献呈(連作ゲイ小説「クラシックなオトコたち」第4話」)
第一部 ある男の交響曲
第1楽章
高校1年生の少年は、色白の頬を少し赤らめていた。授業中なのに。
国語の時間だった。
髪五尺ときなば水にやはらかき少女ごころは秘めて放たじ
長い黒髪を洗う女の姿が目に浮かんだ。少年は、それを恥じたのではなかった。髪を水に解き放つときの、その乙女の肩から胸にかけての柔らかな肌が、あらわになっている情景を想像して、そういう想像をした自分を恥じたのである。
女の人って、こういうもんなのか?
終業のチャイムが鳴った。自宅の、彼一人で使っている子供部屋の、オーディオセットの中のカセットデッキが、タイマーの指示に従って動き始める時間である。ちゃんと録音できてるといいなと、少年は思った。夕食後に聴くのが楽しみだ。まだ、聞いたことのない曲。
バッハ作曲 無伴奏ヴァイオリンパルティータの第3番。
少年は高校3年生になった。大学受験の勉強に追われる毎日。それでも、エアチェックは欠かさない。今日の録音も上首尾だった。勉強が終わったら、寝る前に聴こう。それが楽しみだ。
ベートーベン作曲 ヴァイオリンソナタ 『春』
出だしの旋律だけは誰でも知っている世界の名曲。そんなものを、今日、僕は初めて全曲聴く。
NHK教育(現在のEテレ)で、『伊勢物語』の講読番組を、毎週少年は見ていた。古文は好きだったし、樫山文江の流れるような朗読が耳に心地よかった。
あらたまの年の三年をまちわびてただ今宵こそ新枕すれ
梓弓真弓槻弓年を経てわがせしがごとうるはしみせよ
少年はドキッとした。晶子の歌の時以上に顔が赤らんだ。うるはしみという言葉に性的場面を想像したからである。新枕とある以上、きっとそうにちがいない。今度は、そういう想像をした自分を恥じたりはしなかった。
ただ、その解釈はまちがっていますと減点されるのは困る。彼は、文科系の受験生だ。得意の古文で点を稼ごうとしている。
そして、思う。男と女って、こんななの?
テレビを消して、二時間ほどを英語の予習と化学の有機化合物の長ったらしい名称の暗記に費やし、それからスプリングソナタを初めて全曲聴いて、眠った。
一番大切なことを俺は先送りにしていると、少年は思っている。
心惹かれてやまない人と、生まれたままの姿で体を重ねること。そんなチャンスも時間も相手もない。
もっと問題なのは、心底好きな人がいないことだ。
第2楽章
第一志望に現役合格した少年は、合格のその日から、あり余る自由を手に入れることになった。
大学には、おおむね、真面目に通った。しかし、講義とプライベート、どちらを優先するかという場面では、あっさりと講義をサボった。
生まれたままの姿で体を重ねる相手はすぐに現れた。次から次に。
恋愛をして、セックス。受験生の頃はそう考えていた。そうに決まってる。ナンパして、とりあえずセックス。合格直後から、それもありかなと思い始めた。どちらにしろ、相手は自分と同じくらいの歳の、やっぱり恋愛志向の女の子。できれば、髪五尺とは言わないけれど、髪の長い女の子。男は情事の相手を、血眼になって、そこいらじゅう駆けまわって探し、誘い、目的を遂げる。女とは、そういう男を待っている、そういうものだ。少年は今まで、そう信じて疑わなかった。
すべてが妄想だと知れるのに、そう時間はかからなかった。
少年が直面した現実は、こうだった。女は、男が血眼になってそこいらじゅう駆けまわっている途中にたまたま自分の傍を通ったら、いともあっさりと両手を伸ばして、男を情事の相手として引きずり込む。そういう女の一面を、少年は知らなかった。
少年は、自分から手を出す必要はなかった。性の手ほどきをしてあげるという年長の者は後を絶たなかった。年長の者は女とは限らなかった。彼は彼らの申し出を、ありがたく受け入れた。
友人が言ったことがある。彼と同じ、まだ18歳である。
「たった一回、遊びのつもりで寝ただけなのに、相手は完全に恋人気取り。ケッコンなんて言葉を口走る。じょうだんじゃない。30までは、気ままに、やりたいのに」
同感だった。同じ相手とは、二度は寝なかった。そして、寝た相手の数を数えていた。その数は40まで行った。彼は、もう、セックスという授業の生徒ではなかった。情事のあと、
「今夜のこと、ささやかではあるけれど、いい思い出になってくれるといいね」
なんて気障なセリフを平気で吐いた。この次なんて、もうないんだぜ。そういう意味で。
そんな夜、家に帰ってオーディオセットの前のソファに座り、深夜だから音量を絞り気味にして彼が聞く曲は決まっていた。身体の疲労は心地よい、後腐れのない情事の後なのだ。余韻の感情はない。きょうの、あの愛撫、いまいちだったんだな。今度はちゃんとやってやるぜ。
一枚のCDが回り始める。
ハインリヒ・シュッツ作曲 十字架上の七つの言葉
第3楽章
青年の前に41人目の人が現れた。
京都の紅葉を訪ねての一人旅だった。最後の一日、鞍馬あたりをそぞろ歩いて、JR京都駅から、<のぞみ号>に乗った。指定券は買ってあった。12号車の真ん中あたり、E席。二人掛けの窓側である。
通路を歩いて指定の席まで歩いて行くと、隣のⅮ席に青年と同じくらいの年齢の女性がすでに座っていた。彼は、ちょっと躊躇した。いやな記憶が蘇ったのである。
前回、やはり東海道新幹線に乗った時、座席はやはりE席だった。新横浜からの乗車だった。今と同じようにやはりⅮ席に座っている者がいた。けばけばしい服装の若作りの女だった。両脚を組んで、スマホを弄っていた。青年が、すいません、と声をかけると、くちゃくちゃと下品な音をたててガムを噛みながら、それでも顔だけは上げた。にこりともしなかった。あら、アンタみたいのが隣なの?ぼっと突っ立ってないで、早く座ってよ。厚化粧の顔がそう言っていた。スマホは前に突き出したまま、両脚は組んだままだった。どうやって通れって言うんだ。彼は、わざと荒々しく自席に腰を下ろした。背負っていたデイバッグで思いきり女の顔を擦ってやりたかった。
しかし、今日の彼女は、隣席の乗客の存在を目の前に認めると、つつましく両足を通路の方へずらして、彼を通してくれた。スマホは弄っていなかった。一冊の文庫本が、その手にあった。日本の近代短歌のアンソロジーのようだった。そしてその文庫本を、自分の胸のところにギュッと抱きしめるようにして、文庫本が着席の障りになることを防いでくれた。彼は、できるだけ静かに着席した。今日もデイバッグだったが、彼女の体のどこにも触れないように細心の注意を払った。
トンネルを二つ抜け、瀬田の唐橋を左に見て、列車が速度をあげたころ、車内販売がやってきた。彼はワゴンを呼び止めて、コーヒーを注文した。窓側の彼が、車内販売員からコーヒーの紙コップを受け取るとき、やっぱり通路側の彼女は、文庫本を胸にギュッと抱きしめるのだった。
コーヒーを啜っているうちに、米原を通過した。彼女は読んでいた本を閉じて、軽く目を閉じた。居眠りの隙をついて、文庫本が彼女の手から滑り落ちて、彼の足元に落ちた。それが、会話のきっかけとなった。
「短歌、お好きなんですか?」
「自分で詠んだりはしないんですよ。こうやって、パラパラッとめくって読んで、気に入ったのだけを、何度も声に出して言ってみるだけなんです。ただ、それだけ」
女性にしてはやや低めの、安定感のある発声だった。音域は、メゾソプラノあたりか。
「高校の時習った、与謝野晶子の短歌を、僕も覚えています」
「あら。晶子は私も好きよ。どの歌かしら?」
彼は、髪五尺のうたを、すらすらと読み下した。彼女が、くすっと笑った。
「なにか、おかしいですか?」
「男の人って、やっぱり、長い髪の女がお好きなのかしら」
「女の人によるんじゃないかな」
「ずるい、お答えね」
「そうですかね」
「私も、伸ばそうとしたことあるんです、髪。でも、肩までもいかないうちにやめちゃった。めんどくさくなってしまったの」
新富士を過ぎて、富士川橋梁を渡るあたりで、晩秋の夕映えの中に、富士山がくっきりと姿をあらわした。雲一つない、全景だった。赤く染まった秀峰に、二人同時に声をあげた。
「ついてますねぇ」
「ほんとに」
気が付いたら、小田原を過ぎていた。
「僕、次で降ります」
「わたくしも、横浜ですの」
思わぬ言葉が彼の口を衝いて出た。今まで、自分の方からは、決して女を誘ったことがない青年は、ためらいがちに言った。ナイーヴですらあった。
「夕食は、どうなさるんですか? ご一緒できたら、うれしいけど」
彼女はにっこり微笑んだ。
「わたし、いい店知ってますよ」
デートの日程がなかなか決められず、二人は手帳を覗き込んでいた。都合のつきそうな日曜日の昼間、彼は室内楽のコンサートの切符を買っていた。
「あの・・・」
普段から遠慮がちに話す彼女が、一段と遠慮がちな口調になった。
「なんですか?」
「そのコンサート、当日券はあるのかしら」
その手があったか。クラリネット奏者も弦楽四重奏団も、世界的に名の知れた存在ではあったが、歌劇やオーケストラとは違って、室内楽ならチケットの入手困難ということはなさそうだった。
「わたし、クラシックの演奏会って、一度行ってみたいと思っていたの。あなたのお邪魔にならないように、離れた席のチケットが一枚取れるとうれしいんですけど」
「管弦楽じゃないですよ。たった五人のアンサンブルです。どうせなら、オーケストラの方がよくはないですか。そっちの方をあたってみましょうか?」
もちろん隣同士の席で、とは言えなかった。
「あなたが、ひとりで、お休みの日の日曜日の昼間に、わざわざチケットを取って聞きに行く音楽を、私も聞いてみたいんです。ご迷惑かしら?」
迷惑なわけはなかった。彼は自分の、そのホールの中の最上の席の一つであるチケットをキャンセルして、二人横並びのチケットを買った。右側前方、普段の彼なら、買わない席だった。
潔く晴れ上がった日曜日の午後だった。彼はジャケット・ノーネクタイ、彼女は堅苦しくはないがタイトなスカートに、彼のシャツと同じ色のブラウスを着ていた。浅黄色。
「プログラムを買っておきます」
たいていのことなら、僕が説明できるよ。でも、それは、口にしなかった。
「わたし、クラシックなんて、ほとんど知らないから、こういうものでも読んでおかないと」
コンサートの第一曲目が、始まった。
モーツァルト作曲 クラリネット五重奏曲イ長調K.581
第一楽章の間じゅう、彼女は全身全霊で聴いていた。どこにも分配の不均衡というものがない、完璧なソナタ形式の力。それが、彼女をとらえて離さなかった。第二楽章との切れ目の時間で、彼女は、そっと囁いた。
「あっという間。気が付いたら終わってたわ」
そして、第二楽章の間じゅう、彼女は安らかに眠っていた。クラリネットの旋律が、ヴェルヴェットの愛撫のように彼女の寝顔の上を何度も何度も通り過ぎていく。寝顔はどんどん安らかになる。その寝顔が、弦楽四重奏の響きとともに、彼の心の中のかたくなな何かを溶かしていくのを、隣の席で青年は感じていた。
彼女が眠ったのは、その時だけだった。二曲目のシューベルトの『ロザムンデ』を、楽しそうに聴いていた。3曲目は、何やら思案気な顔つきをしていた。
ブラームス作曲 クラリネット五重奏曲ロ短調作品115
「ブラームスは、どうだった?」
「ああいうの、泣き節っていうのかしらね。同じ、クラリネット五重奏曲でも、モーツァルトのとは、ずいぶん違うのね」
誰でも口にする感想である。しかし、彼女は続けて言った。
「ブラームスがクラリネットの曲を晩年になって、まとめて何曲も作った事情は、プログラムを読んでわかりました」
何を言う気だろう。ディナーのポワソンを口にしながら、彼は聞いていた。
「わたしだったら、ソナタは書いたかもしれないけど、モーツァルトのあの曲と同じ編成で自分が書こうなんて思わなかったでしょうね。あんなものが100年も前に世に現れているのに、いまさら自分に何ができる?って思っちゃう。それでも、このブラームスって人は、やったのよね。あの髭のおじさん、タダものじゃないわね」
感心している場合ではなかった。彼は会話の軌道修正を図る。
プロポーズという方向へ。
青年は妻を得た。
40人の情事の相手が彼に教えてくれたものは、いろごとのテクニックだった。とても感謝している。
妻が最初に教えてくれたもの。それは、伊勢物語のあの歌の、新枕という言葉のすばらしさ。
妻が20年かけて彼に教えてくれたもの。それも、伊勢物語のあの歌の言葉。
うるはしみ。
そして、21年目を迎えることなく、妻は彼のもとから永久に去った。バス停でバスを待っているときに、暴走車に突っ込まれて、病院に搬送される途中に息を引き取った。運転手は、スマホの脇見運転の女性だった。
事故の一週間前、二人は彼の冬物の服を選んでいた。試着室に彼を立たせた彼女は、次から次へとセーターとマフラーを彼にあてがった。二人で鏡を覗いた。セーターはふかふかした厚地の白、マフラーは薄茶色と抹茶色が等分に混じったものが選ばれた。彼女は、彼の服を選ぶとき、いつでも、前回と似たようなものは選ばなかった。いつも、彼の予想を裏切る選択をして、にこにこしている。
「今のあなたには、これが一番よく似合うわね」
それが、彼女の口癖だった。
第4楽章
クリスマス・イヴの夜だった。東京で旧友と楽しく過ごした男は、北国の自宅に帰ろうとしていた。私鉄とJRを乗り継いで、都内最北にある駅まで行って、そこで快速電車に乗り換えてさらに20分ほどのところに、新幹線の駅がある。
男はこげ茶のコートの中に、白いセーターを着ていた。コートの胸元では、薄茶色と抹茶色が等分に混じったマフラーが少しだけ顔を見せていた。
私鉄から乗り継いだJRの電車は混んでいて、男はドアのところに立った。同じドアの反対側の所に、40年配の女が立っている。身なりのいいことは一目でわかった。ファッションに疎い彼でさえその名を知っている有名ブランドで身を固めている感じだった。一つ一つは、靴も、スーツも、前を開けたコートも、アクセサリーも、バッグも上等で上品なものだった。決して、年齢不相応な若作りをしているわけではない。しかし、彼の目から見ても、全体としてどこかがおかしかった。
それは、女の長い黒髪だった。肩より3センチばかりのびたその髪は、べっとりと黒かった。その「てかり」は道路工事現場のコールタールを思わせた。黒く染めているのだろうか、それとも元々黒い髪に、なにか光沢の出るようなものを塗っているのだろうか?女の髪に疎い彼には判断がつかない。しかし、髪全体が無残に荒れていることはわかった。彼には、女のファッションのことはわからないが、それでも、軽やかな感じがするスーツやコートの色合いに、この黒が合っているとは、到底思われなかった。明るい茶色に染めたほうがはるかに良さそうだし、茶髪が似合わない顔立ちでもなかった。
その女が、この混んだ車内で、頭をぐるっと廻して、髪をバサッと振った。どこかで見た仕草だと、彼は思った。
テレビのCMだった。そこら辺の、安物専門のドラッグストアで、セールと銘打って、三本セットが大量に陳列棚に並ぶような、そんなシャンプーの宣伝だった。そのコマーシャルの中の女が、なが~い髪を、こんなふうに振り回していたのを彼は思い出していた。安っぽい笑顔を振りまいているだけのその女には、女性としての魅力が微塵も感じられなかった。そんな、みえみえのそこの浅いCMを、この女はマネしているのだ。
女のそばにすわっていた初老の男が露骨にいやな顔をした。女の髪の毛が、顔のどこかに触れたのかもしれない。
そして、それは彼にとっても他人ごとではなかった。首の周りに違和感を感じた。蜘蛛の巣の糸でも巻き付いた感じである。彼は、胸元のマフラーを外してみた。そして、小さく唸った。怒りで顔色が変わっていることが、自分でもわかった。妻が最後に選んでくれた、かけがえのないマフラーに、女の長い髪の毛が一本、絡みついていたのである。
彼は、次の停車駅で降りて、トイレに駆け込んだ。マフラーから丁寧に髪の毛を取り除いた。コールタールの黒がマフラーの柔らかいカシミアの生地に滲み出ているのではないかと、何度も見直した。絡みついた一本の髪の毛は、今度は彼の指に巻き付いて容易に離れようとしない。彼は、デイバッグから携帯用のウェットティッシュを取り出して、ようやくその汚らしい髪の毛を取り去ると、そのまま一枚のウェットティッシュごと大便器に放り込んで、水洗のレバーを押した。洗面台で石鹸を大量に使って、ごしごしと手を洗った。
快速電車の発車まで、中途半端な待ち時間があった。このままホームで待つよりも、喫茶店にでも行ってコーヒーが飲みたかった。新幹線の発車まで1時間半ほどあったから、快速電車を何本か遅らせても支障はない。
改札内に、ライトカフェがあった。店は、狭くて混んでいたが、外は雪が降り始めている。改札を出るのも面倒だった。
セルフサービスの作法に従って、飲み物を持って座席につくと、さすがにホッとした。コーヒーの値段は安かったが、熱々だったし、意外と香りもしっかりしていた。
彼の右隣の席は、最初空いていたが、やがて若い女が座った。
コーヒーの香りを邪魔するものがあった。どこからくる臭いか、彼は鼻をうごめかしかけて、すぐわかった。隣の席の若い女が、両隣にこんなに接近して他人が座っているにも関わらず、化粧を始めたのだった。臭いの元は、その安っぽい化粧品だった。彼には何が何だかわからない芝居のメイクの小道具みたいなものをほとんど全部テーブルの上に広げて、彼女は化粧をしている。
小さな小瓶がその左手に握られた。蓋を廻すと、小型のブラシのミニチュアみたいな芯に、べっとりとした黒い塊がまつわりついているものが現れた。女は、そのドロッとした不気味な塊を、睫毛の所に持っていって、手鏡を覗きながら、塗りつけようとしていた。
不快な臭いがコーヒーの香りを消し去っている。カップを置いた彼の右手の小指の先に、何かが落ちた。爪が、どす黒くなった。女の化粧品の一部に違いなかった。わずかに爪に付着した、そのドロッとしたものを見て、彼は吐きそうになった。しかも、小指の先から、真っ白な彼のセーターの袖口までは15センチと離れていなかった。
指でよかった。この黒いものがもし妻が最後に選んでくれたかけがえのない白くて暖かいセーターを、ほんの少しでも汚していたら、彼は衆人環視の中で殺人犯になっていたに違いなかった。
彼は、またもやトイレに駆け込むことになった。さっき石鹸で洗ったばかりの手を、もっとごしごしと、もっと大量の液体石鹼を使って洗った。幸い、店内の奥に空席ができていた。彼は、トイレから戻ると、席を移動した。デイバッグにコートに土産の紙袋に、飲み物。荷物が多かったから、三度往復した。
女は彼に無頓着だった。
朝の来ない夜はない。やがて、女はのろのろと席を立った。足元のおぼつかない、だらしない歩き方だった。あれだけ念入りに化粧を施した顔には、美しさなど微塵もなかった。若いのに、顔にはそれにふさわしい生気が全く感じられなかったのだ。
第5楽章
この世で一番見たくないものが視界から消えた。
店内も空席がちらほら見えるようになった。密集の息苦しさから解放されて、彼の気分も落ち着いてきた。
店内のBGMも、賑やかなものから、静かな曲に変わっている。全部、クリスマスソングだった。最低限の音量に抑え込まれたストリングスの伴奏に乗って、メゾソプラノが、語りかけるように歌う曲があった。
荒野の果てに
妻も歌うときはメゾソプラノだった。歌うのは彼と二人きりの時だけ。アカペラだった。歌い出しは、声が震えて音程も定まらなかったが、発声が落ち着いてくると、豊かで深い音色で正確にうたったものだった。最後の、gloria in excelsis Deoのところは、バリトンの彼も一緒に歌った。真似事のハーモニーをつけたり、ずらして歌ってカノンを気取ってみたり。
次の曲が始まった。
天にはさかえ
妻が一番好きなクリスマスソングだった。メンデルスゾーンの原曲に詞がのった讃美歌である。シンプルで、思わず口ずさみたくなるメロディー。妻の声は、この曲によく合っていた。
彼の席は窓側にあった。雪が降っているのが見えた。ホームと線路が、少しずつ白くなってきている。彼は、日本近代短歌集の本を、デイバッグから取り出した。もう少し、ここにいようか。カップを手に取って、冷めきった残りを一口で飲み干すと、お代わりを注文するために席を立った。 カウンターの中には、サンタクロースがいた。アルバイトの青年が、今日だけ、真っ赤な服と房の付いた帽子を被らされているのだった。
「出来上がりましたら、お席にお持ちします」
と彼は言って、番号札をくれた。自席で待っていると、サンタがやって来た。カップぎりぎりまでコーヒーをついだらしい。両手でソーサーを用心深く持って、そろりそろりと歩いていた。今日は、朝から雨だった。それが雪に変わった。店内の床が滑りやすくなっていた。店員の靴もまた、サンタ仕様のもので、ぶかぶかだった。青年はちょっと滑った。カップのコーヒーが少しだけソーサーにこぼれたようだった。
「すみません、新しいのをお持ちします。少々お待ちください」
男は、青年を制して言った。
「コーヒーはそのまま置いて行っていいよ。ソーサーも代わりはいらない」
「申し訳ありません!」
青年は腰を深く折って謝罪すると、カウンターの向こうに消えた。
店内は少し暖房が利きすぎて、暑かった。男は、店を出るときに、コートを手に持った。土産の紙袋も確認した。しかし、日本近代短歌集をテーブルの上に置き忘れたことに気づかないまま、出入り口のドアを出た。ドアの外では、サンタが箒を持って掃除をしていた。
「ありがとうございました。先ほどは失礼しました」
髭のない、つるっとした顔の青年サンタが人懐っこい笑顔を見せた。
「その白いセーターにかからなくて、ほんとによかったです」
「そうだね、このセーターは汚したくないから」
妻が最後に選んでくれたかけがえのないものだとは言わなかった。この青年に言う必要のないことだ。
赤いサンタの青年と白いセーターの中年は向かい合って立った。
「お似合いですよ、その白いセーター」
「ありがとう」
男は改札口へ、サンタは店内に戻る。階段の下まで来ると
「お客様!」
と後ろで呼ぶ声がする。サンタ君だった。
「お忘れ物ですよ」
今度も、髭のないつるっとした顔で、人懐っこい笑顔だった。
赤いサンタの青年と白いセーターの中年は再び向かい合って立った。
本が手渡された。指と指が触れた。
42人目の登場だった。
第二部 ふたりの交響詩
男の住む北国にも、ようやく春がやってきた。新幹線が関東に入ると、季節はぐんぐんと先に進んで、麦畑の明るい緑が目にしみるようになった。
男は、このところ仕事の関係で東京に来ることが多い。かえりがけに、時間調節のために必ず立ち寄るエキナカのカフェがあった。お気に入りの文庫本に目を通しながら、熱いコーヒーを啜るのが、都会の喧騒に疲れた彼にはなによりの休息になった。
今日の都内はすでに初夏の陽気で、半袖姿の若者も目立った。北国の朝はまだ冷えるから、男はブレザーをはおって来たが、それがいかにも邪魔だった。
空いた店内でデイバッグと上着をとなりの椅子に置いて、男はスマホをじっと見つめていた。クラシック音楽の公演チケットをよく買う彼は、スマホを新しくしたのをきっかけに、これまでのコンビニ払い・コンビニ受け取りから、e-チケット方式に変更を試みていた。ところが、新規登録画面操作中に「連絡用のメールアドレスを入力してくだい」のところで、入力をして「次へ」をタップしても画面がいっこうに先に進まなくなった。40台後半の男は、ごく標準的なITリテラシーを身に着けていた。こういう操作はおおむねスムーズにできるが、ときどきは思うように相手が動いてくれなくて、途方に暮れることが皆無ではない。きょうは、その、めったにない例外の状況となった。
何度トライしてもダメなので、ため息をついてスマホを放り投げようとしたら
「何かお困りならお手伝いしましょうか?」
と頭の上から声がかかった。男は顔をあげた。人懐こい、つるんとした顔の、サンタくんが微笑んで立っていた。
男がこの店で、サンタくんに会ったのは去年のクリスマス・イヴのことである。アルバイト店員の彼は、真っ赤なサンタクロースの衣装を着せられ、ふかふかの房の付いた帽子をかぶって、男にコーヒーを運んでくれた。その日、店を出るとき、男は大切なものをテーブルに置きっぱなしにしてしまった。亡き妻が愛読していた日本近代短歌のアンソロジーの文庫本である。遠出をするときは、いつもこの文庫本をデイバッグにしのばせて、コーヒーを飲みながらぱらぱらとページをめくっては在りし日の彼女を偲ぶ。なんとなくそんな習慣になっていた。妻を交通事故でなくしてやがて3年になるが、気持ちの整理はなかなかつかなかった。
テーブルの上に残された文庫本に気が付いた青年は、サンタクロースの衣装のまま、駅のコンコースを走って男に追いつき、文庫本を渡してくれたのだ。
絶対になくしてはいけないものを、うっかり置き忘れてきた自分に腹を立てながら、男は心底、このサンタクロース姿の店員に感謝した。
以来、このカフェに立ち寄るたびに、この青年がいるかどうか目で店内を追うようになった。彼の名前など知らないから、勝手に「サンタくん」とよんでいた。サンタくんは、いることもあるしいないこともあった。いれば、ちょっと心が和むけれど、別に親しく口をきくわけではない。しかし、視線が合うと、わずかながら表情を動かして、会釈ぐらいはしてくれた。ああ、覚えてくれているんだなと、男は思った。
今、目の前にいるサンタくんは、初夏にふさわしい薄いグリーンの半袖の制服を着ている。その左胸のポケットの所に名札があった。
蒼杉健太。
それが、彼のフルネームだった。そっか、サンタじゃなくて、ケンタだったんだ。男は、自分のしょうもないオヤジギャグに苦笑しながらも、まるで救世主を見るような目で健太に話しかけた。
「スマホの操作に行き詰まっちゃって、困ってるんだ」
「どうしたんですか?」
「画面がこの先に全然進んでくれない」
健太は男からスマホを受け取るとしばらく画面を眺めていたが、やっぱり人懐っこい笑顔でこう言った。
「入力したアドレスのアットマークの直前が半角一字分スペースになっているんですね。わかりますか?」
丁寧に、男に向かって画面をかざしてくれる。こんなこともわからないなんて、オヤジってホントにしょうがねぇよなって内心思ってるんじゃないか。そう勘繰りたくなる雰囲気は微塵もないのだった。
なるほど、細かい文字が少々苦手になってきている男は、うっかりそこを見逃していたのだ。そのスペースを削除してやると、まるで魔法のようにたちどころに画面は先に進んだ。
「おぉ、できた!」
「よかったですね」
「あの、コーヒーもう一杯たのんでいいですか?あ、自分でタッチパネルを操作しにいかないとだめなんだっけ?」
「そのスマホでペイが可能なら、お預かりして、コーヒーと一緒にお返しにまいりますよ」
「ありがとう。じゃ、たのみます」
薄いグリーンの半袖シャツ姿のサンタくん、いやケンタくんは、ほどなく戻ってきて、まずスマホを男に返し、カップになみなみとつがれた熱々のコーヒーをテーブルに置いた。
「アツアツが、お好きですよね?」
「そうだけど、、どうして・・・」
「飲み方を拝見していて、なんとなく、そうかな?、と」
男のこころのうちが、どうしようもなく暖かくなった。つい、仕事中の彼に話しかけてしまう。
「これで、演奏会のe-チケットが、スマホに取り込めそうだよ。ありがとう、ほんとに」
「誰のコンサートに行くんですか?」
男は、ヨーロッパを拠点に活躍しているメゾソプラノ歌手の名をあげた。お目当ての公演のサイトの画面も見せた。彼女は、一時帰国して国内でリサイタルをいくつかやっているようだった。オペラのアリアやドイツリートばかりの演奏会なら、男は行ってみたいとは思わなかっただろう。ドイツ語の声楽曲を鑑賞するには、対訳が必要。それが男のドイツ語の能力だった。しかし、その日のプログラムはほとんどが日本の歌曲だった。外国の曲はシューマンの『美しき五月に』と『献呈』だけだった。郷愁を誘うようななつかしい唱歌や中島みゆきの曲まで組み込まれている。彼女の声で、それらの歌が聴けるのなら、と男は思ったのだ。
「へぇ、彼女、こんなリサイタルをやるんですね」
意外な返事だった。「彼女」というからには、まったく未知の名前でもないのだろうか。
「この人、知ってるの?」
「去年の暮、お客さんが本をお忘れになった前の日ですけど、第九を聴きに行ったら、四人の独唱者のうちの一人でした」
俺の失態を、しっかり覚えていられたとは。いや、それよりも
「クラシック、好きなの?」
思わず、体が前に出て、声も大きくなった」
「はい、好きです。でも、声楽は、俺、外国語、あんまりだめだから、めったに聴かないです」
「俺もそうだけど、でも、このリサイタルの曲目は、いいなって、思ってさ」
「そうですね。これなら、僕にも、わかるかも」
「第九の彼女はどうでした? ギャラ泥棒でしたか?」
「いいえ、とんでもない。厚みのあるしっかりした声で、ちゃんと聞こえてきましたよ」
ケンタくんは、知識をひけらかすようなことはまったくしていないが、男は、こいつクラシック詳しいなと確信した。
店内にほかの客はいなくなっていた。それをいいことに、男はさらにケンタくんを引き止めて言った。
「これから、この演奏会のチケットを申し込みたいんだけで、またトラブったら呼んでもいいかな?」
「もちろんですとも。今は一番ヒマな時間帯ですし。どうぞ、ご遠慮なく」
「あと、、それから・・・」
男は言いよどんだ。自分に好意的な態度を取ってくれているとはいえ、単に店員と客という関係である。調子に乗って、迷惑がられても困るなと、思ったのだ。だが、男は、思い切って言ってみた。
「もし、5月14日、空いてたら、このコンサート、つきあってくれないかな? もちろん、チケット代は俺が持ちます。きょう、スマホの操作で助けてもらえなかったら、このチケット申し込めたかどうかわからなかったから、そのお礼ってことで。どうですか?」
「そんなことしてもらって、ほんとにいいんですか? 俺、行きたいです」
素直に承知してくれたことに、男は感謝した。ケンタくんは仕事に戻り、男はスマホに向かった。チケットは難なく取れた。ケンタくんと連絡先を交換して、男は店を出る。
「じゃ、当日はよろしく。蒼杉くん」
「こちらこそ。ほんとにありがとうございます。KITABAYASHIさん」
「ええ!どうして俺の苗字を?」
「お忘れになった文庫本にローマ字で書いてありましたよ。北に林で、いいんですか?」
「そうです」
「あの本、今日もお持ちなんですか?」
「いや、絶対なくすわけにいかないものなので、もう持ち歩かないで自室の書棚に戻しましたよ。そのかわりに、同じものが新刷で売っていたので、それを買いました。これです」
男はその本をデイバッグから取り出して、青年に見せた。
「肌身離さずってわけですね」
青年の言い方に、男は照れたけれど、悪い気はしなかった。本をしっかりとデイバッグにもどして店を出た。階段の下まで来ると、どうしたことか、また、ケンタくんが追っかけてくる。おかしくてしょうがないという風に、笑っている。青年の手には、男が邪魔者扱いしていたブレザーが握られていた。薄茶の上品な色合いのものである。
「また、お忘れ物ですよ」
男はブレザーを受け取って羽織った。手渡されるとき、手と手が触れた。薄いグリーンの半袖シャツの青年と薄茶のブレザーの中年は、向かい合って立っていた。
開場時刻の3分ほど前に男が都心のホールに着くと、健太君はもう来ていた。次回公演のポスターらしきものを熱心に眺めている。その背中に、男は声をかけた。
「おまたせ。お、来月はピアノトリオか」
ハイドン、ベートーヴェンの『大公』、ブラームスの第1番と並べたプログラムだった。
「室内楽、好きなの?」
「ええ、このホール、学生席は安いし、室内楽公演多いから、よく来るんです」
入り口の横にチケット売り場があり、「当日券あり」の掲示がしてあるが、人はいない。男は売り場の窓越しに、この来月のチケットの前売りを扱っているか訊いた。
「はい、ご案内できます」
と女性の係員が言う。
「俺も、この三曲なら、ぜひ聴いてみたいな。どうだい、次回も一緒に来ないか?」
「もちろん、俺は聴きに来ますけど・・」
「じゃ、二枚買っちゃおうか」
「そんなにいつも、お金出してもらうわけには・・」
「じゃ、学生席の学割料金だけ出してくれよ。俺は、君と並んでいい席で聴きたいから差額は俺が出す・・ってことでどう?」
「はい、それなら。ありがとうございます」
男は、全額自分が出してもいいのだけれど、健太には健太のけじめみたいなものがあるのを察して、少々みみっちい提案をしたのだった。
ピアノトリオのチケットをそれぞれデイバッグにしまうと、二人は会場に入った。
メゾソプラノの落ち着いた柔らかい響きにのせて、どこか懐かしい気分のメロディーが次々に流れていった。男の妻も、歌うときはメゾソプラノだった。彼女の歌声を思い出して、思わず眼がしらがあつくなる。健太君も、一曲一曲を噛みしめるように聴いているようだ。身体のこわばりも、心のしこりも、ゆっくりとほぐされていく思いだった。最上の時間を過ごした、と男は思った。
日曜日のマチネーだったから、公演は午後4時ごろに終わった。都心を散歩して、ゆっくりと夕食をおごってやれればよかったのだが、今日の男には時間がなかった。一度北国の自宅にもどらねばならない。健太は、東京駅の新幹線ホームまで、見送りに来てくれた。
東京駅に向かう地下鉄の空いた車内で健太が小声で鼻歌を歌っている。隣に座っている男にだけ聞こえるような小声で。
「いたーずらが、すーぎてぇ、しかられーて、ないた・・・」
「その曲、気に入ったんだ」
「はい。武満って言うから、最初は身構えたけど、こういう、誰にもわかるいい歌を書いた人なんですね」
「子供のころを思い出した?」
「ええ、ちょっと」
「よく叱られるいたずら小僧だったのかな」
「さぁ、どうでしょう」
「蒼杉君は、関西でしょう?」
「え、わかりますか?」
「どこなの?」
「和歌山です」
「俺は熊本生まれの東京育ち。今は、仙台に住んでるんだ。今回も仕事で出てきてたから、ちょうどよかった」
「来月のピアノトリオ、楽しみですね。でも、わざわざ仙台から来るんじゃ・・」
「ちゃんと前後に東京に用事を作っておくよ」
「シューマンの曲が2曲ありましたね。歌うように囁く・・逆かな。囁くように歌う。ため息を漏らしながら歌うのか、歌いながらため息を漏らすのか。どちらも、恋の歌なんですよね」
男は、やっぱり鼻歌で、『美しき五月で』を歌ってみせた。
「ドイツ語の歌詞、暗記してるんですか?」
「高校の音楽の時間に、担当教師のいいつけで、ドイツ語にカタカナで読み方ふって、おぼえさせられたんだ。日本人の俺が、なんでこんなこと・・・って思ってたけど、今の僕が唯一原語で歌えるドイツリートとなりました、とさ」
「『献呈』って曲は・・・」
と、健太が言いかけたとき、電車は東京駅に着いた。
二人は、6月18日の再会を約して、ホームで別れた。
公演を二人で並んで座って聴いて、健太君の感想を聞くのは楽しい。
「スケールの大きな『大公』だったね」
「あの曲の出だしのピアノ、僕、大好きなんです。一度聴いて忘れられなくなった。一目惚れじゃなくて、一聴き惚れ」
「今日のピアノの彼も、まさに、堂々たる歩みって感じだったね。慌てず騒がず、余裕綽綽」
「ブラームスもよかったです。ああいう若書きの曲を聴くと(あとでだいぶ改訂はしたみたいだけど)、ブラームスって人も、若いころはけっこう多弁な人で、一度喋り出したら止まらない、なんてところがあったんじゃないかって、思うんですよね」
「ウィンなワルツが大好きで、はしゃいで聴いていたっていうからね」
今回も日曜のマチネーだった。男は、翌月曜日の午前に東京で一仕事片づけてから仙台に帰ることにしてあったから、今回は恐縮する健太を無理やり銀座のレストランに連れて行った。
「こういうところで、スマホをテーブルに置いておくのは、ダメですよね」
と言いながら、健太はポケットにそれをしまう。
「そのスマホで、クラシック聴くこともあるの?」
「気に入った曲はCDから取り込んだり、ファイルのダウンロードしたりしますよ」
前半は理解できたが、後半は男にはピンとこなかった。健太は続けて言う。
「今、昔のCDからF=ディースカウとG=ムーアの『ミルテの花』を取り込んで、全曲聴いてます」
ほぉ。歌詞のドイツ語は対訳サイトを利用するらしい。
「一応、大学でドイツ語の授業があったので、少しはわかりますから」
健太君は、理系学部の大学院生の一年目である。男は、文系青年だったから、健太君の専攻する学問の話はさっぱりわからない。そのせいでもないが、二人の話題は、いつもクラシック音楽だった。
「ロベルトって、クララにべた惚れだったんですね。最初の『献呈』って曲は・・・」
またもや、ここまで言いかけたとき、コース最初のオードブルが運ばれてきた。料理の内容に気が入ったせいか、その後シューマン夫妻の話は出てこなかった。
その後も男と健太君は時々メールのやり取りをした。6月終わりから8月盆休みにかけて、男は三度上京した。健太君は三度とも男との夕食に付き合ってくれた。
「お盆に帰省はしないの?」
「混雑を避けて、月末に帰ります」
「月末かぁ。俺、大阪でちょっと仕事があるな」
「そうなんですか?じゃ、むこうで会えたりするかな。なんなら和歌山城でも見に来ませんか。でも、食べるんなら、だんぜん大阪だろうけど」
そうは言っていたが、二人の日程が微妙に合わなくて、この計画はご破算になった。
9月2日土曜日、大阪で仕事を終えた男は、一人で和歌山城にやって来た。暑い晩夏の陽射しがようやく弱まった時刻だった。今夜は和歌山で泊まって、明日は白浜に行くことになっている。泊ってみたかった温泉旅館の予約もすませていた。日曜なので、空いているようだった。
城をバックに、スマホの自撮りをしようかとアングルを考えていると
「よろしければシャッター押しましょうか?」
と声をかけてきた者がある。見ると、忍者の扮装をしたアルバイトの若者である。城のガイドも兼ねているらしかった。黒装束に身を固めた忍者くんは、妙に男に対して親しげである。それに、声に聞き覚えがあった。
「ええ?もしかして、蒼杉君か?」
「やっぱりわかっちゃいました?」
「何してんの、こんなところで、そんなかっこして」
「友達がここで忍者のバイトしてたんすけど、熱中症でダウンしちゃって、帰省中の俺が一日だけピンチヒッターってわけです」
「真っ赤なサンタも似合ってたけど、真っ黒な忍者も悪くないねぇ」
男は健太君をからかった。からかえるような間柄には、なっていたのだ。
「でも、結局、こっちで会えましたね、俺たち」
「いつ東京に戻るの?」
「5日までこっちにいます。でも、残念だなぁ。今夜は俺、家族と夕食で・・・」
ほんとに口惜しそうな健太君の口調に男は微笑んだ。
「明日と明後日の予定は?」
「特にないですよ。北林さん、今夜和歌山泊まりですか?」
「駅前のビジネスホテル。明日、白浜温泉に行くんだけど」
「へぇ、いいっすねぇ・・・」
「もし、君さえよければ・・・」
男は、やっぱり言いよどんだ。若い男なら、やっぱり若い女の子と行きたいだろうな、白浜温泉。こんなおやじと一緒じゃな。
「俺、和歌山育ちだから、白浜は知ってるけど、泊ったことなないなぁ」
「部屋は、俺がとってあるから、君の分の夕食追加がオッケーなら、来ないか?白浜」
「俺、うれしいです」
男は旅館に電話をかけた。健太の追加宿泊と食事は、あっさりOKが出た。
朝の特急で並んで座って海を眺めながら白浜に着き、夫婦岩・白砂の海岸・三段壁などをレンタカーで回って、2時のチェックインちょうどに宿に入った。瀟洒で天井の高いロビー、ひろびろとして眺望がよくきく部屋。若い健太君はそれだけで、がぜんご機嫌だった。9月になっての日曜日のホテルは、人が少ない。館内には、大小さまざまな浴場が配置されていて、どれに入るか迷うくらいである。
海に向かって突き出た中腹に貸し切り家族風呂があった。とくに追加料金を払わなくても、だれでも入浴可となっている。中からカギがかけてなければ、入っていいのである。まず大浴場に行って、さっぱり体を洗うつもりだったふたりは、たまたま誰も使用していなかったこの貸切り風呂にまず入ってみた。健太君が、珍しがって、しきりに入りたがったので、男もそれに便乗したのである。いくら豪華な温泉旅館に来ても、カップルは大浴場では男女別々になってしまう。一緒に風呂を楽しみたければ、貸切風呂に入るしかない。
そのために、こういう場所があるのだ。中は半露天のようなつくりで、林の向こうに海が見え、ようやく二人で入れるような木の浴槽がしつらえてあった。開放的で広々とした大浴場には無い濃密な雰囲気がここにはあった。相当親密な間柄の男女でなければこういうところには平気で入れまい。男にはそう思われた。健太くんは若いから、どう考えているかわからなかったが、やはり最初のうちは、気恥ずかしさが先に立って、ぎこちない二人だった。健太君も腰にしっかりタオルを巻いている。
しかし、だんだん慣れてくると、二人とも平気で相手に全裸を晒すようになった。男は中年太りによる体の崩れをかろうじて免れている。いや、むしろ、年齢の割にかなりしっかりした体型だった。健康に関心が高まって来た昨今は、パーソナルトレイナーについて筋トレをする中高年が増えている。男もそうだった。健太君は、特にスポーツ系ではないけれど、さすがにすっきりときれいな体で、なんといっても皮膚の張りが、男とは違っている。狭い空間で、二人きりで、生まれたままの姿で向かい合っているうちに、男は自分が失ってしまった若さのことを思わずにはいられなかった。
夕食のときも、一枚ガラスの壁に囲まれたレストランの海側、最上の席をあたえられた。9月の日は長くて、あたりはまだ暗くなっていない。茜色に染まっていく波のうねりを眺めながら、男も健太君も海の幸ふんだんの懐石を堪能した。何度か一緒に食事をしておたがいにわかったことだが、ふたりともアルコールに弱く、酒は嗜まないタイプだった。それでも、雰囲気に押されて、せめてグラスワインの一杯でも飲もうということなり、デザートまできれいに食べ終えて、テラスに出て海風にふかれるころには、二人ともほろ酔いになっていた。健太君の浴衣の襟元が酔いのせいでゆるんでしまい、色白の薄めの胸はロゼワインの色のようになって、男にほの見えていた。二人用のベンチに並んで座り、灯台の光や行き交う船から漏れる明りを眺めているうちに、舌が滑らかになった健太君がこんなことを言い出した。
「北林さんと聴いた歌曲のリサイタルでね、『献呈』って曲があったでしょ」
「『ミルテの花』の第一曲だね」
「僕、あの詩をドイツ語で読んでみて、人を好きになるって理屈じゃないんだなと思ったんだ」
いつもの、ですます口調ではない、タメ口ふうの話し方になっている。声にも甘さがあった。
それにこたえる男の口調にも、いつもの怜悧さが欠けていた。自分がちょっと熱っぽい感じがあった。顔の火照りは、貸切風呂での長風呂のせいか、はたまたワインの飲みすぎのせいか、男には判然としなかった。
「Du meine Seele, du mein Herz, du meine Wonn', o du mein Schmerz, du meine Welt, in der ich lebe, mein Himmel du, darein ich schwebe, o du mein Grab,in das hinab ich ewig meinen Kummer gab!」
ところどころつっかえながら、うろ覚えの歌詞を男は囁いた。
「やっぱり、ドイツ語で覚えているんだね。このduってのが、君とかあなたって意味なんだよね。それも親しい間柄だけで使う二人称だって、ドイツ語の授業で習ったよ」
「そうだね。このduには性別がないから、男にも女にも使えるんだ。だから、この詩の場合、ichが男なのか、女なのかはわからないよね。ドイツ語ネイティヴだったら、そのほかの単語でこれは男性的な言い方だとか、女性特有の語彙の使い方だとかわかるんだろうけど、日本人のドイツ語学習者には、そこまでは無理だろうね。実際、リサイタルで聴いたのはメゾソプラノだから、女性から男性への愛の告白ってことだろうし、蒼杉君が今スマホで聴いているのはバリトンだから男性から女性への激白になるのかなぁ」
健太君は返事をしなかった。男は、もやもやした気分のまま先を続けた。
「だから、ichが男なら、この愛の告白の相手のduは、当然女性・・・」
と、男は言いかけて、言葉が続かなくなった。自分の本心を、自分自身に対して隠し切れなくなったのである。
健太君はだまって下を向いたまま、男の方を見ようとしなかった。しかし、だまってしまったわけではなかった。今履いている、旅館の下駄の鼻緒を見ながら、ちいさくちいさく呟いたのだ。
「そうとは、限らないと、僕は思っています」
続けて、軽やかなテノールの歌声が9月の夜の海の上のテラスに流れ出した。
健太君が歌っているのだった。
「Du meine Seele, du mein Herz, du meine Wonn', o du mein Schmerz,・・・」
歌曲の唱法ではなかったし、声も繊細過ぎた。しかし、メロディーは正確だったし、歌詞は一言半句もちがっていなかった。男は、その先を引き継いで歌った。バリトンの彼が、テノールの健太君に続けて歌うのはちょっと大変だったけど、がんばった。
「du meine Welt, in der ich lebe, mein Himmel du, darein ich schwebe,・・・」
最初に戻って、今度は二人で唱和した。歌声が途切れると同時に、唇と唇が重なって、いつまでも離れることはなかった。
海風に吹かれながら、二人は黙って部屋に戻った。食事中に、宿の係が、部屋に布団を延べていた。真新しい白いシーツにつつまれた二人の寝床。並べられた枕。男は、伊勢物語の、あの言葉を思い出して、強く強く健太を抱きしめた。
『ただ、今宵こそ、新枕すれ』
抱擁がおわり、再び強く唇を重ねながら、北林秋也は、蒼杉君の名前を初めて呼んだ。
「ケンタ!」
健太君も北林さんの名前を初めて呼んだ。
「シュウヤさん!」
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