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私はピアノ(連作ゲイ小説「クラシックなオトコたち」第3話)

 砂井田杏奈は、客席で公演の開始を待っていた。

 ここは、オーケストラ用の大ホールではなく、室内楽や歌曲の演奏会をメインとする、やや小ぶりなホールである。だから、座席数はそんなに多くない。それでも、室内楽の公演では空席が目立つことが多かった。しかし、今日は違っていた。著名な音楽評論家の何人かが来場していたし、チケットは完売で満席であった。話題と注目を集めていた演奏会だったのだ。
 プログラムは、すべて、女性作曲家として近年注目を集めているハンナ=シュナイダー(1775~1867)の作品で構成されていた。ベートーヴェンより5歳年下の彼女は、93歳という長寿を全うしたが、逝去の直前まで演奏に臨み、世界中の聴衆から愛されたピアニストであった。 その彼女が残した作品が二曲ある。一つが、今日前半で演奏されることになっている「ヴィオラとチェロの二重奏曲」で、すでに販売されているCDでは、すべての盤が演奏時間55分を超えている。室内楽としては、異例中の異例と言える大作なのだ。自筆楽譜が発見され演奏が始まってから50年ほどたつが、今や大人気曲の一つで、完成度の高い魅力的な傑作であることは、衆目の一致するところであった。 
 しかし、今日の客席を満席にしたのは、後半に演奏される「ピアノとヴィオラとチェロの三重奏曲」のほうである。この曲の自筆譜は未完成版のみ現存していると思われていたが、去年、彼女の生地アウグスブルクの図書館で、完成版の自筆譜が見つかったのである。筆まめだったハンナは、膨大な量の手紙をヨーロッパじゅうの知人に出していて、それと寸分たがわぬ筆跡の注意書きが書き込まれた、彼女自身の手書きによる非常に美しい清書譜であった。
 演奏会の後半では、この珍しい編成のトリオが、未完成版・完成版の順で日本初演されることになっており、多くの音楽関係者が押し掛けることになったのである。
 未完成作品と言っても、いろいろある。終曲にまで筆は進まなかったけれど、書き上げた部分が非常に高い完成度を誇っていれば、演奏もされるし、聞かれもしよう。しかし、ハンナのこのトリオの未完成版はそうではなかった。全体がまだまだ草稿状態のまま残されたのだ。彼女は不世出のピアニストだったから、ピアノパートは華やかに良く書けているが、その一方でピアノばかりがひとリ歩きしているようで、聴き心地はよくない。ピアノに絡むチェロのパートも、雄大な旋律や快活な躍動感は魅力的だが、肝心のピアノとのやり取りがちぐはくである。ヴィオラにいたっては、この楽器の特性を全く生かし切れておらず、空白のままの小節も多くて、そもそもなぜトリオにしなければならないのかわからない。「ヴィオラとチェロの二重奏曲」ほどの完成度の高い作曲技法を誇る人なのだから、このトリオが完成されていれば、と残念がる音楽ファンも多かった。その完成版がついに見つかったというのだから、多くの観客が集まるのも当然なのだった。
 午後5時に開演のチャイムが鳴り、5分ほど待たされて、ヴィオラとチェロの奏者が舞台に登場した。チェロは30台なかば、ヴィオラはもっと若くてまだ20台、ともに男性だった。演奏前の二人の様子を見ていた杏奈は思った。
 なんだか、加古川さんと福知山くんみたいだわ。
 加古川修平と福知山隼也は、杏奈が会社で最も近しくしている人物である。いままさに演奏を開始しようとしている二人の音楽家と、会社での二人の同僚。顔や体型が似ているというのではなかった。修平と隼也は、同じ大学の陸上部出身である。同じ道を進もうとする先輩と後輩。その二人の醸し出す雰囲気。それが似ていたのだ。
 二重奏の演奏が始まった。

 一昨年の4月1日。29歳になった杏奈は、何とか今年中に結婚のめどだけでもつくかしら、なんてことをぼんやり考えていた。相手もまだいないのに。それから、今度はどんなリーダーの下で働くのかしら、付き合いやすい上司だといいけど、とも。
 杏奈がその一員としてこの3月までかかわっていたプロジェクトチームは、上々の首尾で任務をやり遂げて、解散となっていた。新たに加わることになったプロジェクトチームは、3人体制ということで、内容は縁の下の力持ちみたいで地味ではあったが、杏奈はそんなことは気にしていなかった。彼女の仕事ぶりは、けっして目立つものではないのだが、いつも直属の上司の信頼は厚かった。個々の仕事の8合目ぐらいまでは、ほかの社員とかわらぬやり方だったが、そこから先の詰めに、杏奈は時間をかけるタイプだった。だから、仕上がりは決して早くはないし、まだなの?と急かされることも多々あった。しかし、杏奈は、一番乗りとか、トップの業績とか、そういうことに関心はなく、自分が納得できないままで、ことが終わるのが嫌だった。
 その一方で、彼女の最大の関心事は、良き伴侶に巡り合うことだったから、仕事上では脇役でも何でもよかった。だから、無駄な競争はしないで相手に先を譲ったり、遠回りだなと思っても、同僚のやりやすい方法を工夫するために時間を使うことに抵抗はなかった。そういう態度が、結局は盤石の成果を生んでいたのだが、杏奈にその自覚はあまりなかった。しかし、上司たちはちゃんと見ていたのである。
 昼休みも終わり、午前中にデスクの整理も終えてしまって、やや手持無沙汰を感じ始めたころ、二人の見慣れぬ男性が、杏奈の机の前に並んで立った。手入れの行き届いたスーツをバリッと決めた、立ち姿のきれいな男たちだった。一人は明らかに杏奈よりずっと若かった。年長の方が先に挨拶をした。
 「本日付でSプロジェクトでお世話になる加古川修平と申します」
 ちょっと体育会系風なのね、でも、この人すごいイケメンじゃないの。こんなリーダーの下で仕事できるなんて、今年はラッキーかも。左手に指輪・・・無いわね。よしよし。
 杏奈の返事を待たずに、若いほうが
 「同じく福知山隼也です。未熟者ですが足手まといにならないよう頑張ります。よろしくお願いします」
 君ねぇ。今はもう令和5年よ。昭和って時代には、そういう挨拶もあったのかもしれないけど。
まだ坊やだけど、あなたもイケメンね。若い女の子たちが騒ぎそう。
 のろのろと立ち上がった杏奈は、
 「こちらこそよろしく。砂井田杏奈と申します」
 と、丁寧に頭を下げた。きれいなお辞儀である。
 二人は声を揃えて返してきた。
 「よろしくお願いします。砂井田リーダー!」
 「ええ、何言ってるの。リーダーは加古川さんでしょ?」
 杏奈は修平のことを、自分より5歳くらい上だろうと値踏みしたのである。
 「辞令、ご覧になってないんですか?」
 「はぁ?そういえば、Sプロジェクトってとこは目に入ったけど」
 端末画面で自分への辞令を再確認した杏奈は、わずか3人のチームながら、自分がプロジェクトチームのリーダーになったことを知って、心底驚いたのだった。まぁ、どうしましょう。

 案ずることはなかった。部下として信頼できる存在であった杏奈は、リーダーとしても確実に成長しつつあった。社内では、いつも3人でいることが多く、イケメン二人を従えて淡々と成果をものにしていく杏奈は、女性からはうらやましがられたが、悪質ないじめには会わなかった。これまでの杏奈の気配りが功を奏したのである。
 杏奈はひそかに、このプロジェクトが成功裡に終わったら、加古川と家庭を築きたいと思うようになった。加古川修平は杏奈の見立て通り34歳。うまいこと結婚にこぎつけて子宝にでも恵まれるなら、人生言うことはないと思った。会社は、即退社である。福知山くんもかわいい存在ではあるが、まだまだ子供だし(彼は24歳だった)、男性として強く杏奈を惹きつけたのは、やはり修平のほうだった。
 会社員として、いやそもそも社会人として褒められたことでは決してないが、杏奈はリーダーの立場をちょっとだけ上手に使って、修平と二人で食事などする機会を作っていった。砂井田杏奈は、イケメン加古川修平とならんでも一歩も引けを取らないスタイルと美貌の持ち主だったから、終業後の金曜日などにこじゃれたレストランで食事をする二人が周囲の目にとまらぬわけはない。社内は杏奈と修平の恋愛・結婚のうわさでもちきりとなり、そのことがあきらかに社員を活気づけていた。
 周囲から期待のこもった視線を投げつけられれば、それに応えねばならない。美男・美女コンビの宿命である。杏奈はもちろん、修平もそのあたりのことは心得ていて、時に優しく杏奈を見つめてみたり、嫌味にならないようにエレガントな痴話げんかを仕掛けて見せたりと、恋人気取りを楽しんでいるふうでもあった。実態は、ただ夕食を、たまに、それも割り勘でいっしょに食べる仲に過ぎなかったとしても、である。
 社内恋愛は、美形カップルの場合、本人たちの意向よりも周囲の希望に沿って進められていくことが多いのである。だから、彼または彼女に、本当に結婚したい相手が現れたら、あっさりと破綻を公言して別れを宣言し、これまでの相手とは似ても似つかぬ人と結婚して、これまた周囲を驚かせ、活気づかせることになるのである。
 かくて、杏奈と修平は社内の「公認の仲」となり、隼也もそれに合わせて、杏奈に対して直属の上司であり、かつ先輩修平の恋人である人として接するようになった。

 半年ほどが過ぎて、残暑がようやく収まってきた金曜日の夕方。杏奈は会社のすぐ前にある喫茶店で修平を待っていた。顧客との対応で、修平の方が一時間ほど会社を出られなくなったのである。7時には行けると思うと修平は言っていたが、その時間に姿を現したのは隼也だった。四人掛けのテーブルに一人で座ってカプチーノを飲み終わっていた杏奈の斜め前の席に隼也は申し訳なさそうに座ると、もっと申し訳ないといった口調でこう言った。
 「先輩、さっきの件が長引いて、あと30分はかかるということなんです。それをお伝えしに来ました」
 「ああ、そうなの。私、先にさっさと引き上げてきて悪かったわね」
 「いえ、別に先方とトラブってるわけではないですから。すいません」
 「あなたが謝ることじゃないわよ」
 「いえ、先輩が、砂井田リーダーに、よくよく謝っておいてくれって・・・」
 「体育会の後輩って、そんなことまでさせられるの? パワハラじゃない?」
 冗談めかして杏奈は言ったが、隼也が少々気の毒なのは、本心だった。つねに堂々として快活・闊達な修平とは対照的に、隼也は、口数の少ない内向的な雰囲気の青年だと杏奈は感じていた。いつまでたってもスーツを着慣れず、いかにも窮屈そうに身を縮めながら、いつも誰かに何かを遠慮しているようなうつむき加減の物言いなのだった。だから、ウェイターが水とおしぼりを持って来て、隼也も飲み物を注文しないわけにはいかなくなったとき、
 「キリマンジャロをブラックで」
 と言ったときの隼也のもの慣れた口調が、杏奈には少々意外だった。
 「わざわざ、ブラックで、なんて、コーヒーの注文に慣れてるのね」
 隼也は、ますます首をすくめるようにして
 「あ、すいません。ブラックでって言うと、店員さんが砂糖もミルクも持ってこなくてすむし、そのほうが、自分としても気が楽というか・・・」
 「気配りしてるんだ」
 「べつに、そんなりっぱなことじゃ・・・」
 若者はますます目を伏せがちになってしまった。この様子だと、修平から、俺が行くまで砂井田さんの話し相手になって間を持たせろ、ぐらいのことは言われているかもしれなかった。それがやすやすとできる隼也ではないことは、杏奈にもわかっていたから、会話のイニシャティヴは彼女が握ることになった。 とにかく、固くなってしまった雰囲気をほぐしたかった。杏奈は、ときどき、修平の口ぶりを巧みに真似て会話の中に混ぜた。その場にいない人間の噂話は、スムーズなおしゃべりの基本である。その口真似の一つがよほどおかしかったのか、珍しく隼也が声をたてて笑った。少年のような笑顔がそのあとに続いた。
 「福知山くんが、そんなふうに笑うなんて、珍しいわね」
 「だって、リーダー、先輩の口マネ、うますぎます」
 「素敵な笑顔ね」
 お世辞でも皮肉でもなかった。杏奈の実感だったのだ。こんな褒め方をされたら、隼也は大いに照れながらも、内心うれしがるのではと彼女は思った。
 そうでは、なかった。
 素敵な笑顔ね、と言われた隼也は、伏せがちの顔をあげて、まっすぐに杏奈を見つめ返してきたのだ。口元が引き締まった。椅子に深く座りなおすと、背すじがピンと伸びた。そして、その表情には、微妙な翳があった。
 杏奈は困惑した。何が気に障ったのだろうか。
 「ほめたつもりなのよ。何か悪いこと言ったかしら」
 隼也は、別人のように一気に言い放った。
 「福知山くんは笑顔がステキねって言われたら、うれしかったと思います。でも砂井田さんは『素敵な笑顔ね』という言葉だけを僕に投げた。そしてその瞬間に、もっと素敵な笑顔を見せてくれる別の人を心の中で思い浮かべているのでしょう?」
 若者らしい一途な言い方だった。声の響きに、切なさがこもっていた。
 これは、のっぴきならないと、杏奈は思った。先輩のいいヒトとわかっていながら、この人は私を好きになってしまったのか。そのことを、心にしまっておけなくなって、裏返しの言葉で告白しているのではないか。彼女は、そう解釈した。そして、困ったことになったなと思う反面、うれしくなくもなかった。 修平との実際の仲は、車内の噂話とは裏腹に、ちっとも進んでいない。彼は、紳士的な振る舞いを崩すことは絶対なかった。杏奈も、このプロジェクトが成功するまでは、男女の仲にはならないでおこうと決めていたから、焦ることも急ぐことも必要はないのだが、それでも、一抹の寂しさはあった。そんな状況で、切なく自分に思いを寄せる年下の青年が目の前にいる。
 正体不明の心のときめきを杏奈は感じていた。
 喫茶店の入り口に、修平の姿が見えた。隼也への次の言葉を探しあぐねていた杏奈は
 「ああ、やっと来たわ」
 と、ホッとしたように言った。隼也から、こわばった表情がスッと消えた。修平は、二人のテーブルにずんずん近づいてきて、ごく自然に杏奈の正面、隼也の左隣の席に座った。それと入れ替わるように隼也は席を立った。
 「なんだ。そんなに慌てて帰ることないじゃないか」
 「俺、今、ジム通いを復活してるんです。最近、運動不足だから。じゃ、これで失礼します」
 丁寧に二人に頭を下げて、隼也は、やっぱり少し前かがみの歩き方で店を出て行った。

 ハンナ=シュナイダー作曲「ヴィオラとチェロの二重奏曲ニ長調」は清々しくて伸びやかなヴィオラの独奏で始まる。旋律の息は長くて、どこか懐かしくて、一度聴いたら忘れられない。この出だしは、初演のその瞬間から、世界中の聴衆の心をとらえて離さなくなった。曲の冒頭がこれほどキャッチーなメロディーで進む曲は、他にはメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲くらいしか思い浮かばない。クラシック音楽を聴く者は,だれでも「イチ押し」のメロディーというのを心中ひそかにしまってあるものだが、そういうものが楽譜の新発見によってまた一つ増えたことを、多くの音楽ファンはよろこんだものだった。
 チェロが長い沈黙を守る中で奏でられるヴィオラの名旋律を、杏奈もうっとりと聞き入っていた。CDで何度も聴いた曲であるが、やっぱり冒頭のヴィオラはいいなと思うのだ。
 しかし、今日の杏奈には、いつもとは違った内心の動きがあった。彼女は思っていた。このヴィオラは福知山隼也であると。
 今でも、鮮やかに思い浮かべることができる。あの、11月の秋晴れの真昼の日曜日の、若々しく健康的でのびのびと晴れやかな彼の足どり。こぼれんばかりの笑顔。
 それが、独奏のメロディーにのって、舞台の上のヴィオラ奏者と重なって見えるのだった。
 
 その日、砂井田杏奈は高校時代の親しい女友達の結婚式に出席しようとしていた。式場周辺に土地鑑がなかったし、少々方向音痴の気味のある杏奈は、早朝に家を出た。おかげで2時間も前に披露宴会場のすぐそばまで来てしまった。さすがに早すぎる。抜けるような秋晴れの陽射しに照らされて喉も乾いていたし、小腹もすいていた。彼女は近くの喫茶店に入った。日曜日ではあるが、まだ午前中なので、店は混んでいなかった。窓側のテーブル席に座って、アイスコーヒーを注文すると、ぼんやりと外を眺め始めた。 広い車道を挟んだ向こう側に、スポーツジムのビルがあった。その出入口のドアから一人の青年がスポーツバッグを片手でかっこよく肩にかけ、秋らしい色合いの軽やかでゆったりとしたシャツとすっきりとしたジーンズ姿で現れた。日曜日の朝からジムで一汗かいて、帰るところなのね。若くて、健康的で、いいわね。学生さんかしら。
 青年は横断歩道を渡って、車道のこちら側に歩いてくる。そして、杏奈が座っていたテーブルのあるガラス窓のすぐ前を、颯爽とした足取りで歩いて行く。彼は、前だけを見ていた。杏奈のほうを一顧だにしなかった。
 至近距離で青年を見て、はじめて、杏奈はそれが福知山隼也だとわかった。いつも窮屈そうにスーツに身を縮め、前かがみがちに歩く会社の隼也とは、なんという違いだろう。身体全体がしなやかにのびのびと、秋晴れの太陽の光を潔く全身で受け止めて、そして、抜けるような青空以上に明るい表情をしていた。文句なくカッコいい隼也とすれちがった女子高校生の二人組が、まぶしそうな憧れの視線を込めて彼を振り返る。隼也には、それも目に入っていなかったろう。
 彼の視線は、この喫茶店の入り口に向けられている。ここで、彼女と待ち合わせでもしているのだろうか。だったら、私なんかと鉢合わせしないほうがいいわよね。杏奈は、隼也の挙動に注意を払った。うまく、隠れることができるだろうか。隼也の眼にぱっと輝きがうかび、顔全体が笑顔に包まれた。待ち人が来たらしい。杏奈も入り口の方へ眼を向けた。
 杏奈と隼也の視線の先にいた者。それは、加古川修平だった。
 修平も、もちろん私服である。身体にぴったりとフィットしたシャツは逞しい彼の上半身をほとんど透けて見せているようだった。引き締まったウェストを、スキニーのチノパンに難なく押し込んで、全体にスラっとしたシルエットを作っている。杏奈も私服の修平と何度もデートしたことはある。しかし、その時の服装とは根本的に何かが違っていた。そして、修平の表情も会社とはまるでちがっていた。喫茶店の入り口で隼也の姿を認めると修平は顔をくしゃくしゃにして心底笑っている。そんな修平を見て、会社では快活・闊達な笑顔をふりまいてはいるが、それも余所行き用のものなのだと、杏奈にはわかった。
 二人の男は、自分たちの話に夢中で、杏奈には気づかずに、店の奥のほう、窓に向かって長いカウンター仕様の椅子が並ぶ一角にずんずん入っていった。どこに座ろうかと迷ったりはしていなかった。二人並んだところを、顔を隠していたメニュー越しに盗み見た杏奈は、修平は隼也に、隼也は修平に、お互いに合わせて服を選んでいるのを見て取った。杏奈とのデートの時と、修平の服装が全然違うのも当然なのだった。
 小声で囁き合いながら歩いているが、店が空いていて静かだから、二人の話し声は杏奈にも聞こえる。
 「混んでなくてよかったな」
 「うん。俺たちの指定席、空いてるよ、シューちゃん」
 「誰かに取られないうちに、さっさと座ろうぜ、ジュン」
 カウンター席に座ると、隼也のほうが飲み物を注文した。
 「モカとキリマンジャロを、ブラックで」
 もの慣れた口調は、いつかと同じだった。
 二人の会話はとどまることが無いようだった。大きな身振り・手振りをふんだんに交えて、体をよじって腹を抱えるようにして笑い合い、相手の肩をつつき、頭頂を平手でポンとたたき、膝をぶつけ合って話に興じている。薄黄色のシャツの細身の隼也が薄抹茶色のシャツの修平の肩に、甘えるように頭を乗せる様子は、まるで花に戯れる蝶のようだった。それを見ていた杏奈は、自分でもハッとするような独り言を口にした。
 修平さんにとっては、隼也君こそが蝶なのね。

 杏奈の回想におかまいなく、第一楽章は進む。ヴィオラの独奏が終わると、チェロが短く何やら呟く。ヴィオラがピチカートで答える。楽しい会話だ。そして、第二主題はチェロが、ヴィオラの刻むリズムに乗って奏でる。悠揚たる低音の響きですべてを包み込むような広がりを感じさせる旋律である。この第二主題のファンも多い。ハンナ=シュナイダーは古典派のソナタ形式に忠実に曲を展開していくが、そこかしこに印象深いフレーズがふんだんに織り込まれていて、ヴィオラとチェロの絶妙の掛け合いに耳を奪われているうちに、あっという間に快活で明るい第一楽章は終わってしまう。提示部反復をして、15分ほどである。
 第二楽章はガラッと曲調が変わる。あれほど伸びやかだったヴィオラが、ため息のような短い,自信なげな切れ切れのフレーズしか出さなくなるのだ。ヴィオラが力尽きたように沈黙すると、チェロが後を引き継ぐ。それに励まされてヴィオラがまた音を出す。でも、また、力尽きる。チェロは辛抱強く、何度もヴィオラを引き継ごうとする。
 そして、ようやく自信を取り戻したように、ヴィオラは、チェロとともに一オクターヴのユニゾンで歌い出す。二つの弦楽器は寸分たがわぬ全く同じメロディーをまるで一つの楽器のように鳴らすのである。この旋律は、室内楽愛好家なら知らぬ者のない調べだ。ハンナ=シュナイダーは、生涯敬愛してやまなかったベートーヴェンの弦楽四重奏曲第15番第五楽章の第3~26節で第一ヴァイオリンが奏でるメロディーを、そのまま使っているのだ。原曲にはアレグロ・アパッショナートの指示があるが、ここでは、ラルゲットにテンポをおとし、囁くように演奏されることになっている。演奏時間5分足らずだが、感銘深い楽章である。
 第三楽章は、第二楽章で最後に出てきたヴィオラとチェロのユニゾンが、明るくのびやかな曲調で再度提示されたあと、この主題による24の変奏曲となる。ヴィオラとチェロの応答が、無限に繰り返されるような感じを受ける壮大な楽章で、全曲の白眉である。今日の演奏は、27分ほどかかった。
 少し長めのポーズを挟んで、第四楽章が静かに始まった。第一楽章第二主題によるアダージョである。まるで、グスタフ=マーラーを先取りしたような世界が、聴衆を包み込む。消え入るような全曲の終結。二人の演者は目を閉じてまま、動かない。その二人がそれぞれの弓を静かにおろしたころ遠慮がちに始まった拍手は、やがて割れるような音で大きな渦となり、歓声とともに、こじんまりしたホールを揺り動かした。
 こうして、全曲62分におよぶ二重奏曲は終わった。公演は20分間の休憩に入った。

 杏奈はロビーのソファで、長時間の演奏に集中して強張った体をほぐしながら、自販機で買ったカフェ=ラテを啜っていた。カプチーノもカフェ=ラテも、修平と隼也の選択肢には無い飲み物である。友人の結婚式の日、たまたま喫茶店で見かけた二人の様子をひそかに観察しているうちに、わかったことだ。
 仕事の合間に、三人でおしゃべりに興ずるとき、音楽の話題はよく出てきた。
 「リーダーは、クラシックに詳しいですよね」
 と、修平が言う。二人だけではないから、リーダーと呼びかける。
 隼也が、相槌をうつ。
 「そうですよね。クライアントさんから、どんなクラシックの話題がでてきても、ちゃんと返して、相手を感心させているから、すごいです」
 今度は、修平が
 「何か、楽器をおやりになるんですか?」
 と問うと杏奈は答える。
 「私はピアノ」
 腕前の方はどうか。これも、杏奈自身はあんまり自覚していないのだが、昨今よく見かけるストリート=ピアノの前に座れば、ショパンの楽曲をサラッと弾いて、通りすがりの人の足をとめるくらいの力量はあるのである。ただ、最近はピアノに触れていないな、と杏奈は自分の指を見つめるのだった。
 杏奈は、二人の男の好きな音楽のジャンルを訊いてみた。
 「俺は、ノリのいい、ジャズセッションかな」
 もちろん、修平の返事である。こういう時、先輩を差し置いて、隼也が先に答えるなんてことはないのだ。
 「福知山くんは?」
 「俺、ちょっと古臭いのが好きで、お前変わってるなって言われます」
 「どういうことかしら?」
 「こいつはね、シャンそ~ンってやつが、好きなんですよ。おフランスのね」
 「福知山くん、フランス語、いけるのよね」
 カナダのケベック州出身の女性のクライアントと丸一日応対したことがあった。ビジネス上の話は杏奈も修平も隼也もすべて英語で通した。他の用件との関係で、彼女の昼食の相手をしたのは隼也一人だった。若きイケメンで少々シャイな福知山くんがおばさん受けするのは、当然である。日本人のおばさんか外国人のおばさんかは問わない。すべての案件が無事にすんだあと、彼女は嬉しそうに杏奈に言ったものだった。彼はね、私がケベックの出身だって言ったら、食事の間だけフランス語で話してくれたのよ。 
 「ジャズとシャンソンかぁ。わたし、マイルス=ディヴィスとエディット=ピアフぐらいしか、思い浮かばないわ」
 さらに話が進むと、二人のお気に入りのミュージシャンの名前も出てきた。修平からはソニー=ロリンズの名があがり、隼也は
 「ジャック=ブレル、です」
 と遠慮がちに答えた。杏奈には、どちらもわからない。
 「二人の、一押しの曲っていうか、全く門外漢の私が初めて聴いても、まぁいけるんじゃないかってナットクできる、できたら、スタンダードになっている曲って、ないかしら?」
 「ロリンズのセッションなら、俺は『セイント・トーマス』が一番好きです。先輩に合ってる」
 「ブレルのシャンソンなら、『平野の国』が、いいな。いかにも、ジュ、いや、福知山らしい」
 杏奈は、あとで一人になった時、You=tubeでこの二曲を拾って、聞いてみた。そして、思った。
 なるほど。修平さんと隼也君、お互いのことがよーくわかっているのね。
 その後、音楽の話題が出てきても、二人の口からは、クラシックのクの字も、出てこなかった。
 演奏会の後半の開始を告げるチャイムが鳴った。杏奈は、紙コップの底に少し残った冷えたカフェ=ラテを飲み干すと、客席に戻った。

 19世紀ロマン派の音楽に特に詳しいという解説者が、舞台の上でマイクを持って話している。クラシックの演奏会ではめったにないことだ。さきほどの熱演で聴衆を魅了したヴィオラとチェロ奏者も、そして、今度は、二人とほぼ同年代と思われる女性ピアニストも、同時に舞台上にいた。
『ピアノとヴィオラとチェロの三重奏曲変ホ長調』の未完成版と完成版の演奏が、いよいよ始まるのだ。
 「前半で皆様にお聞きいただきました二重奏曲が作曲されたのは1828年であることがわかっています。ハンナ=シュナイダーが58歳の時ですね。一方、これからお聞きいただくトリオの未完成版には、1801年の日付が確認されています。この時彼女は31歳でした。すでに、人気ピアニストとして、ヨーロッパはもとより、アメリカでも盛んに演奏活動をしていました」
 31歳か。今の私と同じね。
 「このような変わった編成のトリオに、ピアニストであった彼女がどうして取り組んだのかは、わかりません。ハンナが、ピアノだけでなく、弦楽器も上手に引いたという記録ももちろんありませんし」
 客席から、軽い笑い声がおこった。
 「では、まず、未完成版を、じっさいに音にしていただきましょう。お願いいたします」
 解説者は、舞台のそでに隠れ、演奏が始まった。多くの解説書に書かれている通りのことが、舞台の上で起こっている。ヴィオラ奏者は、いかにも手持無沙汰で気の毒だ。17分ほどで、いかにも唐突に中途半端に、演奏は終わる。まばらな拍手の仲、解説者が再び舞台の中央へ戻って来た。
 「さて、いよいよ完成版ですが、こちらの清書譜が書かれたのは1823~26年の間なのです。つまり、ヴィオラとチェロの二重奏曲よりも前に、トリオが完成していたことになります」
 こうして、『ピアノとヴィオラとチェロの三重奏曲変ホ長調』完成版の本邦初演は始まった。
 杏奈は、曲に没入していた。ピアノを弾く彼女にとって、そのピアノパートの素晴らしさには脱帽の思いだった。未完成版の華やかさは影を潜めていたが、その代わりに不思議な艶やかさが生まれていた。チェロは、未完成版にほの見えていた闊達さが、控えめではあるが、深みを増して大きく花開いたような趣があった。その二つの楽器のあいだで、ヴィオラはいかにも生き生きと、この楽器特有の音色を生かし切って、颯爽と進むのだった。
 三つの楽器のパートは、それぞれ完璧に近い完成度と音楽的な豊かさを持っていた。何度か繰り返される三人のトゥッティには、室内楽の限界をやすやすと超えるような壮大の音響の広がりがあって、聴くものを惹きつけて離さない。さらに、緊密な構成には非の打ちどころがなかった。ハイドン以来の古典派ソナタ形式を自家薬籠中の物として、ハンナ=シュナイダーは、演奏に35分ほどかかる全曲のどこにも間然たる部分を残してはいない。
 このトリオが、非常によくできた傑作であることは、まちがいなかった。しかし、これからもずっと聴き続けられるであろう『ヴィオラとチェロの二重奏曲』のように屈指の名曲になるか、と問われると賛否両論なのだった。世界初演以来そうなのだ。
 その疑念は、杏奈の胸の内にも残った。何かが違うような気がするのだ。心を揺り動かされ、思わず首を垂れたくなるような、そんな何かを、この三重奏曲は表現することができないでいるのではないか。

 最上の演奏で最上の曲を聴く楽しみを味わったのに、杏奈の心の内には、なんとも遣り過ごしようのないしこりみたいなものが残った。会場を出たときは7時半を少し過ぎていて、都会の夜はイルミネーションに彩られていた。何とはなしに、そのまぶしさに目がしょぼつく。演奏時間は長かったから、疲れてもいた。軽く食事ぐらいしたいし、何よりも、こんな気分のまま部屋まで帰りたくなかった。
 地下鉄を乗り換える駅で彼女は改札を出て、オーケストラ用の大きなホールのすぐ隣にあるホテルのラウンジに入った。カレーライスぐらいの軽食なら提供してもらえる場所だった。ちょっと迷ってペペロンチーノを注文する。ぼんやりと、夜の底の広い車道を行き交う車のライトを眺めながら、今日の演奏会を心の中で反芻していると、いつの間にかスパゲッティが目の前に置いてあった。ウェイターが声をかけたのに気がつかなかったのだ。彼は、にこやかに言った。
 「お待たせいたしました。それから、お客さま、たったいま携帯に着信があったようでございますよ」
 マナーモードにしてはいたが、テーブルを震わせる振動音で、ウェイターが気付いたのだろう。とにかく、冷めないうちに食べてしまおう。フォークとスプーンを両手で操りながらも、杏奈は、なかなか食事に集中できなかった。食事をしながら、メールを読んだ。普段の彼女なら、けっしてそんなことはしないのだが。
 皿が空になったのを見計らったように、注文していたウィンナ・コーヒーが運ばれてきた。カップを手に取ったとたん、ラウンジのあたりが少し賑やかなことに杏奈は気づいた。となりのホールで、オーケストラの演奏会が終わったころあいであった。杏奈と同じように、家に帰る前に腹ごしらえや飲み物でちょっと一休みをといった聴衆の一部が、こちらに流れて来たらしい。
 その一団のなかに、スーツ姿ではあるが、ビジネスよりは少しばかりくつろいだ感じの着こなしの二人組の男性がいた。杏奈は、胸騒ぎがした。まさか、そんなことないわよね。
 その、まさか、だった。加古川修平と福知山隼也は、空席の少ないテーブルをひと当たり眺めまわして、杏奈のところからそう遠くない、斜め前の席に落ち着いた。隠れようがない。杏奈はそう思ったが、次の瞬間、もう隠れる必要はないことに気がついた。ふたりは、いまのところ、話に夢中になっているからこちらに気づいてはいないけれど、自分に背中を向けている修平はともかく、その対面にいる隼也は、ほどなく杏奈の姿を認めるであろう。それは、それでいいのだ。彼女は、そう覚悟を決めたのだった。
 隼也は、なかなか杏奈に気づかなかった。手に演奏会のプログラムみたいなものを持って、盛んに修平に話しかけている。そうか、となりのホールのオーケストラの演奏会を聴いてきたのね。杏奈は、ここに席を落ち着ける前に、そのホールの前を通ったから、今日の曲目はわかっていた。マーラーの交響曲第9番だ。
 二人とも、クラシックのクの字も私の前では口にしていなかったのに、一緒にこんな曲を聴きに来て、あの終楽章を隣同士の座席で並んで聴いたのね。二人の様子を眺めながら、杏奈の心に聴こえてきたのは、『ヴィオラとチェロの二重奏曲』の終楽章だった。
 二人の飲み物が運ばれてきた。修平はいつも通りのブラックコーヒーだったが、なぜか隼也は紅茶である。なぜなんだろうと杏奈は訝しがった。そして、思わぬものをウェイターが隼也の前に置いたのを見て、唖然とした。このラウンジの名物の一つであるシュークリームが皿にうやうやしく乗せられていたのだ。
 大好物のおやつをやっとあたえられた子供さながら、待ってましたとばかり、隼也はそのシュークリームに一気にぱくついた。まだ若いとはいえ、スーツ姿の大人の男性にふさわしい食べぶりとは、とても言えない。隼也君、もう少しお行儀よく食べなさいといいたくなるような無邪気な頬張り方だった。そもそも、年長者の前での振る舞いに大いに気を遣う隼也は、杏奈の前では、一緒に食事中でもない限り飲み物以外は口にしなかった。リーダーを差し置いて、自分だけスイーツを、などということはとうていできない性分のはずだった。それがまぁ、なんということだろう。
 思わず隼也の食べっぷりに目を奪われて彼をじっと見つめていたからか、その視線に隼也が気付いた。杏奈と目が合ったときの彼の慌てぶりといったらなかった。目を白黒させながら、喉を詰まらせているのが、杏奈にもわかった。呑み込みかけていたシュークリームの一部が口からはみ出して、唇の横にいかにも甘そうなカスタードクリームがべったりくっついている。その顔が、またたまらなく可愛いのだった。
 杏奈に背を向けている修平には、この状況がわからないらしい。にやにや笑いながら隼也の唇横からカスタードクリームを人差し指で掬い取ると、何と自分の口に持っていこうとしているではないか。先輩、それ、いま、マズいですよ。隼也はそう言いたいに違いない。しかし、まともに声を出せる状況ではなかった。杏奈は、こみ上げてくる笑いを止めることができない。そして、彼女はウィンナコーヒーのカップを手に取ると、迷うことなく、修平と隼也のテーブルの前に立った。
 今度は修平が目を白黒させる番だった。さすがに、何事にも如才のない修平でも、この場の取り繕いは無理なようだと、杏奈には知れた。
 「ご一緒してよろしいかしら。お二人に、ご報告しなければならないことがあるの」
 黙って頷くだけの二人を尻目に、杏奈はことさらに落ち着き払った様子で、座った。
 「先ほど部長から、業務連絡のメールが来ました。私たちのプロジェクト、ゴーサインが出ました。うまくいったんです。お二人のお力のたまものよ。ほんとにありがとう」
 顔を見合わせている二人だったが、ようやく修平が口をきいた。
 「じゃ、このチームは?」
 「うちの会社は、立案チームと運営部署はきれいに分かれていますから、わたしたちは解散です。成功のうちにね。よろこぶべきことよ」
 「あの、リーダー・・・」
 続きの言葉を遮るように、杏奈は言った。
 「まだ、終電まで、たっぷり時間はあるわよね。よろしかったら、上の階のバーに移って、祝杯をあげませんか?」
 修平と隼也に、断る理由も勇気もなかった。もし、あったとしても、それを言い出すことができないような、決然とした雰囲気の砂井田リーダーであった。

 赤橙の光をまとった、どこか懐かし気な立ち姿の東京タワーがすぐ目の前に見える、最上階のバーだった。店員はすべてブラックスーツの男性。注文された飲み物を提供すると、一切の無駄な言動をせず、すっと客の前から消える。フロアは、かなり広いのだろうが、客同士の姿が見えないように工夫されていた。照明も、薄めのブルーを基調とした控えめなもので、あっけらかんと明るすぎた2階のラウンジよりは、はるかに落ち着いて、3人だけの話ができそうであった。
 杏奈を真ん中にしてカウンターに3人並んでもよかったのだが、あいにく若い男女のカップルが一組いて、低い声で体を寄せ合って、囁き合っている。彼らの邪魔をすることを憚って、杏奈はバーの最奥の、四人掛けのテーブルを選んだ。
 杏奈から見て、いつも加古川修平は左側に、福知山隼也は右側に座ると決まっている。初対面で杏奈の机の前に二人が立った時もそうだったし、今夜もそれは守られていた。とりとめのない、しかし和やかに流れるような世間話がしばらく杏奈と修平の間で交わされ、隼也は、何か訊かれた時だけ必要最小限の言葉数で答えを返す。それも、いつもと同じだった。会話が軌道に乗って滑り出したのを見計らうように、修平が言った。
 「このプロジェクト、いよいよ始動するんですね。おめでとうございます。砂井田さん、次はⅯプロジェクトのリーダーに就任ですか?」
 「加古川さん、どうしてそれを知ってるの?」
 Ⅿプロジェクトのリーダーにという話は、さきほどのメールではじめて部長が杏奈に知らせてきたことであり、杏奈自身には青天の霹靂だった。これまでの3人所帯ではない。新プロジェクトの立ち上げには少なくとも20人の社員がかかわるものと言われていた。脇役の縁の下の力持ちではないのだ。いずれは全社の中核になるべきものを作り上げること、それが期待されていることは明らかだった。杏奈は、もちろん辞退するつもりだった。
 「だって、みんなそう言ってますよ。リーダーは、砂井田さんなんだろうって。部長に探りを入れに行った奴もいるんですけど、今はまだそういうことを言う段階じゃないからねとかわしてはいたけれど、砂井田新リーダー説を否定したわけではなかったと、言ってました」
 「そんなこと、私、全然聞いてないわ」
 遠慮がちに、珍しく、隼也が口をはさむ。このバーの雰囲気が彼をリラックスさせているのだろうか。
 「そういうところ、いかにもリーダーらしいです」
 修平が続けて言う。
 「ホントに、人より先に出ようって気が、かけらも無いんですねぇ」
 「私のことはともかく、お二人にとっても新たなスタートよね」
 加古川修平の態度が、すこし改まった。
 「お世話になりました、いろいろ勉強になりました。それで、俺、このプロジェクトがこういう結果になったので・・・」
 カクテルを一口ふくんで、目顔で杏奈は先を促した。
 「部長に、退職届を出そうと思っています」
 「僕もです」
 「そうなのね」
 杏奈の口調には、落胆・怒り・寂しさ・驚き、のどれも含まれていなかった。
 「次の仕事は、決めてあるの?」
 「はい」
 「福知山くんもいっしょ?」
 「そうです。連れってくれって、たのみました」
 「なんだか、ずいぶん遠くへ行くような言い方ね」
 修平の説明が続く。
 「ドイツ人の友達が、ブリュッセルでいっしょに起業しないかって、誘ってくれてるんです。この会社に比べれば、まるで泡沫にすぎないんですけど、やりがいはあるんじゃないかと俺は思っています」
 「当分ベルギーで暮らすってことね」
 「そうなりますね。郊外に、ちょっといいなと思う家も見つけました」
 これを聞いた杏奈は、修平の口ぶりを巧みに真似て、こう言った。
 「二人で一緒に住むなら、あれくらいの家がいいかなぁ」

 一年ほど前のことである。3人は北関東に来ていた。プロジェクト実現のために、手に入れておきたい土地があり、その見分と地主との事前交渉のためだった。都心への通勤圏からは、わずかながらそれていて、のどかな田園風景が広がっていた。件の土地がある場所は、里山と呼ぶには開けすぎていたけれど、広々とした田畑に、遠く周囲を囲むなだらかな山々を望むことができた。家もまばらだったし、高層の建造物というものが、一切見当たらなかった。だから、会社の行きかえりに、数十階建てのビルが林立するその谷底からしか上を見上げたことがない3人にとって、ここの青空はこれでもかというばかりに広々としていた。同じ空ではない。杏奈はそう感じた。
 地主との交渉(といっても、事前の根回しとあいさつ程度のものだが)にも手ごたえがあった。安堵の気持ちから、杏奈も、修平も、隼也も、解放された気分となり、小さな公園の別々のベンチに離れて一人ずつすわりながら、東京へ戻るまでのほんのひととき、日常には無い時間を楽しんだのだった。
 公園から100mほど離れたところに、一件の家が新築中であった。平屋の、簡素ながらも清潔感のある外装で、庭も広くとってあった。そちらの方向を眺めながら修平が自分自身に呟くように言ったのだ。
 「二人で一緒に住むなら、あれくらいの家がいいかなぁ」
 杏奈はぼんやりとその言葉を聞き流していたが、ふと、そんな修平をじっと見つめている隼也に気がついた。その両眼にたたえられた、穏やかで温かい、喜びに満ちた光を杏奈は見過ごさなかった。あの、11月の抜けるような秋晴れの空の下で、休日を一緒に楽しむ修平と隼也を見てから半年ほどが過ぎていた。

 杏奈の口真似が何を言おうとしているか、隼也にはたちどころにわかったにちがいない。今の彼の顔を見て、杏奈はそう確信した。当の修平は
 「また俺の口真似っすかぁ?」
 と、おどけて見せるだけである。
 「家まで決めたってことは、ベルギーに住み着いて、日本にはとうぶん帰って来ないということかしら?」
 「起業がうまくいけば、そうなりますね。そうだよな?福知山」
 「そういえば、ベルギーってジャック=ブレルの母国なのよね、福知山くん」
 二人から同時に水を向けられて、隼也は目を白黒させていたが、
 「よく知ってますね、リーダー。ちょっと、僕、うれしいかな」
 「だから、ベルギーに行けて、福知山くんも、うれしいわけよね」
 「ええ、もちろん」
 屈託なく隼也は答える。杏奈は
 「ベルギーが気に入って、日本に帰って来ないなんてことは、ないのかしら?」
 と続ける。
 「さぁ、それはどうでしょうねぇ。外国に永住っていうのは・・・わからないなぁ」
 「私としては、やっぱり帰ってきてほしいな、日本に。どんなに先になっても」
 杏奈は、ここまで言うと、残りのカクテルを一口で飲み干した。居住まいをただした。言うべきことを言うときが今なのだ。そう思ったのである。
 「修平さんと隼也くんが帰国を決心するのは、この国がお二人の結婚を認めたとき、ということになるのかしら?」
 二人は、黙って両手を高く上げると、人形のように首を縦にふった。外国の映画によく出てくる、手を上げろと銃を向けられてその通りにしている男たちが、杏奈の目の前にいる。
 加古川修平と福知山隼也は砂井田杏奈に全面降伏の状態になった。敵前逃亡は許されない、絶対に。

 たいていのことは杏奈にバレてしまっているとわかって、かえって気が楽になったのか、修平の口調は滑らかないつもの調子を取り戻した。杏奈も、探りを入れながら慎重に話す必要がなくなったので、同様である。この二人に影響されて、隼也も、へんにおどおどしなくなった。三人の会話はがぜん生き生きとしたものになった。
 「しかし、参ったなぁ。いつからわかってたんですか、俺と隼也のこと」 
 「状況証拠ならいくらでもありました。でも、それだけじゃ、私の思い過ごし、勘繰りすぎかもしれないって思ってたわ。私にはよくわからない世界だけど、体育会の10歳違いの先輩と後輩なんてこんなものかしらって見方もできるしね。でも、」
 「でも?」 
 ヴィオラとチェロの完璧なユニゾンのようで、杏奈は可笑しかった。少しばかり切なくもあったけれど
 「きょう、さきほどのことですが、ついに物証が出ました」
 「ブッショウ?」
 今度は、リズムがずれてるのね。
 「物的証拠よ。例えば、指紋とか血液とか」
 三人の中で刑事ドラマを一番よく見るのが、どうやら杏奈らしい。いちいち説明してやるのは、面倒なようで、けっこう楽しい。
 「そうそう、体液っていうのもあるわよ。男の人なら精液ね」
 杏奈には、興味深い発見があった。こういうきわどい話になると、慌てふためいて顔をあからめてしまうのが、隼也ではなくて修平のほうであることだ。落ち着きを失っている先輩に変わって、冷静な後輩が杏奈に問うた。
 「それで、僕たちの物的証拠って何なんですか?それ、どこにあるんですか?」
 杏奈は修平に向かってにこやかに言う。
 「あなたの左手の人差し指に残っている、隼也くんが食べかけたシュークリームの残骸よ」
 ぎょっとした顔の修平は、慌てておしぼりを掴んで、自分の左手の人差し指を右手で拭い去ろうとするがうまくいかない。彼は左利きなのだ。
 「そんなに露骨に証拠隠滅をはかるなんて、自白したも同然ねぇ」
 観念した修平は、力なげに訊いた。
 「状況証拠っていうのは、どういうのですか?」
 「最初のうちはあなた方もかなり気をつけていたのでしょうね。しかし、考えてみると、私たちって、睡眠時間を除くと、平日は、ときには土日でも、プライヴェートで一人でいるより、三人一緒にいる時間の方が、ずっと長いのよね。それが積み重なれば、そちらの油断もあるだろうし、つい相手がとってしまった無意識の行動の中から見えてくるものがあるの。女って、そういうところ、カンが鋭いのよ、男の人よりずっとね」
 一般論としてはそうかもしれない。しかし、杏奈の場合、この発言の最後の部分はハッタリである。社員として優秀でありかつ美形でもある杏奈は、艶めいた話の話題に上りやすいし、いろいろな憶測も飛び交う。しかし、肝心の杏奈自身は、そういうことにきわめて淡白というか、かなり鈍感なほうである。実のところ女のカンなんて、全く働かないのだ。だから、もし杏奈が、あの11月の抜けるような秋晴れの空の下の修平と隼也を見ていなければ、彼女は、その状況証拠というものの大部分を見逃していたに違いないのである。それは、杏奈自身が一番よくわかっていた。でも、それを今、この二人に正直に話すのは、すこしばかり癪である。だから、最初からさも何もかも見抜いていたような言い方をして、プライドを保とうというわけなのだ。
 「無意識のうちに、俺たちがバレバレの行動をしていたって、ことですよね?」
 「そうよ。あなたたち、まるで、向田邦子の小説に出てくる先輩と後輩って感じだったもの」

 杏奈は、あまたの状況証拠のうちの一つを披露した。11月の秋晴れの空の下のことには、一言も触れずに。
 いくら忙しくても、夜遅くまで残業してプライヴェートにしわ寄せがいくことは、なるべく避けましょうね。当初からの、リーダーとしての杏奈の基本方針だった。二人の部下にも異存はなかった。
 しかし、理想通りにいかないことだってある。せめて、夕食は、仕事ときれいに切り離して、外食か自宅で、でということすらままならない日があった。背に腹は代えられない。不本意ではあったが、その日はの夜は宅配ピザを会社で注文することにした。注文をしたのは修平で、
 「お支払いは現金でおねがいします、だってさ」
 と言いながら、机の上の図面を立ったまま覗き込んでいる。スーツの尻の部分が後ろに少し突き出していて、ポケットから茶色の札入れが一センチばかり顔をのぞかせていた。
 宅配ピザの配達員に正面玄関を通らせるということを、杏奈たちの会社はしていなかった。それ専用の出入り口があって、配達員が注文した部屋の番号をインタフォンで押すと、社員はそこまで出向いて注文の品を受け取り、支払いをしていた。その専用受け取り口からのインタフォンが鳴ったとき、手が空いていたのが隼也だった。
 「あ、俺行ってきます」
 と、すっと席を立った隼也は、ごく自然な一連の動作の一つとして、修平の札入れを彼のズボンの尻ポケットから無言で抜き出すと、ピザを受け取りに部屋を出て行ったのだ。どこにも滞りというものがない、流れるような光景だった。杏奈は、たまたまそれを見ていたのだった。
 戻って来た隼也は、テーブルの上にピザを配置し、修平の札入れを修平が注文したピザの脇に置いた。そして、つり銭の220円を、いつの間にどこから持って来たのかわからないけれど、札入れとセットになっていると一目でわかる茶色の小銭入れに入れると、それを札入れの隣に置いた。
 席に着いた修平は、何も言わずに札入れと小銭入れをしまいこんだ。
 杏奈は、ここまでを正確に描写して当の本人たちに聞かせた。杏奈の描写は正確でわかりやすく、それでいてかなり巧みである。このハイレベルの描写力が彼女の仕事の質をかなり高めているのだが、例によって本人にはその自覚が無い。
 しかし、杏奈の説明を聞いている二人には、まるでドラマの一場面を見るように、個々の光景が鮮やかに脳裏に浮かぶのだけれど、それが自分たちのことなのだという実感は全く湧いてこなかった。そんなことをしていたという記憶が無いのだ。
 杏奈は別の回想をしていた。このとき、隼也は、きょうのシュークリームのように、はしたない行為はしなかった。ちゃんと、杏奈と修平が食べ始めたのを確認して、自分もピザの一片を口に運んだことは運んだ。しかし、食べ方は上手ではなかった。口の周りにチーズやタバスコがふんだんに散らばっているのに、おかまいなしに次の一片を取ろうとする。その手も、すでにべたべたである。杏奈が、あらあら!と思ったのと、修平がナプキンの一枚を黙って隼也の手に握らせたのと、ほぼ同時だった。隼也は、すいませんの一言も発しないまま、そのナプキンで口の周りを拭うと、何事もなかったようなすました顔で食事を続けた。修平も同様である。
 こんなこともあった。ある五月の晴れた日、昼食から会社に戻る途中だった三人は、アイスクリームを買おうとコンビニに入った。それぞれがケースの中からお気に入りを選び出すと、修平が杏奈と隼也から商品を受け取り
 「俺が払うよ」
 と言うと、三つのアイスクリームを両手で持ってレジのアルバイト店員の前に立った。杏奈と隼也は、少し後ろで待っていたのだが、修平の様子がおかしい。体をもぞもぞさせているだけで、いっこうに電子決済での支払いをしようとしないのだ。
 「やべぇ、スマホ、会社に置いてきてる」
 言い終わらないうちに、隼也は、すっと修平に近づくと、彼の上着の右側の内ポケットからIC系交通カードの通勤定期券の入った皮ケースを寸分の狂いもなくスルッと取り出し、修平に何の断りもなく無言で支払いを済ませてしまったのだ。そして、その定期券入りの皮ケースをもとの位置に戻そうとするとき、ポケットに入れやすいように自分の上着の右上をちょっと開いてやる修平の仕草も、流れるような一連の動作の中の一つなのだった。
 繰り返しになるが、もし杏奈が11月の二人を目撃していなかったら、彼女はやすやすと、以上のエピソードのすべてを見逃していたにちがいない。でも、それは決して口にはしない杏奈である。

 二人の男は、ほとほと呆れ果てたといった顔をしながら、和やかに笑っている。
 「三人で会うのは会社だけだったのに、そんなとこまで見られていたんだなぁ」
 「女の人のカンって、すごいんですね。僕、こわいくらいです」
 これで、杏奈の少しばかりの女のプライドは保たれたし、うっすらとした虚栄心も満たされた。もっと楽しい話題にシフトしてもいい頃合いだと彼女は思った。追加のカクテルを注文する。ブラックスーツのすらっとした男性店員が、注文された飲み物を提供すると、一切の無駄な言動をせず、すっと三人の前から消えた。
 黙って三人とも、酒を口に運ぶ。こんな沈黙も悪くないわね。そう思った瞬間、杏奈は店内に流れている音楽にふと耳をうばわれた。きわめて低めの音量で、客の会話の邪魔にならないように配慮されているBGMである。
 透明感のあるストリングスの波の上を漂うように、たった一本のオーボエが奏でる旋律に、杏奈は聞き覚えがあった。
 隼也が、このメロディーをそっと口ずさんでいた。
 「福知山くん、これ『 L'aigle noir』よね?」
 隼也が目を瞠った。
 「リーダー、シャンソン、聞いてくれてるんですね」
 「せっかく、自分のデスクトップに『シャンソン』ってフォルダを作ったのに、クリックするとその中はいつも一曲だけなんて、もったいないでしょ。メモリーがこんなに大きいだの、CPUの性能がぴか一だの、そんなことはコンピュータを作る側が一所懸命になればいいことであって、私たちにとって一番大切なのは、個々のコンテンツをいかに充実させられるかだと思うの」
 「同感ですね」
 深く頷くのは修平である。
 「でもこの曲、歌詞は難解ね。私、正直いって、どう解釈していいかわからないところがいっぱいあるわ。それでも、なぜか、心惹かれてしまうの。福知山くんも好きなのよね、『黒い鷲』」
 「実は、別格の歌なんです。僕にとって」
 「どういうこと?」
 隼也は、あきらかに逡巡の表情を見せたが、意を決したように言った。
 「修平さんが僕の前に現れたのと、僕がこの曲を知ったのと、ほとんど同時だったんです」
 「ということは、加古川さんが福知山くんにとっての『黒い鷲』ってことかしら?」
 「それは、わかりません。ただ・・」
 修平が、有無を言わせぬ口調で割って入った。
 「俺は、隼也を、過去に連れて行ったりはしませんよ、絶対に。むしろ、逆です」
 杏奈は理解した。修平も、この曲の歌詞について、深く深く思いをめぐらしていることを。そして、大きな黒い翼に抱かれるようにしてブリュッセルまで飛んでいく隼也の姿を思い描いていた。
 これでもう、二人に対して言うべきことは何もない。そう、私が口をさしはさむことではないのだ。杏奈はそう思った。そして、もう一つだけ聴いておきたいことを目の前の二人に問うた。

 「今夜は、コンサートの帰りだったんでしょ?」
 「そうです。このホテルの隣のホール」
 「私も、そうなのよ。ただし、室内楽だけど」
 「完成版を聴いてきたのですか?」
 そうなのか。少なくとも隼也は、ハンナ=シュナイダーの名を知っているのだ。
 修平が続けて言う。
 「『ヴィオラとチェロの二重奏曲』と、抱き合わせの公演だったんすよね」
 これは参った。修平もではないか。
 「よく知っているのね。二人とも、私の前ではジャズとシャンソンの話しかしたことないのに。クラシックも詳しいのね」
 二人そろって申し訳なさそうな顔をする。
 「別に隠していたわけじゃないんですよ。ほんとうです」
 「修平さんと僕、迷ったんです。今夜はシュナイダーかマーラーかって」
 「ところが、シュナイダーの方のチケット完売で、買えなかった」
 「それで、マーラーの第九になったってわけね」
 首を揃えて縦にふる先輩と後輩だった。
 「どうだったのかしら。ふたりで、隣同士の席に座って、聴いたんでしょ? 第四楽章を」
 隼也の顔つきが変わった。口元が引き締まり、深く椅子に座りなおし、その背筋がスッと伸びた。杏奈は前にも同じ光景を見た、と思った。彼女は忘れていなかった。これは、のっぴきならない。そうなるはずだ。福知山隼也は、普段は口数が少なく、余計なことは一切言わない、物静かな、穏やかな青年である。しかし、その度重なる抑制が、時として大きな爆発を起こすことがある。いまの隼也が、まさにそうだ。いったい、何を言い出すつもりなのか。

 「あの終楽章にじっと耳を傾けていたら、僕、我慢できなくなって、右手を伸ばして、隣に座っている修ちゃんの、左の手を握りました。修ちゃんは、しっかり握り返してくれて、僕らが席を立つまで、その手を振り払おうとしなかった。僕は、願っていました。このまま、この音楽が永遠に終わらなければいいと。時間が止まってしまえばいいと」
 杏奈は心の内で呟く。神様が26歳のあなたの時間を止めてしまうなんて、そんなことはしないわよ。何か相槌を打てるような雰囲気ではなかった。黙って福知山隼也の話を聞くしかない。
 修平はどうしているか。杏奈はそっと彼の方を盗み見た。唇がかすかに震えて、何か言いたそうであるが、言葉に詰まっているようだった。明らかに目頭が赤く染まってもいた。
 「僕や修ちゃんや砂井田さんが、明日どうなるかなんて、どんな運命かなんて何もわからないですよね。僕は一生修ちゃんの隣にいたいけど、どっちが先に死ぬかなんてわからない」
 修平が、やっと言葉を出した。
 「ジュンヤ、おまえ・・・」
 「そして、もし、、もし、、僕の方が先に旅立たなければならなくなって、その時に修ちゃんが僕の隣にいてくれていたなら、僕は、、、僕は・・・」
 言葉が続かなくなった。自分の話が生み出してしまった、あまりにも悲しすぎる想像に、隼也自身の胸が張り裂けそうになっているにちがいなかった。
 ここで、終わらせてはいけない。杏奈は心底そう思った。あなたは、最後まで言い切ってしまわなければいけない。そうしなければ、加古川さんと添い遂げることはできないわ。しかし、そのことを、どんな言葉で隼也に伝えればいいのか。それがわからない自分にもどかしさを感じる杏奈だった。
 しかし、杏奈が声をかける必要はなかった。そうなのだ。ワタシが口をはさむ場面ではないのだ。
 修平が、絞り出すように、目から涙があふれるのを必死にこらえながら、言葉を出し続けた。
 「ジュンヤ」
 「僕・・・」
 「ジュンヤ」
 最愛の人の名前を呼ぶしかない修平。そして、それを続けることをやめない修平だった。
 「そんなときがきたら、僕、修ちゃんの両腕の中で、第四楽章をいつまでも聴いていたい。聴くのが無理なら、心の中で歌っていたい。何度でも、何度でも、いつまでも、いつまでも・・・」
 「ジュンヤ!お前ってやつは・・・」
 修平の呼びかけに、ハッとして、隼也は我に返ったらしかった。みるみる顔面が赤くなっていくのが、薄青いバーの照明の下でもわかった。
 「ごめんなさい修ちゃん。砂井田さんもいるのに、僕、こんなベタな、青臭いこと言って、一人で盛り上がっちゃって。なんだか、すごく恥ずかしい。っていうか、修ちゃんに、すごく恥ずかしい思いさせてるよね」
 杏奈は、そんなことはないわ、よく最後まで言い切ったわねと、思った。
 修平は、同じ思いを、声に出して隼也にぶつけた。語調は、激しかった。
 「恥ずかしいなんてことがあるものか!」
 中庸を心得て洗練された物言いしかしない修平ではなかった。その声の大きさに、隣のテーブルにいた二人組の中年女性が、びくっとしたようにこちらを振り向いたから、杏奈は目だけ動かして彼女らに謝罪しなければならなかったくらいである。
 「俺はうれしい。ただ、うれしい。ありがとう、隼也」
 マーラーの終楽章を聴く間もそうしていたのであろう。バーのテーブルの下で、隼也の右手と修平の左手は、固く握りしめられたままだった。
 杏奈は、それをじっと見て、よくもまぁ見せつけてくれるわねと、苦笑した。それだけの心の余裕が生まれてきたことに、自分ながら安堵していた。
 これで、いいのだ。そう、あなたたちは、それでいいのよ。
 では、私は?

 アムステルダム行きの直行便に乗る修平と隼也を、杏奈は空港まで来て見送った。お互い、もう、何も言うことはない。だから、世間話をする三人である。
 「砂井田さん、ハンナ=シュナイダーのピアノソナタ、自筆譜が発見されたそうですね」
 「そうなの。これから家に帰ったら、その辺のことを詳しく調べてみるわ」
 「僕たち、リーダーがピアノ弾くところ、とうとうみられなかったですね」
 「へたくそな演奏でよければ、聴いてもらえるかも。そう遠くないうちに」
 「どういうことですか?」
 「わたし、やっぱり、Ⅿプロジェクト、辞退したわ。部長に怒られたけど」
 「そりゃ、俺が部長でも怒りますよ」
 「その代わりにほかのちっちゃなプロジェクトチームに混ぜてもらうことにしたの」
 「もったいなくないですか、そんなの」
 「いいのよ、それで。そのプロジェクトね、ドイツに拠点を置いているのよ」
 二人の男の眼が輝いた。
 「ドイツのどこなんです?」
 「アウグスブルクよ。ご存じよね。ハンナ=シュナイダーの故郷の町。そこの図書館からまだまだ彼女の埋もれていた作品が世に出てくる可能性は、大いにあるの。私、そういう町で、しばらく暮らしていくことに決めました」
 「早くリーダーのピアノが聴きたいですね」
 杏奈は、ふと思いついたことを口にした。
 「ねぇ、福知山くんは、夫婦別姓に賛成?反対?」
 「別に反対ではありません。でも」
 「でも?」
 杏奈と修平のユニゾンでの問いかけある。
 「加古川隼也ってのも、いいかな。へへ」
 「そのときは、ピアノ演奏係として私を結婚式に呼んでね。『真夏の夜の夢』と『ローエングリン』、両方ともガンガン弾いてあげるわ」
 「楽しみですね」
 「お別れの前にお願いがあるわ」
 「いったい、なんです?なんだか、こわいけど」
 「ブリュッセルから、パソコンでの送信ではなくて、エア・メールってのを、一通頂きたいの。封筒の中にお二人の近況がわかる写真を一枚添えて」
 「わかりました。お安い御用です」
 一人と二人は、こうして、一時の別れを告げた。

 二人は、杏奈の願いをかなえてくれた。三か月ほどたって、ブリュッセルから、一通の封書が届いたのだ。その中には、郊外の家のキッチンらしきところで、エプロンなどをして並んでいる二人のツーショットの写真が一枚入っていた。手紙の方も、丁寧な楷書で手書きである。書いたのは隼也のほうだ。修平は、文末に署名だけしている。行書に近い闊達な筆致であった。文末に、こんなことが書いてあった。
  こちらの、ブルージェという町で、ハンナ=シュナイダーのピアノソナタの世界初演が
  ありました。有料ではありますが、ネット配信されています。とっくにご覧になってい
  るかもしれませんけど、一応お知らせしておきます。
 杏奈は、もちろん、その演奏のサイトにアクセスして、ピアノソナタの全曲を聴いていた。34分ほどの演奏時間である。弾き手は、バルバラを彷彿とさせるフランス系の女性ピアニストであった。ソナタは、例の三重奏曲の、非の打ちどころのない完成度を誇るピアノパートを下敷きにして書かれている。残すべきは残し、削るべきは削り、加えるべきは加える。そんな地道な作業を誠実に続けて出来上がったこのソナタは、おそくとも1830年には、プライベートではあるが50人ほどの聴衆を前に演奏されたことが確認された。どこにも無理のない、流麗さと艶やかさと温もりをそなえた、名曲の名に恥じないものが、また一つ音楽ファンの前に現れた、と報じた新聞があった。
 ピアノソナタの日本初演の日。杏奈は盛装に近い服をまとって、例の室内楽や声楽の公演をメインとするこじんまりしたホールに出かけた。ウィーン行きの飛行機に乗る三日前のことだった。
 ピアニストは、ブルージェという町で世界初演を行った、あのバルバラを彷彿とさせる風貌の女性である。
 ハンナ=シュナイダーに関しては、今でも新たな発見が相次いでいる。その中に、誰に宛てたものかは不明だが,書簡の形式をとった文章があった。
「もし、死の時に、ミューズの神が私の前にお立ちになって、『最後に演奏する曲を一つだけ選びなさい。あなたの、生涯をかけた音楽への奉仕を愛でて、死のその瞬間まで、何度でもその曲を演奏し続けることを許しますから』と言われたら、わたくしは、迷うことなくこれを選ぶことでしょう」
 今日の公演では、前半の『ピアノソナタハ長調』日本初演に続いて、後半にこの曲が弾かれることになっていた。
 シューベルト作曲 ピアノソナタ変ロ長調Ⅾ960から第一楽章。
 まもなく開演である。杏奈は、修平から、何か楽器をおやりになるんですかと尋ねられた日のことを思い出していた。答えはこうだったはずだ。
 私はピアノ。

 砂井田杏奈は、客席で公演の開始を待っている。

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