三組の指輪(連作ゲイ小説「クラシックなオトコたち」第6話)
Part 1 仮面のロマンス
夕暮れ時の海岸沿いに緩いカーブを描いて伸びる国道に、車は少なかった。秋の彼岸が過ぎてめっきりと日が短くなっている。地元の利用者にしかわからない細い上り坂の道に右折するころにはあたりは真っ暗になっていた。坂を上りきったところに隠れ家のように一軒の喫茶店があった。駐車場にはクルマが一台も停まっていない。店は、がら空きにちがいなかった。平日の6時過ぎはいつもこうなのだ。
松下隆一は機嫌がよかった。大口とはいえないが、堅実な運営で知られる二つの企業と、立て続けに契約が成立したのだ。隆一が守っていこうとする自営業にとっては、これから先の経営をぐんと安定させてくれる契約なのだった。
「いらっしゃいませ!」
店員は若い男性ひとりである。息子の隆太と同年齢くらいか、あるいはもっと下かもしれない。そんな店員が少なくとも3人はいて、交代でシフトを組んで店にいるようなのだが、隆一にはその区別がなかなかつかない。感染症の蔓延防止のためにマスク着用が国民の努力義務であるとされた時期はとっくに終わっていて、客の大半は、ノーマスクである。しかし、飲食業の従業員の方は、マスク着用継続の店が大半だった。この喫茶店もそうである。3人は背格好が同じぐらいで、接客態度もソフトで礼儀正しく、挙動もよく似ていた。店の制服を着用しているから服装で区別することもできない。髪型は微妙に違うのだろうが、隆一にはそこまで観察する気もないし、正直、違いもよくわからないのだった。そんな状態で3人とも、眼から下がすっぽり隠れる大きな白いマスクをしているものだから、常連のはずの隆一にも誰が誰だかわからないのである。
「ご注文がお決まりになりましたら、そちらのボタンを・・・」
とは、この3人は隆一には言わない。常連さんで、注文はキリマンジャロをブラックでと決まっているのだ。隆一が特別なそぶりを見せない限り、水の入ったコップとおしぼりを、いらっしゃいませと小声で言いながら置いていくだけである。やがて、豆の挽かれる音が店内に響く。今注文を訊きに来た彼がドリップで淹れてくれるのである。
店内に低めに流されているBGMはジャズのヴォーカルのことが多い。隆一が席についたとき、そのBGMが一時途切れた。そして、店員が彼のテーブルから離れていくのを待っていたように、次の音楽が始まった。
クラシックだった。ヴァイオリンの独奏で、親しみやすい甘美なメロディーが流れる。それを支えるオーケストラの響きもしっとりとやさしい。
「おや、これは・・・」
隆一はそっと呟いた。隆一はクラシック音楽にはとんと疎い。3年前に先立たれた妻もそうだった。
「あんな上品で堅苦しいもの、ワタシ達には似合わないわよ」
なんて、けらけら笑い飛ばしていたものだ。
しかし、今日は、一聴して曲名がわかった。ベートーヴェン作曲のロマンス。その第2番のほうである。
息子の隆太は今年25歳になる。大学の薬学部を卒業して、薬剤師への道を進み始めた。職場が都内なので、通勤するのはこの町からでは少々無理がある。それで、大学卒業と同時に隆太は家を出て、東京で暮らし始めた。妻を亡くして一人ぼっちの父を気遣って、マメに帰省してくれる孝行息子である。その息子が、あるとき、一枚のCDを置き忘れて行った。居間のテーブルにぽつんと乗っていたそのCDを隆一は手に取って見た。バリバリのクラシック音楽のCDだった。
隆太も、元々クラシックには馴染みが薄いはずだが、こんなものを持ち歩いているのは、能利鉄男の影響にちがいなかった。鉄男は隆太が通っていた高校の社会科の教師で、歴史を教えていた。あるできごとがきっかけで、二人は親しくなり、惹かれあった、卒業式の日にお互いの気持ちを確かめ合うと、迷うことなく隆太は鉄男の胸に飛び込んで行った。
隆太が卒業して程ないころ、隆一と妻は能利鉄男に会っている。隆一の母校は伝統校で、創立100年を超える。そのため、何度か校舎の改築が行われたが、離れになっている大正ロマン風の図書館だけは、OBの陳情で改築を免れてきた。しかし、もうそれも限界に来ていた。現役の図書館として継続使用することは危険すぎると、県の許可が下りなかったのだ。しかし、解体を惜しむ声に押されて、県教育委員会はその図書館の建物を重要文化材として保存してくれることになった。能利鉄男は歴史の教師だから、この話に興味を持って、その図書館を見学してみたいと隆太に漏らしたのである。見学には県教育委員会の許可が必要である。その話を聞いた隆一は、OBとして、息子の恩師能利先生の案内役を買って出た。
妻を入れて四人で隆一の母校をめぐっている間に、隆一は息子隆太と能利鉄男の関係を見抜いた。ふたりがことさらにベタベタしていたわけではもちろんない。むしろ、その逆である。しかし、身振り手振りはごまかせても、二人が交わす視線が、すべてを語っていた。特に、隆太の方は、鉄男に対する気持ちを微塵も隠そうとはしていないようだった。その、堂々とした息子の態度を見て、これは認めるしかないなと、隆一は思った。この件に関して、隆一も隆太も、おたがい一言も言葉には出していないが、もう暗黙の了解事項と言ってもよかった。
その能利先生が、根っからのクラシック好きなのである。どんなに惚れ合った仲であっても、音楽の趣味を100%相手に合わせることは、無理である。しかし、影響は受ける。だから、クラシック好きなど一人もいないはずの松下家の居間のテーブルに、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲のCDが忽然と姿を現すようなことになったのだ。
いったい、隆太はどんな音楽を聴いているのか。俺も聴きたい。隆一はそう思った。しかし、ヴァイオリン協奏曲というのはいかにも難物のような気がして、気後れがした。実際、CDケースから解説の冊子を外して読んでみると、演奏時間が40数分とある。CDのトラック三つ分を使っている。しかし、このCDにはその後に二つのトラックがあった。それがヴァイオリン独奏と管弦楽のための小品、ロマンス1番と2番だった。こちらはどちらも10分程度の演奏時間である。それに、「ロマンス」という題名が、敷居が高いと思われがちなクラシックの曲名の堅苦しい印象をかなり和らげていた。隆一は、天下の名曲は完全に無視して、トラック4と5だけを続けて聴いた。そして、断然気に入ったのがロマンス第2番の方だったのだ。いまでもそのCDは隆一が持っている。隆太が返却を求めてこないので、知らん顔をして取ってあるのである。そして、ふと寂しくなったときに、トラック5だけをかけて聴くようになっていた。
だから、今日も、一聴してたちどころに、曲名がわかったのである。そして、気が付いたことがあった。同じ曲のはずなのに、息子が持っていたCDの演奏とは、かなり印象が違うのだ。それで、思わず、流れ出したこのBGMにじっと耳を傾けることになった。半分ほど曲が進んで、曲調が少し変わるタイミングで、隆一はコーヒーのことを思い出し、テーブルに目をやった。そこには、いつの間に置かれたのか、注文通りのキリマンジャロが、熱々の湯気をたてていた。隆一は、店員がコーヒーカップをテーブルに置いたことさえ気づかずに音楽に聴き入っていたのである。
閉店8時の15分前に会計のカウンターに立った。他に客は来なかった。店員も、隆一にキリマンジャロを淹れてくれて、おそらくそっとそれをテーブルの上においてくれた男子の店員一人きりだった。三人の中ではこの子が一番髪が短いかな、と隆一は電子決済をしながら思った。店員の髪形は隆太のショートヘアに似ていたのである。
そして、マスクをした彼の顔をちょっといつもよりは子細に眺めて、なんとなく目元が隆太に似ているのではないかとも感じた。隆太の顔は、美貌だった妻の系統を引いていて、どんなに大勢の中にいても、ぱっと明るく目立つ眉目秀麗タイプだった。わが息子ながら、ほんとに美男子なんだなと、隆一も感心するくらいだった。しかし、高校生まではそれでよかったが、最近は、その顔立ちのせいで、実年齢よりもずっと若く(つまり幼く)見られてしまって困ると本人は言っていた。もう25歳なのに高校生と間違われることもあるのだそうだ。隆一は、店員のマスクの中に隠れている顔も、隆太のような、幼さを残す、ちょっと愛くるしいものなんじゃないかと、勝手に決めて、店を出ようとした。
男子にしてはソフトすぎる店員口調で、ありがとうございましたの言葉が聞こえてくるはずだった。しかし、店員くんが、マスク越しに隆一にかけた言葉はちょっとちがっていた。
「ベートーヴェン、お好きなんですね」
「いや、たまたま知ってた曲だったので・・・」
「コーヒー置くとき、カップの音がお邪魔にならなかったですか?」
「そんなことはありません。いったい、いつ置いて行ったのかと思ったくらいだよ。忍者みたいだね」
マスクからかろうじて見える目尻に笑い皺ができた。そうすると、彼の顔がますます隆太に似ているように思えてくるのだった。
隆一の喫茶店通いは続いた。勤め人ではない彼が、仕事が一区切りついたときにお気に入りのキリマンジャロを飲みに行くのだから、来店時間は一定ではなかった。平日の夜はあんなにガラガラなのに、たまたま日曜日の昼下がりに寄ってみたら、満席で入店できなかったこともある。混んでいる時間帯には女性の店員も居て、隆一は彼女らとも顔なじみである。
隆一は、高校生のときは、県下に名を轟かせた陸上の選手だった。スポーツも万能で、今でも市営プールでの水泳を欠かさない。47歳とはとても思えない引き締まった身体は、どんな服装をしていてもスラリと均整がとれていた。おまけに、妻や隆一とは顔の系統が違うけれど、地味ながらかなりのイケメンである。だから、おばさん店員の受けがめっぽうよかった。隆一は、妻と年恰好が似ていて、妻と同じように屈託なくけらけら笑う、ひとりのおばさん店員と話す時は、こういうタイプの女性が自分の傍にいてくれたら・・・と思うこともあった。
しかし、隆一が一番気にかけるようになったのは、
「ベートーヴェン、お好きなんですね」
と声をかけてくれたあの青年である。あの時以来隆一は、三人の男子店員の中で、彼のことは完全に見分けがつくようになった。すると、不思議なもので、あとの二人の特徴も印象に残るようになって、結局、隆一はマスク・制服着用でも、ちゃんと三人を区別できるようになった。ただ、この店では店員が名札を付けないので、苗字がわからなかった。わからなくてもいいけれど、ベートーヴェンくんだけは、名前を知りたかった。だから、こっそり、心の中で彼のことを「リュウタクン」と呼ぶようになった。マスクの下の彼の顔は、あどけなさの残る隆太の顔そっくりに違いないと、隆一は勝手に思うようになったのだ。
もっとも、店員の名前などは、勘定書きの印刷を見ればだいたい見当がつく。注文を取りに来る店員は端末を操作して客の注文を確定するが、そのときその店員の名前が勘定書きに印字されることになっているからだ。隆一は、残念ながら、それを知らなかった。
隆一の妻は心臓に持病があった。結婚以来、ときどき調子が悪いとこぼすことはあったが、日常生活に支障はなかった。ところが、3年前、隆一も妻本人も予想していなかった深刻な発作が妻を襲った。新型ウィルスによる感染者数がちょうど谷間の時期だったことが幸いして、救急病院への搬送は極めてスムーズだった。最短の時間で救急医療の受けられる幸運に恵まれたのに、妻は助からなかった。あっけない最期だった。葬儀は家族葬で、悲嘆に暮れていた隆太も必死の思いで母の葬儀に臨んで、取り乱したりはしなかった。葬儀の期間中、能利鉄男から、隆太にスマホで電話でも入るのかなと思っていたが、その気配はなかった。隆太から鉄男にかけた様子もない。鉄男は隆太にとって終生のパートナーになるはずの人だが、松下家の家族ではない。二人は、極力接触を避けているらしかった。そんな息子を、隆一はいじらしいと思った。
昨夜、隆太が予告なく隆一を訪ねてきた。珍しいことだ。
「東京都にパートナーシップ宣誓制度っていうのが始まったでしょ」
隆太は何でもないことのように話し出す。
「うん、知ってるよ」
「僕ね・・」
さすがに言い淀んでいる。
「活用したいと思っているのか?」
黙って、首を縦に振った。
「相手はね・・・」
「センセイだろ」
「父さんにきちんと説明をして、了解を取りたいって、言うんだ。先生が」
「おまえ、まだ、能利さんのこと、先生なんて呼んでるの?」
「そうなんだよね。最初のうちは、てっちゃんとか鉄男さんなんて言ってみたんだけど、やっぱり先生になっちゃった」
「まさか、能利さんは、おまえのこと、松下君なんて呼ばないんだろ」
「うん。隆太、って呼び捨て」
ちょっと妬ける話である。
「明日、能利先生を連れてきてもいい?」
これは、こちらが逃げるわけにはいかないだろう。一番逃げ出したいのは能利先生自身に違いないのに、向こうから俺に会いに来ると言うのだ。
「能利先生、勇気があるんだな」
「あんな風にみえて、案外とね」
これまた、ちょっとムッとする言い方である。隆一は、鉄男の来訪を許可した。
六年ぶりに会う能利鉄男は、あの時とあまり変わっていなかった。隆太と並んでも違和感がないくらい、若々しい。誠実な物言いも、隆一には好ましかった。鉄男が松下家に上がって、最初に口にしたのは
「奥様にお線香をあげさせてください」
である。お義母さん、などとは、口が裂けても言えなそうだった。
「今すぐ届を出すということではないんです。まだまだ始まったばかりだし、もっときちんと法整備がされるのを待ってからとも考えています。ただ・・・」
「ただ?」
「隆太君の就職を機に、完全に同居したいとは、思っています。今日は、そちらの方のお許しをと思いまして・・・」
突然やってきた男に、自分の子供をさらわれるように持っていかれる。男の子の父である自分が、そんな目に合う日が来ようとは・・・苦笑するばかりの隆一だった。そして、思う。
また、少し、息子が自分から遠ざかっていくのだと。
翌日の朝。隆一は仕事で東京に向かっていた。目的地までの直通の電車は無くて、途中で一度乗り換えが必要だった。隆一と同じようにJRまたは私鉄に乗り換える客が、ホームを足早に歩いて行く。毎日利用しているわけではない隆一は、一番後ろからとぼとぼと歩いていたが、すぐ前を歩いていた5人の客の誰かのポケットから、何かが滑り落ちるのが見えた。落とし主は気づいていないようで、5人はさっさと乗り換え階段に向かって歩いて行く。隆一が拾い上げたものはICカードの定期券が入ったケースだった。五人のうちの誰に渡せばいいのかわからない。それでやむなく、定期券に印字されているカタカナを、読み上げた。
「シバタリュウジさん!」
五人が五人とも振り返ったが、そのうち右端にいた若い男性が隆一の所に駆け寄ってきた。
「シバタは僕ですが」
「ポケットから何か落とさなかったかい?」
両方のポケットをまさぐっていたシバタくんは、しまった!という顔をした。
「もしかして、、定期券?、、ですか」
「本人確認じゃないけれど、念のため区間を言ってくれますか?」
乗った駅は隆一と同じで、行先は乗り換えたJRで三つ目の駅だ。定期券の印字と本人の申告は合っていた。
「うん、まちがいないね。はい、どうぞ」
定期券を手渡そうとすると
「本人確認なんて、慎重なんですね。でも、それが、あたりまえかも」
と言って、わざわざ運転免許証を出して見せてくれた。本人に間違いない。免許証の顔写真通りの顔がにこやかに笑っていた。物言いはまだまだ若いというか、幼いのに、精悍な顔つきの青年だった。頬骨から顎にかけての、シャープな輪郭と日本人離れした高い鼻。もし、目つきがもうほんんちょっと鋭どかったら、相手を怖がらせる恐れがあった。しかし、人懐っこい眼が、これだけきつい印象の顔の放つ緊張感を、だいぶ和らげている。隆太とは全く正反対のタイプだが、こちらも間違いなく、イケメンだった。青年は、何度も丁寧に頭を下げる。シバタリュウジ君は漢字で新発田隆二君だった。
「いいから、もう行きなよ。俺は私鉄だからいいけれど、JRのほうは、すぐ発車だろう?」
「わかりました。ほんとうにありがとうございました」
すたすたと、長い脚を軽々と運びながら、乗り換え階段に向かう。じゃ、俺もと思って、隆一が一歩踏み出したとき、青年がくるりとこちらを向いてにこやかに言った。
「今日は、東京でお仕事ですか?}
ただ、定期券を拾ってくれたいきずりの相手に対して、少しばかりなれなれしすぎる言い方ではないか? 隆一は違和感を覚える。それに、この声、どこかで聞いたことがある気がする。
いったい、どこでだ?
その夜、隆太から電話があった。
「きのうは、ありがとうね」
「礼を言われる覚えはないけど」
「だって、とうさん、先生の胸倉掴んで食って掛かったり、ぶんなぐったりしなかったでしょ」
「俺が、そんなことすると思ってたの?」
「もしそうなったら、ひ弱な僕が、先生の盾になるつもりでした」
結局、そういう『のろけ』が言いたくて電話をかけてきたのか、こいつは。
隆一は無理やり話題を変えて、今朝、定期券を拾った話をした。
「おまえさ、新しく発する田んぼ・・って書いてなんて読むかわかる?」
わからねぇだろ。俺だって知らなかったんだから。しかし、隆太は、あっさりと
「シバタでしょ。新潟県の」
「え、新潟なの?」
「何言ってるんだい。訊いてきたのはとおさんのほうだろ。羽越本線と白新線の分岐駅でもあるんだよ」
隆太は、少年のころあまり鉄道には興味を示さなかった。男の子としては珍しい。しかし、最近やたらに線名に詳しい。これも、能利鉄男の影響に違いなかった。能利先生は、根っからのクラシック好き、そして筋金入りの『乗り鉄』なのである。
夕暮れ時の海岸沿いに緩いカーブを描いて伸びる国道に、車は少なかった。春の彼岸が過ぎてめっきりと日が長くなっている。それでも、地元の利用者にしかわからない細い上り坂の道に右折するころにはあたりがようやく暮れかけてきた。坂を上りきったところに隠れ家のように一軒の喫茶店があった。駐車場にはクルマが一台も停まっていない。店は、がら空きにちがいなかった。平日の6時過ぎはいつもこうなのだ。
「いらっしゃいませ!」
店員は若い男性ひとりである。息子の隆太と同年齢くらいか、あるいはもっと下かもしれない。
彼は、水の入ったグラスとおしぼりをテーブルの上に置く。注文はキリマンジャロのブラックと決まっているから、そのまま黙って去る。いつもそうだ。しかし、今日はちがっていた。
「きのうは、ほんとにありがとうございました」
隆一はきょとんとしている。なにが、ありがとうなのだ? 昨日、いつ、君に会った? 心の中でそう問いかける。
店員君は笑いながらマスクを外した。幼さの残る立ち居振る舞いとは不似合いなくらいの精悍な顔がにこにこと笑っている。
「僕、新発田隆二です」
「ああ、、そうか。マスクで全然わからなかった」
「ですよね」
「新潟の出身なの?」
隆太から仕入れた知識を早速流用してみる。
「あれ、よくわかりますねぇ」
「だって、新発田は新潟県でしょ?」
当然のごとく、嘯く。
ほかに誰もいないのをいいことに、新発田くんはマスクを外したままで、隆一に話しかける。会話は途切れることなく一時間以上続いた。なぜ、隆一がベートーヴェンのロマンスに熱心に耳を傾けるのかを、能利鉄男の部分を上手に省いて、新発田クンに話したりした。
「ベートーヴェンのロマンス、かけましょうか?」
「いいね。お願いしようかな」
柴田君はカウンターの中にあるらしいCDを取り換えに行く。しかし、流れて来たのは独奏ヴァイオリンの甘いメロディーではなく、ティンパニの静かな連打であった。
「すいません。ヴァイオリン協奏曲の方がかかっちゃった。でも、こっちも、お好きですよね。ベートーヴェンの傑作だし、古今のヴァイオリン協奏曲のなかの名曲中の名曲、王者とまで言われているんだから」
そんな曲聞いたことないなんて、言える雰囲気ではない。
「そ、そうだね。たまにはこっちをしっかり聞くのもいいよな」
ハッタリをかましながらも、しどろもどろにならないように細心の注意をする。ラストオーダーの7時半を過ぎたので、新発田クンがドアのカードを『準備中』に裏返しに行く。ヴァイオリン協奏曲は始まったばかりだ。全曲を聴き終わるころには閉店時間の8時を過ぎてしまうだろう。
新発田くんは8時になっても、曲を止めたりはしなかった。
隆一は、40数分を、黙って耐えたわけではなかった。眠くなどならなかったし、退屈もしなかった。なるほど、ベートーヴェンという厳めしい名前に恐れをなして、この曲を聴かないのはもったいないかもしれない。
そして、もっともったいないのは、今夜このまま新発田くんと別れてしまうことだ。
隆一は、コーヒーカップを下げようとしている新発田クンの左手をそっと握った。精悍な顔つきがキュッと引き締まるから、怒ったのかなと思ってしまう。しかし、眼は笑っているのだった。そして、その左手に力を込めて、隆一の右手を握り返してきた。
座ったままの隆一と、突っ立ったままの隆二は、おたがいに体を伸ばして、唇を重ねた。
Part 2 天下の名曲
「タカちゃんに、オトコができただってぇ?」
その日、朝食のテーブルに座ると、紫原圭吾は素っ頓狂な声でそう言った。
「本人も認めてるんだから、間違いないと思うよ」
寝坊した圭吾のために、手早く作ってやったベーコン・エッグの皿を差し出しながら答えたのは白樫鷹男である。ふたりは、お互いを終生のパートナーと決めている。
紫原圭吾は松下隆一の高校時代の同級生である。隆一は短距離走、圭吾はハードルで、ともに県下に名を轟かせていた。だから、いま彼は47歳。有能なデイトレーダーで、このマンションも都心の一等地にあり、庶民に手が出せる物件ではなかった。白樫鷹男は高校1年の夏、まだ16歳の時に圭吾と結ばれた。7年前のことである。だから、今彼は23歳。そのころから天文学が好きで、大学で宇宙のことをいろいろ学んでいる。今年大学院に進学した。
圭吾は隆一のことを、隆一の隆の字をタカと読んで、タカちゃんと呼ぶ。ゲイとしての感情を隆一に抱いたことはないが、同じ陸上部でしのぎを削った親友である。終生の友と思っている。だから、みんなは隆一のことを「リュウちゃん」と呼ぶけれど、自分だけは特別の呼び方がしたいと、圭吾は隆一に言ったのだ。隆一もそれを承諾して、タカちゃんと呼ばせている。自分は圭吾のことを苗字呼び捨てで「シノハラ!」と言ってみたり、親しみを込めて「ケイちゃん!」と呼んだりする。そういう仲なのだ。
「いったい、どういうことなんだ。だいたい、何で鷹男がそれを知ってるんだよ」
状況説明が必要なようである。鷹男は、食後の珈琲を啜っている圭吾の前に座ると、こんな話を始めた。
昨日の夕方のことである。大学からこの部屋に戻る途中の、とあるオープンカフェで、鷹男は松下隆一が若い男と楽しそうに話し込んでいるところを目撃した。
もうすっかり元気になったんだなと、鷹男は思った。
3年前、突然妻に先立たれた時の隆一は、傍で見ていられないくらい、痛ましかった。初七日をとっくに過ぎても、家に引きこもったままで、何もしようとしない。その後も生活は荒んだままで、酒量も明らかに増えて行った。大好きだったランニングも水泳も一切しなくなった。陸上競技で鍛え上げた自慢の肉体は、どんどん崩れていくばかり。あるとき、これまでひいたことのない風邪を患って医者に行ったとき、生活の改善を強く求められた。1年が過ぎていた。亡き妻の面影が瞼に浮かばない日は無かったが、どうにか普段の生活を取り戻せるところまで時間は進んでいた。潮時だったのかもしれない。
圭吾の強い忠告もあった。
立ち直ってからの隆一は、仕事に一層精を出し、業績を伸ばし、サボっていたランニングも水泳もこれまで以上に熱心に取り組んだ。筋トレまで始めた。がむしゃらに働いて、トレーニングに夢中になって、妻のいなくなった心の隙を埋めようとしているようだった。崩れかけていた肉体は直ちに往年のガタイを取り戻した。中年期になって、やや太りかけていた隆一だったが、この時以来、どんどん身体は引き締まっていった。
自営業は順調に業績を伸ばしている。もともと体の動きは敏捷そのものだったが、男としての自信を完全に取り戻した隆一の立ち居振る舞いは堂々としたものとなり、彼が道を歩くと、大勢の人が思わず振り返るようになった。顔つきは、どちらかというと地味なのに、どこにいても隆一は、ぱっと目立つルックスになっていたのである。大勢の客でにぎわっているオープンカフェで、鷹男が隆一をたやすく見つけたのも、このためである。
相変わらず目立ってるねぇ、松下さん。鷹男はそんな独りごとを言いかけて、目立っているのは隆一だけではないことに気が付いた。
隆一の前に座って、頷きながら彼の話に耳を傾ける若い男。その顔の印象が、強烈だった。一度見たら、そう簡単には忘れないだろう。頬骨から顎にかけてのシャープな輪郭と形のいい鼻。程よい薄さで横にきれいに広がってぎゅっと結ばれている意志の強そうな唇。精悍とは、こういう顔立ちを言うのではないかと、鷹男は思う。顔に自信のない鷹男ではないが、自分にないものをこの青年は持っている。それは、まちがいなかった。
甘さはかけらもない。完全におとなの男の顔である。もし、両眼がもう少し鋭かったら、相手を怖がらせたかもしれないが、人懐っこい瞳のせいで、顔全体が過度な厳しい表情をかろうじて免れていた。そして、時たま隆一の話に向かってほほ笑むときの柔らかい笑顔と、おかしすぎて笑い転げてしまうときの仕草は、まだまだ幼かった。完全にオトコの顔立ちなのに、そこかしこに少年っぽさが残っているのである。それが、また、何とも魅力的なのだった。
隆一と青年の笑いはとどまることが無い。ゲイでなくてもわかる。二人は恋人同士なのだ。
これは知らんぷりを決め込んで通り過ぎるべきだと、鷹男は判断したが、遅かった。隆一が鷹男に気が付いて、無邪気に手など振るのだった。彼の前でそれはマズイんじゃないのと思いながらも、鷹男は二人に近づいて行った。そして、一瞬、震え上がった。青年の精悍な顔が怒りを帯びているのがわかった。自分に向けられる視線の、刺すような鋭さ。睨みつけられた鷹男は心底、「怖い!」と思ったのだ。それでも、にこやかな笑顔で、取り澄ましながら、言葉を選びに選んで
「お久しぶりです、松下のおじさん」
と言った。正解だった。青年の強張った表情が少し緩んだのだ。鷹男は安堵した。もし、リュウイチさんなんてうっかり呼び掛けてたら、俺は殴り飛ばされてたんじゃないだろうか。
「家族の者(圭吾のことである)が、たまにはお寄りくださいと言ってました。それじゃ失礼します」
逃げるようにその場から離れた。そっと二人の様子をうかがうと、隆一が上手に説明したのであろう、青年は再び、少年のように笑い転げていた。
ここまで鷹男の話に黙って耳を傾けていた圭吾が、はじめて口をはさんだ。
「タカちゃん、その子にべた惚れされてんだねぇ」
「隆一さんもまんざらじゃないみたいだよ。ってか、そうとう気に入ってるみたいだね」
「どうして、わかるんだ、そんなこと」
「一時間ぐらい前かな、圭吾さんがまだグーグー寝てるとき」
「寝坊で、悪かったね」
「隆一さんから、僕の携帯に電話があったんだよ」
「何を言って来たんだ?」
「鷹男クンに目撃された以上、黙ってるわけにもいかないから、ありのままを圭吾さんに話すってさ。その時、言ったんだ、隆一さんが」
「なんて?」
「鷹男クンも、『先輩』として、いろいろアドヴァイスを頼む…だって。意味深だよねぇ」
「俺も鷹男には、いろいろと教えさせていただきましたっけ」
「感謝してます、ほんとうに。おかげで、ずいぶん上達したでしょ?」
「今も上達中なのかな?」
「試してみますか?」
「是非」
あっけなく、平日の朝っぱらから、ベッドになだれ込んだ二人である。
情事が一段落するのを待っていたように、圭吾の携帯が電話の着信音を鳴らした。隆一からに違いない。スピーカーモードにして、鷹男もいっしょに隆一の話を聞いている。いったい、何がきっかけで、どんなふうにそんな仲に発展したんだ?そう問うのはもちろん圭吾である。しかし、隆一の返事を理解するのに、二人ともかなりの時間を要した。
「いっしょにベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を聴いて、それから手を握って、気が付いたらキスしてたんだ」
「ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲ぅ?・・・なんだよそれ」
圭吾も鷹男も音楽が嫌いなわけではないが、クラシックはほとんど聞かない。有名な作曲家だの名曲だのと言われても、二人の知識は中学の音楽の授業のレベルどまりなのである。そのふたりにもまして、クラシックなんて不似合いな男、それが隆一なのだ。そのはずだった。
圭吾が言う。
「ヴァイオリン協奏曲ってのは、オーケストラに伴奏させて、ヴァイオリンが一人でいろいろやるやつだろ?」
鷹男も圭吾のスマホに向かってしゃべる。
「中学の授業でメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を聞かされた気がするけど、ベートーヴェンにもヴァイオリン協奏曲なんて、あるんだ」
そのあとも、二人はいろいろと隆一に質問をするのだが、どうもぴんと来ない話なのである。そして、隆一は同じ言葉を繰り返すのだ。
「いっしょにベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を聴いて、それから手を握って、気が付いたらキスしてたんだ」
ベッドの上で全裸の二人は、お互いに顔を見合わせるだけである。いまさら、こっそり股間を覗く仲でもない。隆一の電話に対して、話の接ぎ穂が見つからない感じだ。しかし、さすがに、そこは高校以来の親友同士である。圭吾は、思いやりを込めた口調で電話に言った。
「俺たちには、その子のこと、紹介してもらえるのかい?」
「もちろんそうするつもりだよ」
鷹男が口をはさむ。
「その時はね、松下のおじさん」
「変な言い方するなよ、鷹男クン」
「圭吾さんのこと、シノハラ!って呼ばなきゃだめだよ」
「そうなのか?」
「絶対に、ケイちゃんなんて言ったらだめだからね。僕のアドヴァイスその1です」
「なんか、よくわからないけど、そうするよ。ありがとう」
隆一からの電話は、ここで切れた。
その日の夜、夕食を終えると、圭吾と鷹男は、パソコンでベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を検索した。古い盤ならば、タダで全曲聴ける可能性がある。思惑は当たった。パソコンはオーディオ装置にもつながっているから、それ相応の音質で聴くことができる。
第1楽章が鳴っている間中、圭吾はアクビを噛み殺し、鷹男は何度もパソコンの画面を覗き込んだ。24分の演奏時間の、どの辺まで行っているのか確かめるためだ。
「まだ、半分も終わってないんだ」
「やっぱ、クラシックってのは、やたら長いんだな」
しっとりと静かな第2楽章は、演奏時間も短かったし、甘美なメロディーが圭吾の気に入ったようだった。鷹男は、第3楽章がはじまると、
「ここ、なんかいいじゃん」
と言っていたが、半分もしないうちに、
「いいけど、やっぱ、長いね」
と、うんざりした顔をする。
鷹男は、隆一の相手の青年をまじかに見ている。あの二人が、この40分を優に超える曲を、一緒に聴いたのだろうか?そして、それが唇を交わすきっかけとは、いったいどういうことだ。さっぱりわからなかった。
圭吾は別のことを考え始めていた。最愛の妻を亡くした男が、悲嘆にくれる時期を乗り越えて、再び人生の梶をきったとき、その前に若い男が現れる。二人はそのまま惹かれ合う。同じような話を、圭吾は知っているのだ。
仕事の関係で頻繁に会うことのある、仙台在住の北林秋也である。妻を交通事故で亡くした秋也には、いま、蒼杉健太くんという恋人がいる。圭吾と鷹男は、健太に会わせてもらったことがある。四人で食事をしたのだ。礼儀正しい、それでいて人懐っこいつるんとした顔の青年だった。
このふたりが、やたらにクラシックに詳しいのである。圭吾や鷹男や隆一とはまるでちがう。だから、二人の出会いに音楽が絡んでいるのかな、と圭吾は思っているが、確証はない。知り合ったきっかけは何ですか?と訊いてみたことはあるが、今考えるとその返事も、いささか妙なものだった。秋也は、笑いながら楽しそうに言ったものである。
「コーヒーとセーターと文庫本とサンタクロースと忍者なんですよ」
その時は聞き流していたが、今考えると、何のことだかさっぱりわからないではないか。
圭吾の携帯が電話の着信を告げている。相手は、まさにその、北林秋也だった。ビジネス上の簡単な確認である。圭吾は、電話を切ろうとする秋也を押しとどめて、そばにいる鷹男にも聞こえるような声で、こう言った。
「北林さん、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲、もちろんご存じですよね?」
「それは、まぁ。天下の名曲ですからね」
「よかったら、また四人で、うちの鷹男と、そちらの健太君も一緒に食事をしませんか?」
「いいですよ。是非。ケンタも喜びますよ」
「その時に、お二人に、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲について、いろいろ伺いたいんです」
「はぁ。それはまたなぜ?」
「それは、お会いした時に。今週末なんて、どうですか?」
「ケンタと相談してみます」
四人の食事は、三日後、日曜日のランチと決まった。前日土曜日の夜、圭吾の手料理で夕食をすませたふたりは、珈琲を淹れて、居間のソファに並んで座った。正面にはオーディオ装置が置かれている。テーブルの上に鷹男が大学の友人から借りてきたCDが置いてある。ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲だ。明日、北林さん達に会う前に、長大極まりない(としか二人には思えない)第一楽章だけでも、もう一回聴いてみようというのだ。圭吾は第二楽章だけなら、鷹男は第三楽章だけなら、もう一度聴いてもいいと思っている。結構気に入っているのだ。しかし、第一楽章はそうではない。
行儀よく座ったままで演奏に耳を傾けてもどうせ途中で挫折することがわかっているから、圭吾は仕事上のメールチェックに漏れがないか確認したり、鷹男はしばらく洗濯していないテーブルクロスを取り換えたりしながら、この協奏曲を、とにかく最後まで聴くことは聴いた。
「こないだ、パソコンで拾った演奏とは、ずいぶん感じがちがうな」
「ほんとだね。同じ曲なのにね」
二人の感想はここまでである。眠くなってきた。圭吾の携帯が鳴った。北林秋也から、明日のランチについての確認らしかった。しかし、電話を切った圭吾は、不審げな顔つきをしている。
「どうしたの?、圭吾さん」
「明日なんだけど」
「うん」
「北林さんが10時半に、JRの駅の東口で待ち合わせたいって言うんだ」
「ランチの予約は12時でしょ?」
「そう聞いてるけど」
「そのレストラン、そんなに遠くにあるのかなぁ?」
「食事の前に、俺たちを連れて行きたいところがあるんだとさ」
「へぇ、どこなんだろ。なんだか楽しみだね」
「そうだな」
北林秋也と蒼杉健太が、圭吾と鷹男を連れて行ったのは、二人の想像をはるかに超えた所だった。駅前広場のすぐ先にでかでかと看板を掲げているカラオケボックスに、もの慣れた足取りで健太は入って行ったのだ。秋也もためらうことなく後に続く。圭吾も鷹男も、今まで全く足を踏み入れたことのない娯楽施設である。
指定された部屋は、ボックスとよぶにはかなり広くて立派だった。男四人が十分に間隔を開けて座れる大きなソファと、上面を磨き上げるように掃除が行き届いたテーブルと、巨大なモニター画面があった。思わずきょろきょろと室内を眺めまわしていた鷹男が部屋の隅の小テーブルの上に見つけたのは二本のワイヤレスマイクだ。興味津々の態度を隠そうともしない圭吾は、壁のスイッチの一つに不用意に触れてミラーボール回してしまい、慌ててスイッチを切っている。
「お二人とも、こういうところ初めてなんですね」
健太がにこにこしながら言う。秋也が続けて言う
「四人でカラオケ大会をやろうというのでは、もちろんないんですよ」
健太は、バッグの中から、携帯用のアクティヴ・スピーカーを一対取り出して、それを自分のスマホに繋いだ。小型ではあるが、かなり本格的なスピーカーらしく、試しに出力してみたラジオ番組の音声は、かなりしっかりしたものだった。
「僕、スマホに、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲のうちの一枚を取り込んできたんです」
と言いながら、健太はスマホを操作して、第二楽章を再生した。圭吾のお気に入りのメロディーが流れていく。音質はかなり良い。
「圭吾さんのお気に入りの所だね」
と、鷹男が三人に向かって言う。
「しっとりとしてて、心が落ち着くじゃないか。でも、この演奏、ずいぶんテンポが速いな。いかにも情緒たっぷりにゆっくりと、ではないんですね」
鷹男との昨夜の泥縄式にわか勉強が、ちょっとだけ役に立っているようだ。
「速すぎて、メロディーの魅力を損なっていますかね」
とは、秋也のツッコミである。圭吾は答える。
「いや、それが、そのなんというか、こんなにあっさりとさっさか弾いているのに、それでもなんだか、心惹かれますね」
健太のスマホから流れてくる協奏曲はそのまま第三楽章に入った。
「ここは、鷹男が好きなところなんです」
「でも、僕にはちょっと長すぎて。元気で楽しいメロディーだけど、こんなに何度も繰り返さなくったって。最初の三分の一だけで充分です」
秋也と健太はにこにこ笑っているだけだ。
「でも、きょうは、三分の二くらいまでは許せるかも。同じようなことを繰り返しているけれど、それぞれの部分の楽譜はもちろん違っているのでしょう?」
「それは、そうです。書かれている音符は、もちろん、全く同じではないし、第一、聞こえてくる音楽も微妙に違うと思いませんか?」
「あと何回か聴いてみないとわからないなぁ」
フリードリンクの、お世辞にも上等とは言えない飲み物を口にしながら一休みする。無音のカラオケボックスというのも、なんだか不思議な感じではある。頃合いを見計らって圭吾が切り出した。
「問題は、あの恐ろしく長ったらしい第一楽章なんです。ここは、どうやって聴けばいいのか、正直、ワタシ達には、ハードルが高い」
圭吾と付き合いの長い秋也が
「ハードルとは、いかにも紫原さんらしい言い方ですねぇ」
と、感心したように言う。
「第1楽章の出だしの部分、どうお感じになりましたか?」
遠慮がちに二人に問うのは健太である。答えるのは鷹男。
「中学の時に、音楽の授業で、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲を聴きました。けっこうインパクトあったかな。出だしから、きっちり独奏ヴァイオリンが歌い始めたから」
「一度聴いたら、忘れられない、名旋律ですよね」
「最初からちゃんと、この曲の中心は独奏ヴァイオリンなんだってわかるってことだよね」
圭吾は、昨夜聴いたCDの冒頭を思い出しながらこんなことを言った。そして、つけ足したように言う。
「それなのに、ベートヴェンのほうは、太鼓の音みたいな楽器が、とんとんとんとん、て4回だったか5回だったか鳴らすだけですよね。こんなのが、ヴァイオリン協奏曲の開始なのかって、思っちゃいます」
鷹男には全く気付かなかったことである。圭吾さん、そんなふうにきのうの夜は、聴いてたんだね。やっぱり、そこいらのただのおっさんとはちがうんだなぁ。
長年連れ添っている、父親ほども年の違うパートナーを改めて見直す思いである。
健太の丁寧で暖かい口調の解説が続いた。
「とんとんとんとん、と、やっているのはティンパニという打楽器です。そして、この音型、その後、全曲のいたるところに顔を出すんです。それだけでも念頭に置いて第1楽章を聞くと、いくらかは退屈しないですむかもしれませんよ。じゃ、流しましょうか、第1楽章」
熱心に聴き入る圭吾と鷹男。ときどき、納得したように頷く。二人同時にではなく、それぞれ、ばらばらに、曲の別の場所で。それを見ていた秋也と健太は顔を見合わせて微笑み合っている。
ボックスの中が、また無音になった。圭吾がまた口火を切る。
「終わり近くになって、オーケストラが黙り込んで、ヴァイオリンだけでがんがん聞かせてくるところがありますよね」
「カデンツァと言います。他の協奏曲にもカデンツァはあって、ここで演者の演奏技巧を思う存分披露するのが、お約束みたいになってるんです。ベートーヴェン自身は、カデンツァの楽譜は書いていないそうです。演奏者が、自由に弾きまくるってことですね」
「その後は、終結の部分なんですか?」
「はい。コーダと言います」
「この曲の、そのコーダって言う部分、僕は好きですね」
健太と圭吾のやり取りに、興味深げに割って入ったのは、秋也である。
「どこが、気に入ったんですか、紫原さん」
「また楽器の名前がわからないんですけど、なんだかちょっと鄙びた音色で、しみじみとしたメロディーが奏でられるでしょう?」
今度は秋也が解説者となる。
「その楽器はファゴットって言います。僕も好きな楽器です。長丁場のヴァイオリン独奏を労わって『お疲れさまでした。今日も、ステキな音を出してましたね。もうすぐ第一楽章が終わりますよ』って言ってる気がします。シンプルな上昇音型ですけどね」
「そっか。ベートーヴェンって人は、体育会的に威勢よく大声で相手を励ますだけの人ではないってことですかね。そっと、寄り添って、ねぎらうことも、きちんとできるわけだ」
健太が問う。
「とんとんとんとん・・・は、どうでしたか?」
圭吾は短く
「はい、確かに。ここにも、あそこにも…って感じでした」
と答える。続けて鷹男が言う。
「なんだか、曲全体が、ゆったりと歩いているような感じがしてきました。それも、かなりしっかりした、確固たる足どりで。聞こえてくるメロディーやオーケストラの音色は優し気なのに、底の方に強い意志を感じるというか。うまく言えないんですけど」
健太は
「僕も、この曲を聴くたびにそう思います。この曲のように、自分に向かって、悠揚に歩いてくる人がいる。途中の道が狭くてすれ違えない。どちらかが道を譲らなきゃならない。そんなとき、僕は、どうするか。彼は威張って肩を怒らして歩いて来るわけじゃないし、こちらを威圧する雰囲気は微塵もない。むしろその表情は慈愛に満ちてさえいる。急いでいるんだったら、どうぞ君が先に通りなさいと、その笑顔は言っている。しかし、僕は感じるのです。腰を折り、頭を低くして、道を譲るのは僕の方なのだと。そうせずにはいられない何かを彼は持っている。そして、彼が通り過ぎた後、自分の身を起こしたとき、ひれ伏してしまったことへの卑屈な感情など全く抱いていないことを知って、さっぱりとした心持になる。この曲は僕にとっては、そんな曲なんです」
と、締めくくった。圭吾と鷹男は、何も言えなかった。言う必要もなかった。秋也が言った。
「何度も繰り返し演奏されて、無数の聴衆を感動させてきた。そうこうするうちに、風格みたいなものがこの曲に備わってきたのかもしれません」
圭吾が言った。
「王者の風格ですかね」
Part 3 デュエット
入室して一時間が過ぎていた。そろそろ、ランチの時間である。蒼杉くんがアクティヴスピーカーを片づけるのを見ながら、圭吾が北林さんに訊いた。
「ここ、お二人でよくいらしゃるんですか?」
「ええ。僕ら、歌うのは嫌いじゃないんです。二人きりなら下手くそでも誰にも遠慮はいりませんからね」
「せっかく料金を払ってるのに、何か歌っていかなくてもいいんですか?」
と、ほんのお愛想のつもりで圭吾は言った。今日の目的は、周りに気兼ねなくベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を楽しむことだったのから、二人とも唄を歌うつもりなんかはないんだろうと推察したのだ。ところが、圭吾にそう言われて、二人は顔を見合わせた。ひそひそ話で
「一曲ぐらい、やっていく?」
「今練習してる、あれ、聞いてもらおうか」
なんて言っている。鷹男も、気を利かして
「せっかくだから、ぜひお聞かせくださいよ。観客は二人だけだけど」
と調子を合わせた。
健太君が手慣れた仕草でタブレットに入力すると、二人でそれぞれワイヤレスマイクを一本ずつ持って、モニター画面の横に立った。どうやら、デュエットのようだ。座ったままの圭吾と鷹男は立っている二人と巨大なモニター画面に交互に目を遣る。
どこかで聞いたことがある前奏とともに、画面には広大な畑の映像が出てきた。黄金色に染まった、収穫直前の麦畑。そして、先ほどの、圭吾が好きだと言った第一楽章のコーダに出てきたファゴットの鄙びた響きに通じる、バグパイプも聞えてきた。曲名が大きく画面に表示される。
『麦の唄』 中島みゆきの楽曲である。
歌い出したのは健太君だけだった。秋也は黙って立っている。初夏の黄金色に染まった麦畑を吹き抜ける風のような、軽やかなテノールの歌声。歌い方は、どちらかというと、淡々としていて、感情を込めたり、抑揚をつけて盛り上げたりはしていない。しかし、親しみやすいメロディーラインはきれいに追えていた。曲が最高音の部分にさしかかかると、いちだんと軽やかに、ノンヴィブラートですっきりと歌い流していく。聴いていて、爽やかな気分になる歌唱だった。
なつかしい人々 なつかしい風景 / その総てと離れても あなたと歩きたい
嵐吹く大地も 嵐吹く時代も / 陽射しを見上げるように あなたを見つめたい
麦に翼はなくても 歌に翼があるのなら / 伝えておくれ故郷へ ここで生きてゆくと
麦は泣き 麦は咲き 明日(あした)へ育ってゆく
歌声は、正面に座って聴いている圭吾と鷹男に向けられているが、その歌詞は、隣にいる秋也へのものだ。
歌詞の2番に当たる部分を歌うのは秋也である。今度は健太君が黙って立っている番だ。秋也の歌声は、柔らかくて伸びやかである。音域は健太よりやや低く、曲の中声部がことのほか豊かに響く。バリトンなのだ。歌詞の一言一言を噛みしめるように、またその意味するところが忠実に伝わるように、最新の注意を払いながら、1番と同じメロディーを歌声に乗せていく。健太とは対照的にヴィブラートが過不足なく利いていて、味わいの深い歌いぶり。歌心がある、ということだろうか。
大好きな人々 大好きな明け暮れ/ 新しい「大好き」を あなたと探したい
私たちは出会い 私たちは惑い/ いつか信じる日を経て 1本の麦になる
空よ風よ聞かせてよ/ 私は誰に似てるだろう/ 生まれた国 育つ国 愛する人の国
麦は泣き 麦は咲き 明日(あした)へ育ってゆく
健太は、眼をつぶって、自分に向けられている一言一言を噛みしめているに違いない。
サビから最後までは二人で歌った。音域も声質も歌唱法も違う二人だが、不思議と違和感がない。彼らは自分が歌いにくい音域の部分に来ると、メロディーラインからあっさりと撤退して、上からオブリガートをつけたり、下からハモらせてみたりと、プライベートなカラオケボックスならではの自由な即興を楽しんでいる。
本当に、心底、楽しそうだ。
泥に伏せるときにも 歌は聞こえ続ける /「そこを超えておいで」 「くじけないでおいで」
どんなときも届いて来る 未来の故郷から
麦に翼はなくても 歌に翼があるのなら / 伝えておくれ故郷へ ここで生きてゆくと
麦は泣き 麦は咲き 明日(あした)へ育ってゆく
麦は泣き 麦は咲き 明日(あした)へ育ってゆく
レストランは、カラオケボックスから歩いて15分ほどの所にあった。メインストリートからそれて狭い路地を伝っていくと、隠れ家のように瀟洒な建物があった。ランチとはいえ、かなり本格的なフレンチのフルコースである。
北林秋也と蒼杉健太は、周囲の客の邪魔にならないような静かな声で、それでもかなりユーモラスに二人の馴れ初めを語っていく。秋也が話に疲れて声が嗄れてくると、すっと健太があとを引き継ぎ、健太が言い淀んでしまったときには、秋也がさりげなく助け船を出した。
感心したように鷹男が言う。
「お二人は、歌以外の場面でも、絶妙なデュオなんですねぇ」
「一緒に声を出して歌うこと。それが僕らの原点なんです」
「そして、いつも一緒にクラシックを聴くんですね」
「そうなりますね」
圭吾は思う。秋也と健太の愛の生活は、音楽とともにあるのだと。そして、二人の馴れ初めを聞きながら納得する。聖夜に、音楽の神が、北林さんの前に遣わしたサンタクロース。それが蒼杉君だったんだな。文庫本と忍者についてはまだ不明であるが。
四人で食事をするのは二回目である。前回は、直接口をきくことのほとんどなかった健太と鷹男も、今日は気心が知れてきたのか、若者同士の会話を楽しんでいる。話題はお互いのパートナーの「物忘れ」の話になっていた。二人の中年は、老眼鏡を手放すことができない年齢になっている。その眼鏡をしょっちゅうどこかに置き忘れては、大騒ぎで探し回っているんだよねぇ。そんな話に興じているのだ。控えめで行儀のいい話し方が常の健太君も、鷹男が相手だと
「こないだも、メガネがないないって探し回った挙句、どうしても見つからないんで、諦めて風呂に入ったら、頭にかけていたメガネが湯船にぽっかり浮いちゃってたんだよね」
と、ぐっとくだけた調子だ。
「あるある、そういうの!」
「たまに、ホントにおっちょこちょいなんだよなぁ、シュウちゃんって」
圭吾はちょっと驚く。健太君は、二人きりの時は、北林さんのことを、シュウちゃんなんて呼んでいるんだろうか。そうなんだろうな。仲のいいことだ。しかし、次の鷹男の発言は、圭吾をもっと驚かせた。
「わかるわかる。ウチのケイちゃんにも、そういうところあるもん」
鷹男は二人きりの時でも、自分のことを圭吾さんと呼ぶ。時には、敬語さえ使う。ケイちゃんなんて呼ばれたことなど無いのだ。決して他人行儀な言い方ではないから、それでいっこうにかまわないと思っている圭吾である。それが、ウチのケイちゃん、とは何事か。まるっきり普段の鷹男らしくない言い草ではないか。しかし、若者二人の会話を、そのあとも黙ってしばらく聞いているうちにわかって来た。
鷹男は、健太と張り合っているのである。僕と圭吾さんも、健太君のところと同じように、とっても仲がいいんだよ。そう言いたいらしい。なんでまた、鷹男らしくもない子供じみた意地を張るのだろう。圭吾は、七年越しの付き合いの、若いパートナーの知られざる一面を見た思いがした。
ウェイターが肉料理の四皿を置いて行った。しばらくは、おしゃべりより食べることに専念だ。パンはテーブルの中央にまとめて四人分盛られている。各人の皿から、肉が半分ほど消えたころ、秋也と健太がそのパン皿に同時に左手を伸ばした。パン皿の前で二つの左手の掌が並んだ。圭吾の目の前に差し出された二本の薬指には寸分たがわぬデザインの指輪が嵌っていた。
圭吾は、結婚の経験などもちろん無い。そのせいばかりでもないだろうが、彼は指輪というものをしたことが無い。鷹男も宝飾品にはとんと無頓着らしくて、二人の間にそういう話題が出たことは、これまで一度もなかった。それでも、秋也と健太のおそろいの指輪には目を惹かれた。シンプルなリングだけのもので、宝石などついていないが、それでいてどことなく高級感があった。それ相応の値段のものであることは、こういうものに疎い圭吾にも察しがついた。
「指輪、お揃いなんですね」
圭吾の言葉に直ちに反応したのは健太である。
「事前に何の予告もなく、いきなり都心のデパートの指輪売り場に連れていかれたんです」
とてもうれしそうに話し出そうとする。しかし、それを押しとどめたのは秋也であった。彼は語り始めた。
「ケンタと新枕を交わして以来」
北林秋也はクラシック音楽に詳しいだけではない。日本のクラシック文学、つまり古典文学にもかなり通じている。だから、直接的な言い回しを避けるために、『新枕』なんて言葉を使うのだが、圭吾と鷹男にはかえって、こっちの言い回しの方が、何ともエロティックに聞こえてしまう。そして、だんだんわかってきた。これは、圭吾と鷹男への説明というよりは、健太自身に聞かせたい話なのではないか。
「僕は、ケンタとのことを本気で考えるようになりました。そして、これから末永くパートナーになるためには、僕と亡き妻のことについても、きちんと伝えておかなきゃいけないと思ったんです」
圭吾には相槌の打ちようがない。鷹男にいたってはなおさらだ。
「少しずつだけど、いろいろ話してくれてるよね、シュウヤさんは」
と、健太が言った。秋也は続けて
「付き合い始めて3カ月ぐらいたった時、僕は初めて仙台の自室にケンタを招きました。妻と住んでいた家は処分して、マンションでの一人暮らしでした。その部屋では、生前の妻と撮った写真を額に入れてテーブルの上に置いてあったんですが、僕は、ケンタが来るときに、この写真を隠そうか隠すまいかさんざん迷ったんです」
「そうだったの? シュウヤさん」
「自分で言うのもなんですが、いい写真なんです。二人ともとてもいい笑顔で映っている。さすがにこんなものを見せられたら、ケンタはいい気がしないだろう。このことがきっかけで、二人の仲が気まずくなって、取り返しがつかなくなるのではないかと危惧したんです。でも、やっぱり避けて通ってはいけないんだと思いなおしました。こんなことぐらいでケンタの気持ちが自分から離れていくのなら、潔くあきらめようと覚悟を決めました」
健太の顔が少しずつ紅潮してくるのが、圭吾にはわかった。やはり、健太には初耳の話なのだ。
「部屋に入って来たケンタは、すぐに写真に気づきました。額ごと写真を手に取った僕は、それをケンタに手渡した。そして言いました、これが妻だよ、って。さすがにケンタは黙り込んでしまった。その沈黙は、今振り返るとほんの1分くらいだったんだろうけど、僕には無限に続く時間のように思えました。そして、ケンタは口を開くと、いい写真ですね、と言ってくれた。とても実感が籠っていた。そして」
秋也の声が、少し詰まった。声が、震えている。
「今日、この写真をちゃんと僕に見せてくれてありがとう。これからも、ずっとここに置いておいてくださいねと言いながら、微笑んでくれたんです」
健太の顔が、はっきりと赤みを帯びてくる。
「僕は心底安堵した。でも、続けてケンタは言いました」
鷹男が尋ねる。
「なんて言ったんですか?」
「やっぱり、正式の奥さんだから、きちんと二人ともお揃いの指輪をしてるんですね。ケンタはぼそっと、そう言いました。僕への当てこすりや嫌味ではなかった。心の底から、漏れだした言葉だった。僕はそう思いました。だから、次に上京した時、迷わずケンタをデパートの指輪売り場に連れて行ったんです」
こらえ切れなくなったように健太が言った。
「シュウヤさん、僕、ホントにそんなこと言ったんですか?」
「覚えてないんだね」
「ぜんぜん」
「完璧な独り言、呟きだったもんなぁ」
「お二人の前で恥ずかしいなぁ。穴があったら入りたいです」
なんて言いながら、健太は、この世の幸福を独り占めしたみたいな顔つきになっている。
大人でも知らないような古い言い回しを使うのは、秋也の指導の賜物なんだろうか?そんなバカげたことを思いながら、ケンタくんはいい青年なんだなと、圭吾は真っ赤な顔のまま俯いている秋也のパートナーを眺めていた。そして、隣に座っている鷹男の顔を覗き込む。
鷹男からは発言が無い。健太と対照的に、鷹男の顔からは、少しばかり血の気が引いているような気がする。何かを必死に我慢しているような感じがしないでもない。それに気づかない圭吾ではもちろんなかった。今日の鷹男は、特にカラオケボックスを出てからの彼は、明らかにいつもと違うのだ。
鷹男には、物怖じというものがない。どんな時でも、自分らしさを失う奴ではないはずなのだ。圭吾はそう思ってきた。いつでもどこでものびのびと振る舞えるのが、鷹男のはずなのに、今日はまったくそうではないではないか。いったい、どうしたというのだろう。
答えは、鷹男の視線の先にあった。彼は、秋也と健太の左手の薬指を、じっと見据えていたのである。圭吾は、ハッとした。まさか、そんな。そうなのか?、タカオ!
Part 4 交差点
レストランから圭吾のマンションに向かう帰り道、しばらくの間、鷹男は押し黙ったままだった。圭吾も何も聞かなかった。秋の彼岸と冬至の、ちょうど中間にあたる時期である。日没に追いかけられるような気分で、二人は足早に歩く。少しばかり肌寒かったが、穏やかな晴天だった。
大きな交差点に差し掛かった。完全に歩車分離式の、日本で最も有名なスクランブル交差点である。行きかう車も歩行者も、うんざりするほど多い。だから、タイミングが悪いと、信号待ちの時間が長くなってしまい、人々をイライラさせる場所でもあった。
歩行者用の信号がやっと青に変わって、交差点を斜めに横切る歩道を三分の一ほど進んだ時、やっと鷹男が口を開いた。
「圭吾さん、あのね・・・」
しかし、あとが続かなかった。若者の語彙の貧困。そんなものは鷹男とは無縁の言葉である。いったん話し出すと、この青年の話には、滞りというものがなかった。決して早口にまくしたてることはない。しかし、文脈を外さず、臨機応変、自在に、豊富な単語力を操りながら打てば響くような的確な反応を返してくる。会話の軌道修正も巧みだった。
その鷹男が、最初の一言で詰まってしまっているのを、圭吾は見てとった。
彼は、鷹男に対して、言葉で問いかけるのをあきらめた。
交差点のちょうど真ん中に来た時、圭吾は鷹男の左手を取って、自分の方へ引き寄せた。その薬指をそっと握ると、自分の右手の指を近づけて行って、指輪をはめてやる仕草をした。幻の指輪は鷹男の心の中に消えた。それと入れ替わるように、鷹男の両眼のつぶらな瞳から大粒の涙が溢れ出してきた。圭吾は、黙って、自分の両腕の中に、泣きじゃくっている鷹男の頭を抱え込んで、その全身を、自分も全身の力をこめて抱きしめた。交差点を渡っていく人々は、そんな二人を上手に避けて、さっさと歩いて行ってくれる。それが圭吾にはありがたかった。
圭吾は、鷹男の耳元に囁く。
「ずっと欲しかったのか? 指輪」
「うん」
「どうして、言ってくれなかった?」
「だって・・・」
「今、無理に言わなくても、いいよ」
しかし、鷹男はいつもの調子を、わずかながら取り戻しつつあった。
「なんだか、ちゃらちゃらした軽薄なカップルみたいで、いやだったんだ。指輪買ってよ、なんて言うの」
この辺の鷹男の心理がわかるのは、圭吾だけかもしれない。
圭吾と初めて会ったとき、白樫鷹男は国内でも有数のエリート進学校の生徒だった。中高一貫の男子校で、その4年生。つまり、高校一年生だったのだ。しかも、同学年中のすべての生徒が一目置くような優秀なタイプだったらしい。外見はとてもそんなふうに見えないし、あからさまに自分の優秀さをひけらかしたりはしないのだが、内心にはそれなりの矜持があった。どんな少年にも一定の誇り・自己肯定は必要だろうけれど、巧みに隠そうとしている分だけ、鷹男のプライドには危険な一面もあった。付き合い始めて間もなく、圭吾はそのことに気が付いている。
指輪なんて、結局は金属の輪っかじゃねぇか。そんなものを、お揃いで着けてへらへらしてるなんて、ばかじゃねぇの? こんなふうに斜に構えていたにちがいないのだ。
しかし、圭吾に出会い、圭吾に愛されて、自分も圭吾を愛していることを知った鷹男は、自分が見下していた、世間のチャラチャラした軽薄なカップル並みのことを、自分もやりたくなってしまったのだ。二人でカラオケに行きたい、お揃いの指輪をして。しかし、どうしてもそれが素直に言えなかった。
相手が普通のオッサンなら、言えたかもしれない。紫原圭吾は、もちろん、フツーのオッサンではない。財力のある、思慮深い、第一級の教養人である。指輪はともかく、カラオケに行くとは言わないだろう。そんなガキみたいなことを言ったら、この人は俺のことを軽蔑するんじゃないか。そう思った。委縮してしまった、と言ってもいいかもしれない。
圭吾と鷹男は交差点のど真ん中で抱き合ったままだ。いつまでもこうしてはいられない。信号はやがて赤に変わるのだ。だから、圭吾は鷹男とともに歩き出そうとした。もう、何も言わなくていいよ、今は。しかし、普段から、圭吾は鷹男に、一度口に出してしまったことは、最後まで責任を持って言い切れ、と何度も言って来た。その教育効果が、今は裏目に出た。鷹男は、歩き出そうとしないのだ。結論をきちんと言って締めくくらねばならない。そう固く思いつめているらしい。だから、交差点のど真ん中で、ほとんどの人がもう渡り終わって自分たちしか残っていないのに、悠然と、こう言ったのだ。
「圭吾さん、僕にも指輪、買ってください」
「俺の指輪は、どうなるんだ?」
時間が差し迫っているのも忘れて、圭吾はちょっとばかり意地悪を言ってみた。鷹男はもう大丈夫だ。そう思ったからだ。
「イジワルなこと、言わないでよ。こんな時に」
「物事は正確に言いましょう、白樫鷹男クン。『ペアリングが欲しい』。それでいいんじゃないか?」
信号が青に変わるのを無数のクルマが今か今かと待っている。もうすぐその瞬間が来る。一刻の猶予もならない。圭吾と鷹男が、手をつないだままで、歩道の残り半分を全速力で走って渡り切ったまさにそのとき、点滅していた歩行者用の青信号がパッと赤に変わった。
群衆は、圭吾と鷹男のこの顛末に気づくこともなく、通り過ぎてくれた。東京というところは、ありがたい街だ。圭吾はそう思った。息は全く上がっていなかった。
群衆は、圭吾と鷹男のこの顛末に気づくこともなく、通り過ぎて行ったわけではない。彼らは気づかないふりをしていただけで、一部始終を見ていたのだ。それを知らないのは圭吾たちだけである。中年とその息子ぐらいの男二人が、交差点のど真ん中でいきなり立ち止まって、結婚式の指輪交換のパントマイムみたいなことをやったかと思ったら、いきなり抱きしめ合っちゃったのだ。その後、手をつないで、走っていた。これほど珍奇なパフォーマンスに、ちょっと街をぶらついただけで遭遇するなんて、これだから、東京暮らしは面白くてやめられない。群衆はそう思っている。
そして、それでも彼らが感心したのは、中年男の見事な走りっぷりである。そのかっこよさには、多くの者が、一瞬見とれたに違いなかった。遅れまいと必死について行ってるのが、若いほうの男だった。
昔取った杵柄。圭吾は高校時代、ハードルの名手だったのだ。
圭吾のマンションの寝室にはベッドが二つある。それぞれ自分用のベッドで寝ることもあるし、二人とも圭吾のベッドで一夜を過ごすこともある。夜が更けて、だいぶ冷え込んできた。全裸のままで眠り込んだ鷹男をしっかりと掛け布団でくるんでやると、やはり全裸だった圭吾はパジャマを着て、鷹男のとなりに身を横たえた。静かな寝息は鷹男のものだ。昼間は大人びた振る舞いの多い鷹男だが、こうして寝顔を見ると、いかにも幼い。
彼はまだ、23歳なのだ。最近、それを忘れがちなことに、圭吾は気が付いた。自分はもう47歳である。
圭吾は、眼が冴えて、眠れなかった。夕方の、両眼の瞳に大粒の涙をいっぱいに溜めた鷹男の顔が何度も思い返されるのだ。7年前にも、圭吾は同じものを見た。初めて二人が言葉を交わした日のことである。鷹男は、学ランを着ていたっけな。もう、黒の学生服の男子高校生なんて絶滅危惧種なんじゃないだろうか。
頭のいい子であることは、話し始めて3分でわかった。喫茶店の小さなテーブルの向かいに座る少年は、にこやかな笑顔を絶やさなかった。最初のうちは。しかし、会話の流れのちょっとした偶然が、いま少年がその幼い胸のうちに抱えている最も深刻な部分に触れてしまったようだった。涙はしばらく止まらなかった。今日と同じように。
話を聞きたい!圭吾は熱烈にそう思った。賢いはずの君が、初対面に近い俺の前でそんなに取り乱す、その原因は何なのだ? 圭吾は黙って待った。待てるだけ待つつもりだった。少なくとも、閉店まではここを動くまい、そう思った。待った甲斐はあった。鷹男は、意外なくらいすらすらと、自分の胸の内を語ってくれた。聴いてやることしか圭吾にはできなかった。鷹男の話は、おいそれと相槌が打てるようなものではなかったのだ。しかし、圭吾は、面倒くさがって途中で切り上げ、お茶を濁して別れることはしなかった。そんなことをしていたら、今の圭吾と鷹男は、いないはずだ。
最後まで、鷹男が語りきるまで、圭吾は全身でその話を聴いた。そして、鷹男は、今、自分のすぐ横で安らかな寝息を立てている。二人で歌うことが僕たちの原点です、と北林秋也は言った。俺たちにだって原点はある。それが、7年前のこの日なのだ。
年齢差。それを意識しなかった日は一日とてない。せめて自分がもう10歳若ければ、とも思う。いつのまにか圭吾は、鷹男のことを、今の圭吾の年齢の方に引き寄せてしまっていたのだ。しっかりした大人の男の鷹男。そう思い込むことで、24歳の年齢差を無意識にうちに心のうちで縮めてしまおうとしていた。そのほうが、圭吾は気持ちが楽になるからだ。
そして、そんな圭吾の心理を、頭のいい鷹男も敏感に感じ取って、圭吾の期待に応えようとしたに違いない。小さな無理の積み重ねが、溜まりに溜まって、あっけないほど些細なきっかけで鷹男は心のバランスを一気に崩してしまったのだ。今日の昼間に起こったことは、そういうことなのだ。
原点に帰ろう。でも、それが、俺にできるだろうか。鷹男は同年代の若者に比べて、経験豊富な年長者顔負けの行動ができる。でも、すべての場面でそうではない。幼い心のままで右往左往してしまう部分もいっぱいあるのだ。どうやって、自然体で、そういう鷹男とこれから向き合おうか。
圭吾には、これは、なかなかの難題のように思われた。すこし、頭を冷やして(つまり休息させて)じっくり考えなければいけないな。今日はもう、寝よう。
そう思った瞬間に、いくつかのメロディーが、とりとめもなく、圭吾の頭の中に浮かんでは消えて行った。ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲のフレーズたちである。なんでこんなときにこんなものを俺は思い浮かべるのか。圭吾自身にもわからなかった。冒頭のティンパニの連打に導かれて始まる長大な第一楽章。もう一度、聴きなおしてみようか。まさか、この曲の中に、今圭吾が抱えている難題解決のための、天からの啓示が示されているわけではないだろう。だけど、何かしらヒントは隠れているのではないか。何の根拠もないけれど、圭吾にはそんな感じがするのだった。
Part 5 親友
キッチンの方からいい匂いがしている。鷹男がコーヒー豆を挽いてドリップで淹れてくれているのだろう。圭吾はベッドから起き上がるのが億劫である。何度か、鷹男が寝室のドア越しに
「圭吾さん、いい加減に起きてよ」
と口を尖らして言いに来た。鷹男は、早起きをしたらしい。昨夜、彼は、情事の後、ベッドの上で圭吾の愛撫を受けながら、いともたやすく若者らしい健康な眠りに落ちて行った。圭吾はそうではない。あれこれ考えあぐねているうちに、時間はどんどん過ぎて、やっと明け方4時過ぎに眠り始めたのだ。まだ、朝の9時である。もう一時間は寝ていたい。
布団にくるまりながら、圭吾は、ぼんやりした頭で、指輪ってどういうところでどうやって買うんだろうなんてことを思っている。いつ買いに行こうか。鷹男は、指輪が欲しいと意思表示はしたが、早く買いに行こうと急かすようなことはしなかった。というより、昨夕以来、指輪の話題は一切出てこない。それならば、少しばかり時間稼ぎがしたい所である。店員が、周りの客が、どういう反応をするんだろうか。昨日は勢いで『ペアリング』なんて言ってしまったものの、それなりの心構えというか覚悟というか開き直りというか、そういうものが今の自分には必要だろう。そう圭吾は考えているのだ。
今日は月曜日である。今週の予定を少しスッキリしてきた頭で思い出す。圭吾は、今週から来週末にかけては、あまり時間の拘束を受けない仕事が並んでいる。鷹男のほうは、木曜日から、大学で泊まり込みの観測がある。一週間のあいだ、研究室の仮眠室で眠るのだそうだ。その間、二人は会えない。ということは、指輪を買いに行くのは、早くても再来週の木曜以降だな。けっこう日にちはあるじゃないか。安心して、うとうとしかけると
「圭吾さんってば~!」
と、キッチンから鷹男が叫んでいる。しかたなく、パジャマのままで、のろのろと朝食のテーブルにつく圭吾だった。
例によって、手早く作ったベーコンエッグの皿を差し出しながら、鷹男が言う。
「松下さんから、電話があったよ。いくらかけても圭吾さんが出ないからって、俺の方に」
「寝坊ですいませんね。で、タカちゃんの用事って何?」
「知らない。11時に伺いますとだけ、言ってました」
「もう9時半じゃないか」
「そんなの、圭吾さんの身から出た錆でしょ」
「その熟語、そういう使い方でいいのかぁ?」
「北林さんに訊かないとわからないね。それより、さっさと食べて、ひげ剃って、来客用のルームウェアに着替えてくださいね。いまのままの格好で誰にも会ってはいけません」
「今の俺って、そんなにひどいか?」
「百年の恋も冷める、とまでは言いませんけど」
よかった。すっかりいつもの鷹男に戻っている。
「タカちゃん、独りで来るんだろ?」
「そう言ってました。僕も、おひとりでお見えですかって探りを入れたんだけどね。なかなか、シバタ君って人には紹介してもらえないみたいだよねぇ。というか、圭吾さん、松下さん一人なら、このままでもいいんじゃないかなんて、絶対ダメだからね」
隆一は不言実行のタイプである。言い出してから実際に行動を起こすまでの期間が短い。速攻、なんてこともある。その彼が、シバタ君のことでは、なかなか慎重なのである。いい加減な状態で、浮かれたままの気持ちだけで、圭吾や鷹男の前に連れてきたくはないようだ。
圭吾は思う。タカちゃん、本気なんだな。
隆一は、10時50分に姿を現した。圭吾は、かろうじてひげは剃ったが、ルームウェアに着替える時間はなかった。隆一は黒のスーツ姿である。
「こんな時間まで朝寝坊かぁ? いいご身分だな」
「なんなんだよ。こんな朝っぱらから」
「今朝、墓参りに行ってきたんだ」
ああ、そうかと、圭吾は思った。しかし、カレンダーを見て
「命日は明日だろ?」
隆一の亡き妻のことである。
「そうなんだよ。だから、明日は隆太も来てくれる。鉄男さんも連れて」
「タカちゃん、能利さんのこと、鉄男さんって呼ぶようになったんだな」
「まぁな。で、きょうは、アイツと二人で墓参りしたんだ」
隆一は、シバタ君のことを、アイツと呼んでいるらしい。
「隆一さんが誘ったんですか?」
「むろん、そうだよ。だって・・・」
隆一は、北林秋也と全く同じことを言った。これから先、本気であいつと二人で生きていくんだったら、亡き妻のことを避けて通ることはできないと。それが、圭吾の心を打った。
「シバタ君、ついてきてくれたんですね、お墓参りに」
「ああ。最初は黙りこくっていたが、墓石に水をかけたり、線香や花を供えているうちに、アイツこう言ったんだ。
「なんて言ったんだ?」
「僕を、ちゃんと、ここに連れて来てくれてありがとう。これからも、毎年連れて来てくれますか?」
圭吾は、また驚く。二人の若者が同じ言葉を使っていることに。それは、『ちゃんと』ということば。
隆一が続ける。
「それで、俺とあいつ、二人並んで手を合わせたとき・・」
圭吾は、今度は、ちょっと慌てる。不吉な予感がする。これから隆一が言い出しそうなことの見当がついたのである。隆一が、結婚前に妻に指輪を送ろうと決めたのは、やはり墓参りをして、二人並んで隆一の父の墓石に向かって手を合わせたときに、きれいにそろえられた彼女の両方の掌の左手のほうの薬指を見たときなのだ。何度も、聞かされた話である。鷹男は、おそらく知らないだろうけれど。
その通りのことを、隆一は語った。妻の所がシバタ君に入れ替わっただけである。
「じっと目を閉じて、こう、しっかり両掌を合わせてさ。俺、左側に立ってたから、アイツの左の掌が俺の目の前にあって、やたらに華奢な薬指でさぁ、ああここには俺とお揃いの指輪がなきゃいけないって思ったんだ」
感極まったという表情で聞き入っているのは鷹男である。やめてくれ、タカちゃん。いまそれは、ちょっとまずいんだよ、ウチでは。寝た子をおこすようなことしないでくれ。
圭吾の願いもむなしく、寝た子はぱっちり目を覚ましたようだった。鷹男は、身を乗り出すようにして、
「二人で買いに行くんでしょ? 指輪。いつ行くの?どこで買うの?」
と、畳みかけている。
「指輪の話をしたら、アイツが舞い上がっちゃってさぁ。いつ行くんだ、いつ行くんだって、何度も訊くんだよ。しかたないから、明後日行こうと思うんだ。それでね、鷹男くん、こういう話、シノハラじゃ、全くダメじゃないか。指輪買ったことないだろうし」
圭吾は、苦笑いするしかない。
「鷹男くんなら、どこかいい店知ってるかなぁと思ってさ。どうだい?」
「パソコンで、検索しましょう!」
圭吾は、しばらくほったらかしにされた。仕方がないので、彼はエプロンをして、朝食の後片付けをして、風呂掃除までした。それでも、隆一と鷹男の宝飾店探しは、終わっていなかった。決着がつきそうな頃を見計らって、圭吾は隆一のためにコーヒーを淹れた。キッチンのテーブルで、三人でそれを飲みながらの会話となった。
「来年は、四人でいっしょにできるといいなぁ、墓参り」
と、隆一はしみじみと言う。他意はない。しかし、圭吾と鷹男は顔を見合わせてにやにやしている。ふたりは、こういう『松下家の今後』みたいな話題が出てくると、人物関係相関図みたいなものを作って、あれこれ論評するのが好きなのである。推理小説の読みすぎかもしれない。
「能利先生は、隆一さんから見て、どういう関係かなぁ」
「お婿さんなんじゃないか? 娘婿ならぬ、息子婿」
「隆太君から見てシバタくんは?」
「それは、えーっと、実父の後添いだから、義母じゃなくて、義父? お舅さんかなぁ」
「じゃ、隆太君、シバタ君のことを、お義父さん(おとぉさん)って呼ぶのぉ?」
頭脳明晰なはずの鷹男も、だいぶ混乱しているようだ。隆一が口をはさむ。
「あいつは、隆太のこと、『息子さん』って言ってるぜ。まだ、二人を会わせてはいないけれど」
面倒くさくなったのか、鷹男が一気にかたをつけようとする。
「結局、こういう話になると、家族や家族関係に関する、主に民法の法律用語の運用について、大胆なパラダイム・シフトが必要ってことなんですね」
隆一は、一瞬ぽかんとした顔をしたが、続けてこんなふうに言った。
「でも、今の日本じゃ、いや、他の国でもきっとそうだろうけど、そのパッパラなんとかって言うの」
圭吾が
「パラダイム・シフトだよ、タカちゃん」
隆一は構わず
「おいそれとは実現しない、ってか、できない。そういうことなんだろ?フツーの人の大部分が受け入れてくれないかもしれない可能性もあるんじゃないか?」
圭吾は、にっこりと笑うだけだある。やっぱり、タカちゃんは、賢いな。
俺はシノハラみたいに勉強ができないからな。高校時代からの隆一の口癖である。学業成績だけ見ると確かにそうなのだが、そんなのは、学校にいるときだけの話である。隆一の自営業は、彼で三代目だけれど、その経営は見事なくらい手堅い。仕事上必要な、資格も検定も免許も、一発合格である。最近、記憶力に自信を失っているようであるが、それは圭吾も同じことで、年齢の問題にすぎない。
圭吾は、一度、仕事上の知り合いで、経営コンサルタントをやっている柳田直子に、隆一を合わせたことがある。この種のビジネスでは、名の通った女性である。隆一ならば、事業拡張もできるはずだと思ったからだ。直子も、松下さんなら、かなり行けるだろうと、太鼓判を押してくれた。しかし、隆一は応じなかった。
「俺の次の代で、って、もし後を息子が継いでくれたらですけど、ちょっとやそっとのことではつぶれないような基盤づくりはしたいです。でも、大きくする気はありません。俺、そんな柄じゃないし」
有能な直子は、反論も説得も可能なはずだったが、隆一の次の言葉を聞いてあきらめたという。
「大きくなれば、自分の眼や頭で直接確かめられないことばかり増えるでしょう。書類をみせられて、報告を聞いて、すましてしまう。だけど、もし、そういうところから、俺が何にも手を打てないうちに大きなひびが入って、会社がつぶれることになったら、おれ、ジィちゃんやオヤジに合わせる顔、無いですから」
しかし、ちゃっかりしたところがある隆一は、直子に向かって
「でも、柳田さんからは、これからも、いろいろ教えてほしいなぁ」
と、付け加えることは、忘れなかった。しかし、その直子には、隆一も圭吾も会えないでいる。プライベートな一件で、彼女は刑事裁判の被告となり、刑は確定して、いま服役中なのである。
夕食は、圭吾が作った。和食、というより、ごく普通の日本の夕飯である。ご飯に味噌汁に焼き魚。副菜は残り物。鷹男が一番喜ぶメニューでもある。食後、今度は、濃い緑茶を飲みながら、圭吾が訊いた。
「タカちゃんたちが指輪を買う店、決まったのか?」
「うん。隆一さんが最終的に二つに絞ったんだけれどね」
「へぇ」
「一つは新宿の有名百貨店の宝飾品売り場で、もうひとつは赤坂にある、ちっちゃな専門店」
「どっちに決めたんだ?」
「ちっちゃいほうだよ。僕たちも、そこにしようかなって思ってる」
「どうして?」
「あの隆一さんとシバタ君が、二人で肩をを寄せ合って、仲良く、ペアリングを物色するために、ガラスケースを覗き込んでいるところを想像してみてよ」
圭吾は、一発で納得した。隆一は、なかなか新発田クンを圭吾に紹介しない。それは、いっこうにかまわないのだが、やはり新発田クンが、どんな青年なのかは、大いに気になる。隆太とは正反対のタイプだけど、間違いなく飛び切りのイケメンだ、なんて言われれば、なおさらである。
二人が、丘の上の、岬と海岸が眼下に見渡せるオープンカフェを気に入って、何かというとそこでデートをしていることは、鷹男が知っている。それで、圭吾と鷹男は、圭吾のマンションからけっこう距離のあるそのカフェに、わざわざ立ち寄るようになった。
最初の二回は、空振りだった。しかし、三回目、もう間もなく水平線の向こうに太陽が姿を隠そうかという時刻、新発田クン一人がテーブルに座って、物憂げな表情を浮かべて、海岸に打ち寄せる、黄金色に光る波を眺めているところに遭遇することができた。
「あ、いるよ。新発田クン」
と、鷹男は言ったが、言われなくても圭吾には直ちに分かった。テーブルの数は多く、けっこう大勢の客で込み合っていたのに、わかったのである。
なるほど、その精悍な男前ぶりは、その場のすべての人々の視線を集めずにはおかなかった。なんてステキなオトナの男の方かしら。女性たちがそう言っているに違いなかった。ただし、それは彼が、黙って座っている時の話である。いまの新発田クンがそうだった。本人は、大好きな恋人が今現れるか今現れるかと、無邪気にそれだけを考えていて、スマホも見飽きたので、ただ海を眺めているだけなのだが、周りは勝手に、あるはずもない、そこはかとなく漂うオトナのメランコリーなんてもんを感じて、大騒ぎをしているのである。しばらくたって、新発田クンのもの憂げなオトナの男の精悍な顔が、ぱっと明るくなった。その新発田クンのテーブルに、これ以上はないというくらいカッコいい登場の仕方をしたのが、松下隆一だった。ずんずんと新発田クンに歩みを進めるその歩調のかっこよさが人々の眼をくぎ付けにする。すくっと新発田クンの前で歩みを止めたときの立ち姿の見事なこと。そして、若い恋人に優しく囁くときの、よく通る力強い声。
「待たせちゃったかな」
新発田クンは答える。精悍な顔とは、アンバランスな、幼い物言いと仕草で。
「ううん。僕も今来たところ」
そんなはずはあるまい。君は、ずーっと、そうやって座って長い間、海を見ていたんだもの。
とにかく、この二人がいるだけで、そこだけが、周りとは完全に違った空間になる。それだけは、確かだった。圭吾は、自分の眼でそれを確認したのだった。
「だから、人目の多いデパートなんて、絶対ダメってことなんだな。周りに人だかりができて、人員誘導整理員の出動だなんてことになりかねない」
「ご明察」
さて、風呂にでも入るかと、圭吾が立ち上がろうとしたとき
「ねぇ、圭吾さん」
と、鷹男が、いつになく甘ったれた声を出す。
「な、なんだよ」
「僕たちは、いつ、買いに行く? ペアリング」
「だ、だって、鷹男は、木曜から一週間の泊まり込みだろ?」
「そうだよ」
「タカちゃんと新発田クンは、明後日に買いに行くんだろ?赤坂に」
「そうだよ」
「だったら・・・」
「明日しかないじゃん!」
まんまと嵌められたな、と圭吾は気が付いたが、後の祭り。とても、断れる雰囲気ではなかった。
Part 6 俺たちの指輪
火曜日の昼下がり。メインストリートは、がらんとしていた。宝飾店は、一本の狭い路地の突き当りにあった。なるほど、これなら、人目は少ない。新宿とは比較にもならないくらい静かな雰囲気である。圭吾は、なんとなく胸を撫で下ろしたが、思惑は外れて、狭い店内は、思いのほか混みあっている。こういうものを好きな人って多いんだな。圭吾の感想である。
店内にいたのは、30台半ばくらいの男性の店員。物腰柔らかな、見るからに垢ぬけた人物である。賑やかな声で、あれでもないこれでもないと品選びに余念のない中年の男女がいる。全身、これでもかというほど、アクセサリー類で飾り立てている。五本、いや十本の指すべてに、でかでかと目立つ指輪をしているんじゃないだろうか。若い女性の二人組が、ブレスレットを選んでいる。こちらは、その大胆な露出過多の服装が圭吾の眼を惹いた。いや、彼はゲイなのだから、この言い方は正確ではないかもしれない。彼は、女性の、こういった服装が苦手なのである。それに、化粧が派手というよりけばけばしい。仮想パーティにでも行くのだろうか。奥の方で、真珠のネックレスを眺めているのは、中年の上品な、そしていかにも裕福らしい婦人の二人組である。渋い色合いの和服が、二人ともにぴったりと似合っていた。
タイプは、いろいろだが、この六人は、この店の客として、なんら違和感のない人たちである。それに、いかにもこういうところに馴れている雰囲気である。マナーも悪くない。
それでは、俺たち二人はどうなんだろうか?ドアを開けて店内に入ったとき、この7人の視線を一斉に浴びたように、圭吾は感じたが、誰だって、あとから客がくれば、そのほうをちらっと見ることぐらいはするだろう。自意識過剰ってやつかな。
鷹男は、ほどなくペアリングのケースが並べられているガラスケースを見つけて、熱心にそれらを眺め始めた。圭吾は、ちょっと離れたところで、なかば棒立ちの状態で鷹男を眺めている。二人で一緒にのぞき込んでリングを物色したりしたら目立つだろうと思ったのだ。しかし、二人で指輪を買いに来た客が、離れて、中途半端な別々の行動をすることの方がよっぽど不自然であって、周囲の不審を招きやすく、かえって目立つのだということに、圭吾は気が付かない。
俺たちって、どう見られてるんだろ? それも、圭吾は気になる。秋也と健太、隆一と隆二。彼らが実の親子に見間違えることは、まずないだろう。しかし、圭吾たちは違う。時と場合にもよるが、親子ですと言えば、たいていそれで通るのだ。少なくとも圭吾はそう思っている。
知り合って間もないころ、学校帰りの制服(学ラン)姿の鷹男と夕食を取った圭吾は、都心のホテルの最上階のラウンジに鷹男を連れて行った。学校帰りで疲れていたのであろう、肩を並べて座っていた鷹男が、やがて居眠りを始めて、完全に圭吾のスーツの肩に頭を預けてグーグーと寝息を立て始めたとき、そばにいた品のいい老夫婦が二人に言ったものである。
「ぼっちゃんといっしょで、およろしいことねぇ」
「親子で仲がいいんですなぁ。うらやましい」
しかし、この宝飾店で親子を名乗るのは、ナンセンスだろう。息子の指輪選びに付き添う父親がいるわけがない。店員が、圭吾のそばに立っている。にこやかな笑顔で、遠慮がちに彼は言った。
「ご一緒にお付けになるものをお選びになるんでしたら」
そっか、やっぱり、バレバレなわけだな。
「差し出がましいことを申し上げるようで、お気に障ったら申し訳ないのですが」
何を言おうとしているのだろう。客に対して、店員が言う言葉として、礼を失している発言でもするのだろうか。
「お連れ様の好み、あるいは考えも、最初にはっきり言って差し上げたほうが、あとあともよろしいようでございますよ」
もっともな話である。店員は、鷹男の様子を見ていて、その気持ちを代弁しているようでもある」
まだ若い、この男性の店員の気遣いに、感謝したい気持ちだった。そうだ。やっと踏ん切りがついた。圭吾は,鷹男のそばにはよらずに、やはり突っ立ったままで、言い放った。良く通る力強さと優しい思いやりに満ちたその声は、狭い店内の隅々に響き渡った。
「鷹男!指輪だけをしっかり見て決めろ。値札は見るな。どんな高価なものをオマエが選んでも、俺はそれを買う。借金をしてでも。どんな安物をオマエが選んでも、大威張りで俺はそれを着ける。俺たちが終生一緒に着け続けるもの。それを、ただ指輪だけを見据えてオマエが選んだ。俺には、それだけで充分なんだよ」
勢いに任せて言い出してはみたものの、さすがに最後の方では、気恥ずかしくなった。なんてベタな、重苦しい、ダサくてあか抜けない言い方なのだろう。もっと、洒落て軽やかな言い方はできないの?おじさん。六人の客に、そう嘲られてもしょうがないなと、圭吾は思う。しかし、自分の気持ちを表現するのに、今はこの言い方しかなかったのだから、しょうがない。
伝えたい相手が、その人ひとりならば、周りにどう聞こえるかなんて関係ないのだ。そんなことにびくびくして、言うべきことを途中であきらめてしまってはいけない。一言も残さずに言い切ることが絶対に必要な場面が、人生にはしばしばあるのだ。いまの圭吾が、そうだった。
店員は、黙って深々と圭吾に向かって頭を下げた。六人の客は、さすがに、驚きの表情は隠さなかったけれど、悪意に満ちたあざけりの薄笑いは浮かべなかった。そして、彼らの視線は、ガラスケースの前にしゃがみこんでいる鷹男に向けられた。その瞳に浮かんだ色は、どれも暖かい。
鷹男は、顔を上げることができない。必死になってこらえる。泣いている場合ではないのだ。指輪を、指輪だけを、涙で曇っていない目でしっかりと見て、一世一代の、一組二本のリングを選び出さなければならない。
鷹男が、大学の泊まり込みから戻ったその夜、蒼杉健太が圭吾のマンションを訪ねてきた。
「ほんとは、秋也さんも来たかったんだけど、仕事の都合がつかなくて」
健太は、一枚の封筒を二人の前に差し出した。圭吾が手に取って中身を見た。クラシックのコンサートのチケットが二枚入っていた。
オーストリアの、世界最高のオーケストラの一つと言われる交響楽団の日本公演である。チケット代を見た鷹男は、思わず目を剥いた。音楽の公演でしょ?、、こーんなに高いの?。さすがに、言葉には出さなかったが、そう言いたいらしい。
「東京公演のすべてのチケットをゲットしたんです。だけど、この日だけ、会場は赤坂なんですけど、やっぱり秋也さんが、仕事の都合で行けなくなっちゃったんです。僕一人で行くくらいなら、いっそ、お二人に一緒に行っていただきたいなということで、僕らの意見が一致しまして」
「じゃ、遠慮しないで、ご厚意に甘えることにしますね」
「チケット代は受け取るなと、秋也さんから言われています。ただ、後日、感想は聞かせてほしいとのことです。僕も同様です」
鷹男が問う。
「僕ら、クラシックのコンサートなんて初めてなんですよ。どんな服装で行けば、いいんですか?」
「今の僕のような格好でも、入場拒否なんてされないはずですけど、あまり堅苦しくない程度の上着を羽織っていれば十分でしょう」
蒼杉君は、いま、ふっかふかの厚手の真っ白なセーターを着ている。圭吾は、ランチの時に披露してくれた二人の馴れ初めを思い出した。
「もしかして、それって・・・」
「そうです。初めて会ったとき、秋也さんは、このセーターを着ていました。とても暖かいので、僕も時々借りるんですけどね」
北林さんと蒼杉君は、身長差2センチだそうだ。蒼杉君の方が高い。しかし、二人の姿を並べて見たとき、そういうことに圭吾も鷹男も気づかなかった。この二人は、まるで一人のように寄り添うからである。
「だから、ぼくには、きもち、丈が短いんだよね」
と、くだけた調子で蒼杉君は、鷹男に言っている。圭吾が、質問した。
「北林さんが、健太君の服を着ることはあるの?」
これは、鷹男にとっても、興味深い内容である。
「ときどき、案外、派手なのをこっそり持ち出したりしてるみたいです。あれで、けっこう鮮やかなパステル系が似合ったりするもんだから」
「なるほどね。僕ら、そういうことができるわけだ。考えてみれば当たり前か。男同士なんだから」
圭吾が、『僕ら』と言ったことに、鷹男はちょっとときめいているいるようだ。
「鷹男くんは、紫原さんの服で、一番いいなと思うの、何ですか?」
今度は、圭吾がときめいてしまう。スーツがとってもよく似合うんです、なんて言ってくれるのだろうか。
「初めて、圭吾さんの、陸上競技の競技服姿を見たとき」
「短パンとタンクトップですか」
「そうです。僕、死にそうなくらいクラクラしました」
「今でも?」
「微妙です。ってか、最近そんな格好してるの見たことないよ。ねぇ、ケイちゃん」
またも、鷹男は健太と張り合っている。ま、好きなようにさせておくか。
「チノパンやジーンズの交換は、たいてい無理ですけど、シャツや上着だったら、全然オッケーですよね。もちろん、下着や靴下はそれぞれのをきちんと分けてますけどね」
「そんなのあたりまえでしょう。相手のブリーフなんかを勝手に穿いてしまうような破廉恥な奴は、ここには入室禁止ですよ」
笑いながら圭吾は言った。
その破廉恥極まりない輩が、平気で圭吾のマンションに上がり込んでくる。左手の薬指には、宝飾店から届いたばかりの指輪がはめられている。圭吾と鷹男の指輪も、イニシャルや記念日の日付などが無料で刻まれたものが、すでに届いている。普段は、二人は指輪をしない。一緒に出掛ける時だけ一緒に着けよう、ということで合意した。
「なかなか、いいだろ?」
「それを見せびらかすために、わざわざ来たのか?」
「お店の人から聞いたぜ。なかなかに、感動的なシーンを演じたそうじゃないですか、お二人さん!」
「そっか。俺たちの翌日に、タカちゃんたちもその店に行ったんだっけな」
二日続けてやって来た、男同士の歳の差カップル。噂話の肴にされてるんだろうか? 新発田クンと、タカちゃん、やっぱりあの店でも目立ったんだろうな。
「今日はもういいのか?仕事の方」
「ああ、アイツを午前中に、得意先に連れってたりしてたんだ」
「ええ?新発田クンを、入社させたのか?」
「いいや。ただ、アイツが、僕もリューイチの仕事、覚えたい、なんて言うもんだから」
「シバタ君、隆一さんのこと、呼び捨てなんですか?」
鷹男の眼が、きらきら光っている。やめてくれ、タカちゃん。こいつは、こういうことになると、他人の影響を受けやすいんだ。最近わかったことなんだけど。
「そうだけど。それで、昼飯をアイツと食べて、アイツの部屋で休憩してたんだ」
「でも、もう4時だぜ。ずいぶん長い休憩なんだな」
「2時間くらいは、空白の時間帯がありますよね」
と、鷹男もツッコミを入れている。話しながら、圭吾は隆一の足下が気になっている。いつもと感じが違うのだ。原因は靴下である。いまは真冬だ。スプリントだった隆一は、いまでも足には気を使っている。しっかりと長くて厚めのソックスを穿いて、足を冷やさないように心がけているはずだ。しかし、今の隆一は、踝から上が完全に露出している。若者が履く、ショートタイプのソックスを履いているのだ。
「タカちゃん、その短いソックスって、新発田クンのか?」
「そうだけど。アイツのチェストから、適当に一足拝借してきた」
「いつもそんなことしてんのか?」
「う~ん。今日はさ、ここに来る前に、アイツが洗濯を始めたんだけど、そのとき俺の靴下とパンツを両方とも洗濯機に放り込んじゃったんだ」
「ふーん。そのとき、パンツも靴下も履いてなかったんだね、タカちゃんは」
「そういうこと。だから、今履いてるパンツも、アイツのものなんだ。けっこう派手派手で、過激なブーメランタイプですよ。見せようか?」
ベルトに手をかけようとする隆一を、あわてて圭吾は制止した。鷹男は、話題を転換した。
「新発田くんが、松下物産の四代目・・・なんてこと、ありそうなんですか?」
「わからないなぁ、そんなの。会社の跡継ぎは正直欲しいよ、俺も。隆太は薬剤師になったばかりだし、鉄男は、これからもずっと学校の先生だもんな
」
「ついに、能利さんのこと、呼び捨てか?」
「なんとなくな。ときどき、鉄男クンも俺のこと、おとぉさんって、言ってくれてるし」
鷹男が、若い男性向きのファッション雑誌を読んでいる。以前には無かったことだ。圭吾の前では、そういうものを見ないようにしていたという。本屋で立ち読みして、すませていたのだそうだ。圭吾も、脇から覗き込んで、
「このジャケット、なかなかいいな。モデル君も可愛いし」
なんて相槌を打っている。
鷹男は、口をとんがらして、怒ったそぶりを見せながら
「そうですか。こういうのが、タイプなんだ」
と、拗ねて見せるけど、圭吾にはちっとも怖くない。むしろ、可愛らしい。同じことを、新発田クンがやったら、そうとうに怖いだろうけど。タカちゃん、どうしてるんだろうな、そういうとき。
「買ってやろうか?、ジャケット」
「ありがとう。でも、いまはまだいいよ」
「北林さんからいただいたチケットの公演、もうすぐだろ?」
「今週の日曜日。14時開演」
「上着あるのか?」
「うん。大学入学の時、作ってくれたやつがあるでしょ。前回クリーニングに出したまま、一回も着てないから、全然オッケー」
「前回って、いつだ?」
「忘れちゃった。あとで、クリーニングのタグ見ておくよ」
鷹男は、それを怠った。タグの日付は、相当に古いものだった。それを確認して、クリーニング店のビニールから上着を出して、試着しておくべきだったのだ。
日曜日の朝食後、ウォークイン・クローゼットの中で、鷹男が、何やら喚いている。
「どうしたんだ?」
圭吾もクローゼットの中に入って来た。さすがに、男二人だと、窮屈だ。
「上着が、きつきつになってて、着られないよぉ」
そっか。そこまで筋肉がついたのかと、圭吾は感慨深い思いである。
鷹男は、根っからの運動嫌いである。それを、直そうとは、圭吾は思っていない。ただ、知り合ったばかりのころ、人生の中で一番生命力に溢れている高校生でありながら、鷹男があまりにもスタミナ不足で、体力のないことに、圭吾は危惧を抱いた。ジムに入会させたところで、真面目に通うはずもない。
そこで、圭吾は、自宅でできる筋トレをいろいろと組み合わせて、自分も一緒になって、鷹男とトレーニングを始めた。意外と素直に鷹男は、筋トレに励んだ。そのうちに、圭吾がそばにいなくても、自分で工夫して、負荷を増やしたり、新しい種目を追加できるようになった。
「なんだか、筋トレやらないと、カラダの調子がいまいちみたいなんだ」
なんて、言い出すようになったら、しめたものである。いまでも、圭吾も感心するくらい、鷹男は真面目に取り組んでいる。
筋トレの効果は、すぐに現れた。体力がついて、姿勢もよくなったし、食事の量も増えた。特に、ここ2年くらいは、体型もぐんぐんと厚みを増している。全体に細身だから、いわゆる細マッチョではあるが。ついこのあいだも、鷹男が風呂上りに、バスタオルで全身を拭いているのを見ていた圭吾は、我慢できなくなって鷹男に抱き着くと、そのまま寝室に連れ込んだくらいである。
若い頃の服が、着られなくなった、とは男女共通の嘆きだけれど、今の鷹男の場合、それは喜ぶべきことなのだ。しかし、これでは、14時からのコンサートに着ていくことができない。鷹男は、自分の不注意が招いたこととはいえ、なさけなくて、半べそをかいている。
圭吾も困ってしまったが、ふと思いついた。もしかして。圭吾と鷹男は、身長差ゼロなのだ。いつか、鷹男が、圭吾さんにはその色似合うねと言ってくれたジャケットがある。クローゼットをまさぐって、それを引っ張り出してきた圭吾は、鷹男を全身ミラーの前に立たせて、肩からそっと、その上着をあてがい、そして、着せてやった。薄紫のジャケットは、まるで誂えたように、鷹男の上半身に収まった。圭吾の頭の中で、音楽がなった。ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲の一部であることはわかるが、それ以上はわからない。
「これ、着て行ってくれるか?」
「もちろん!」
二人は、特に圭吾は衣装持ちである。クローゼットの中は、服でごった返している。ちょっとでも、二人の体が動くと、何かしらの服に体が当たってしまう。それでも、鷹男は、圭吾のジャケットを身にまとったまま、抱き着いて来る。珍しく、鷹男の方から唇を求めてきた。圭吾は、それに応えてやりながら、時計を見る。クローゼットの中はいかにも狭い。寝室ならば十分広い。しかし、今の俺たちに相応しいのは、こっちの方だ。でも、もう時間がない。
準備万端、あとは出かけるだけ。いや、その前に指輪だ。キッチンのテーブルに、ペアリングがケースごと置かれている。圭吾は、自分の指輪をまず着けた。そして、いつかの交差点の時のように、鷹男の左手を引き寄せて、手のひらを握り、その薬指に、右手で指輪をつけてやった。幻の指輪ではない。鷹男自身が選んだ、二人のリングである。
今日の演目は二曲ある。前半は
交響曲第2番ニ長調作品36
休憩をはさんで、後半は
ヴァイオリン協奏曲ニ長調作品61
作曲者は、もちろん、ベートーヴェンである。
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