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大和の「環」のクニ
【記録◆2025年1月7日】①
夢だったのか幻だったのか、「原大和王国」の低い丘に立っている自分をずっと前に視ました。
まなざしの先には「三輪山」があり、「室(むろ)」のような盆地の底を強い風が、なににも遮られないで渡っていくのでした。
当時は、最初に王国を造ろうとしたクシヒカタを知らず、開拓されたのは葛城だったというのも知らなかったため、わたしは『唐古・鍵』から南東を眺めていたのです。
実際には立ったことのない場所で。
◇◇唐古・鍵遺跡 史跡公園◇◇
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35年ほど前は、地上にあったのは江戸時代に造られた『唐古池』だけで、近くまで行った時にも目に残ったのは、北側の道を覆う桜でした。
『唐古・鍵遺跡史跡公園』の「遺構展示情報館」に、写真がありました。
池の西側の細い道に車で入っていった記憶があります。
その次に行ったときにはバリケードフェンスが置かれていて、向こう側は「造成中」のような様子でした。
すでに史跡公園が造られはじめていたのでしょうか。
唐古池の「南西の角」に写っているのは、最初の復元楼閣。
「1991年に出土した土器」に描かれた楼閣を、1994年に復元しています。
「唐古・鍵遺跡」は国道沿いなので、遠くからは何回も見ていました。
全面改修されたのが、2018年。
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この背景の果てから、多くのひとが大和盆地に移り住んできました。
クシヒカタと出雲神族は、三島(大阪府)を経て。
ハタ族は丹波(京都府)を経て、ムラクモとともに。
女性たちが女神のようであったため、大和盆地は光に満ちていました。
その縁から闇が注がれるのは、ずっと先。
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驚いたことに、楼閣の向こう側は、夢か幻で視たままの風景。
盆地を取り巻く山々が、2200年前と変わらないためか………
投稿直前に気づきました。
「みむろ山(三輪山)から昇る冬至の太陽」を、ここからも遙拝できます。
山々とは違い、「室(むろ)」のような盆地の底は、しばしば水によって風景が一変していたのでしょう。
現在でも、大和盆地の156本の川には、ひとつの出口があるだけ。
古代にはそこが「90年に1度」の頻度で埋まった、と、古老は語ります。
『亀の瀬地すべり歴史資料室』では先月、
「最近まで、30年に1度の頻度で地滑りが起きていた」と聞きました。
古代人は、どの世代も、水位が変わっていく光景を見たのでは。
(知る範囲では、『鍵・唐古』と「亀の瀬地滑り」を結びつける専門家は、なぜか見当たらないのだけれど。)
水が行き先を失わない時にも、大和盆地を流れる川の間の平地はたびたび水路と化したのか、洪水からムラを守る「環濠」が造られます。
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このあたりを50センチ掘り下げると、2000年前の地面が現れ、「環濠」を見つけることができるそうです。
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風がとても強くて、向かい風だと「COGY(足こぎ車いす)」が進まず、追い風だとブレーキから手を離せません。
環濠の端では、案内板のような物が耐え切れずに倒れて、ウロコのような水面に滑り落ちていくのでした。
国道を走る車から、「こんな日にも、ひとがいる」と驚かれていたかも。
(しかも、冷たい強風をふたわけにして、車椅子を足で漕いでいる。)
どんどん国道へ近づいていった所で、「遺構展示情報館」に入館。
[この記事の写真をたくさん撮らせていただきました。]
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発掘調査で見つかった大型建物跡の柱穴を形取りして、実寸大に再現した模型を展示しています。
以下が、当時を再現したジオラマ(ガラス越しなので不鮮明ですが)。
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手前の子どもには、犬が寄り添っています。
戦士が模擬戦を行っているのは、祭りの舞いのようなものでしょうか。
このムラには、争いの跡が無いのです。
20年ほど前に調べた時には、『外敵の侵入を防ぐために壕を巡らせた』となっていました。ところが、防ぐほどの構造ではないよう。
「創る者」から全てを奪うことはできません。
『唐古・鍵』でも、濠を巡らせたのは、侵入を遅らせるためだったのかも。
弥生時代に入ってからも、最後まで大和盆地には縄文が残っていたような感じがします。水の流れ出る所が『亀の瀬』だけで、埋まっていない時にも舟では通れない所があったため、外敵が遡ってくるのを防げたのでしょう。
侵入が容易ではないうえ、環濠集落には多くの出口がありました。
それで、「命を奪われた跡」が遺らなかったのでは。
被支配者が消え去った場所で、支配者となれる者はいません。
侵略者が居座れなかった場所には、戻っていくこともできます。
[注:『note』の記事は、学問を修めていない者が想像した内容で、歴史を学ぶ方の参考にはなりません。念のため。]
後の時代、「磯城王家のオオヒコ」は、執拗に追い回されてはいますが、行く先々で新しい王国を創り、その流れは『日高見国』に繋がりました。
『次の文明の中心は、東経135度の日本』という話を知ったのは12年前で、それは環濠集落に似ているのかもしれないと、いつからか感じています。
陽の温もりに満ちた集落の周りで美しい水が環になり、ひとも輪になって光あふれる社会を創っていくのです。
奈良県東部の曽爾村や御杖村は136度台ですが、新文明の外側に位置するとは感じませんでした。計算によると、『創造エネルギーが流れ出すのは、東経135度線から東に1.4度以内』なので、曽爾村や御杖村も入ります。
「東の海」の三重県紀北町も入ります。
「肢体不自由の身を運べる範囲」は限られている、とおもっていたけれど、そこで新文明は胎動を始めていたのだと、いまになって気づきました。
生まれた時から「古代の都が南北に連なる細い帯の範囲」で暮らし続け、数年前から「新文明の中心となる広い帯の範囲」を巡っているのは、心身を調律するためだったのか………
この身を先へ運べないとしても、言葉となった希望は、水路を巡るように広がっていくでしょう。わたしはそれを遺していけます。