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出雲と大和の女神

【記録◆2025年1月7日】②

◇◇唐古・鍵 考古学ミュージアム◇◇

唐古・鍵遺跡 史跡公園

 上の写真の方角へ車で走ると、『唐古・鍵 考古学ミュージアム』があり、遺跡からの出土品をたくさん見ることができます。

 唐古・鍵は「初代大王ムラクモとともに移住してきたハタ族の技術者」が造ったのでは、という気がしていました。

 しかし、ハタ族が渡来する前から、ここにはムラがあったようです。
(ムラを取り巻く環濠は、初期には無かった。)

 それで、移住してきたハタ族が大環濠を巡らせて「水没した唐古・鍵」を復興させたのでは、と考えました。

 最初に上陸した出雲では、一部の者たちの狼藉によって嫌われています。主王と副王を同時に奪われた出雲神族は、目に入ってしまう渡来人の姿と、辛い記憶が刻まれた出雲から離れたくて、大勢が他所へ移ったのでした。

 島根県には意外にも渡来系の遺伝子が少ない、と、どこかで読みました。
 居づらくなったハタ族も「丹波(京都府)」に移住したためでしょうか。

 ハタ族を率いたのは、ムラクモの父「イソタケ」です。
 イソタケの母は、出雲王家の高貴な姫君でした。

 出雲の母系社会と移民の父系社会の狭間にイソタケは取り残されますが、母方の愛情深い手に託されて育ちます。
 そうでなかったら、ムラクモの大和移住は侵略になった可能性も………?

 イソタケの子「ムラクモ」は、出雲王家を尊敬していたそうです。
 それで、クシヒカタと協力して、大和に新しい王国を創れたのでしょう。

「母系の力」が、大和盆地に何百年か平和をもたらしたのでした。

 和歌山県へ行ったとき、イソタケを養育した「大屋姫」が祀られた神社を参拝すればよかったと、いまになっておもいます。

 出雲でハタ族をすくいあげたのは、「ミホススミ」の温かい手でした。
 ところが、「地元でも、女神なのか男神なのか判らなくなっている」と、どこかに書かれていたのです(現在はどうなのか)。

 けれども、わたしは『唐古・鍵』の近くで、その姫君をみつけました。
 地図を眺めていたとき偶然、『初瀬川(大和川)』の上流で。

 そこへ向かう前に、『唐古・鍵』の時空を抜けていきましょう。


◇◇唐古・鍵 考古学ミュージアム◇◇

 以前にも来ていますが、復元楼閣と同じく、ここも改修されていました。
 18年ほど前には正面に大きな幕があり、『唐古・鍵の暮らし』が繰り返し映されていたのです。

 車椅子を使い始める前の年だったから、わたしは1本の杖で身体を支え、柱にもたれかかって何回も、飽きずに映像を眺めたのでした。夢見心地で。

 記憶違いでなければ、以下のようなイラストが映されていたはず。

 上の1枚のみ、『唐古・鍵遺跡 史跡公園』の「遺構展示情報館」に展示。
(18年前には、『唐古・鍵 考古学ミュージアム』の映像内にあったかも。)

『唐古・鍵 考古学ミュージアム』は撮影可。営利目的でなかったら、記事に載せても大丈夫だとおもいます。この日は他にひとがいなかったため自由に撮らせていただくことができました(ガラス越しなので不鮮明ですが)。

 入館して真っ先に向かったのは、以下のジオラマ。
「COGY(足こぎ車いす)」から立ち上がって撮りました。

ジオラマ

 環濠集落の右を流れているのは、『寺川』。
 左を流れているのは、『初瀬川(大和川)』。

 地図によっては源流近くから「大和川」と記されているけれど、わたしは「佐保川」と合流するまでを「初瀬川」と呼んでいます。

西から

 上の写真は、さっき居た史跡公園のあたり。
「唐古池」「復元楼閣」という表示があります。

「道の駅」は国道をはさんだ西側。

北から

 上の写真だと、右から3分の1あたりが、現在の国道24号線。
 これだけの数の水路があった当時なら、舟で楽に移動できたのかも。

 ただし、クシヒカタやムラクモが通ってきた木津川は、水位が高い頃にも盆地と繋がっていないだろうから、奈良の北(京都府南部)で船を下りて、低い丘を徒歩で越え、別の舟に乗り換えたのでしょうか。

 クシヒカタが最初に住んだ『鴨都波遺跡(御所市)』辺りは、海抜95m。クシヒカタの妹たちが移った『出雲屋敷(三輪山の麓)』は、95~100m。

 そこより低い所まで水があったとすると、京都府南部と奈良県北部が川で繋がるけれど、それだけの水を当時の『亀の瀬』が堰き止められたのか。
 と、考えるのは止めます(自然の堰が決壊した後の惨状も含めて)。

「古代には、内陸まで海が入り込み、現在の海抜80mが海面だった」という説もあるのですが、それだと盆地中央にムラは造れません。

『唐古・鍵遺跡』は海抜48mで、環濠集落となってからでも、水路が何度も埋没したため、膨大な労働力を投じて掘削を繰り返す必要がありました。

 移住してきたハタ族が土木技術や労働力を提供したのなら、恩讐を越えて「大和の出雲神族」と融和できたのでは。

 この記事を書いている最中、『鍵』には現在も藁で作った蛇を引きながら村を練り歩き、その蛇を木に吊るす「蛇巻き」という行事がある、と知って驚きました。行く先々に「龍蛇神」が姿をみせるので。

 下の記事でも、同じような事実に驚いています。

『唐古』で見つかった人骨は、「紀元前300年台に生まれた男性で渡来系の特徴を持っている」とのこと。それで、龍神信仰は渡来人に持ち込まれたと専門家は推測しているのです。

 しかし、「龍神を形どった藁蛇を聖木に巻くのは、出雲王国の信仰」で、渡来人は、出雲王国の人々を改宗させようとして藁蛇を切って回ったから、嫌われたのでした。

銅鐸の鋳型

『唐古・鍵』では様々な物が作られていて、そのひとつが銅鐸。
[たくさんの出土品は、他の方々が鮮明な写真を投稿なさっていますので、『唐古・鍵 考古学ミュージアム』で検索をして、ご覧ください。]

 出雲に上陸した渡来人は藁蛇を切って回り、九州に上陸した同国人は後に大和の銅鐸を壊して回る集団となりました。藁蛇を切った者の子孫が銅鐸の制作者かもしれないのに。

「文明は大陸から、未開のヤマトに持ち込まれた」という考え方は、いずれ消え去るかもしれません。源流がどこに在るか、この先に明かされたら。

 そういえば、『出雲屋敷跡』の磐座が「出土した実物」ではなく模造品に替えられ、実物の行方が判らないことに違和感を覚えていました。
 実物は、「源流がどこに在るか」を語っていたのでしょうか。

 国土に根ざした信仰は、神域を侵されても、根絶やしにはされません。
 逆に、反感がいっそう信仰心を強めるでしょう。

 海を渡ってきたハタ族が、出雲で上陸を許されたのは、大勢の童子たちと技術者だけを連れてきて、「この地の掟を守る」と誓約したから。
 有言不実行では、居場所を失っていきます。

 そんなハタ族と出雲神族をなんとか取り持とうとして心を尽くされたのが
「ミホススミ」でした。

 ミホススミは、父「事代主」が命を奪われた後、母「ヌナカワ姫」が兄の「タケミナカタ」と出雲を離れた後も、『美保関(島根県)』に留まって、父の霊を祀りました。

 住居跡には『美保神社』が建てられ、事代主とミホススミ(美穂津姫)が祀られています。
 この社殿の「千木(屋根の両端で、交差し高く突き出ている部分)」は、左が縦削ぎ(先住の出雲式)、右が横削ぎ(渡来系)で、融和していく心を形にしているのです。

 千木という形で掲げられた理想は、双方から体現していけるはず。


◇◇村屋坐彌冨都比賣(むらやにますみふつひめ)神社◇◇

『唐古・鍵 考古学ミュージアム』の地図を拡大した時、『冨都』という字が目に入ると同時に、「きっと出雲王家の姫君だ」と感じました。
「事代主」が、東出雲王家の「富家」出身だったので。

「ふつ」という音は「渡来系」を連想させるのですが、「富」は出雲系。
 御祭神が「美穂津姫」とわかった瞬間、納得できました。この神社の名は「美保神社の千木」のよう。

 出雲の『美保神社』は二柱の御祭神を、以下のように記しています。
〇「事代主」は、大国主の子。
[実際には、親子ではありません。大国主が主王で、事代主が副王。]
〇「三穂津姫」は、大国主の后(事代主の義理の母)。
[実際には、夫婦ではありません。また、三穂津姫は事代主の娘です。]

 大和の『村屋坐彌冨都比賣神社』は、以下のように記しています。
〇御祭神は、「大物主」と「三穂津姫」の夫婦神。
[実際には、大物主(事代主)と三穂津姫は、夫婦ではなく父娘です。]

村屋坐彌冨都比賣神社の空

『初瀬川(大和川)』沿いの平地なのに、鎮守の杜によって異空間のよう。 

 二本杖で歩いて川沿いの細い道へ向かうと、とつぜん視界が開けて、
『みむろ山(三輪山)』が見えました。

「きょうは『大神神社』へ向かう車で渋滞しているから、みむろ山の近くを通らないでおこう」と決めていたのに、誰も居ない場所でステッキチェアを椅子の形に変え、心ゆくまで「大神神社の御神体」を遙拝できるとは………

みむろ山(三輪山)

 建物の無い所に立てば、大和盆地のどこからでも山々が見えます。でも、電線や鉄柱のような人工物が視界に入らない所は、他に知りません。

 美保関に残って「事代主」を祀ったミホススミ(三穂津姫)は、大和でも心ゆくまで敬愛の眼差しを「みむろ山に祀られた父」に向けていられます。

 この場所を誰が選んだのか。
 出雲での恩を語り継いだハタ族が…………?

[注:『note』の記事は、学問を修めていない者が自由に想像した内容で、歴史を学ぶ方の参考にはなりません。念のため。]

穴師山(左端)

 万葉挽歌で「大鳥の羽がひの山」と詠われたのは何処なのか、知るひとは居なくなったけれど、わたしには、翼が重なる所は『穴師山』であるようにおもえます。

 でも、きょうは左右の翼が、先住系も渡来系も隔てなく抱き取ろうとする女神の両腕のように視えます。

 縒り合わされた者たちは、国土と響き合って「奪う者」から「創る者」に変容できたでしょうか。

唐古・鍵 考古学ミュージアム(Ⅰ)
唐古・鍵 考古学ミュージアム(Ⅱ)
唐古・鍵 考古学ミュージアム(Ⅲ)
唐古・鍵 考古学ミュージアム(Ⅳ)
唐古・鍵 考古学ミュージアム(Ⅴ)

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