百花繚乱〜19世紀ヴァイオリン音楽の世界について
2024年11月16日に予定されているコンサートに向けて作成したトーク原稿のうち、カットネタを公開します。
世界史と音楽史を絡めた、ちょっとニッチなネタです。これを読めば、コンサートがさらに楽しめることうけあいです。
今日のコンサートのテーマは
シュポアとヴィエニアフスキ
シュポアとヴィエニアフスキは生きた時代は重複しています。
ヴィエニアフスキは1835年生まれ
シュポアは1859年に亡くなっているので24年間同じ時代に生きていたわけです
しかし彼らがみていた世界はおそらく全く違っていたし、
生み出された作品の色合いも異なります。
世界史とならべて彼らの足跡を追っていくと、
そうした違いがより浮かび上がってきます。
ここでは2つの歴史のターニングポイントとプログラムを連動させながらお話をすすめてまいります。
ターニングポイント①1813年:ナポレオンの敗北
シュポアの20代はまるまるナポレオン戦争と重なります。
シュポアは1784年にブラウンシュヴァイクに生まれ、
ブラウンシュヴァイクでヴァイオリニストとしてのキャリアを始めます。
シュポアがちょうど20歳を迎えた1804年は
ナポレオンがフランスの皇帝になった年です。
翌年からナポレオン戦争が始まります。
シュポアの故郷ブラウンシュヴァイクもまた戦争に巻き込まれて
フランスの衛星国だったヴェストファーレン王国に併合されていまいます。
同時期にバイエルン、ゴータなどのライン沿岸の小国をまとめたライン同盟が成立。
ヴェストファーレン王国、そしてライン同盟の一員になったドイツの小国はフランスの協力国として、ナポレオン戦争に物資や兵を提供することになります。
シュポアはブラウンシュヴァイクが消滅する1年前にゴータでコンサートマスターの職を得て移住していたので、比較的安定した生活をしていました。
そして1812年にウィーンへ演奏旅行にいき、大成功。アンデアウィーン劇場の芸術監督のオファーを引き寄せます。
折しも、そのころ北の方ではナポレオンがロシア遠征に失敗し、冬将軍が吹き荒ぶ中、地獄の退却行軍を繰り広げていました。
1813年、シュポアは何をしていたか
1813年春、シュポアはアンデアウィーン劇場の芸術監督に就任。29歳でした。
就任してすぐにオペラ「ファウスト」に着手し、多忙の合間を縫って精力的に作曲を進めました。完成したのはこの年の秋でした。
ファウストが完成した翌月、ライプツィヒの戦いが起こります。これはフランス、ドイツ、オーストリアを取り巻く歴史の転換点となりました。
ライプツィヒの戦い:オペラ「ファウスト」
ファウストが完成した翌月、ライプツィヒの戦いでフランスは大敗を喫し、フランスのドイツ支配が終わりを迎えます。
この戦いでは
フランス・ワルシャワ公国(ポーランド)・ライン同盟と
プロイセン・オーストリア・ロシア・スウェーデンが激突し
フランス側が敗北しました。
この結果、ライン同盟、ヴェストファーレン王国は消滅、
フランスのドイツ支配は終わったというわけです。
シュポアがいたウィーンの街にもこの勝利による祝祭ムードが漂っていました。
そんなタイミングで完成したファウスト。
若いシュポアの意欲があふれんばかりのはつらつとした作品です。
非常に緻密に作りこまれたこの作品はドイツオペラ発展の礎となり
ドイツオペラ草創期の傑作、19世紀のドイツの歌劇場の重要なレパートリーとして愛されました。
題材にドイツの伝承ファウストを選び、台本を担当したのもウィーンのジャーナリスト(ベートーヴェンの友人だったベルナルト)というあたりも、時代の空気を感じます。
ナポレオン戦争終結:イタリア演奏旅行とヴァイオリン協奏曲第8番
シュポアはアンデアウィーン劇場との契約を2年で打ち切り、
ヴィルトゥオーゾとして演奏旅行にチャレンジすることを決意します。
いよいよナポレオン戦争も終わり
都市間の移動も楽になり、イタリア旅行へ家族帯同で出かけることが現実的になったタイミングでした。
1816年9月ミラノへ向けて出発し、ヴァイオリン協奏曲第8番などを引っ提げてイタリア各地をまわり喝采を受けています。
オペラが大人気だったイタリアでヴァイオリニストとして名を挙げるための戦略が、ソロヴァイオリンをプリマに見立てて協奏曲を書くというアイデアに繋がったのですが、
同時代に書かれたパガニーニのヴァイオリン協奏曲第1番と比べても
その構成の緻密さは際立っています。
ターニングポイント②1830年:独立革命
さて、もうひとつのターニングポイントへとお話を進めます。
もうひとつのターニングポイント、1830年は革命が連鎖した年でした。
七月革命、ベルギー独立革命、ポーランド11月蜂起、
シュポアもこの影響と無関係ではいられませんでした。
1831年それらの革命の影響をうけて
シュポアのいたカッセルでも新憲法が発布されます。
そして新しい憲法を祝って、これからお聴きいただく「イェソンダ」が上演されています。
カッセルの新憲法成立:イェソンダ
このオペラが作曲されたのはその9年前でした。
1822年シュポアはヘッセン選帝侯国宮廷楽長に就任します。シュポアは38歳。
このポストを得たことで彼はヘッセン選帝侯国の首都カッセルへ移住、亡くなるまでこの土地に住むことになります。
就任後すぐにとりかかったのがイェソンダでした。
ここで彼は、イタリアオペラとは違うドイツのオペラの確立を目指した、と明言しています。
原作はフランスの戯曲でしたが、それをドイツ語に直した台本を書いてもらい、オペラに仕立て上げています。
はらはらドキドキさせられる筋書きは面白く、音楽とストーリー全体の統一感も素晴らしい、オーケストラも充実していて、非常にうまくできたオペラです。
シュポアが民主化革命に共感していたこと、新憲法成立の祝祭としてこのオペラが選ばれたということ、そしてこの時代の背景を踏まえると
彼の作品からは一種の国民主義的なものを感じずにはいられません。
シュポアの作品に漂う、勤勉さ、緻密さ、清潔感。
ドイツ人による、ドイツ人のための、ドイツのオペラといってしまってもよいような気がいたします。
ポスト・ポーランド11月蜂起世代:ヴィエニャフスキ
さて、ヴィエニャフスキのお話もいたしましょう。
1830年、七月革命やベルギー独立革命は成功しましたが、ポーランド11月蜂起は失敗に終わりました。
蜂起はロシアに鎮圧され、ポーランドはロシアの属国となってしまいます。
その後5年後に、ポーランドのルブリンに生まれたのがヴィエニアフスキです。
彼は今ではポーランドの音楽家と認知されていますが、
彼は社会的な立場はロシア人として生きていたのです。
ロシアの奨学金を得てパリに留学し、
わずか8歳で、外国人にも拘わらず、パリ音楽院に入学(入学要件は12歳以上、フランス国籍保持者)10歳で卒業試験に優勝して、最年少卒業生となる天才少年ぶりを発揮します。
パガニーニを超えるヴァイオリニストと絶賛されました。
サンクトペテルブルク音楽院やブリュッセル音楽院で教鞭を取り、のちのヴァイオリン教育に与えた影響も絶大です。
さらに彼はロシア宮廷にも仕えています。
ショパンとヴィエニャフスキの違い:ポーランド11月蜂起を境に
ポーランドといえばショパンが思い浮かびますが、ショパンとヴィエニャフスキでは世代の違いというか、祖国やロシアへのスタンスは異なっています。
ショパンは20歳のときに、11月蜂起の知らせをドレスデンで知り、動揺し、祖国の苦難に苦しみました。彼は亡命者として生きることを決め、後年ロシア宮廷からのオファーもきっぱり断っています。
一方のヴィエニャフスキは2度も出仕を自ら願い出ています。
ただ、ヴィエニャフスキの伝記には、時折属国民としての不自由さがにじみでます。
皇帝の意に染まないことがあれば、外国人だからといってシベリア送りをちらつかせて脅される、そんな緊張感が時折垣間見えるのです。
ヴィエニャフスキはポーランド出身だけあって、ポロネーズやマズルカもつくっていてポーランドを売りにしているところはありますが、ショパンほどではなく、ヴィエニャフスキの作風はむしろフランス的といえるのではないかと感じます。
フランコ・ベルギー楽派のベリオやヴュータンといった先達からの影響も強く、ヴィエニャフスキの作品は彼らの協奏曲によく似ています。
ポーランドは18世紀末のポーランド分割で国が滅亡し、ナポレオンによってワルシャワ公国としてある程度の主権が認められて復活し、フランスとともにナポレオン戦争を戦った歴史があり、フランス的なものは受け入れやすい土壌があったのでしょう。
ヴィエニャフスキの作品から漂ってくる甘さ、そして享楽的な雰囲気は
生まれた時から属国民で、根無し草のように世界中をツアーしてまわっていた彼の処世術だったのかもしれない、と想像してしまったりします。
まとめ
ドイツ人としての誇りをもって、ドイツオペラの草創期を牽引したシュポア
スターヴァイオリニストとして、しなやかに、したたかに生き抜いたヴィエニャフスキ
同時代にありながら、全く違う生き方をした二人のヴァイオリニストの作品を
11/16のコンサートでじっくりお楽しみいただけたらと思います。