窟(むろ)に光ありき
【記録◆2024年9月13日】②
「奥大和」へ行くときは、何枚も地図を印刷して、行き方を調べます。
行き先については、詳しく調べません。
その場に身を置いたとき、知識が妨げとならないよう。
それで、龍門川に沿って二本杖で進んだときには(9月4日)、
「龍門の瀧は、ここまでの間に観たのかな」と何度か考えたのでした。
『龍門の瀧』の姿を、知らなかったのです。
画像だと、滝は小さくなります。
「写真という枠」におさまると、大きな滝ほど小さくなります。
だから、その場に身を置いたときには、
「すべてが五感におさまらない……」と、心が躍るのです。
◇中奥川◇
『古事記』に、「尾のある人、井より出て来たりき。その井に光ありき」と記された場所より少し南の川へ向かいます。
先月、「龍の血」とは何かを知ったので、「光る井から出てきた国つ神は辰砂(シンシャ)を採掘していた丹生の一族だろう」と見当がつきました。
『古事記』の続きに、「また尾ある人に遇ひ給ひき。この人巖を押し分けて出でき」と書かれているのも、『岩神神社』周辺で採掘をしていた一族ではないかとおもいます。神社の御祭神が、岩を押し分けて出てきた神なので。
「古事記」で先住民は、脚の長い土蜘蛛(つちぐも)の姿にされています。
「風土記」では、都知久母(つちぐも)は土窟(つちむろ)に追い込まれて最期を迎えています。「窟(むろ)」で辰砂を採掘する民だったのかも。
丹生の一族は、後発の勢力とは異なり、中央構造線に沿って移動しながら先住者たちと穏やかに融和していたようなのに………
(王国を造ったクシヒカタや初代大王「ムラクモ(村雲)」の曾孫の代は、「丹生の一族が上陸した紀の川の河口」と縁を結んでいます。)
[余談:縄文の魂がいま続々と生まれてきているそうです。当時の遺伝子が目覚めると脚が長くなるのでしょうか、2.5次元俳優みたいに。]
教えられなかった歴史を知るたび、裏と表がめまぐるしく変わります。
裏と表が入れ替わるだけではないのです。
裏が裏のまま、表が表のまま、留まることはありません。
知識に依るのであれば。
けれども、自分と響き合うほうを抱き取ることはできます。
混ざり合った遺伝子のどの部分を目覚めさせて生きたいか、を。
◇高橋谷の瀧◇
荒れた道に転がっている落石(ひとかかえ程の大きさ)をぎりぎり避けて上流へ進みます。そのような道を走る時にはいつも、「護ってくださって、ありがとうございます」と唱え続けるのです。
滝の前に架かる高い橋まで車で行けるのも、ありがたいこと。
少し前から、「街でも、二本杖で歩こうか」と考えはじめていました。
「足を置いた所に土がある」という所では、不自由を感じずに進めます。
地面まで足を伸ばさなくて済むから。
けれども、舗装面に足を置かなくてはならない街では、自分のほうが道に合わせなくてはなりません。
それが、ほとんどできなくなり、前へ進むのが大ごとになったのでした。
「COGY(足こぎ車いす)」は便利です。
けれども、街は不便です。
電車の乗り降りは、スロープの出し入れを頼まなくてはなりません。
駅に着いても、来た電車には乗れません。着駅と連絡が取れるまで。
乗り換え駅では、エレベーターで上がって、エレベーターで下りなくてはなりません。満員だと、車椅子はいつまでも乗れないときがあります。
(大きな駅には、乗車時刻の1時間前に行っていました。)
杖を使えば、短い距離なら健常者と同じ時間で、簡単に移動できます。
両側に杖をつくと上半身が安定するので、前へ進むのも楽です。
ひとの居ない所で二本杖に慣れておいて良かった。障害が進行したときの選択肢が、意図したわけでもないのに増えていたので。
[追記:この日を境に、街でもT字杖を2本使っています。]
向かって右側に、鉄製の階段がついていました。
落ち葉と土が積もって段が見えないけれど、手すりがあるから上れそう。
頼りになるのは腕の力。「足は、置いた位置から滑る」と考えています。奥に積もった落ち葉や土によって、段板は手前に傾いているも同然だから。
不意に力が抜けることもある右脚には、絶対に体重をかけません。
正面からは真っすぐ落ちているように見えたのに、途中で空中に躍り出ていました。
見る位置を変えられる滝は、特に好きです。
しかし、杖1本では歩けなくなった身ですので、階段を上がった所からは先へ行きません(と、言い切った直後に、ちょっとだけ進みます)。
橋からは見えづらい「上段」の正面まで行けました。
ここから流れは左へ向かいます。下の写真のように。
ごく狭い所で無理に身体をねじって後ろを見上げたら、
「岩を押し分けて出てきた神」のような樹が。
「臥龍」状になって大岩の表面を這い、下の写真の右端まで伸びています。
手前の枝が「臥龍」状になった部分の先。幹は2本が融合しているよう。それで、下側になった樹が岩の上に留まっていられるのでしょうか。
林道を引き返し、別の道に入って車を止め、踏み跡を辿って滝壺へ。
さらに見る位置を変えられて、見える所が増えました。
滝壺の周辺は広い川原だから、まだ角度が変えられます。
この水と共に『中奥川』を下り、丹生の一族とは逆から『吉野川』南岸を『丹生都比売』の名が残る所まで走りました。
広い川を、橋が無かった頃は、神名を削る勢力も越えて来なかったのか。
『高橋谷の瀧』の近くには、『不動窟鍾乳洞の瀧』があります。山に降った雨と雪が10年かけて浸透し、湧き水となって洞窟を流れているのです。
大和盆地から山に入っていくと、どこであっても歴史が湧き出てきます。
「窟(むろ)」を光で満たす鉱物のように。