわかった。苦しかったでしょう?
 もう会えないの?ーそんなことないさ、なんならカナダに遊びに来いよ。飛行機でひとっとびじゃないかーそうだね、絶対行くよ。
 そんな会話を交わしてみてもしょうがない。そんなこと、二人にはわかリ切っていた。
 「これからは、手紙、かな」
 「いいねぇ。祥治くんは、きれいな字を書くしな」
 「『カナダからの手紙』、か」
 「ウタの文句みたいだな」
 お互いが書いた文字を読むことはできる。その気になれば国際電話で声も聞ける。この当時は無理だったが、現在なら、パソコンさえあれば、画面の中にその人を見ることも可能だ。
 だけど、絶対にできないことがある。それは、紘一の、ワイシャツの内側に隠された、はがねのように逞しく厚い胸に、そっと頭をのせて、その心臓の鼓動を聞くことだ。
 入り口のドアが開いた。奥さんが戻ってきたのだ。二人は立ち上がった。二人を見送る中年女性の眼には、悲しい光が宿っていた。
 階段を降りて、狭い小路に出ると、小雪が舞っていた。
 K駅から電車に乗れば、東京駅まで直通で、30分ほどである。
 「新幹線のホームまでは見送らせてくださいね」
 「あたりまえだろ」
 日曜日の午後8時。東京駅の新幹線ホームは、まだまだ多くの人でごった返していた。
 その人込みをすり抜けるようにして、紘一は、『こだま号』自由席の窓側の席に落ち着いた。発車直前までその隣に無言で座っていた祥治は、「お見送りの方は、ホームでお願いします」という車掌のアナウンスとともに、ホームに出た。
 紘一の窓は、ホーム側にある。窓ガラスを通して、二人は向かい合った。
 恋人との切ない別れ、雪のちらつく夜のプラットホーム。都会のビルの明り。あっけなかったけど、こんな終わり方も悪くない。俺、なんだか、ドラマの主人公になったみたいだし。
 本心ではなかった。無理やり心の内でそう呟かなければ、自分を支えていることができなかっただけである。
 滑らかに『こだま号』はホームを離れて行った。緩やかなカーブの先に列車のテールランプが消えるまで、祥治は、身じろぎ一つせず、それを見つめていた。紘一は、行ってしまった。これで終わりだ、さぁ、帰ろう。そう思って歩き出した瞬間、自分の周りの、灯という灯りが、滲んで見えた。涙が止まらない。一歩も先に進めない。
 こんなところまで見送りになんか来るんじゃなかった。
 雪は本降りになって来た。ホームが薄く白く覆われていくのを、祥治は、ただ見つめているしかなかった。
 カナダへの手紙は、定期的に出した。紘一からの返事もすぐに届いた。やがて、その間隔が少しずつ長くなった。そういえば、こないだの手紙に返事を書いてないなと、封筒の日付をみると、それが一か月も前のことだったりした。めったにカナダからの手紙は来なくなった。そして、往来は、完全に途絶えた。祥治の中で、まるで薄紙をはがすようにゆっくりとではあったが、紘一は思い出の人になりつつあった。
 紘一が祥治に残したもの。あのしなやかな指で、祥治の肢体のそこかしこに残された快楽の痕跡。そんなものは、跡形もなかった。あんなに好きだった顔も、セピア色となって、心のスクリーンに浮かんでくるにすぎない。やがて、それも、うすぼんやりとしたものになり果ててしまうのだろう。
 しかし、消えないものも、もちろんあった。『ワルトシュタインソナタ』のロンドが心の中でならない日は、一日とてなかった。
 そして、現実の祥治の、日々の生活にしっかり根をおろしてしまったもの。めったなことでは、消滅しそうもないもの。それは、あの名曲喫茶であった。彼は、ここに通い詰めるようになった。 当初は、店の中を見渡して、あの日の紘一の面影を追うこともあったけれど、そんな甘い未練心が薄れていくのとは対照的に、かずかずの未知の曲との出会いは増えて行った。曲そのもののほかに、「演奏」というものにも心が向くようになってきた。ここで過ごす楽しくて充実したひとときは、どんどん長くなった。この名曲喫茶は、確実に、祥治の現実生活のもっとも大切な一部となったのである。

【夏のアリエッタ】
 お盆も過ぎたというのに、連日の猛暑だった。朝からうだるような暑さ。何もする気が起こらない。音楽をかけるのさえ億劫だ。仕方がない、プールにでも行くか。
 吉川祥治は、ネイヴィーブルーのTシャツに、降ろしたてのホワイトジーンズといういで立ちだった。祥治は、他人との競争に関心が薄いタイプの人間で、そのせいばかりでもないだろうが、自分一人で楽しめるスポーツが好きだった。だから、ランニングだってもちろんいいのだが、今日は勘弁願いたい。やっぱり、水泳だ。
 お気に入りの、公営複合スポーツ施設のなかに、50メートルを縦に泳げる大きなプールがあり、祥治はもっぱらそこを愛用していた。中央部の水深は2メートルを超えており、本格的な競泳プールである。いったん泳ぎ始めると、彼は1キロばかりを一気に泳いで、さっさと切り上げることが多かった。途中、プールサイドに上がって休憩してもいいのだが、せっかくいい気分で横になってくつろいでいると、必ず声がかかった。男からである。
 きみ、よく、ここに来るの? 
 ーー余計なお世話だ。ちゃんと入場料払ってるぜ。
 ちょっと細いけど、きれいないいカラダしてるね、やっぱり泳いでいるせいかな?
 ーーあなたが、ちっとも細くなくて、きれいとは到底言えないカラダをしているのは、そうやってプールサイドにばっかりいて、一メートルも泳がないからではないのか?
 八つ当たりである。どうして、俺の好みのタイプの男は、俺にちっとも声をかけてくれないんだ。くやしいなぁ。今日も、祥治は、水から上がるとシャワー室に直行だ。プールサイドには目もくれない。
 施設から電車の駅まで歩いて3分である。プールで気持ちよく体が冷えたのに、その3分を歩くのがつらい。あっという間に滝のような汗がネイヴィーブルーのTしゃつをぐっしょりと濡らしていく。

 この駅からK駅までは、各駅停車の電車に乗れば、乗り換えなしに行くことができる。複々線で並行して走っている快速電車は、ここには停まらない。途中、快速に乗り換えれば、早く着くのだが、祥治の感覚では、その差はわずかでしかない。階段を上り下りして汗をかくよりも、このまま座ってのんびり各駅停車で行く方がずっといい。車内の冷房が効きすぎて、Tシャツだけでは寒いくらいだが、それもまたいい。
 読みかけの文庫本の小説を開いてはみたが、頁を一枚もめくらないうちにグーグー寝てしまい、本が床に落ちる音でハッとして目をさますと、次がK駅だった。あぶないところである。

 駅から名曲喫茶までの3分間が、またしんどかった。ギンギンに冷やされた祥治のカラダは、またあっという間に汗だくになる。
 この店の冷房機はかなりの年代物で、適切な交換の時期をとっくに過ぎている。効きが弱すぎて、滞在中一度も汗がひかない日もあれば、さっきの電車のように、もう一枚上に羽織りたくなる日もある。今日は、後者である。それが、今の祥治にはありがたい。それほどに暑い昼下がりだった。
 今日カウンターに座っているのは、店主夫人である。みんなからは『奥さん』と呼ばれている。
 「あらあら、びっしょりねぇ」
 「もう、焼け死にそうです」
 「コーヒー、アイスにする?」
 「いえ、キリマンジャロ。やけくその熱々で」
 「はいはい、わかりました」
 店内には自分のほかに誰もいないと思っていたが、奥の席から、祥治と店主夫人のこのやり取りを笑って見ている女性がいた。もともと目鼻立ちのはっきりした顔に、もっとはっきりした化粧を上手にほどこしているから、誰が見ても文句なく華やかな美人である。年齢は、祥治と奥さんの中間ぐらいか。まだ若い祥治には、見当がつかない。というより、彼は、女の年齢というものに全く関心がない。タイプのアニキなら、一瞬で、見た目の年齢と実年齢をはじき出すコンピューター並みの頭脳を持っているのに。
 祥治は、彼女と目が合うと、黙って軽く会釈した。顔見知りではあるが、知り合いではない。口をきいたこともない。でも、無視することはできない。彼女は、浜名紘一が、この店で祥治に、カナダ行きを苦し気に告げたあの日、一人だけ店内に残っていて、おそらくその一部始終を見聞きしていたはずの人なのだ。祥治には、それがわかっていた。
 バッハのカンタータが流れている。祥治の注文通りアツアツのキリマンジャロが湯気を濛々と上げながら運ばれてきた。それを啜りながら、ソプラノのアリアに耳を傾けていたら、どうしようもない眠気が彼を襲って来た。朝からの行動を振り返れば、無理のないことである。
 右ひざのあたりに、鋭い熱さを感じて、はっとすると、降ろしたてのホワイトジーンズの右ひざから上10センチ当たりの一面が、薄茶色に染まっているのが見えた。しまった!コーヒーカップを握ったまま、居眠りをしたらしい。まだ、ソプラノのアリアが続いていたから、ほんの一瞬のことだったのだろうが、カラダが揺れた拍子にカップから液体が漏れ落ちたにちがいなかった。
 「うそだろ?」
 慌てふためいて、おしぼりでジーンズの右膝あたりをごしごしやってみたが、どうしようもない。相手はコーヒーである。これで、このジーンズの無垢のような白さは、二度と戻ってこないだろう。自分の迂闊さが情けなくて、祥治は泣きそうな顔になった。
 そして、気づいた。このいまの一部始終も、彼女に見られていたことを。必死になって声を出さないようにこらえてはいたが、明らかに、この女性はこみ上げてくる笑いを止めることができないでいるのだ。
 祥治はとりあえずカップをテーブルに置いた。パニックはようやく静まりつつある。それと歩調を合わせるように女性が席をたった。その手には、水色のリクエストカードがあった。

 何を聴くつもりなんだ。奥さんが棚に置いたレコードジャケットを見て、祥治は、あやうく、また、うそだろ?、と言いそうになった。彼女がリクエストしたのは、ベートーヴェンの『皇帝』だった。
 このクッソ暑いのにぃ。そりゃ、俺は、ベートーヴェンは好きだけど、きょうだけは、もっと涼し気な曲って、なんかないのかよ。
 ピアノはエミール=ギレリス、ジョージ=セル指揮クリーヴランド管弦楽団。この曲の名盤の誉れ高い一枚である。祥治は、当然、『皇帝』はかなりの頻度で聞いていたが、この盤をじっくり聴いたことは、まだなかった。だから、心の中でぶつぶつ文句は言いつつも、耳はしっかりと音楽を捉えようとする。いったい、どんな演奏なのだ?
 ギレリスといえば、「鉄人のような強靭なテクニック」が合言葉みたいになっている。それは祥治だって知っている。だから、冒頭ジャーンンン・・・のあとのピアノ独奏カデンツァを一所懸命聴く。なるほど、こんなもんか。さてさて、お手並み拝見。
 度肝を抜かれる思いをしたのは、管弦楽が一段落して、再びピアノが登場した時である。何が祥治の心を奪ったのか。超人並みの打鍵の強さでも、機械のような正確さでもなかった。オーケストラの刻むリズムにのって、駆け下りてくるときの、その疾走感のすさまじさ。今度は、はっきり声に出して言った。
 「うそだろ? こりゃ、すっげぇ・・・」
 すごいのは、どっちだ?、とも思った。ギレリスのすごさにセルが引っ張られているのか?いやいやそんなはずはない。ジョージ=セルである。では、ギレリスがまんまとセルのすごさに乗せられているのか?そんなわけはなかろう。エミール=ギレリスである。
 粗相をした子供の様にしょげ返っていた祥治は、『皇帝』が終わるころには、完全に立ち直っていた。

 彼女が席を立った。さっき、リクエストカードを渡しに行く時も、祥治は気づいていたが、真っ赤でタイトなスカートである。そんなもんが、じつにぴったりと決まる人なのだ。スタイルは、ゲイの祥治が見ても、ほれぼれするくらいである。歩き方もカッコイイ。祥治のテーブルの前を、顔をまっすぐ前に上げて通り過ぎると、カウンターで奥さんとちょっとのあいだ、楽しそうにおしゃべりしている。腹の底から出てくるような、それでいて軽やかさもある声であった。
 突飛な連想ではあったが、祥治は、彼女が今の服装で、美空ひばりの「真っ赤な太陽」でも歌ったら、割れるような拍手喝采を浴びるのは間違いないと思った。ほどなく、祥治は彼女に「ひばり姐さん」という渾名をつけた。本人はもちろん、他の誰にも言わずに。
 彼女が去ったテーブルを見ながら、祥治は、なぜあの人は『皇帝』をリクエストしたのかと、考えた。コーヒーをジーンズにこぼしたくらいで、あたふたしなさんな。あんた、男でしょ?とでも言いたかったか?いや、それは違う。彼女の意志の強そうな両眼が、無言で語っていたではないか。
 一回くらい失恋したくらいで、めそめそしなさんな。カッコ悪いわよ。

 一人店内に残されて、祥治は自分も何かリクエストしようと思った。奥さんだって、そのほうが助かるだろう。でも、ベートーヴェンは、もういいな。珍しく、祥治は、ロマン派の作曲家たちのクリアファイルを広げた。ブラームスとショパンは別格だが、この店のドイツロマン派以降のレコードは、ぐっと数が少なくなる。その中に、(演奏)エミール=ギレリスの文字を見つけて、祥治ははっとして手を止めた。
 グリーグのページだった。有名なピアノ協奏曲ではなく、祥治がまだよく知らない『抒情小曲集』の方である。グリーグかぁ。まちがいなく、暑苦しいということはないだろう。客は自分一人である。祥治はリクエストカードの余白に、「差し支えなければ、両面聴きたいです」と添え書きして、奥さんに渡した。
 第一集第一曲『アリエッタ』が流れ始めた。あれ、このメロディー、この曲のだったのか。ほんとに、クラシックの旋律って、いろんなところで姿を変えて流されてるもんだな。このころ、祥治がよく抱いていた感想である。しかし、そんな悠長な気分でいたのは、最初の一瞬だけである。さっきの『皇帝』も、うそだろ?だったけど、このアリエッタも、別の意味で
 「うそだろ!」だった。
 どんな弾き方をすれば、こんな細やかで温もりたっぷりの歌が聞えてくるのか。
 ギレリスの『テンペスト』第一楽章をCDで聴くと、その打鍵のすさまじさに、さすがに圧倒される。弦が、他のピアニストの演奏からでは絶対に聞えてこない音を出すのである。彼は全身全力をかけている。弦が、「僕、もうこわれちゃうよ、勘弁して」と言っているのか、「よくぞ、このワタクシから、こんな素晴らしい音を出してくれました。ありがとう」と言っているのか。祥治には、今のところ分からない。しかし、ギレリスのピアニズムには、こういうこととは対極的な何かが、同時にあるような気がする。
 どれだけ、そっと、最弱で伝えることができるのか。
 彼は、そのことに全身全霊をかけているのではないだろうか。
 奥さんは、祥治の希望通り、両面をかけてくれた。この曲集は最後の曲のタイトルも『アリエッタ』である。冒頭を回想する形式になっているが、全く同じ音型なのではない。そして、消え入るように演奏は終わった。
 祥治は、しばらく、呆然としていた。暑いとか寒いとか、そういうことは、心の中から完全に消えていた。

 グリーグはノルウェーの人である。ノルウェーの夏は、どんな夏なんだろう。
 正面の大きなスピーカーの手前には、常に生け花が据えられている。奥さんが、生けたものである。きょうは、蓮であった。
 祥治は、日本の夏を生きている。
 かすかなかすかな独り言が、漏れた。その言葉の一粒一粒が、キリマンジャロが飲み干されたコーヒーカップに向かって流れていく。
 カナダの夏って、どんな夏ですか?

【秋のフーガ】
 広大な大学キャンパスのなかでも、ひときわ多くの学生が行きかうメインストリートのような道。その両側は、みごとな銀杏並木だった。東京都の公務員になって2年目の秋。吉川祥治は、学生しか知らない、渋谷方面につながる裏口から学内に入って、この並木道を、正門に向かって歩いていた。正門のすぐ前が私鉄電車の駅で、K駅に達している。
 ここは、祥治の母校で、前半の2年足らずの月日を、彼はここで過ごした。後半の2年間をすごしたキャンパスからほど近いところに湯島天神がある。あの日、祥治が、紘一をまるで自分の家にでも連れて行くように湯島天神に案内することができたのは、このためである。
 祥治は母校に舞い戻ったわけではなかった。仕事の都合で、大学の近くにある、とある企業に長期研修に来ていたのだ。彼のこれからのキャリアには欠かすことのできない知識と貴重な経験談を、この研修はあたえてくれた。研修時間が終了すると、祥治は必ず母校の並木道を抜けて、駅と企業の間を往復した。思い出に浸りたかったのではない。駅までの距離が、半分以下になるのである。
 今とは、セキュリティというものに対する感覚が根本的に違う時代である。銀杏並木の道は、まもなく、ギンナンを拾いに来る近所のおばさんたちで賑わうはずであった。まだ、学生で十分通用する祥治が、無断で構内を通り抜けても、誰も咎めたりはしないのだった。。
 一人暮らしの下宿にまっすぐ帰るのなら、渋谷行きの電車に乗るべきだったが、祥治は、研修の期間中、毎日、反対方向の電車に乗った。K駅の名曲喫茶のドアを押すためである。その最初の日、並木の葉は、ほとんどまだ濃い緑一色だった。少しだけ薄い色の緑になっている葉、わずかに黄色みが混ざっている葉は、急ぎ足を止めてじっくり眺めない限り、見当たらなかった。
 その日は金曜日の夜だったので、祥治はいつもより名曲喫茶に長居した。土曜日は企業での研修が無い。だからと言って、都庁に出勤したところで、中途半端なだけだ。祥治はこの期間中土曜日は半日の有給休暇をとることにしていた。
 モーツァルトの『ジュピター』を、ブルーノ=ワルターで、と書いたリクエストカードを、少しばかり肩を怒らせて、カウンターののっぽくんの所に持っていく。
 「俺がいるとき、モーツァルトのリクエストをするの、初めてじゃないですか?」
 「そうだった、かな」
 曖昧にごまかす祥治であるが、のっぽくんはこういうことはちゃんと覚えている人である。
 紘一が好きだった、モーツァルト。祥治は、しばらく、それを聴くのがつらかった。こころのざわつきは、徐々に薄紙をはがすように消えて行ったが、この店で自分からリクエストをしてまで聴く気にはなれないでいた。しかし、今朝、透き通った秋晴れの空の下で、銀杏がはっきりと黄金色に色づき始めているのを見て、そろそろ自分の中のこのいましめを解いてもいいのではないかと、祥治は思ったのだ。それでも、さすがに、ピアノ協奏曲は避けた。K543かK551か、散々迷った。しかし、39番の方は、甘い悲しみを奥深く秘めている曲。それが、祥治のモーツァルト体験の結論である。一方、41番は、堂々とあっけらかんとした明るさと、力強さで一貫している。それで『ジュピター』を選んだ。久しぶりに、あの、第4楽章終結部の、どうしようもなくカッコいいフーガを聴いてみるのも、悪くない。そんなことも考えていた。
 久々に聴いた『ジュピター』の終結部フーガはすばらしかった。ぜったい胡麻化されるもんかと手品師の両手をじっと見つめていたのに、いつの間にか、何もネタがわからないまま、鮮やかに手品が成功して終わったような、そんな感覚になる。やっぱり、モーツァルトは、すごいのだ。
 満足して、席を立ってトイレに行こうとすると、狭い通路で中年の女性とぶつかりそうになった。
 「あら、ごめんなさい!」
 「僕のほうこそ!」
 祥治はこの店で何度も彼女を見かけている。しかし、口をきいたことは、これまで無かった。
 案外、若やいだかわいい声で話すんだな。
 この人は、J.S.バッハの、独奏鍵盤曲しかリクエストしない人である。自分のリクエスト曲がかかるまでは、他の曲を聴いていることもあるが、本を読んだり、たばこを吸ったりすることもある。しかし、ひとたび、パルティータだのインヴェンションだのがはじまると、両手をきちんと膝の上で組んだまま、身じろぎ一つしないで聴き入っている。やや、やせぎすで、顔つきも身のこなしも女性らしく柔らかだが、この鑑賞態度は、祥治などのチンピラクラシックファンなんて寄せ付けません、みたいな雰囲気があって、祥治はひそかに、彼女のことを『アンナ=マグダレーナ先生』と心のうちで呼んでいた。
 祥治は、リクエストを店に来てから決める。だから、リクエストカードは、その時にボールペンで走り書きする。アンナ=マグダレーナ先生も、リクエストカードは書くけれど、それは次回の分である。今日聴きたい曲は、すでに持参のカードにきちんとあらかじめ記入されていて、それをカウンターに持っていくだけだ。あなたみたいな、行き当たりばったりのことは、わたくしいたしません。背中が、そう言っているように見えてしまう。祥治には。
 今日も、彼女は、リクエストカードを渡した。ほどなく、その曲が始まるに違いない。今かかっているのはシューベルトの歌曲集で、歌っているのはシュヴァルツコプフである。もし彼女が、鍵盤曲ではなくて、歌曲ばかりをリクエストする人だったら、こっちの方の渾名でもよかった。
 しかし、祥治は、そろそろ帰らねばならない。閉店ぎりぎりまでいると、都合のいいバスに間に合わなくなるのだ。アンナ=マグダレーナ先生のリクエスト曲が始まったとき、祥治はカウンターでのっぽくんからお釣りを受け取っていた。聞き覚えのあるメロディーが、チェンバロで流れて来た。祥治の「ああ、このメロディ、この曲だったのか」が、また始まったが、きょうは肝心の曲名がわからない。祥治は、のっぽくんが書いたホワイトボードの字を読んだ。
 バッハ 平均律クラヴィーア曲集第一巻第一面 ルージイチコヴァー
 自分のよく知っている、親しみやすいこのメロディーの曲名が。これなのか?
 祥治は、このいかにも敷居の高そうな曲名をじっと見入っていた。
 翌日の土曜日。開店と同時に祥治は名曲喫茶のお気に入りの席に座った。30分後くらいに来た男女のカップルの若者が、マーラーの交響曲第5番第4楽章アダージェットを聴きたいと言う。のっぽくんは、第4楽章が終わっても、レコードの針を上げずに、続けて第5楽章を流した。祥治は、マーラーみたいな作曲家でもフーガって使うんだなと、気がついた。そういえば『英雄』の第2楽章『葬送行進曲』にも、真ん中あたりにフーガがあったはずである。
 フーガと言えばバッハ。そして、バッハと言えば、きのうのアンナ=マグダレーナ先生である。祥治は作曲家別クリアファイルからバッハ(器楽曲のみ。声楽曲は別のファイル)を席に持って来て、パラパラめくってみた。平均律クラヴィーア曲集という難しい名前の曲集のレコードは何種類もあった。もう一度、昨夜のメロディーを聴いたみたい。正確には、メロディーと言うよりも、シンプル極まる分散和音の魅力にもう一度触れてみたい。
 リヒテルを選んだ。昨日チェンバロで弾かれていた曲が、ピアノだとどうなるか聴いてみたかったのである。リヒテルの平均律クラヴィーア曲集第一巻第一面は、当然のことながら、第1番ハ長調の前奏曲だけでは終わらない。同じ調による前奏曲とフーガの組が、何組か終わったところで、第二面に続く。それが全24の調にわたって繰り広げられて、しかも第一巻だけでなく第二巻もあるという。全部で96曲である。祥治には今の第一面だけでもう充分だ。前奏曲はいいけれど、フーガの方は少々今の自分にはハードルが高すぎる、と思った。
 もうひとつ、祥治をへこましたことがある。のっぽくんが書いてくれたホワイトボードの字を見て、何か違和感を感じていた彼は、自分がリクエストカードに「平均率」と書いていたことを思い出した。自分の無知にほとほと呆れ果てざるを得なかった。アンナ=マグダレーナ先生、ごめんなさい。
 翌日の日曜日は、午後5時ごろ店に入った。祥治が、モーツァルトの『クラリネット五重奏曲』をリクエストした後は、それに続く者がない。何をかけようか迷っていたのっぽくんは、祥治と目が合うと、ニヤッと笑って、リヒテルの平均律クラヴィーア曲集第一巻第二面をかけた。うーん、これはもう、いいんだけど。でも仕方がない。じっと最後まで聴いた。というより、どうにか居眠りなどせずに聴き終えた。

 並木のイチョウの葉が黄金色に染まって、やがてすっかり散り終えるのと、俺が毎回一面ずつ平均律を第二巻の最後まで聴き終わるのと、どっちが早いだろう。祥治は、ほぼ毎日、銀杏並木を通っては、名曲喫茶にせっせと通い、リヒテルをリクエストし続けた。イチョウと祥治の競争は、祥治の方がちょっとだけ早かった。
 フーガとは何だろうと、祥治は思う。逃げていく者を、他の者が追いかけることだろうか。彼らは同じメロディーを歌いながら、追っかけたり逃げたりしている。人間も、そんなことをして、一生を終わるのかな。気持ちは同じはずだったのに、いつの間にかどんどん、ずれていく。追跡と遁走の無限の組み合わせ。それが、人生なんだろうか。
 バッハ以降も、名曲を残した作曲家で、フーガを取り入れなかった者は、どれくらいあるのだろう。彼らは、一度はやってみたいのだな、この形式で。どうあがいても、バッハにかなわないことはわかっているけれど、作曲家として生きている以上、挑戦せずにはいられないにちがいない。それだけは、祥治にもわかる気がした。
 今の自分には、フーガは難しい。追いかけても追いかけても、耳はフーガに追いつかない。でも、きっと、これからも、全曲通してではなくても、平均律クラヴィーア曲集の前奏曲とフーガは、折に触れて聴き続けるに違いない。そして、もちろん、リヒテルも。
 祥治を、こういう気持ちにしてくれたのは、ほかならぬこの店なのだ。

 リヒテルも、ギレリスもウクライナの人である。ウクライナと言えば、夏の花ひまわりだけれど、ウクライナの秋は、どんな秋なんだろう。
 正面の大きなスピーカーの手前には、常に生け花が据えられている。奥さんが、生けたものである。きょうは、菊であった。
 祥治は、日本の秋を生きている。
 弱い弱い独り言が、漏れた。その言葉の一粒一粒が、キリマンジャロが飲み干されたコーヒーカップに向かって流れていく。
 カナダの秋って、どんな秋ですか?

【冬のインテルメッツォ】
 名曲喫茶とはK駅をはさんで反対側に15分ほど歩いたところに、大きな池のある都立の公園がある。もうそろそろ蝋梅が香り始めようかと言うころ、吉川祥治はこの公園事務所で仕事上の打ち合わせをしていた。祥治は東京都の公務員である。こういうところへの出張もあるのだった。昼前から、ちらついていた雪が本降りになった。しかし、ここまで来たからには、名曲喫茶に寄っていきたい。
 公園のすぐそばには私鉄電車の駅があり、それに乗ってもK駅に行けるけれど、わずか一駅なので乗る人は稀である。しかし、今日の祥治は乗るべきだった。どうせすぐそこだからと雪の中を歩き始めたのだが、風が強く吹くようになり、視界がきかず、思うように前に進めなくなった。祥治が雪に慣れない東京の人間であることに変わりはないから、どんどん降り積もってくる雪に、思わず足を取られることもしばしばだった。どうにか、名曲喫茶にたどり着いたものの、冷凍人間とはかくあらんと言えそうなくらい、全身が冷え切っていた。いや、実感としては、凍り切っていた。
今日の店員さんはのっぽくんである。
 「いらっしゃいませ」
 「ホットミルクを」
 と、祥治は言った。のっぽくんが意外な顔をする。祥治はアルコールやニコチン中毒は全くの他人ごとだが、カフェインとなると少々あやしい。食べ物が口に入った後は、珈琲が欠かせない体質である。この店ではいつもきまって、キリマンジャロだ。モカやコロンビアより、ちょっとかっこいい響きだったから試しにたのんでみたら、爽やかな酸味が、自分の口に合っていたのだ。
 しかし、いまは、体が雪で凍え切っている。少しでも、暖かい飲み物が欲しかった。
 ほどなく、湯気がもうもうとあがるあつあつのミルクが運ばれてきた。カップを触っただけで、かじかんだ指先が歓びの声をあげる。新しく買った本のページを一枚一枚めくるように祥治はミルクを一口ずつ啜った。こんなにおいしい飲み物が世の中にあったのか。そう思うだけで、身体が徐々にほぐれてくる気がする。
 室内楽がかかっていた。せわしげなアレグロが緩徐楽章に変わった。ミルク一口にピアノの呟き。もう一口飲むと、今度は弦楽器が優しく短く語りかけてくる。今度は、心が温かくなってきた。
 知らない曲だった。ホワイトボードには、のっぽくんの筆跡で『ブラームス ピアノ四重奏曲第3番op60』と手書きされていた。あの日、紘一さんと聴いた曲は同じブラームスのピアノ四重奏曲第1番だったな。今日は、独りで3番か。思い出すことがつらい、と言う時期は過ぎていた。甘酸っぱく懐かしい思いが勝っていた。イェルク=デムスのピアノ、弦楽はバリリ四重奏団のメンバーである。
 身も心もほどけて気持ちよくなった祥治は、座ったまま少し居眠りをした。クラッシック音楽を聴くのはもちろん好きだ。聴きながら居眠りするのは、もっと好きだ。最終楽章は彼が目を覚まさないうちに終わっていたらしい。カウンターの向こうでは、のっぽ君がレコードをを取り換えていた。やはりブラームスの、3つの間奏曲(作品117)が始まった。祥治を、もう少し気持ちよく寝かせておいてやろうということだろうか。祥治は、この初めて聴く曲に耳を傾けるうちに、すっかり目がさめた。
 目が覚めたくせに、祥治はキリマンジャロを追加注文した。やはりコーヒーなしには済まないみたいだ。カフェイン中毒の入り口にいるのだろうか。まぁ、いいじゃないか。今日は雪。雪は白。白いミルクにホワイトボード。そして、キリマンジャロといえば、雪。
 さぁ、今日もリクエストだ。迷わず選んだ。チャイコフスキー作曲交響曲第1番『冬の日の幻想』。祥治はチャイコフスキーをあまり聴かない。少なくとも、自分からCDをかけてこの作曲家の交響曲とつきあうことは、あまりない。ただ、この曲の第2楽章は大好きだ。もっとも、雪の大地ではなく、陰気な霧に包まれた風景を描いたものらしいが。
 夜になって、雪はやんだ。
 ブラームスは、ドイツの人である。ドイツの冬は、どんな冬なんだろう。
 正面の大きなスピーカーの手前には、常に生け花が据えられている。奥さんが、生けたものである。きょうは、梅であった。
 祥治は、日本の冬を生きている。
 小さな小さな独り言が、漏れた。その言葉の一粒一粒が、キリマンジャロが飲み干されたコーヒーカップに向かって流れていく。
 カナダの冬って、どんな冬ですか?

【春のカルテット】
 K駅から北へ路線バスで30分ほど行ったところにも、二つの大きな池を有する都立公園があった。吉川祥治は、その公園で職場の仲間と花見を楽しんでから、路線バスで南へ30分ほど揺られて名曲喫茶のドアを押した。
 「いらっしゃませ!」
 二つの声が同時に祥治を迎えた。一人は、例によって、のっぽくんだ。これから、閉店までは、彼がカウンターに座る。その彼と入れ替わりに、エプロンを外しているのが「リリーおばさん」である。ちょうど、交代の時間に、祥治は店に入ったのだった。
 「あらま、花と美男子ね」
 りりーおばさんが、祥治のシャツの肩に桜の花びらが乗っているのを見て、そう言った。イケメンと言う言葉はまだなかった。あったのかもしれないが、少なくとも当時の祥治は聞いたことがなかった。
 彼女は、みんなからリリーさんと呼ばれている。祥治も、そう呼ぶ。ただ、自分の祖母くらい年齢が離れているので、心の中でだけ、リリーおばさんと呼んでいる。往年の、モーツァルト弾きで名を馳せた名ピアニストに、雰囲気がよく似ていた。
 リリーさんは、比較的時間が自由に使える身分らしく、いろんな時間帯にカウンターに入っている。そして、店員さんとしての務めがおわると、客に早変わりする。自分でコーヒーを淹れて、空いているテーブルに座って、時にはリクエストもする。きょうも、そのようだ。
 このKと言う町には、当時、もう一軒名曲喫茶があった。祥治も行ってみたことがあるのだが、そこで、偶然、リリーさんに会った。といっても、祥治が一方的に気が付いただけで、彼女は煙草を吸いながら、曲に聞き入っていた。ベートーヴェンの『弦楽四重奏曲第一番』であった。漫然と聞き流して雰囲気だけを楽しんでいるのではなかった。曲の隅々まで、一音たりとも聴きのがしはしない、といった風情だった。
 店員さんとなって、祥治に飲み物の注文を訊いたり、リクエストカードを受け取ってレコードをかけてくれるリリーさんは、こんな張り詰めた顔はしない。たばこの持ち方が、なんとなくイキで、紫煙の昇らせ方も堂に入っていた。苦労の多い人生を、自分の力だけで生き抜いてきて、今の私があるのよ、とその横顔が言っているような気がする、そんな孤高の老婦人。それが、祥治が抱いていた、リリーさんのイメージである。家族はいないのだと、祥治は勝手に決めていた。もちろん、子供も。

 のっぽくんが、祥治のキリマンジャロを持って来た。
 「お花見だったんですか?」
 さっき、リリーさんにシャツの肩の桜の花びらを払われるところを見ていたらしい。
 「そうだよ」
 「楽しそうで、いいですね」
 「きほん、そうだけど、職場の上司もいるからね、気疲れがないわけじゃないよ」
 「そんなもんですか。世の中、楽なことばっかりじゃないんですね」
 「ま、そういうことですね」
 と、祥治は言うが、自分だって大した社会人経験があるわけでもない。
 しかし、気疲れした、と言うのは、まんざら嘘ではなかった。上司は、フランクなおじさん・おばさんたちで、気の置けないひとたちである。祥治が気を使ったのは、明らかに彼に好意を寄せてくれている、同期入都の女の子だった。まわりの人間も、彼女の気持ちは知っているから、わざと祥治と彼女が二人きりになるような状況を花見の中で作ってやったりしていた。それが、祥治には見え見えだから、余計に、やれやれと思うのだった。
 優秀で、それでいて気立てのいい娘だった。決して、嫌いと言うのではなく、むしろ逆だった。美人とは言えない外見ではあるが、祥治にとっては、ある意味、女の外見はどれもみな同じである。もちろん、違いは分かるが、外見での好き嫌いはない。好き・嫌いを決めるのは、第一に、話し方だった。甘ったるい猫なで声さえ出していれば、職場でもどうにかなるみたいな喋り方しかしない女と、祥治は必要以上の口を一切きかない。男女を問わず、相手を理屈でやりこめて鼻を高くしている女を見ると、その鼻に納豆でも塗りたくってやりたくなるし、上目遣いでこっちを見て、そのくせなれなれしく体を寄せてくる女からは、一目散に逃げ出していた。祥治は正真正銘のイケメンだし、ノンけの演技も巧みだったから、日ごろの彼の態度が、女子の間でこんな評判になるのであった。吉川君って、女にデレデレしないのね。なんか、かっこいいな。
 あの子に、それとなくわかってもらわなければならない。彼女は、祥治が決して選ぶことのできない存在であることを。事実は言えない。もう、心に決めた人が、今はあまり会えないけど、遠くにいるんだと、遠回しに語ろうか。半分はまだ未練の本音、半分は明らかな噓である。紘一の顔が、おぼろげに浮かんでは消える祥治だった。
 紘一は、はっきりと言っていた。これから先、自分の人生に自分の子供が登場することは、絶対にないのだと。それを、紘一の、紘一自身に対する言葉として受け取っていた祥治だったが、考えてみれば、祥治だって同じなのだ。100%、そうである。今の日本の状況で、カミングアウトしたいとは、祥治はつゆほども思っていない。人知れず、ゲイとしての人生を生きようと思っている。そうせざるを得ないことはたしかだが、自分にその覚悟ができているとは、思えない。今日の花見で自分が周囲に取った曖昧な態度を見ても、それは、明らかであろう。いろいろな意味で、一歩踏み出さねばならない時期に来ているのでは。祥治は、最近、漠然と、そんなことを考えている。

 リリーさんからリクエストカードが出された。かかった曲は、ベートヴェンの『弦楽四重奏曲第一番』である。演奏は、ウィーンコンツェルトハウス四重奏団が選ばれていた。
 へぇ、リリーおばさん、よっぽど好きなんだな、この曲。
 ベートーヴェン党の熱烈な支持者である祥治だが、この時点で彼が聴いていたこの作曲家の弦楽四重奏曲は、第7番以降の11曲だった。まだ若かった祥治は、偉大な作曲家の作品は、後期に行くほど、その偉大さを増していくものと言う、頭でっかちな感覚があった。とんでもない思い違いはもう一つあって、op18は、腕試しの習作レベル、ことによったら別に聞かなくてもよいとまで思っていたのである。今考えても、祥治は、このころの自分がいかにクラシック愛好者として独りよがりで生半可だったかを痛感して、顔から火が出る思いなのである。
 リリーおばさんの方をチラチラ見ながら、祥治も、この曲に耳を傾けた。初期六曲のほとんど初体験である。そして、曲が終わり、リリーおばさんが、祥治に向かってにっこり笑いながら帰っていくのを見送りながら、祥治は、今度来た時に同じ演奏家の第二番をリクエストしてみようと思ったのだった。そして、三回目に、吉川祥治生涯の愛聴曲op18-4に出会った。
 ハ短調で歌い出される主題は、どこかほの暗いけれど、明らかに前を向いた音楽だった。悲嘆にくれて一歩も前に進めない心情を表言したものではない。だから、聴き手も、短調なのに、どこか浮き浮きした気分がするのである。そして34小節めから第二ヴァイオリンがいとも滑らかに奏でるメロディーに、祥治はハッとする思いだった。
 はっきりと、音楽は歩き出しているのだ、いとも軽やかに、ちょっとだけ気恥ずかし気に、しかし俯かずに、確実に一歩前へ。一オクターヴ上がって、同じメロディーを第一ヴァイオリンが引き継ぎ、最後は二人一緒である。
 第6番までウィーンコンツェルトハウス四重奏団で一通り聴くと、祥治は、第4番だけを、店にあるすべてのレコードで聴いていった。
 もう、そろそろ、歩き出せよ。ちょっとだけ、胸を張って。その後のことは、その後考えろよ。人生、どうにかなるさ。
 ウィーンからルートヴィヒがそう言っているのか、、ヴァンクーヴァーから紘一がそう言っているのか、どちらでもいいような気がする。二人から、そう言われていると思えばいいじゃないか。

 ウィーンは音楽の都、そしてベートヴェンを音楽家として育てた町である。ウィーンの春は、どんな春なんだろう。いつか、一番大切な人と、行ってみたい。
 正面の大きなスピーカーの手前には、常に生け花が据えられている。奥さんが、生けたものである。きょうは、桜であった。
 祥治は、日本の春を生きている。これからも、春、夏、秋、冬と、めぐる季節の中で生きていくことだろう。
 明るい独り言が、漏れた。その言葉の一粒一粒が、キリマンジャロが飲み干されたコーヒーカップに向かって流れていく。
 カナダの春って、どんな春ですか? あなたは、どんな人と、それを見ているんですか?

【終曲】
 平成という元号に人々がようやく慣れて、ごく普通にそれを使うようになったころ。しかし、職場の新人に平成生まれはまだいなかったころ。今度は、西暦のほうで、一大エポックがあった。   1999年から2000年へ。そして、一年後の21世紀の到来。世間はこの話題で持ちきりだった。西暦などというものは、もともとはキリスト教の暦なのだし、〇〇世紀という言い方も、西暦をもとにして、年代を100年ずつ区切った便宜的な言い方にすぎない。仏教徒の日本人が浮かれ騒ぐことでもなんでもない、などと天邪鬼みたいなことを言って見ても、誰も相手にしてくれなかった。
 そんなある日の土曜日の夕方。吉川祥治は、ほぼ10日ぶりに、本降りの雨の中、名曲喫茶のドアを押した。
 「いらっしゃいませ!」
 出迎えてくれたのは「のっぽくん」である。
 「あれぇ、めずらしい。東京に来てたの?」
 彼は結婚して、新妻とともに、生まれ故郷の瀬戸内の町に帰って行った。どんなに人の多いところにいても、いつも頭一つ抜きんでるほどの長身である。妻の方は、まるで小学生のように小柄だ。しかし、何ともお似合いのふたり。『小さな恋の物語』を地で言っているようなカップルだった。
 「ええ仕事で。僕一人だけ、上京しました。今日は、夜まで、僕がここに入ることになってるんです」
 ここ、とは、店内のカウンター内のことで、今日だけ臨時店員になるということだ。昔取った杵柄。
 店の奥の方の客席から、威勢よく祥治に声をかけてくる人がいた。
 「あ~ら、ルートヴィヒじゃないのぉ?」
 「久しぶりですねぇ、クララさん」
 みんなから『クララさん』と呼ばれている、この艶やかな中年女性に、祥治はひそかに「ひばりの姐御」という渾名をつけていた。和服でも着て『柔』をうたったら、さぞかしカッコよく決まるに違いない。しかし、面と向かってそうは言えないから、本人に向かっては、クララさんと呼ぶ。そう呼ばれるのは、彼女がシューマンの信奉者だからである。
 「しかし、いつ見てもお若いですねぇ。全然変わらない。少しは歳ってものを喰ってみたらどうなんです?」
 「アンタに言われたくないわねぇ」
 祥治は、よほどまじかでじろじろ見ない限りは、年齢よりずっと若く見える。それは、事実である。公務員だから、生活は派手ではないけれど、生涯独身を運命づけられているから、経済的に苦しいということはない。所帯窶れなんてものにも無縁。両親はぴんぴんしてる。したがって、給料とプライベートな時間は全部自分のものとして使えるから、ちゃんとジムにも通う。几帳面な性格だから、真面目に通って、真面目に励む。調子に乗って、中年太りによる体型の崩れは、本人の努力が足りない証拠、などと嘯いて、顰蹙を買うこともしばしば。しかし、面と向かって反論できるものはいない。真夏の一日、ハーフパンツとタンクトップで、もう中年の域にさしかかっている祥治がその辺を歩いていても、苦情は来ない。女性たちが振り返る。一部の男性も振り返る。
 「あら、しばらく顔を見せなかったんじゃない?」
 と声をかけてきたのは、『アンナ=マグダレーナ先生』と『リリーおばさん』の二人である。
 この店への祥治の来訪は途絶えたことが無い。さすがに、一時のように、ほぼ毎日通い詰めるなどということは、なくなった。それでも平日のうちのどこか一日、土日のうちの必ずどちらか一日というペースで通ってくる。だから、今日のように、10日も「欠席」が続いた後だと、こんなふうに言われてしまうのだ。バリバリの常連、来店歴16年。
 仲良しも増えた。祥治のベートヴェン好きは、店では周知の事実だから、いつのまにか『ルートヴィヒ』という源氏名もちょうだいした。 
 アンナ=マグダレーナ先生は、バッハの鍵盤曲しかリクエストしない。組んだ両手を膝の上にのせ、時には目をつぶって、じっと聴き入る姿は、明治・大正時代の厳格なる女教師を思わせる。あまりにストイックな雰囲気。それで、この渾名で呼ばれるようになった。しかし、実際の彼女は、このイメージとはだいぶ違う。だいたい彼女は学校の先生ではない。美容室の経営者で、この店の店主の奥さんの旧友でもある。髪結いの亭主と喧嘩してむしゃくしゃした時に、有能な店員にすべてを任せて、ここに来るのである。バッハを聴き終わると、ふっとため息をつきながら煙草を一本吸って、静かに帰るから、無口な人かと思いきや、それも違う。きょうも、祥治から
 「また喧嘩ですか,旦那さんと?」
 と、水を向けられると、待ってましたとばかり、落語の『厩火事』の女房よろしくさんざんまくしたてたあげく、
 「でも、ルージッチコヴァーが言うのよ。一緒になろう、って決めたときのことを思い出せって。好き合ってくっついたんでしょ?ってね。そうよねぇ、口は悪いけど根はやさしい人だからねぇ。ところでさぁ、クララ。アンタ、今年でいくつなの?150年も前に作られた『女の愛と生涯』なんかにうつつを抜かしてないで、少しは現実の自分の身の振り方を考えなさいよ。いったいいつになったら、登場するのよ、アンタのロベルトは」
 ここまでを、一気にまくし立てた。私語厳禁の音楽鑑賞店のはずだが、幸い、今はレコードがかかっていない。それに、気安い常連仲間ばっかりである。
 待ってました、とばかり会話に割って入るのは、リリーおばさんである。渾名の由来は、彼女を一目見ればわかる。リリー=クラウスそっくりなのである。彼女は、時々カウンターに入る。わりと時間が自由になる人らしく、夜遅くまで店員さんだったりする。リクエストカードを渡してみるとわかるが、リリーさんはバランスよくクラシック音楽全体の知識を持っている。かけてくれるレコードに間違いがない。ブラームスが好きらしく、チェロソナタなんかを聴き終わると、彼女もやっぱり煙草を吸う。その手つきと紫煙の上げ方は堂に入っている。だから、祥治は彼女のことを、カッコいいと思っていたし、ちょっと訳ありの、少しばかり孤独な独り者の老婦人だと踏んでいた。とんでもないことだった。祥治という男が(別にゲイとかゲイじゃないとかには一切関係なく)いかに女を見る目がないかということが、見事に証明されている。
 彼女は、大家族の中の長老として、大勢の孫に囲まれて、楽しく暮らす人だった。わけなんて、なーんにもない、世話好きのおばぁさんなのだ。だから、アンナ=マグダレーナ先生の尻馬に乗って言うのだ。
 「クララちゃんに、紹介したい人がいるのよぉ。写真だけでも見てみない?」
 二重攻撃をかわすために、クララさんはのっぽくんに話しかける。
 「新着の、レコードって、どれぇ?」
 ガラスがはまった壁面に立てかけてある数枚のジャケットを、のっぽくんが指さす。
 「あら、グレン=グールドが3枚もあるのね」
 「グールドって、カナダの人よね」

 言ってしまってから、しまった!という顔になった。女性三人ともである。いや、のっぽくんの表情も微妙に凍り付いている。祥治は、苦笑するばかりである。いったい、いつまで僕に気を使ってくれるんですか、あなたたちは。もう、いいんですよ、あのことは。
 ひばり姐さんがばつの悪い顔をするのは当然だ。彼女は、あの日の紘一と祥治の一部始終を、同じこの店内にいて、見ているのだから。
 のっぽくんは、紘一と祥治の切ない場面を知らないはずだ。彼は、その前に、店からいなくなっていたのだから。祥治は、そう思っていた。ところが、そうではなかった。彼は、バイトが終わって帰ったのではなかった。駅前のレコード店に新着のⅬPを取りに行っていたのだ。奥さんが出て行ったわずか一分後に店に戻ったのっぽくんは、するりとカウンターの奥に入って、長身をしゃがませながら、新着のレコードをとりあえず床に置いた。そして、ついでに拭き掃除を始めた。だから、祥治には彼の姿が見えなかったのだ。こちらから姿は見えなくても、むこうに声は聞こえる。のっぽくんが聞いた二人の会話は、あまりに悲しかった。のっぽくん自身の、述懐である。
 では、アンナ=マグダレーナ先生とリリーおばさんは?この二人は、正真正銘紘一と祥治のことは知らないはずではないか。しゃらっとした笑いととともに、クララさんが言う。
 「いつだったか、3人でいるときに、ルートヴィヒのことが話題になってね。あんなイケメンにどうしてイイ人がいないのかしら。男ばかりの職場で、出会いってものが無いんじゃないの。仕事とクラシックばっかりの生活だろうし、ことによったら、リリーさんが誰か紹介してあげたらどう?なんてことになったの。仕方がないから、私、全部話しちゃった!」
 いったい何が仕方ないのか、まったく意味不明ではあるが、要するにこの四人は、「ルートヴィヒの前では、カナダは禁句」と勝手に決めてしまって、いまだにそれを守っているのだった。

 ばつの悪そうな4人の前から、いっとき姿を消すために、祥治は、トイレに立った。もどってみると、店内が静かだ。沈黙が守られている。まもなく、のっぽくんが、レコードを回し始めた。いきなり、ストリングスだけの『G線上のアリア』が流れ始めた。
 常連以外のお客さんが来たのだ。私語厳禁である。祥治は、いま、お気に入りの、一番後方の席に座っている。店全体が見渡せる。中央の、一人がけのテーブルに、スーツ姿の青年の姿があった。祥治には背中しか見えないが、かなり若いことは、体全体の雰囲気でわかった。女を見る目はないけれど、男への観察眼なら、とても同じ人間とは思えない。それが祥治である。
 日曜にスーツかぁ。大変だな。若いのに、クラシック好きなんだ。音大でも出てるのかな。
 クラシックの好きな若者は、かならずどんな時代にもいるのである。だから、クラシックはクラシックでいられるわけだ。
 この青年が、初めて来店した客であることは、のっぽくんの応対と、選曲でわかる。クラシックと言っても裾野は広い。彼がどんな曲が好きなのかは、一切不明だから、無難な『バロック名曲集』とかになるのである。
 「よろしかったら、リクエストをどうぞ」
 のっぽくんに促されて、彼はリクエスト用紙に何やら書いている。作曲家別クリアファイルは、見ていなかった。
 「演奏者のご希望はありますか?」
 声は聞き取れなかったが、そちらにお任せしますと、のっぽくんは言われているようだ。
 青年がリクエストしたのは、モーツァルトの『ピアノ協奏曲第23番』だった。この曲の第二楽章を聴くと、さすがに今でも、ちょっとだけ胸が高鳴る祥治である。別に、高血圧の症状が出始めているわけではないのだが。
 名曲である。女性三人もうっとりと聴き入っている。青年は、もちろん、きれいな座り姿で、熱心に耳を傾ける。曲が終わっても、俯いたままその余韻を楽しんでいるようだった。
 「何かリクエストありませんか?」
 のっぽくんが常連の4人に向かって言った。自分で選曲するのがめんどくさくなると、店員がよく使う手である。
 祥治が手を挙げた。リクエストカードを手渡しながら
 『ピアノ協奏曲が続いちゃて、悪いんだけど」
 と言うと、女性三人は、全然オッケーのジェスチャーである。あとは、青年の意向を訊くだけだ。 
 「僕もまったくかまいません」
 きれいに響くバリトンの声で、きれいに発音された言葉だった。祥治のこころに、なにかひっかかるものがある。でも、それが何かは、わからない。
 始まった曲はベートーヴェンの『ピアノ協奏曲第3番』である。ケンプの独奏だった。
 演奏が終わって、のっぽくんがレコードをジャケットにしまっている。急いでいる様子はなかった。次の曲がかかるまでに、少し間があくだろう。祥治は下を向いて余韻に浸っていた。久しぶりに、紘一の顔を思い出したのだ。普段はセピア色になりかけているその映像は、いつになく鮮明だった。
 青年が立ちあがった。きれいな立ち姿。スーツは明るいグレーである。彼は意を決したように、祥治の前に立った。
 「人違いだったら、ごめんなさい」
 祥治は、顔を上げた。全身が凍り付いたようになった。
 「失礼ですが、ジョージさんでは、ありませんか?」
 返事のかわりに、祥治は、うわごとのように言った」
 「紘一さん・・・」
 青年は、にっこり微笑んだ。そして、二人は見つめ合った。
 一目で見る者を惹きつける顔、というのではなかった。大勢の中に立てば、むしろほかの個性的な顔立ちに紛れて、埋没しそうな感じもする。しかし、しばらく視線を合わせていると、固くぎゅっと結んだ唇が意志の強さを思わせ、それに呼応するようにしっかりと黒くて太い眉毛の下には、やや大きめの両眼があって、知的な光をたたえながらも、どこか人懐っこかった。程よく焼けた浅黒い肌の真ん中には、すっきりと通った鼻筋があった。美男というよりは、男前という言葉の方が、しっくりくる顔立ちだった。
 やっとのことで、祥治は言葉をつないだ。
 「祥治は、僕ですが、あなたはいったい・・・」
 「自己紹介が後先になって、すいませんでした」
 湯島天神のそうとうに古くなった御守りが、黙って祥治の前のテーブルに置かれた。一段と良く響くバリトンの、さわやかな声で、青年は言った。
 「僕は、天竜哲雄です。昨日の朝、新幹線で東京に着きました」
 祥治は、すばやく、頭の中で、目の前の青年の年齢を計算していた。
 22歳の浜名紘一が、自分の目の前に立っていた。

 「いきなりで不躾ですが、よろしかったら、少しだけお時間をいただきたいのです」
 のっぽくんからも、ひばり姐さんからも、アンナ=マグダレーナ先生からも、リリーおばさんからも、ガッツポーズの無言のエールが、祥治に向かって浴びせられた。それに送られるように、祥治は哲雄とともに、店を出た。
 JRの駅までは3分である。駅ビルの入り口なら、1分だった。雨が小降りになっていたので、傘をさす必要はなかった。
 「どこに泊ってらっしゃるんですか?」
 「新宿のWホテルです」
 予想通りの答えを返された。祥治が黙っていると、哲雄は
 「Wホテルのレストランでいっしょにご夕食、で、どうでしょうか?」
 と提案してきた。祥治に異存はなかった。二人は、東京行の快速電車を新宿で降りた。ビルの谷間から夜空を見上げると、白い雲がいっぱいに広がってはいたが、雨はやんでいた。
哲雄にとっては初めての、祥治は16年ぶりのレストランである。あの日以来、祥治がここに来たことはなかった。
 「叔父さんが言ってた通りのところだなぁ」
 「あの名曲喫茶に君が来たことは、不思議ではありません。でも、よく僕のことがわかりましたね」
 「K488にすぐ続けて、op37をリクエストなさったでしょう?」
 「そんなことを、紘一、いや浜名さんは、君に話したの?」
 「ええ、何回も聞いてますよ。あなたも・・・あなたなんて呼んだら失礼なのかな」
 「祥治さんで、いいですよ」
 「叔父さんもジョージさんも、熱弁をふるったそうじゃありませんか」
 薄れかけていた記憶である。しかし、いったん息を吹き返すと、まるできのうのことのようだ。
 「きのう新幹線で東京に着いたって、言ってましたね」
 「はい。東京で就職することになったんです。仙台の下宿には、引っ越し荷物が詰められた段ボールが積み上げられています。いつでも、引き払えるように」
 そうか。哲雄が言っていた新幹線とは、16年前にはまだ開通していなかった東北新幹線のことだったのだ。哲雄が通っていたのは、旧帝大系の国立大学であった。
 「いい大学に通ったんですね。お受験の甲斐があったってことですね」
 「やっぱり、ジョージさんだって、そんなことまで知っているじゃないですか」 
 哲雄は、さっきの御守りを、もう一度テーブルの上に置いた。
 「東京駅からまっすぐ湯島に行きました。どんなところか、一度ぜひ、見てみたかった。ジョージさんが、あれこれ迷ってなかなか決められない叔父に代わって、これを選んでくれたんだそうですね」
 いったい、どこまで知っているのだろう。
 「僕も御守りを買いました」
 「まだ、何か受験するんですか?」
 「まさか」
 「お姉さんが、いらっしゃるって、聞いているけど」
 今度は哲雄が苦笑する番だ。いったい、どこまで知っているのだろう。
 「ええ。先月、男の子が生まれました。学問の神様にお世話になるのは、ずっと先だけど、その時になって慌てて買うより、早いに越したことはないのかな、なんて」
 哲雄は、デイバッグから真新しい封筒を取り出して、その中に入っている御守りを見せてくれた。お守りを元に戻す時に、封筒の表書きに「新居治夫様」という文字が読めた。哲雄の、生まれたばかりの甥はハルオ君なのだ。
 「ええ、そうなんです。ハルちゃんって呼んでるけど」
 「まだ若いのに、君自身も叔父さんなんだね」
 「そうなんです。でも、僕、まだ、おじさんなんて呼ばれたくないなぁ」
 「目の前の人がおじさんで、ごめんね」
 哲雄は、真っ赤になった。いままでの、滑らかな口調はどこへやら、しどろもどろである。
 「あ、いや、その、、ジョージさんは充分お若い・・・いや、実際に、、まだまだ、そんな歳じゃない・・っていうか」
 そろそろ助け船を出してやらないと、哲雄は永久に隅田川に沈んだままかもしれない。しかし、さいわいなことに、オードブルが運ばれてきた。哲雄と紘一の食べ方は似ている、と祥治は思った。フォークやナイフやスプーンの扱いは、必ずしも器用で優雅とは言えない。しかし、いったん口元まで無事に運ばれれば、食べ方自体は非常に美しかった。
 「でも、きっと、甥御さんのことが可愛くてたまらなくなるんだろうな、紘一さんみたいに」
 「今でもかわいいです。だって」
 何か、のっぴきならないことを言い出される予感が、祥治を包み込んだ。
 「僕、叔父の紘一と、同じなんです」
 「どういうことかな?」
 哲雄の、オードブルの皿が空になった。ナイフとフォークの置き方に、ある決意が感じられた。
 一息に哲雄は言ってのけた。
 「僕の人生にこの先僕自身の子供が登場することはない。僕は、そういう男です。紘一兄さんと同じなんです」
 「紘一兄さん。そういう呼び方なんだ」
 「心の中だけで」
 こういう時の洋食のフルコースはありがたい。崖っぷちに立たされた思いの祥治を救ったのは、まもなく出て来た次のコース料理である。そして、料理と料理の間のわずかな時間を、その料理への論評に使えば、祥治は哲雄の告白の続きから、とりあえず逃れることができた。
 デザートが運ばれてきたときに、ちょっとしたサプライズがあった。やや大きめのケーキに、ろうそくが立てられて、哲雄の前に置かれた。ウェイターがにこやかに言った。
 「天竜哲雄様でいらっしゃいますよね?」
 哲雄が、きょとんとして、頷く。彼は、もちろん、本名でこのホテルに泊まっているのだ。偽名を使う理由なんてない。
 「本日は、お誕生日おめでとうございます」
 そういうことか。哲雄は、きょう、22歳になったのだ。祥治も、ウェイターに続けて言った。
 「22歳の誕生日、おめでとう」
 「そんなことまで、わかるんですね」
 「あの時、紘一さんは、君のことを6歳だって、言ってましたからね」
 「なんだか、恥ずかしいなぁ」
 「その時、彼は言ったんです。さっきのきみと同じことを」
 いつのまにか、祥治の方が、核心に踏み込んでいた。彼は、この叔父と甥のセリフを、自分も繰り返した。
 「俺の人生にこの先俺自身の子供が登場することはない、ってね」
 それを聞いた哲雄は、祥治がよく知っているメロディーを口ずさんだ。クラシックではなかった。
 「♪17本目からは一緒に火を点けたのが、きのうのことのよう」
 「そんな歌、よく知ってるね。紘一さんも、歌っていたの?」
 「案外、こういうの好きでした」
 「いいなぁ。俺は、そんなこと知ることもできないくらい、はかない付き合いだったんだなぁ」
 「ちょっと、嫉妬したりしてます?」
 「してますよ。大いにね。でも、なぜこの歌?」
 「叔父がウチに遊びに来ると、逆に僕が叔父のうちに遊びにいくと、必ず僕らは一緒に風呂に入ってました。でも、そのうち、それができなくなった。ジョージさんなら、わかりますよね?」
 「察しは尽きますよ。でも、君の本心は、ちゃんと聞いてみないとわからないよね」
 やはり、祥治の話は、核心を衝いている。いや、衝きすぎている。しかし、今日の哲雄にとって、この話は避けて通れないのだろう。言ってしまわないと、自分は一歩も先に進めない。彼の顔がそう言っている。
 「苦しくなってきたんだね」
 「そうです。思春期とかいうものに自分がなって、大好きな紘一兄さんに情欲と言うものを抱くようになってしまった。そんな自分自身がたまらなく厭だった。でも、そんな心とは裏腹に、カラダは反応してしまう。相手が男だから悩んだのではないのです。なぜ、この人と俺は、叔父と甥なんだろう。どうして、赤の他人として生まれなかったんだろう。それが、悲しかった」
 「17本目とは?」
 「17歳の誕生日に、僕決めました。叔父とは一緒に風呂には入らないって。16本目までは一緒に点けていたろうそくを、17本目からは僕一人で点けて行こうと、そう思った。この歌とは逆です」 
 「そして、きょう、22歳になった・・・」
 店員が、ラストオーダーを告げに来た。閉店は10時である。
 「よろしかったら、この上にバーがございます。そちらも、ご利用くださいませ」
 と言って、ウェイターは去った。テーブルの上には飲み物だけのカップが残った。それを眺めているうちに、祥治の心に、とんでもない疑念がわいてきた。払っても払いきれない、黒雲のような不吉な予感。

 哲雄の告白は、重いものだった。自分には、何も言えなかったけれど、聴いてやることはできた。それでいいはずだ。しかし、きのう、哲雄は、それだけのために、わざわざ東京まで来たのだろうか。どうして、俺を探し当てねばならなかったのか。
 紘一さんは、今、どうしているのだ。なぜ、君は、彼の現在を語らないのだ。そういう思いで哲雄を見つめる祥治。そして、その無言の質問は、ただちに哲雄の胸に届いた。言うべき時が来た。そう哲雄の瞳が言っていた。
 「バーの方へ、移動しませんか?」
 「いいね」
 バーのカウンターに並んで座っても、哲雄は、しばらく無言だった。祥治の方が、先に言った。
 「きのうの夜も、ここに泊ったの?」
 「そうです。そして、僕、昨日の夜、二丁目の『R』に行きました」
 「まだ店はあったんだね。マスターは、元気でしたか?」
 あの日以来、祥治は、二丁目に一切足を踏み入れなかった。名曲喫茶に通い詰めて、そんな時間が無かったこともあるが、紘一と出会ったあの店に一人で行くのは辛すぎたからだ。
 「どうして、『R』に行く必要があったのかな」
 「叔父は、ジョージさんとの思い出を、いくらでも、何回でも話してくれました。でも、ジョージと言う名前は明かしてくれなかった。それを、どうしても知りたくて、『R』に言ってみたんです。ダメモトでしたけど。僕は、マスターに、自分の来店の目的を包み隠さず話しました」
 『R』のマスターは、哲雄の話を聞きながら、そして途中からは哲雄の顔をまじまじと見ながら、こう言ったのだそうだ。

 それは、きっと、ジョージのことだね。それに、途中からわかったよ。あなたは、コウイチさんに生き写しなんだとね。ジョージは、あのあと、ぱったりとここには来なくなったよ。というか、二丁目でも、彼を見かけることはなくなった。苗字? ジョージは、一切言わなかったね。たとえ、言ってたとしても、こういうところだもの、本当かどうかはわからないんだよ。そういうもんなのさ。

 「ヴァンクーヴァーの紘一さんには、10通以上の手紙を出しているんだけど。そのなかに僕の名前がちゃんと書いてあったはずですが。それとも、そんな手紙、もう無かったのかな」
 長い沈黙があった。もうまちがいない。今が、宣告の時なのだ。
 「一年前の、ハイウェイ上での交通事故、だったんです」 
 「そう、ですか」
 「センターラインを越えて、オートバイが叔父のクルマに体当たりするように突進してきたそうです。相手の青年は、即死でした。叔父は三日間生死の境をさまよいましたが、助かりませんでした。遺骨となった叔父を僕は成田空港で出迎えました。葬儀は父や叔父の実家で行いました」
 いくら一年経っているとは言え、辛い話に違いない。それでも哲雄は、あえて淡々と、事実だけを語ってくれる。自分が取り乱したら、相手を困惑させるということを心得ているのだ。いまの祥治には、それがありがたかった。
 「では、墓はH市にあるんですね」
 「そうです。でも、遺品の中にジョージさんの手紙はありませんでした。捨てるはずはありません。残せなかったんです、叔父は」
 「どういうこと?」
 「事故の3年ほど前、ヴァンクーヴァーの自宅が、大洪水でほとんど屋根まで水に浸かったんです。家の中の、何もかもが、失われました」
 このニュースを、祥治は知っていた。ただ、「北米西北部にハリケーンの猛威」という報道内容だった。カナダのカの字も出てこなかったから、祥治は漫然と聞き流した。最後まで聞かずに、ラジオのスイッチを切った記憶がよみがえった。胸の中が、どうしようもなく、苦くなった。

 「カナダからの手紙、ってまた歌の文句みたいですけど」
 「古い歌を、よく知ってるんだね」
 「ジョージさんは、持ってるんですか?今でも」
 「もちろん」
 「いつか、読ませてもらっても、いいですか?」
 「もちろん」
 「もう一つ、古い歌を知っています」
 少しずつ、二人の口調は、ほぐれてきていた。
 「それは何?」
 「紘一とジョージ、『名残り雪』の別れ、とか言ったかなぁ」
 ほんとに、どこまで知っているんだい、君は。
 祥治は、何とはなしに腕時計を見る。もうすぐ、日付が変わる時刻である。
 「僕の、22歳、もうすぐ、その365日のうちの一日が終わっちゃうんですね」
 「年寄りみたいな、言い方しなさんな」
 祥治は、もう一度、時計を見る。
 「終電ですか? まだ間に合うの?」
 「ぎりぎり、かな」
 「かえらなくちゃ、だめですか?」
 「もう少し一緒にいても、もちろんいいよ。タクシー使うから」
 「だったら、僕の部屋に泊りませんか? ツインルームなんです」
 「シングルが満員だったの?」
 「ジョージさんとのときは、そうだったんですってね」
 もう、驚かない。ほんとに、何でも知っている。あとは、俺の苗字くらいか。
 しかし、哲雄のツインルームで、寝るわけにはいかない。彼は紘一さんに生き写しなのだ。顔だけではない。話し方、しぐさの、ここかしこに、紘一さんその人が宿っているみたいだ。ふと、いま隣にいるのは、紘一さんなのか哲雄なのかわからなくなるじゃないか。
 哲雄を抱いてみたい!理屈ではなく、そう思ってしまう。さっき哲雄が言ってた通りだ。この青年を、自分のあさましい情欲で穢してはならない。簡単なことだ。このまま帰ればいいだけだ。しかし、祥治の次の問いかけは、彼の理性とは裏腹なものだった。
 「部屋は何階?」
 「22階ですけど」
 「まさか、2202号室?」
 「当然でしょ」
 「泊めて、もらうかな」
 フルートの甘美なメロディーが流れて来た。二人は、それに耳を傾ける。
 「やっぱり、いい調べだな」
 「そうですね。ラフマニノフは、すごいです」
 ピアノ協奏曲第2番、中間の緩徐楽章である。
 「ロシアものが好きなの?」
 「そうです。でも、一番好きなのはショスタコーヴィチ」
 今どきの若い者は、こういうところからでも、クラシックに近づいて行けるんだな。
 「泊ってもらえますか?」
 「宿泊代はどうしよう。黙ってて、いいのかな」
 あの時、紘一はどういう風にフロントに話をつけたのだろう。
 「僕、そこまでは、聞いてません」
 「ま、いいか。なんか言われたら、正直に話せばいいさ」
 「そうですね。じゃ、行きますか?」
 「これ、飲んじゃってからな」
 グラスの中には、カンパリオレンジが、三分の一、残っている。それを飲み干そうとする祥治の喉仏をみながら、哲雄は言う。
 「僕、ショスタコーヴィチの交響曲、全15曲について話しだしたら、止まりませんよ。一晩じゅう話してるかも」
 「受けて立とうじゃありませんか。ただし、俺はベートーヴェンの弦楽四重奏曲、全17曲」
 「いいですね。でも」
 「でも?」
 「喋り疲れたら、その後、どうしますか?」
 祥治は、カンパリオレンジをのどに詰まらせそうになった。
 なんだ、あんな殊勝なこと考えなくても良かったんだ。こいつは、間違いなく、紘一さんの甥だ。血は、争えない。男の誘い方まで、そっくりじゃないか。
 16年の人生経験は、貴重だ。祥治は、今夜は、赤くなって俯いたりはしない。堂々と宣言した。
 「俺にすべて任せろよ」

 セミダブルのベッドの上で目が覚めたとき、祥治は今が何時ごろなのか見当がつかなかった。隣には、哲雄が静かな寝息をたてている。22階の窓の外は完全な闇である。いったい、どれくらい眠ったのか。
 一人ずつシャワーを浴びて、備え付けの部屋着に着替えると、哲雄は間をおかず祥治を求めて来た。祥治も、ためらわずにそれに応えた。体の相性は、かなりよかった。哲雄の若い肉体は、若々しくはあったが、まだ男を知らないカラダではなかった。それが、祥治をいつになく大胆にした。お互いの激しい息遣いの一つ一つに生命力の横溢を感じながら、二人は情欲を発散しきった。スポーツ競技を全力でやり終えたような爽快な疲れが体にはあった。不完全燃焼などでは毛頭なかったのだ。
 しかし、心は解放されていなかった。相手もそのはずだ。お互いにそれがわかった。情事の後の沈黙としては、いささか長すぎる時間が経過しようとしている。音楽の話でもすれば、この場の雰囲気が変わるかと思って、祥治は哲雄に語りかけるために、頭をちょっとだけ起こして、彼の方に目を遣った。そして、何も言えなくなった。かすかではあるが、祥治に背を向けて横向きになっている哲雄の肩が、小刻みに震えていた。哲雄は泣いていたのである。
 注意深く自分の体を哲雄に背を向けるように動かしていきながら、祥治は、作り事の寝息をたて始めた。俺は寝ちゃったんだよ。そう哲雄に思わせるために。そして、いつの間にか、自ら作り出した寝息に誘われるように眠りに落ちてしまったのだった。
 祥治は、ベッドから離れて、窓のそばに立った。見るともなく、闇の中の新宿の街を見下ろせば、夜明けまでにはまだかなりの間があることがわかった。彼は、室内の時計に目を遣った。午前4時ちょうどだった。山手線の始発電車がまもなく動き出す。それに乗って、このまま帰るべきなのではないか。祥治はそう思った。
 紘一と生き写しの哲男を抱けば、自分の心の中に紘一が蘇るのではないか。昨夜、ホテルのバーで祥治は無意識のうちにそう思っていた。しかし、そうはならなかった。心は空洞のままなのだ。それは、哲雄も同じはずだ。
 紘一に何度も抱かれたことのある祥治の体。その体に抱かれれば、紘一に抱かれる歓びに浸れるのではないか。決して抱かれることのなかった、慕わしい叔父の、そのカラダの温もりが感じられるのではないか。そんなことを哲雄は思っていたのだろう。自分のこの想像が、まるっきり的外れだとは、祥治は考えていない。
 紘一は二度と還って来ない。俺も哲雄も、そのことを思い知ったのだ。
 椅子の背にかけてある自分の衣服。それをそっと取り上げるために、カラダをちょっと動かしたその瞬間、
 「ジョージさん」
 と、哲雄がよびかけてきた。いつ目が覚めたのだろう。
 「今、何時ですか?」
 「4時ちょっとすぎだよ」
 窓際に立ったまま、ベッドの上の哲雄を見つめながら、祥治は言った。
 「始発電車で帰っちゃおうなんて、考えているんじゃないんですか?」
 祥治は返事の代わりに、こう言った。
 「僕は、この体で紘一さんに抱かれた。そして、同じこの体で君を抱いた。多分、君が望んでいた通りに」
 「やっぱり、お見通しなんですね」
 祥治は、哲雄の言い方に、こだわりのないのを感じた。哲雄が続けていう。
 「でも、これで思いきりがつきました。うすうすわかっていたけど、やっぱり、妄想は妄想でしかないですよね」
 本当だろうか。祥治の手前、強がりを言っているだけなのではないのか。
 「だけど、泣いていたよね」
 「涙が勝手に溢れてきて、声を出さないようにするのに苦労したつもりだったけど、やっぱりバレてたんですね」
 「なぜ、泣いていたの?」
 「僕ね、あの涙で過去に閉じ籠ってしまったわけじゃありません。逆です。泣いて、ふっきれたものがありました」
 なるほど、そういうこともあるかもしれない。しかし、この返事は泣いた理由の説明になっていない。祥治はもう一度訊くしかない。
 「どうして、泣きたくなったの?」
 「音楽が、聞えてきたんです」
 「心の中で、だね?」
 「そうです」
 「どんな音楽?」
 「メヌエットのトリオです」
 ここまで、哲雄を慈しむように微笑みを絶やさず話しかけていた祥治だった。その祥治の顔が、瞬時に強張った。微笑みは瞬く間に消えた。血の気が引いて行くのが、哲雄にもわかった。通りの良いバリトンの美声は、絞り出すようなうめき声に変わった。
 「それは、K543のことだよね」
 「参ったなぁ。図星です」
 つとめて明るくちょっと茶化したような口調を試みる哲雄だが、祥治の思いつめた表情は硬いままだ。
 「モーツァルトの交響曲第39番、第三楽章の中間部。叔父は、この曲のこの部分が大好きだったんです。それが、突然、頭の中に響いてきたんで、僕、涙が止まらなくなったんです」
 「あの湖の岸辺に立つホテルの部屋で、夕陽に煌めいている湖面を一緒に見下ろしているときに紘一さんは僕に言った。俺たち、この二本のクラリネットのようになりたいよな。俺が第一、おまえが第二、その次の瞬間にはお前が第一、俺が第二」
 哲雄は目を瞠った。祥治の両眼から涙がほとばしり出て、止まらなくなっている。彼は、窓際に突っ立ったまま、泣いているのだった。
 「それなのに、俺を置いてけぼりにして、自分だけさっさと死んじゃうなんて・・・」
 叔父の死を、この人は冷静に受け止めてくれている。哲雄はさっきまでそう思っていた。そうではなかった。無理もない。自分には、一年という月日があった。この人は、まだ叔父の死を知ったばかりなのだ。哲雄はベッドの上に身を起こした。ベッドを椅子代わりにして背筋を伸ばして座った。そして待った。祥治が泣き止むのを。
 「ごめんな。みっともないとこ見せちまって」
 「その泣きっ面じゃ、みっともなくて、電車に乗って今すぐ帰るわけにはいかないね」
 「そうだな。追い出さないでいてくれるのか?」
 「もちろんです。ジョージさんには失礼な言い方だけど、あなたの涙が、また僕の心のわだかまりを洗い流してくれた気がしています」
 祥治は、まともに哲雄の顔をみることができないで、窓の外に目を向ける。乾きかけた涙越しに、徐々に明るくなっていく新宿の街が見えた。哲雄が遠慮がちに言った。
 「モーツァルトの二本のクラリネットになれなくても」
 「うん」
 「僕たち、ベートーヴェンの二本のヴァイオリンじゃ、だめですか?」
 ハッとする思いの祥治である。まさか、あの曲のことを言っているのか。哲雄の言葉は続く。
 「最初は第二ヴァイオリン、一オクターヴ上がって第一ヴァイオリン、そして最後は二人一緒。ヴィオラとチェロも弾んでる。あの部分、僕は大好きですよ。そっと背中を押されている気がする」
 祥治は呟く。呟きではあるが、声に明るさがあった。
 「ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第4番、第1楽章の第二主題のはじまりのところだね」
 祥治もずっと同じことを思っているのだ。16年前に初めてこの曲を知ってから。
 祥治は本来の張りのあるバリトンに戻って、哲雄に向かって言った。
 「もう、そろそろ、歩き出せよ。ちょっとだけ、胸を張って。その後のことは、その後考えろよ。人生、どうにかなるさ。あの世からベートーヴェンと紘一さんがそう言っているんだろうな」
 自分の芝居がかったセリフに、少しばかり気恥ずかしくなって、また祥治は窓の外を見る。新宿の夜明けはまもなくだ。
 それにしても、と祥治は思う。一晩中ベートーヴェンの弦楽四重奏曲について語るのは俺の方じゃなかったのか。こいつは、ショスタコーヴィチの交響曲だったはずなのに。そう、ショスタコーヴィチ・・・祥治は、独り言のように語り出した。
 「こんな曲を聴いたことがある。重苦しくて、そのくせ声高で、時には喧騒にさえ満ちていた大音量中心の音楽が、突然、嘘のように寡黙になってしまう。幽かな弦楽器の音がようやく聞き取れるだけ。歌い出されるメロディーも、まるで蜃気楼のようにあやふやで、しかもそればかりが繰返される。曲が始まって以来、一番静かな音楽が流れているはずなのに、聴き手の心には安らぎが湧いてこない。説明のつかない悲嘆にくれているような気がしてしまう。この悲歌は、同じところにとどまって、俺たちの魂を逃がさないようにしているのではないか。そう思って聴いていると、ふわっと浮かび出るように、クラリネットのソロが奏でられ始めて、延々と続くんだ。俺たちの魂はどこに連れていかれるのかと、いいかげんうんざりしたころ、クラリネットがある音にたどり着く。今までとはまるで違う音色。その音は、弱弱しくはあるが、確信に満ちている。そして、この音に導かれるように次の楽章が始まる。たった一つの音が、世界をがらりと変えてしまう不思議さ。それを感じずにはいられないんだ。人生にも、そういうことってある気がする」
 「第八交響曲の第四楽章のことですね」
 「さすがだな。ショスタコーヴィチの交響曲について語り出したら、一晩中止まらないと言っていただけのことはある。でも、続く第五楽章は俺には難解だ」
 「どんなふうに?」
 「たしかに、悲しみの世界から穏やかな明るい世界に変わったように聞える。しかし、俺には、その先が見えない。理不尽に抹殺された無数の人々を思う悲嘆の気持ち。その心の痛みは死ぬまで消えることがない。だとすれば、この第五楽章の雰囲気は、希望でも喜びでもない。悲しみが諦めに変わっただけなのではないか。俺たちは、どうやって先に進めばいいと、この曲は言っているんだろうか。皆目わからないんだ」
 「ベートヴェンを愛してやまないジョージさんらしい考えですね。だとすれば、やっとたどり着いたクラリネットの確信に満ちた音も、意味がないということですか?」
 「そんな難しいことは、わからないよ」
 「僕、昨日バーで言いました。ショスタコーヴィチの交響曲全15曲について語り出したら止まらないと」
 「全15曲・・そうか!」
 「そうです」
 「ショスタコーヴィチは交響曲第8番の終楽章を書いて、作曲の筆を折ったわけではないんだな。8って言えば15のちょうど真ん中じゃないか。彼は、書き続けた」
 「そして、第10番を生みました。俺は、ドミートリ・ショスタコーヴィチ以外の何者でもない。そんな内面の自負を僕はあの曲に感じます」
 「書き続けたってことは、生き続けたってことだ。作曲者ばかりじゃない。演奏者にも聴き手にも、生きるべき明日があるってことだ。それは、俺たち二人も同じことなんだな」
 いつの間にか、哲雄が祥治の傍らに立っている。
 大都会の窮屈な空に、それでも昇っていこうとする太陽の、一番上の部分の弧が姿を現したと見て取った瞬間、部屋の中にかすかな光が差し込んできた。それに促されるように、二人はしっかりと抱き合った。哲雄が言った。
 「もう一度抱いてください。いま、ここで。浜名紘一が可愛がっていた甥の哲雄くんではなく、正真正銘の天竜哲雄として」
 「では、天竜哲雄君に言います」
 何を言おうというのだろう。
 「君は、僕のフルネームを知りませんよね」
 「そういえば、そうです。苗字を教えてもらってないし、漢字でどう書くのかも知りません」
 「僕は吉川祥治です。吉祥寺のキチに天竜川のカワ、もう一度吉祥寺のジョウに・・」
 ここで、祥治は言葉に詰まった。最後の治を、どう言おうか。政治の治だよ、なんて言いたくない。そうだ。
 「ジョウジのジは,ハルちゃんのジだよ」
 部屋の中に差し込んでくる朝日の光は、ぐんぐんと明るさを増してくる。グズグズしてはいられない。祥治は哲雄に、ためらうことなく言い放った。
 「もう一度抱かせてくれよ。いま、ここで。浜名紘一に愛された祥治さんではなく、正真正銘の吉川祥治として」
 情事は夜明けとともに始まった。
 チェックアウトまで30分を切っていた。今度は、二人一緒にシャワーを浴びて、大急ぎで服を着て部屋を飛び出した。あまりに慌てていたので、おたがいが下半身に着けていた下着を取り違えていることに、二人は気づかなかった。祥治のブリーフは鮮やかなネイビーブルー、哲雄のブリーフはそれ以上に派手なオレンジだったが、形が良くているので、つい間違えたのである。二人とも、ブーメラン型のかなりきわどいものを穿いていた。
 22階のエレベーターの前に立った時、制限時間はあと5分のところまで来ていた。こういう時のエレベーターは、なかなか来ないものである。フロントのある階で扉が開くのを待ちかねて、哲雄はルームキーの返却場所へ小走りにかけて行く。係の女性が、にこやかに笑ってそれを受け取った。祥治の宿泊費が、どう処理されたかは、今回も不明である。

 どたばたとはしたが、チェックアウトは無事済んだ。ホッとすると同時に、猛烈な空腹を覚える二人だった。昨夜と同じ、例のレストランで昼食を取った。洋食の皿が目の前に供されると、ふたりとも餓鬼さながらの食事振りで、あっという間に平らげてしまった。食後の珈琲を飲むころになって、やっと人心地がつくと、哲雄が言った。
 「祥治さん、この後夕方まで時間ある?」
 「大丈夫だよ」
 「だったら、連れてってっていうか、付き合ってほしいところがあるんだけど」
 あの日の紘一も、そんなことを言って、祥治に湯島天神を案内させた。
 「また、何か願掛けでもするのか?」
 「まさか」
 「じゃ、どこに?」
 「S県のN市って、ここからどれくらい?」
 「一時間もあれば行けるけど、東京に不案内だと、ちょっと行きにくいかな。乗り換えが多くて」
 「僕、最初の勤務地ね、会社の支店の一つに配属されるんです。その支店がS県のN市にあって、部屋を近くに借りるんだけど、今日不動産屋さんに案内してもらって内見をすることになってるんだ。問題がなければ、その物件で決めようと思ってるんだけど、僕そういうの初めてだから、そばにいてくれると心強いかな、なんて思っちゃって。迷惑ですか?」
 「そんなはずないだろ。悪徳不動産屋に騙されないように目を光らしてるよ」
 祥治は、哲雄がそんなふうに自分を頼りにしてくれることがうれしかった。
 「N市って、俺のマンションからもそう遠くないぜ」
 「じゃ、ますますいいじゃん!」
 「そうだな」

 N市まで、JRと私鉄を乗り継いで、ちょうど一時間だった。不動産屋との待ち合わせは3時だったから、余っている時間を使って、哲雄の希望で都庁の展望室に登った。祥治は東京都の公務員であるから、都庁は本社にあたる。今は勤務地ではないけれど、このビルに通ったこともあるし、何度も来ているから、格好のガイド役だった。
 駅前で二人を出迎えたのは、不動産会社の社員の青年で、ちょうど哲雄と祥治の中間の年齢に見えた。応対は丁寧で、くだんの物件のみならず、賃貸全体への知識もしっかりしていたので、これなら大丈夫だろうと祥治は踏んだ。
 哲雄が目を付けたワンルームは、駅から歩いて20分ほどのところにある。もちろん今日は、不動産会社のクルマで案内された。歩いて20分なんて嫌がる若者も多いだろうが、哲雄は気にしていなかった。家賃が少しでも安いほうがいい。ちょうどいい運動にもなるから、かえっていいと言う。健全な考え方だと祥治は思った。築年数が比較的浅くて、清潔感があった。特に問題は無さそうだったから、このまま仮契約をすると哲雄は言った。運転免許証があれば、書類は作れるのだそうだ。
 「でも、やっぱり東京に近いと家が建て込んでますね。僕、静岡県と宮城県だったから、周りはもっと広々としてたな。2階だと、空も狭くしか見えないんですね」
 「上の階に、空室はないんですか?」
 と、祥治は不動産会社の社員の青年に訊いてみる。
 「単身者様用のワンルームは2階までなんです。3階から上は間取りがちがっておりまして」
 「僕、ここに決めます」
 「そうだな。最初は、これで十分だろう。俺なんか勤め始めたばかりのころはもっとぼろくて狭いところに住んでた。給料が上がってきたら、それ相応のところに移ればいいんだよ」
 「祥治さんの今のマンションは、これより広いの?」
 「ちょっとだけな。ああいうの1LDKっていうのかな」
 社員の青年に確かめると、たぶんそうでしょうと言った。そして、祥治と哲雄の会話を聞いていた彼は、
 「今、この建物には、この物件のほかに、4階に一つ空室があるんです。2LDKで、おすすめの物件なんですけどね」
 と言いだした。
 社員の青年は、ダメモトで言ってみたのだ。二階の単身者用ワンルームは、ほうっておいても借り手はすぐ見つかる。しかし、4階の2LDKのほうは借り手がなかなかつかず、社長から何とかしろとせっつかれていたのである。この二人の客のどちらかの知り合いにでも紹介してもらえれば、儲けものである。
 彼の思惑は当たった。祥治の方が関心を示したのである。
 「その4階のほうも、参考までに見せてもらうことはできますか? なぁ、哲雄。時間あるんだから、いいだろ?」
 「そうだね。4階からだと、どんな眺めなのか、見てみたいな」
 さすがに、2LDKは広々としていた。哲雄はさっそくヴェランダに出てみる。
 「2階とは全然眺めが違うね。やっぱり、上の階はいいなぁ」
 その通りだった。夕方の晴れた青空の向こうに、うっすらと山の稜線までが見えている。眺望の良く利く物件だった。
 「ねぇ、祥治さん、ヴェランダも、こっちの方が、全然広いんだね」
 「さようでございます。お二人様、あるいはお子様が小さければ、ご家族でもご利用いただける物件ですから」
 「洗濯物がたくさん干せそうだな」
 「そうですね。お二人分でも楽勝ですよ」
 キッチンもワンルームよりは広めに作ってある。二人並んで食事の準備ができそうだ。リヴィングもゆったりしていた。二人用のソファは楽におけるし、その前にテレビとオーディオを置いても、充分ゆとりがあった。祥治と哲雄はクラシック好きである。この空間を、どう利用すればベストのオーディオルームになるかなんて、つい話し込んでしまう。
 その様子を、社員の青年はしっかりと観察している。疑念も抱いている。そしてその疑念は、哲雄と祥治の会話の端々から、やがて確信に変わる。彼は勝負に出た。二人が訊いてもいないのに、この4階の物件の家賃を告げたのだ。二階のワンルームの1.7倍ほどの額であった。哲雄にはもちろん月々払える額ではないし、その必要もない。こんな広いところに一人で住むわけでもないのだ。
 またもや反応したのは祥治であった。
 「ってことは、俺が今借りている1LDKプラス2万円だな」
 「それでしたら、ここでいっしょにお住みになって、家賃を折半した方が、断然お得ですよぉ」
 「俺と哲雄だったら、7:3、ことによったら8:2でも、いいかもな」
 「中間をとって、四分の三と四分の一っていう手もありますよぉ」
 青年は二人を、二間ある居室の方へ案内する。二つの部屋は微妙に広さがちがう。哲雄がついうっかりと
 「寝室はどっちがいい?。布団並べて敷くんだったら、やっぱりこっちの広いほうかなぁ」
 なんて言い出す始末である。青年は、思う。あと一息だと。
 「次は浴室ですが・・・」
 明るいバスルームに、やや細長めのバスタブ。
 「これなら、ゆっくり入れそうだな」
 「でも、二人一緒なら、ちょっときついね」
 最後はトイレである。哲雄が
 「あのう、僕、おしっこがしたいんですけど、使っていいですか?」
 と言った。青年は満面笑顔で
 「どうぞどうぞ。ウォシュレットの水は出ますから」
 用をたして戻ってきた哲雄が大声で騒ぐ。
 「大変だよ祥治さん」
 「なんだよ大きな声出して」
 「僕ら、パンツ、逆に穿いてるよぉ!。今、トイレに入って気が付いた」
 「チェックアウトの時、大急ぎだったからなぁ。先に、パンツ穿いたの、確か、おまえだったよなぁ」
 「そんな、僕一人のせいにするなんてずるいよぉ」
 「これから、洗濯物を畳んでしまうときには、充分注意しろよな」

 青年はほくそ笑む。仮契約は、この4階の物件で決まりだと。
 祥治の運転免許証を預かった青年は仮契約の書類を作成する。彼は、免許証の生年月日の欄を見て、祥治が38歳であることを知った。この人、若く見えるなぁ。俺と同じか俺より年下だと思ってたぜ。青年は今年30歳になったばかりである。最近太り気味で、腹がぶよぶよだと、妻から指摘されている。祥治には体型の崩れが全くない。若々しいのはそのせいであろう。だけど、この二人、ゲイなんだなぁ。二人で、ああやっていちゃついてるからバレバレだけど、一人ずつだったら、まず、そうは見えないだろう。若い彼はともかく、この吉川さんには、結婚目当ての女がわんさか寄って来るんだろうな。ま、いいや。この部屋で仲良くやってもらいたいもんだぜ。

 長い春の日が暮れかかっていた。今朝新宿で上がった太陽。それを二人は22階の窓から眺めた。今、その太陽がヴェランダの向こうの山の稜線に隠れようとしている。祥治と哲雄は、並んで、いつまでもそれを見ていた。

 三か月後。二人の土曜日は、忙しい。名曲喫茶と『R』に、そろって顔を出さねばならない。明日は二人で、『こだま号』に乗る。東海道新幹線のダイヤ改正で、一部の『ひかり号』もH駅に停まるようになったが、祥治は『こだま』にこだわった。
 「じゃ、帰りは『ひかり』?」
 「いや、『こだま』」
 「なーんだ」
 「ただし、グリーン車を奮発します」
 その理由を、さすがの哲雄も知らない。
 紘一の墓は、湖を見下ろせる高台の上にある。その日、空には、雲一つなかった。
 

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