アイツはヴァイオリン(連作ゲイ小説「クラシックなオトコたち」第7話)
月曜日の昼時のカフェは満席に近かった。それでも、運のいいことに、窓際のテーブルから客が立つところだった。俺たちは、天井まで届く大きな一枚ガラスのすぐ向こう側に、手入れの行き届いた花壇を眺めることができる席に座ることができた。色とりどりの躑躅が、まもなく蕾を開き始めるだろう。
1時半を過ぎると、オフィス街から昼食を取りに来ていた客はきれいにいなくなって、俺たちの席のまわりも、空席が目立つようになっていた。
早起きして朝食をしっかり食べていた俺は、あっさりしたペペロンチーノひと皿だけを注文した。パスタの量はどうなさいますかと、店員が問う。S・Ⅿ・Ⅼのどれかだという。普通盛りを持ってきてもらったけれど、それでも最後の方は少々持て余し気味だった。
40歳の誕生日を半年ばかり前に迎えた俺である。大台に乗ったとたんに食欲まで減退するのだろうか。
俺の連れはというと、ただでさえこってりしたカルボナーラに油っぽいものをトッピングしてもらって、しかも大盛りだった。そして、同時に持ってこられたパスタの皿を、俺より先に空にした。まだちょっと足りないという顔をしているので、デザート取っていいぞと促すと、「クラシックホットケーキ」を2枚食べたいと言う。まだまだ細っこいこいつの体のいったいどこに、そんなにも大量の炭水化物が入っていくのか。
ホットケーキが焼きあがるまで、そう長くはないものの、ちょっと間があった。手持ち無沙汰を感じたのであろう、俺の連れは、わずかに差し込む逆光の陽のなかで、窓の外の花壇に目をやっている。
こころもち面長で白皙の顔。そこにきれいに乗った短めの黒い髪がつやつやときらめいている。肉に埋もれてしまうことなくつつましげに突き出した頬骨と、外側にふっくらと膨らむことなく程よく内側にシャープな曲線を描く頬の輪郭。形の良い眉に、やや細めの充分に横に広い唇。一重瞼の両眼は、知的に切れ長だった。要するに、とびぬけたショーユ顔のイケメン、それが今日の俺の昼食の相手なのだ。
「まだ、こないのかなぁ」
「まぁ、ゆっくり待てよ。何か急ぎの用でもあるのか?」
「ううん。バイトは3時からだから、時間は充分」
そう言って俺の方を見て笑う。笑ってはいるが、俺に向ける視線には、力がこもっていた。
1973年の9月、26歳のホセ=カレーラスは、初来日して、レナータ=スコットのヴィオレッタを相手にアルフレードを歌った。そのときまだ俺は生まれていないが、オペラ好きであった父がこの公演を見ており、ホセ=カレーラスの男ぶりの良さにほとほと感心した、と何度も言っていた。一昨年その父が78歳で逝ったとき、遺品の中にこの時の公演の録画テープがあった。それを見た俺は、なるほどこのアルフレードは素晴らしいと思った。たっぷりとした美声で高級娼婦に寄せる一途な思いを吐露する清潔な歌声。舞台の上で、じっとヴィオレッタを見つめるときの思いつめた顔には、演技とは思えない甘い切なさが溢れていた。
力がこもった視線で俺を見るときのこいつは、ショーユ顔なのに、この時のホセ=カレーラスの端正な顔を俺に彷彿とさせるのだった。
メイプルシロップがたっぷりかかった二枚のホットケーキの皿は、3分と経たないうちに空になった。唇の両端を、備え付けのウェットティッシュで拭きながら
「じゃ、僕、行くね。夕方は7時半だよね」
「そう、大江戸線の麻布十番の1番出口のところ」
俺はこれからジムへ行く。しばらく別行動をした俺たちは、予約してあるレストランでディナーを楽しんで、俺のマンションの部屋に帰る。二人で過ごす、何度目かの夜だった。
店を出て、躑躅の花壇の脇を横切りながら、あいつは俺に手を振る。俺も振り返す。
その情景の中に、割って入って来た人物がいた。花壇の向こうから歩いてきた彼は、ちょうど俺とあいつの中間に立って、しばらく俺たちを交互に見比べていたが、やがて訳知り顔に頷くと、カフェの入り口から、明らかに中年太りが始まっている身体を滑り込ませて、迷うことなく俺のテーブルの前に立った。
「ここ、座っていい?」
「どうぞ、どうぞ」
ウェイターが、ホットケーキの皿を片づけていった。自分の前のテーブルがきれいになるのを待ちかねたように、25年来のつきあいの、高校時代からの俺の親友は言った。
「また、オトコ、取り換えたのぉ?」
ソフトな口調と尻上がりの語尾だけ聞くと、まるでおねェだけれど、俺の親友はバリバリのノンけである。この歳まで独身の俺を尻目に、3人の娘がいて、長女はもう高校3年生のはずだ。
「品のない言い方、しなさんな」
「こんどは、いくつなんだ?」
柔らかい口調はそのままだが、男友達同士の口調に、自然になっている。
「誕生日がくれば、ハタチ」
「犯罪じゃねぇの?」
「れっきとした成人だぜ」
「そういえば、こないだまでのサッカー小僧、まだⅮKだったんだろ?」
「そうだね。17歳か」
「あの子は、どうしたんだよ?」
「思春期の少年の気まぐれに振り回されて、あっさり捨てられました」
事実ではない。それは、親友もわかっている。
「相変わらず、ずるがしこい言い方するねぇ。あっさり飽きたのは、お前の方だろうが」
図星である。話題を変えねばならない。
「平日の昼間から、こんなところに来るなんて、会社はどうしたんだ?」
「午後だけ有休をとったんだ」
「へぇ。体調でも・・・って、そんなわけないか」
注文したミートソースの食べっぷりはみごとである。大盛りのスパゲッティは中年太りで出っ張って来た腹の中に瞬く間に消えた。
「美咲のことで、中学の担任から呼び出しをくらったんだ」
「もう、3年生だったかな。進路相談か?」
「それならいいんだが、あいつ、学校を休みがちになってな、最近」
「あの美咲ちゃんが、か?」
「そうなんだ」
意外な話である。俺の知っている美咲ちゃんは健康的で朗らかな少女である。この親友の娘にふさわしく学業も優秀だ。彼は、高校時代の3年間、ただの一度も主席の座を明け渡したことがないのだ。俺とは正反対。難しい年ごろであるにもかかわらず、父親への態度が激変することもなかった。まるで路上に散乱した生ごみでも見るような目で美咲に視られたら俺は生きていけない、などと恐れ慄いていた親友であったが、そんな気配は微塵もないようだった。いったい、どうしたというのだろう?
「女房がパニくっちゃってさ。あいつ一人で担任の先生に会わせるのもまずいかなと思って、俺も一緒に行くことにしたんだ。学校に4時半の待ち合わせ」
「悦子さんも大変だな」
親友の顔が暗くなる。
「実は俺さぁ、結婚して初めてあいつのことひっぱたいちゃったんだよね」
「美咲ちゃんのことでか? だって、彼女のせいじゃないんだろ?」
「ちがうんだよ。ひっぱたいた理由」
「と、いうと?」
「あいつが、取り乱して口走ったんだ。あの子が不登校になんかなって、家に引きこもるようになったりしたら、ご近所のてまえ、みっともない、受験はどうするの?って」
これは、ちょっと、相槌がうてない。
「美咲の話をなんにも聞かないうちからそんなこと言うなって、俺、怒鳴ったよ。今、一番必要なのは、彼女の話を聞くことなんだから。辛抱強く待って、心の内を語ってもらわなきゃいけないんだ。大学受験なんてそんなの二の次だし、なんなら一年や二年遅れたっていいんだ。今が、待ち時だって、俺、思うんだ。そう、待たなきゃいけない。踏ん張ってな。世間体を気にして、形だけ学校に通わせてもしょうがない。だいたい、いまどき、学歴がどうのこうのって社会じゃないしな」
彼は、日本で最難関の国立大学にあっさりと現役入学した男である。その彼が、そんなことを言う。
俺は、ちょっと心を動かされた。やっぱり、こいつは、俺の自慢の親友だ。優秀とか切れ者とか、そういうこと以前に、なんという賢さを備えていることだろう。わが子のこととなるとつい目が曇りがちになるのが親というものなのに、こいつの眼は、こんなにも澄み切って現実を見据えようとしている。俺には、とてもマネできそうにない。その前に、子供を持つことができない人生だろうけれど。
「4時半か。美咲ちゃんの学校まで、ここからどのくらいかかるんだ?」
「30分そこそこかな」
「じゃ、まだ時間はあるな。ここのコーヒーは、豆を挽いてドリップで淹れてくれるから美味いぜ。ゆっくりマンデリンでも飲んで行ったらどうだ?」
俺はキリマンジャロ、こいつはマンデリン。ずっとそうだ。
「そうするか」
彼の前に湯気の立つコーヒーカップが置かれた時、俺は時計を見た。2時ちょうど。今日は月曜日だから、FⅯで『クラシック・サロン』という番組が始まるころだった。それがわかっていたから、あいつのいなくなったテーブルの上に、俺はスマホとブルートゥースのイアフォンを出しておいた。親友はそれを見て
「音楽を聴くつもりだったのか?邪魔しちゃったかな」
と言った。彼もクラシック好きだ。ただし、俺はベートーヴェン、こいつはワーグナー。ずっとそうだ。
「今日は、どんな曲流すのかな」
と言うと、俺はイアフォンを耳にあててスマホを操作した。案内役の女性の声が聞こえてきた。
《それではお聞きください。ブラームス作曲、『ハイドンの主題による変奏曲』、演
奏は・・》
彼は、俺からイアフォンを手渡されると、それを器用に耳に挿入して、目をつぶった。
「あれ、このメロディー、俺、知ってる」
「そうだろう?。有名だからな」
冒頭に提示される主題である。どこか鄙びた親しみのこもった愛らしいコラール風の旋律は、ハイドン作曲でないことは周知のことである。というより、そんなことはどうでもよくて、多くの人々がこのメロディーを愛してきた。そのことのほうが大切だ。
全曲聴いても20分はかかるまい。俺は、そのまま親友にイアフォンを預けて、ぼんやりと窓ガラスの向こうの百花繚乱たる花壇を眺め始めた。目の前の男は、ブラームスに没頭している。腹いっぱいに食べたペペロンチーノが効いてきたのか、ちょっと眠くなってきた。そしてぼんやりとした頭で、あいつに初めて話しかけた日のことを回想していた。
そこは、俺が気に入って通っていた、こじんまりしたジムだった。日本中に店舗を展開する大手資本系列のお洒落なスポーツジムではなく、昔ながらの個人経営である。十人も入ればいっぱいになるような狭いトレーニングフロアに備えてある機器は、最新式とは言い難かったが、手入れは良くされており、いつ触っても掃除が行き届いているのがわかった。雰囲気も俺の気に入った。ジムを社交場と心得て長居をする高齢者や、あわよくばかわいい女の子と知り合いになろうという下心見え見えの、体のだぶついた軽薄な男たちもいなかった。そもそも、あまりにも地味な雰囲気だったから、女性には敬遠されていたようだ。
ある日、いつものように、トレウェアに着替えてフロアに行くと、いかにもこういうところは初めてという雰囲気の、華奢な体格の青年が、インストラクターから丁寧な指導を受けていた。物慣れない様子で、おずおずと機器に触るその両腕は、女性のモデルのように細かった。自重トレの代表種目であるプッシュアップをやらされた時は、7回ぐらいでへばっていたんじゃないだろうか。ただ、ホントに真面目にイントラの指示通りにメニューに取り組む姿勢は好ましい印象を周りにあたえたし、その場にいたわずかばかりの会員も、思いやりのこもった笑顔で彼を見守るのだった。
その青年が、あいつである。通い慣れてくると、各人の来る曜日と時間帯はほぼ一定になるから、こんな小さなジムでも、顔を合わせる相手は限定されてくるものである。あいつは、その中の一人だった。俺は、彼の真面目さに好感を持っていたから、激励するつもりで声をかけてもよかったのだが、なぜか俺と眼が合うと、あいつは困惑したように顔を伏せてしまうのだった。そうか、こんなに年上のおっさんから話しかけられても迷惑なだけなんだろうな。俺はそう解釈して、しばらくは軽い会釈ぐらいでやり過ごした。
あいつは、だんだんとジムの雰囲気に馴染んでいった。マシンの使い方も堂に入ったものになりつつあった。その日は、雨で、ジムには俺とあいつの二人きりしかいなかった。インターバルの時に、ふとあいつの方を見ると、興味深げな眼で、フロアの隅に置いてあるダンベルを眺めている。イントラからマシンと自重トレーニングメニューを教えてもらっていた彼は、まだダンベルを持ったことが無さそうだった。彼は、あたりを見回して、俺以外に人がいないことを確認すると、男性としてはかなり軽めのダンベルを両手にとって、ベンチに仰向けになった。そして、両腕をぎこちなく上下に動かしたりしていた。俺は思わず、声をかけた。
「きみ、どこの筋肉を鍛えようとしているの?」
びくっとして、まるで幽霊でも出たかのような顔つきで俺のことを見返してはきたが、それでも返事だけはしてくれた。
「だ、、大胸筋、、かな」
「だったら、そのフォームじゃだめだよ。肝心の胸にはちっとも効いてなくて、腕や肩にばかり負担をかけてしまっている。下手をすると、筋肉を傷めてしまうよ」
「そ、そうなんですね」
彼は、興味本位で勝手にダンベルを使ったことを、心底恥じているようだった。
それがきっかけで、俺とあいつは口をきく仲になった。その日、朝から止まない時雨の中を並んで傘をさして駅に向かいながら、俺は言ってみた。
「体が冷えたね。何か、ここで、暖かいものでも飲んでいかないか?」
デート、バイト、迫っているレポートの期限。断る言い訳に使われるのは、どれか。
どれでも、なかった。
「いいですね。僕、一度ここに入ってみたいと思っていたんです」
晩秋の雨の日の狭い喫茶店に、他に客はいなかった。薄暗くて陰気な奥の席を避けて、窓側の席に向かい合って座った時、俺は目を瞠った。こいつ、昔風に言うなら、ジャパニーズ超ハンサムっていうやつだな。それもとびきりの。
「今日は、ほんとにありがとうございました。あんなことして、僕、軽率でした」
「大げさだなぁ。もっと、肩の力を抜いてやりなよ、筋トレ」
「でも、ほんとに、生まれて初めてのことなので」
「始めようと思った、きっかけは?」
「ずっと嫌だったんです。自分のあまりにも貧弱な体が。でも、いままでは、大学の受験勉強をしなければならなかった。幸い、第一志望に合格できたので、思い切って・・・」
大学の名前を聞いて驚いた。彼は、俺の親友の後輩にあたるのだ。
「君の若さなら、三か月も頑張れば、カノジョから、『最近ガッチリしてきたんじゃない?』ぐらいのことは、言ってもらえるよ。いいねぇ、イケメンの細マッチョ。T大生。未来は洋々たるもんだ」
「僕、カノジョなんていません」
「そんなに威張って言うことじゃないと思うけど」
「そ、そうですね。ただ・・・」
大人しく控えめであっても、やっぱりあいつは若かった。怖いもの知らずのまっすぐな青年だった。実に、若さというものはコワいのだ。俺は、あっさりとコクられてしまった。
「あなたのような、頼りがいがあってやさしいアニキに巡り合いたい。僕、ずっとそう思ってました。そして、ジムで、初めてあなたに会ったその日から、この人だと確信しました。ずっとあなたが好きでした」
なんとまぁ、どストレートな。俺がノンけだったら、どうすんの?
「きみ、何歳?」
「誕生日は11月です。やっと19歳になりました」
「俺も、誕生日は11月です。とうとう40歳になりました。アニキなんて、呼んでもらっていいのかねぇ」
「でも、オトウサンとかオッサンとか、言うわけにはいかないですよね」
国宝級のお顔で真面目腐ってそんなことを言う。俺は頭がくらくらしてきた。
親友は、俺の目の前のテーブルの上に、静かにイアフォンを置いた。ブラームスの変奏曲が終わったらしい。
「この曲のことだったんだな?」
「なんのことだ?」
「ワーグナーがね」
そら来た。こいつがワーグナーについて語り始めたときは、特別警戒態勢が必要だ。演説の時間は『ニーベルングの指輪』全曲の演奏時間を上回る恐れがある。
「この曲の演奏を聴いたことあるらしいんだ。そして、古いタイプの音楽でも、実にいろいろなことができるものだと感心したと言うんだね」
「そうなんだね。どうかな、この二人、お互いの音楽のことは認めあっていたんだろうか?」
「そんなことわかりません。ただ、ちゃんと理解していたことは確かだと思う」
「そうだね。単なる毛嫌いで、ろくに中身も確かめずに否定なんてことするわけ無いよね。この二人が」
この言葉に続けて、俺は、調子に乗って親友にむかって一席ぶった。
「ワーグナーとブラームスって、ブルックナーとドビュッシーほどの違いはないだろうけど、やっぱり、かなりちがう。ワーグナーは正直な人だよ。俺はやりたい放題やるぜと公言して、やりたい放題やった。作曲については」
「ブラームスは?」
「油断のならない男だぜ。『ドイツ音楽の伝統』とか言うのを隠れ蓑に、僕はやりたい放題やっているわけではありません、と表向きは見せながら、かなりやりたい放題のことをこっそりやって、「やっぱりベートーベンは偉大なんです」とか言って、すました顔しているような気がする」
「誰かさんと似てませんか?」
「あくまでも、気がするだけだけど。俺、楽譜を分析するなんてできないからね」
「私生活でも、そうなのかもしれないね。息子を生んでくれた妻への感謝の意味もあって、こっそりプレゼントの曲を作っちゃうのがワーグナー。お前、この曲好きだよな、『ジークフリート牧歌』」
「短いからね。辟易するほど大げさでも長大でもなくて、聴き終わると、なんかしみじみしちゃうんだよな」
「ブラームスは家族に送った曲ってあるの?そもそも、晩年の彼に家族っていたのかねぇ」
「声楽曲をあまり聞かない俺だけど、『ドイツレクイエム』は、大切な曲の一つだよ。あれは母親の死が作曲の契機になってることを考えると、やっぱりワーグナーとはだいぶ違うなって気にはなるよね」
「恩師シューマンの死を、ブラームスはどう受け止めていたのかな。自分の目の前に残されたのがクララの方だった」
「何が言いたいの?」
「ブラームスとクララ=シューマンが不倫してたって言うの、ほんとか?俗説だろ?」
そんなことがわかるはずはない。でも、俺の中では、二人はそういう関係ではない。断じて。
親友の話題が、少し後戻りする。
「生涯独身のブラームスか。ところで、おまえ、どうなんだよ?」
「は?」
「もう、40なんだぜ。そろそろ、一人に決めて落ち着いたらどうなんだ?」
思わぬほうに話が展開しそうだ。別の特別警戒が必要である。
「俺、さっき、お前たちがお互いに手を振るのを見てて思ったんだ」
これは、かなり恥ずかしいところを目撃されたものである。
「あのイケメン君とおまえ、けっこうお似合いなんじゃないかってね。少なくとも、彼がお前を見る目は、生半可なものじゃないと、俺は思った。お前だって、結構気に入ってるんだろ?彼のこと」
「まぁ、そうだけど」
「だったら、真剣に考えてみろよ」
「何を?」
「本気で、あの子の人生を引き受けるってことをだよ」
3時半になって、親友は娘の中学校の担任の先生に会うために、店を出て行った。とんでもなく重たい鉄の球みたいなものを俺の心に残して。そして、俺は、こうも思った。美咲ちゃんの担任の先生、あいつに会って安心することだろう。このお父さんなら大丈夫だ、と。。
二人ともいなくなったテーブルの上に残された俺のスマホ。気が付くと、イアフォンから音が漏れている。『クラシックサロン』は続いているのだ。あと15分ほどで終わる。俺は、イアフォンを耳に挿入した。ブラームスの『ピアノ協奏曲第2番』の第四楽章が始まっていた。
俺は、ジムに行って、軽めのメニューをこなした。目いっぱい頑張ると、今夜が大変だ。
あいつがトレーニングを始めて半年になる。サボったことは一度もない。当然、見違えるほどの体になった。まだまだ細いけれど。そして、男としての成長と自信がそうさせるのであろう、俺に求める愛の営みも強く濃密なものになっている。体力を温存しておかなければならないのだ。
早めにジムからマンションに帰って、シャワーできれいさっぱりと生臭いものを洗い落として、真新しい下着にお気に入りのシャツとジャケットを用意する。あとは麻布十番に出かけるだけとなった。5時半になっていた。時間が余っている。俺は、パソコンで『クラシックサロン』の聞き逃がし配信を呼び出して、オーディオ装置から流れてくるブラームスの『ピアノ協奏曲第2番』を聴いた。
冒頭のホルン。はじめてあいつへ声をかけたときの俺の声だ。それに応えるピアノの、最初は静かなそして最後は軽やかな囁き。それは、俺の語りかけにこたえるあいつの声だ。そうなのだ、俺はそういう人間に出会うことができたのだ。満たされた気分でいるうちに、第三楽章が始まった。
チェロの独奏。この品のいい調べを品よく奏でることができれば、たちまち聞くものを魅了するだろう。ブラームスらしい名旋律である。ところでこの部分、ピアノ協奏曲なのに中心はチェロなんだろうか。ピアノは、うろうろと、いったいを何をやってるのだ。なぜ、ピアノはチェロのメロディーを歌い上げないのか。実は、こっそり歌っているのに俺の耳が聴き分けられないのか。もどかしい。楽譜を分析できる者ならば、あるいは卓越した聴力を持っている者ならば、『何言ってるの?ここかしこで、こんなに歌っているでしょう』と言えるのかもしれない。でも、俺には聞こえない。二つの楽器は唱和できないでいるのだ。しかし、この楽章の終末近くになって、オーケストラの音がかすかにしか聞こえなくなってから、ようやくピアノとチェロが歩み寄っていくのかと思われた途端に、静かに曲は閉じられる。そして、休みなく第四楽章が始まってしまう。
なんて切なくて悲しいのだ。俺はそう思った。そんな思いをしないですんでいる自分の境遇を神に感謝しなくてはならない。
スマホが鳴った。電話の着信音である。親友からだった。そっか、美咲ちゃんの担任の先生との面談が終わったんだな。それにしても、こんなに早く電話してくるなんて、事態は相当深刻なんだろうか。俺は、スマホを握りしめるようにして、電話に出た。
「まったくぅ、あのバカ娘。親をさんざん心配させやがってぇ」
第一声を聞いて俺は安心した。言葉は乱暴だが、口調は明るい。
「学校に行き渋る原因がわかったよ」
不登校という言葉は使っていない。ますます、俺は安堵する。が、その原因とやらは推測できない。親友に説明を促すと、
「あいつ、生意気にも、彼氏ができたんだとさ。同じクラスに」
俺のお相手のことはオトコって言うくせに、娘だとカレシなんだな。「カ」の音のイントネーションが高くない平板な言い方、つまり今風の言葉遣いである。
「彼氏ができると、学校に行きたくなくなるのか?」
「まさか。痴話喧嘩で気まずくなっただけらしい」
「それって、美咲ちゃん本人から聞いたのか?面談は彼女抜きでやったんだろ?」
「担任の先生が、ちゃんとお見通しでした。ってか、担任から追及されて、彼氏の方がいやいや白状したらしいけど」
「なかなかやるな、その担任」
「まだ30代の、男の先生なんだけどな。珍しい苗字なんだ。ノリ先生っていうんだ」
俺には不必要な情報だが、聞いてやるのが礼儀ってもんだろう。
「いったい、どんな漢字を書くんだよ」
「能力の能に、利益の利。ノウリと呼ぶ人が多くて、本人も別に訂正はしないらしいが、正しくはノリなんだってさ。あ、お前、まだ時間大丈夫か?」
「あと10分くらいで、出かけたいけど、それまでなら」
「さっきのスーパーイケメンとデートなんだろ?」
「ディナーをね」
「アフターディナーはその部屋で?」
通話口の向こうで、なにやら声がしてにぎやかだ。美咲ちゃんが一緒にいるらしい。
「娘が、久しぶりに話したいってさ。今変わるよ」
ことわるひまなどなかった。
「もしもしぃ、、オジサマ? お久しぶりですぅ」
なるほど、いつもの美咲ちゃんだ。俺の方も
「お父さんたちにあんまり心配かけるなよ」
などと、いちおう大人目線で子供に語りかけるような口調になる。美咲ちゃんは、そんなことには一切頓着せず、
「オジサマ、またオトコ変えたんですってぇ?」
俺は二の句が継げない。うら若き乙女がすらすらいうべきセリフかよ。だいたい、美咲ちゃんがなんでそんなことをもう知ってるんだ。お前たち父娘って、いったいどうなってんの?
美咲ちゃんは、中学1年のころから、俺がゲイだということを知っている。俺がいくら、BL小説のきれいな世界とはずいぶん違うんだよって言っても、好奇心満々で俺にいろいろ訊いてくる。ゲイに関しては、相当な耳年増だ。
いつのころからか、彼女は俺のことを、アニキとよぶようになった。そして、去年の11月に俺が40歳の誕生日を迎えた日から、それはオジサマに変わったのである。
「オトコを変えたのかなんて、親子そろって下品な言い方しなさんな」
「こういうのに、上品ってもんがあるもんなの?」
言葉に窮する俺である。それで、つい、余計なことを言う。
「彼氏との喧嘩の原因は何なんだよ。もしかして、もう浮気されたのか?」
「わかんないわ。そもそも、なんで喧嘩したんだか、むこうもアタシも覚えてないの」
「ま、そんなもんでしょう。痴話喧嘩なんて」
「お父さんもその言葉使ってたけど、どういう意味なの?」
「自分でスマホで検索しなさい。でも、いいねぇ。美咲ちゃんに、オトコ、いや彼氏ができるなんてなぁ。俺も、オジサマになるわけだ。で、どんな男子なんだい?」
「実物を見てもらうのが一番だけど、オジサマに会わせるわけにはいかないわ」
俺は、言葉に詰まった。ようやく、次の言葉を発したけれど、ムッとした話し方になっているのが自分にわかる。
「心外だなぁ。いくら俺がゲイだからって、美咲ちゃんの彼氏にちょっかい出したりするわけないでしょ」
「そういう意味ではないわよ」
彼女は、落ち着いている。というより、普段から言いたかったことを、この際言ってしまおうというような口調である。
「じゃ、どう言う意味?」
ちょっと大人げない、食って掛かったような言い方になっているかもしれない。
「オジサマ、そもそも今までに、誰かにちょっかい出したことなんてあるの?」
これは、明らかに俺の方が形勢不利か。
「オジサマのほうで知らん顔してても、彼の方がオジサマに関心を持つかもしれないでしょ?」
意外な返事である。しかし、逆に俺は、大人らしい物言いに戻ることができた。
「まさか。だって、彼はちゃんと美咲ちゃんを選んでるじゃないか」
「ノンけだったひとが、なにかのきっかけで男を好きになるってこと、あるんでしょ?」
恐れ入った。平気で、ごくありふれた言葉として、ノンけなんて言うんだな。今どきのJKは。
最後は理路整然とまくしたてられた。
「彼がわたしを彼女に選んでくれたことは、彼がオジサマに好意をいだくはずがないということの前提にはなりません」
その通りです。
「そして、オジサマという方は、ずっと周りの男を自分に惚れさせて生きてきた。そういう人生だったと、わたし思うの」
俺のスマホを握る手に、思わず力が入った。彼女は続ける
「言い寄って来る男たちから、嫌いではないタイプを選べばよかった。そうじゃなくて?」
「・・・・・」
「だから、自分の方から相手に惚れて、その人を真剣に口説くチャンスを失ってしまってたんじゃないかしら。お父さんも、わたしと同じ考えみたい。そしてね、今日の昼間、喫茶店でオジサマ達に遭って思ったんですって」
「何を?」
「どうも、こんどはちがうらしいって。私も、そうであることを願ってるわ。言いたかったのは、これだけ。あ、お父さんと、代わろうか?」
「いや、いいよ」
「じゃ、このまま切るわね。生意気言ってごめんなさい」
電話は切れた。俺はスマホを握りしめたまま、呆然としていた。俺って男は、自分から相手を好きになる機会を失っていた人間だった、そういうことのか?
その夜。レストランから帰った俺たちは、生まれたままの姿でベッドに並んで横になっていた。長い愛の営みの第一楽章が終わったところである。軽く手を握り合っていた。
俺たちは、汗の海の底に沈みそうになりながら横たわっている。俺にとっては、初めての経験だった。情事で汗だくになるなんて、今までの俺だったら、考えられない。いつも、部屋のエアコンを事前に入念にチェックして、たとえ真夏であっても、めったなことでは汗をかかないように、無意識に調整していたのだ。
夕食の後、あいつと並んで歩きながら、空を見上げた。朧月夜だった。春の一日、暑くもなければ寒くもない、一年のうちにそう何日もないような自然な空気感の夜。部屋に入っても、それは変わらなかった。普通に並んで座っている限り、エアコンなど全然必要なかった。部屋の窓からも、朧ろな月が見えていた。俺たちは春を生きている。そんな実感があった。
これから、夏になったら、灼熱の浜辺でこいつとしっかりと抱き合ってみたい。秋になったら、紅葉の見事な山峡でこいつの耳にそっと口を寄せて優しく囁いてみたい。冬になったら、木枯らしの中で寒さに震えながら、手をしっかり握り合って歩いて生きたい。何度もめぐる四季の空気のなかで、一緒に呼吸して生きたいのだ。俺は、あいつの手を握りながら、そう思っていた。
あいつが、ぼそっと言った。
「今日のアニキ、いつもと全然違う」
俺は答える。
「おまえもそうだったよ」
「そう、だったんだ。どこが、ちがうの?」
「今までみたいに、お行儀よくしてなかったよね」
ただでさえ汗まみれのあいつの顔が、ますます紅くなっていくのを、俺は見た。
「だって・・・」
そのあとは、言えないらしい。いいんだ、いいんだ、それでいい。
手の届くところにマウスがあるので、それをクリックして、パソコンからオーディオ経由で夜のクラシック音楽の番組を流し始めた。
ヴァイオリンの重厚なカデンツァが終わりかけている。ヨアヒム作のものを忠実に弾いているらしい。ほどなくして、第二楽章が始まった。オーボエの哀愁を帯びたソロが静かに俺の部屋を流れていく。あいつが、俺の肩にそっと頭を乗せた。ずいぶんたってから、ヴァイオリンが歌い出す。音型は変えていてもちゃんと奏でるのだ、オーボエの旋律を。あいつが、俺の両腕の中に割って入ってきた。俺の胸は汗でじっとりと濡れている。それだけではない。男同士の交わりなのだ。汗以外の物もふんだんに混じっているに違いない。しかし、あいつは、そんなことはものともしないで、しとどに濡れた俺の胸に躊躇なく顔を埋めた。第二楽章が終わるまで、ずっとそうしていた。
「アニキは、オーボエだね。そして」
「そして?」
「僕はヴァイオリン」
弾むように第三楽章が始まったが、それを鑑賞することはできなかった。弾み出したのは、あいつの方だった。俺の両腕の中で。俺たちの、弾むような第三楽章が始まった。
僕はヴァイオリン、か。
それにしても、なんてヤンチャなヴァイオリンなんだ。ジムのメニューを軽くしといて正解だったぜ。
夜も更けてきた。部屋の中はシンとしている。
ブラームス作曲、ヴァイオリン協奏曲ニ長調作品77
の放送はとっくに終わっている。俺たちの第三楽章の方がはるかに長かったのだ。
「寝る前に、もう一曲聴きたいな。音量低くていいから」
なんてアイツが言うものだから、俺はCDプレイヤーのスイッチを入れた。確か、何かのCDが一枚、セットされたままのはずである。
厳めしく重々しい管弦楽の全奏があって、優美なヴァイオリンのソロが流れた。
「またヴァイオリンだね」
と、嬉しそうにアイツが言う。
「最初のトゥッティが、アラビアの怖い王様で、このヴァイオリンはシェエラザードっていう女の人をあらわしているんだ」
「アラビアン・ナイトに関係あるの?」
「よく知ってるな」
「高校の世界史の先生が授業で、『こんなの、受験には関係ないんだけど』って言いながら、話してくれた。だから、よく覚えてるんだ」
「ここは受験に必要だぞ、って言われるから覚えるんじゃないのか?」
「そんなの、自分でもできるでしょ。あの先生の話はね、受験に関係ない、脱線話のほうが、ずっと面白かったんだ」
なるほど、ホントの優等生とはそういうものか。
リムスキー=コルサコフ作曲、交響組曲『シェエラザード』、
第1楽章『海とシンドバッドの船』
を俺たちはほんの少しだけじゃれ合いながら聴いている。オーケストラが奏する絶え間ない波の動きのような音楽に合わせて、大きな船で広い海原をながめながら楽しい航海をしているような気分になる。ズビン=メータ指揮、イスラエルフィルの演奏をBGMにしながら、俺たちのおしゃべりは続く。
「でも、僕、あの話、少しおかしいと思うんだよね」
「妻に裏切られて、女不信になったスルタンが、毎夜女を侍らせたあと殺してしまうっていう、あの話か?」
「そう。女不信なのに、なぜ女を侍らせるの? アラビアにだって美少年、いっぱいいるのに」
全日本代表級の昭和風イケメンの君が、それを言いますか。
「シェエラザードだって、ホントに殺す気があったのなら、『このお話の続きはまた今夜ね』なんてたわごとには目もくれず、即刻処刑役人に引き渡してもいいはずだよ。っていうか、そのほうが筋が通ってる」
こいつは全日本代表級の優秀な若者だが、それだけに、時々こんな身も蓋もない分析をしてしまうんだろう。俺は、やさしく、諭すように囁く。
「結論は一つしかないよ」
「ええ?いったいどんな?」
「一晩明けて、彼は悟ったのさ」
「何を?」
「この女を殺すことにはならないだろうと」
「どうして?」
「一目惚れだったのさ」
ここで、俺は、アイツをぎゅっと抱きしめた。だけど、あいつはロマンティックな反応はしてくれなかった。
「そっか。シェエラザードも悟ったんだね。この男に殺されることにはならないだろうと。だから、彼女はなんら動ずることなく、面白い冒険談なんかを、語り続けることができたんだ。昨日はだいじょうぶだったけど、今夜うまくやらないと明日こそ殺される。そんな心理状態で、面白い読み聞かせができるはずがないもん。幼稚園児でもわかる理屈だよ」
俺って、幼稚園児以下なのか。まぁ、いい。これ以上真面目に論評されてはかなわない。俺は茶化し気味に言った。
「彼は彼女の物語なんて聞いていない。見ているんだ。シェエラザードの顔だけを。今夜は、『開けゴマ』とかなんとか言ってるけど、なんでゴマなの?黒ゴマ?白ごま?すりごまになってるの?最近、ちょっと、口紅濃くなってないか? 彼女は、話しながら見ている。あの、勿体ぶった髭って、付け髭に違いないわ。アンタ、ニッポン男児より体毛薄い。毎晩アンタの全裸を見ているアタシだけが知っているのよ。うすすぎ。そんな立派な髭が生えるわけがない」
体毛の話のところでは、アイツのつるんつるんの胸毛一本生えていないまだ薄めの胸と、さすがにつるんつるんではない股間を交互にさすってやった。
「かくて、1001夜で、二人は御結婚。めでたしめでたし」
「でも、なぜ1000日なの?ちょっと、長くない?ざっと数えて2年9カ月だよ」
もういい加減にしなさいね、と言いたい所をぐっとこらえて、俺は言った。
「殺さないと決めるのは一晩でよかった。でも、別れないと決めるのに三年近くかかったんだ」
「そんなにかかるの?」
「俺は、一目惚れしてから135日目だよ、そう決めたのは」
「それって、今夜のこと?」
「よくわかるね」
「さっきも言ったでしょ。今夜のアニキはいつもと違う、って」
「それは、お互い様さ。おまえが、こんなにヤンチャな奴だなんて思わなかった」
曲は第三楽章『若い王子と王女』になっている。あいつは、すやすやと寝息を立て始めた。
俺はCDプレイヤーを止めた。最終楽章を聴く必要はない。全曲は、また改めて聴こう。二人で。
俺も、あっという間に深い眠りに落ちた。
昨夜の俺は、アイツに向かって全力投球だった。だから、そのあとの眠りは深かった。いつもなら目が覚めない時刻に、俺は起きた。まだ、朝の7時少し前である。
アイツが泊った翌日、俺たちはいつも朝寝坊だった。どんなに早くても10時前に起きたことはない。ようやく身支度を整えると、お気に入りのレストランに行って、お洒落な洋食のランチを注文し、朝昼兼用の食事をした。そういうもんだと思っていた。
しかし、今朝の俺は、素早く洗顔を済ませ、クローゼットのどこかに放り込んであったエプロンなんぞをかけると、ダイニングの冷蔵庫を開けた。
どうにかなりそうだった。米を研いで、一時間水に浸した後、炊飯器にセットした。トマトもレタスもキュウリも野菜室に残っていた。サケの切り身が冷凍室に二人分あった。ベーコンエッグもオッケーだ。味噌汁の具は大根とワカメとネギ。アイツも俺も関東の出身だから、納豆だっていけるかもしれない。
ご飯の炊ける匂いに誘われてか、はたまた味噌汁の具を刻む包丁の音を聞きつけたのか、アイツがのそっと、ダイニングに姿を現した。
「おはよう、アニキ」
「パンツぐらい、穿けよ。ってか、早く顔洗って来い」
「うん、そうする」
よかった。典型的というか、まるで昭和の日本の朝の食卓である。そんなものを、アイツが食べてくれるか、少し心配だったのだ。しかし、いそいそとテーブルにつくと、アイツは言ったのだ。
「僕ね、ヨシヒコさんと、こんなふうに朝ごはん食べてみたかったんだ」
ベーコンエッグをフライパンから皿に移し終わったところだった俺は、まじまじとアイツの顔を見ながら言った。
「初めてだな、名前で呼んでくれるの」
「うん。この朝ごはん見てたら、なんかなまえで呼んでみたくなったんだ」
本当だろうか。やっぱり、40歳の俺をアニキと呼ぶのに、抵抗があるのではないのだろうか。疑念は残る。でも、今は考えないことにする。
アイツは、きれいに、一つ残さず食べ上げた。俺のエプロンを、慣れない手つきでかけると、
「後片付けは、僕がやるね。ヨシヒコさん、新聞でも読んでて」
完全に、昭和オヤジあつかいだな。ウチでは新聞はとってません。こう見えても、ニュースはスマホでチェックです。でも、ま、いいか。
食後の珈琲を飲みながら、ソファに並んで座って、今週の予定をすり合わせる。俺の仕事とコイツのバイトのシフトは、完全に一致していない。しかし、今週は、その気になれば、毎晩会えそうだった。
しかし、日曜日がダメなのだ。
「次の日曜、悪いけど、ちょっと都合が悪いんだ」
「了解です」
アイツは、理由を聞こうとしない。いつもそうだった。でも、今日からは、それでいいはずがない。きちんと説明するのは、気が重いが、避けては通れないのだ。
「家族の命日で、墓参りなんだ」
となりで、密着して、なかば俺にもたれかかるようにしていたアイツが、背筋を伸ばしてソファに座りなおした。
「そうなんですね。あの・・・」
「なんだ?」
「どなたの命日ですかって、訊いてもいいですか?」
俺も、姿勢を正して、深く息を吸った。俺の返事は、コイツの予想をはるかに超えているはずだ。心して言わねばならない。
「弟なんだ、6年前に死んだ」
さすがに、あいつも息が詰まったようだった。
「弟さんって、いったい何歳だったんですか?」
「34歳だよ。生きていれば、今年で40」
「40って、それってアニキの歳じゃ・・・」
「そうだよ。俺たちは双子だったんだ。一卵性双生児ってやつ」
俺は、アルバムを持ってきて、俺と弟が並んで映っている写真を3枚見せた。アイツは目を白黒させるばかりだ。
「ホントに、アニキが二人いるみたいだね。でも、この写真はこっちがアニキでしょ?それから・・」
アイツは、3枚ともに正解を出した。俺は、うれしかった。かなり。
「弟は高校で教師をしていたんだ。俺の家は、教師一家でね。両親も教師。俺だけが、異端児なんだ。でも、三人とも、そんな俺をちゃんと認めてくれてた。ありがたいことだよ」
「僕のお祖父さんも、教師だったんだよ。最後は校長先生だったけどね」
「そうだったのか。なぁ、シゲル・・」
俺も、はじめてアイツを名前で呼んだ。
「なに?ヨシヒコさん」
「日曜日予定は?」
「一緒に行ってもいいの?」
「行ってくれるのか?」
「もちろん!でも、黒いスーツ持ってない・・」
俺は、うれしかった。本当に。
日曜日は穏やかな晴天だった。シゲルは黒いスーツをちゃんと着て来た。なんと、校長先生をしていた祖父に借りたのだそうだ。
「僕とじぃじぃはね」
「うん」
「顔がよく似てるって言われるんだ。ヨシヒコさん達みたいなわけには行かないけど」
墓石の前まで来ると先客があった。俺と同じぐらいの年齢の男と、20台半ばの青年である。二人とも黒のスーツで、かなり長い時間手を合わせて黙祷してくれている。年上の男の知的で端正な横顔と若いほうの青年の眉目秀麗ぶりを見て、俺にはこの二人が誰だか見当がついた。会うのは初めてだが。弟が、亡くなる一年ぐらい前に言っていたのだ。
「俺の同僚でさぁ、17歳も年下の美少年に一目惚れした奴がいてさぁ。本人は必死で隠してるつもりみたいだけど、俺にはバレバレなわけ。どうなるかなぁ、あの二人。ってのはさ、同僚の片思いじゃないんだよな。それもバレバレ」
この二人は、今は、正真正銘の恋人同士だ。二人が一緒に目をつぶって頭を垂れている姿を見ればわかる。この様子を弟が見たら、何と言うだろう。
二人がようやく顔を上げた。俺たちと視線が合った。俺は、笑顔で目礼をした。二人の顔が凍り付いたようになった。口をパクパクさせて、何か言おうとしているらしいが、言葉にならないらしい。年上の方がようやく言った。
「お前、、、藤原・・」
そうか。無理もない。俺は弟と生き写しなのだ。それが、墓石の前にぬっとあらわれたのだから、幽霊が出たと思われても、文句は言えないのだ。
青年の言うことは、俺には意味不明である。
「坂井校長先生が若返って、化けて出た・・・」
「ほんとだ・・でも、、なぜ・・・」
シゲルの祖父は健在である。化けて出るわけがない。相当混乱しているな、この二人。
俺は二人に近づこうとする。二人は、ずるずると後ろに下がる。お互いがお互いの盾になるような格好で。最愛の人が幽霊に取り憑かれていいはずがない。
ようやくパニックが収まったころを見計らって俺たちは自己紹介をした。
「初めてお目にかかります。郁也の兄で藤原馥彦と申します」
アイツも、名乗らないわけにはいかない。
「ボ、、僕は坂井繁と申します」
シゲルは優秀な若者だ。若いほうの青年の発言をちゃんと聞いていた。
「校長の坂井利道は、僕の祖父です」
返事はきちんと返ってきた。驚愕の表情とともに。
「失礼いたしました。ほんとによく似ていらっしゃる。わたくしは郁也君の同僚だった能利鉄男です」
「おなじく、坂井校長先生と藤原先生にお世話になった、松下隆太と申します」
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