
やまと古代の音が響く
【記録◆2025年2月27日】
「大和(奈良)と紀伊(和歌山)の境」を五條市から越えていくときだけ、
幾重にも重なった稜線の最奥が、白い波頭のように見えます。
『天川村』の方角に、雪を冠する『大峰山脈』が連なっているので。
京奈和自動車道を走るたび、「車を止めて眺めていられる所があれば」と考えていました。
ようやく見つかったので、前日から心躍らせていたのですが、
「寒波が去って急に暖かくなったから、霞がかかる」と、大和盆地の山々を眺めた瞬間に悟ったのでした。
「近く見える日には山肌を撫でられそうな三輪山」でさえ霞んでいたため。
だけど、次の冬のために場所を確かめておきましょう。
病状が現れてから千日が過ぎ、まだ生きられそうな気もするので。
こぶし大の腫瘍が自然排出された後の3日間だけ病状が無かったから、
「1003日目の本日」にこそ、「千日を生きた」という標を立てられます。
「病院へ行かない生き方」を択んだ理由は、以下の2記事に書きました。
「微量の薬剤が、皮膚を広範囲に壊死融解させて、命を終わらせる」という難病があるため、『病院へ行かない生き方』は今秋、13年目に入ります。
数十年前にわたしは、「なにも問題はない」と診断された直後、その日が初対面だった医療者の「まったく必要が無く効果も無く、命を奪うだけ」と判明している加療によって、身体を損傷しました。
たすからないと分かったためか、別の医師は、救命のためという名目で、「身体がボロボロになるほど大量の薬」を使ったそうです。
有害物質や老廃物が体脂肪に溜まる、というのは知っています。
排出が滞ると肥満する、というのも知っています。
身体障害認定を受けた時(46歳)、「現在の体重を維持してください」と指導され、「あなたなら大丈夫ですね」と、すぐさま言い加えられました。
それなのに別の医師は、「体重が少ないから、せめて5キロ増えるよう、薬で調整しましょう」と告げたのです。その理由は、「あと10キロないと、感染症にかかりやすくなるから」とのこと。
健常者でも体重が1キロ増えると脚には5倍の負担がかかるというのに、「感染症にかかりにくくする」という目的で増やされるのは、筋肉ではなく贅肉だから、日常に必要な動きさえもできなくなって命が縮むだけ。
それ以来、病院へ行くのを止めたのですが、感染症にかかることはなく、「カゼをひいていない歴」でさえ16年目に入りました。
「自作の装具12個」を着けて踊り続け、「COGY(足こぎ車いす)」で脚の筋肉も増えたから、結局、「踊れるはずがない」と診断されてから20年以上舞台に居られました。
(40歳でジャズダンスを始めたのは、若い頃に習い事ができなかったため。
仲間のおおかたは18歳か22歳で始めていましたが、わたしはどちらの時も、父親の介護をしていたのです。)
(自力歩行できなくなってから「冒険」を始めたのは、ソロで踊るときには3ヶ月前から脚の状態を整えていて、その間に無茶ができなかったため。)

体脂肪に蓄積できなかった分の有害物は、腫瘍が回収してくれたのだと、わたしは考えています。それが「排出のための新しい臓器」だったと。
年齢と病状だけで判断する医師が、「病名は、百パーセント○○です」と言い切ってますから、「他の可能性が無いなら検査の必要もない」と考えて生前整理を済ませたら、翌々月に身体は自ら腫瘍を切り離したのでした。
その経過は、以下の記事内。
さて、『五條市』では、予想したとおり遠くが霞んでいました。
説明板の写真にある光景を、次の冬には見られるでしょうか。

帰宅後、左の山から標高を調べました。大天井ヶ岳(1,439m) 山上ヶ岳(1,719m) 稲村ヶ岳(1,726.1m) バリゴヤノ頭(1,580m)。そして、弥山(1,895m) 八経ヶ岳(1,915m) 明星ヶ岳(1,894m)。
この視界を得るため急階段(約100段)を、当然ながら補装具を使って、次の冬にも上り下りできなくてはなりません。

そういえば、「医師に告げられた予後」によると両脚の機能は何年も前に全廃となっていたはず。「薬は一生飲み続けないと心臓に負担がかかる」と言われもしたのに、断薬して13年後の現在、動悸も息切れもしません。
障害の進行は左脚と右脚で異なるのですが、「冒険」を始めてから機能も異なるようになりました。家では右脚が、出先では左脚が頼りになります。どちらの場合も反対側は、ほぼ使えません。
「使えない側」を補うため、いろいろと考えつきます。
家庭内は、片手で動作ができるよう、自作の仕組みがいっぱい。
室内用の杖には、掃除をするときだけ、物干し竿用ピンチを挟みます。
床に手が届かないので、フローリングワイパーを倒してしまわないよう。
(前に書きましたが、ハタキは、自転車用の傘ホルダーに差しています。)

家庭を整え(肢体不自由だと重労働になるから体重維持できる)、冒険に出かけ(森のフィトンチッド、滝のマイナスイオンや神気をいただける)、
おやつも食事も自分で作るという療養生活は、わたしには合っています。
そういえば、「とある病院の特別個室使用料が、うちの家賃の4ヶ月分」と知ったときは(奈良は家賃が安い)、「お金が120倍も要るのに、設備に差は無いやん」とおもいました。
◇香芝市二上山博物館◇◇

目的を果たせなかった場合に備え、別の行き先を常に考えておきます。
金剛山の麓を過ぎ、葛城山の麓を過ぎ、二上山の麓へ。
「縄文時代」より古い時代へ漕ぎ出るため、「COGY(足こぎ車いす)」を後部座席に載せてきたのでした。
「二上山(にじょうざん)」を、わたしは万葉びとに倣って大和言葉のまま「ふたかみやま」と呼んでいるのですが、『香芝市 二上山博物館』では、奈良の歴史的風土を学べます。
『うつそみの 人なる我や 明日よりは 二上山を 弟背(いろせ)と我が見む』
という「万葉集165番歌(作者:大伯皇女)」や、『死者の書』という本で知られている二上山は、意外にも、過去に大噴火をした火山でした。
その火山岩(特に、サヌカイト、凝灰岩、金剛砂)が、人類文化を大きく発展させました。

館内の「プロジェクションマッピングシアター」では、
「二上山と3つの石」の成り立ちを、映像で疑似体験できます。
驚いたことに、かつての二上山は弧峰でした。
現在は、左が金剛山地で、右が生駒山地です。

上の写真の向こう側で『六甲山(兵庫県)』が隆起した頃、奈良県では、「金剛山地」と「生駒山地」が地殻変動によって形成されたのでした。
そのとき「二上山」は、火山活動による堆積物が厚く被さっていたため、周囲のようには隆起できなかったそうです(現在の標高は517m)。
そうでなかったら、千メートルを超える山となっていたでしょう。
昨年(12月18日)に行った『屯鶴峯』は、火山活動の跡です。
市街地の横に、「凝灰岩」の白い岩肌が広がっていました。
「二上山から運ばれたサヌカイト」は、『唐古・鍵』で加工されました。
先月(1月7日)に行った『唐古・鍵 考古学ミュージアム』に、ジオラマがあります。たぶん、加工しているのはサヌカイト。

上の写真は、以下の記事内。
どの博物館でも、「撮影禁止」となっている所では撮りません。
「営利目的ではない記事」に写真を載せてもいいか、確認もしています。
平日だと、撮影が他の方の迷惑にならないか、気を遣わずに済みます。

サヌカイトは、水路によって運ばれたのでしょう。
そして、『唐古・鍵』の環濠を巡って集落の中へ。
サヌカイトを並べた「石琴」が展示されていました。

透き通った音色を聴かせたい、とおもう友人の顔が浮かび、
「この音を動画にしてもいいですか?」と確認しました。
たたき方によって音が変わるので、反対側からも。
「この音は、東京オリンピックでも使われたのですよ」と教えていただき、
帰宅後に調べてみました。
『1964年東京五輪の選手村では、食堂で流されていた』
『2021年東京オリンピック開会式で鳴らされた』とのこと。
美しい音は、わたしたちの遺伝子に残る記憶を呼び覚まします。この先にそれが、すでに生じている新文明をいっそう豊かにしていきます。