八ツ房杉の臥龍
【記録◆2024年8月16日】
奥大和へ行くときは常に、複数の行き先を考えておきます。落石や崩土で通行止めになった場合には、違う道を通って別の場所へ行けるよう。
この日も、出かける間際に行き先を変えました。
当日の朝、「昼すぎから雷雨」と予報が出たため。
◇『櫻實(さくらみ)神社』の八ツ房杉◇
行き先がナビに入力できないから、道の先に現れるバス停の名を見ながら南へ進みました。バス停の標識に「桜実神社」とあれば、そこで右折です。
桜の意匠が可愛らしいので、「撮らせてください」と、お願いしました。
御祭神は、はっきりしないようです(創祀や由緒も不明)。
調べてみると、「弁天さん」と呼ばれていた、という情報が最後のほうに現れますから、「龍の神さま」だろうと、わたしはおもいました。
本殿右側の『八ツ房杉(樹齢2000年)』は、「杉」とはおもえない姿。
通常の「杉」は、真っすぐ上へ進み上がる「直幹」なのに、
『八ツ房杉』の樹形は、まったく違います。
説明板には、「ひとつの株から伸びた八本の幹」とありますが、1931年(昭和6年)の調査では、「六株が密生癒着した」と推定されたそうです。
御祭神を「龍の神さま」と考えるのは、わたしだけかもしれないけれど、
『八ツ房杉』は「臥龍」の形にもなっています(臥龍=龍が伏せた状態)。
「真っすぐな杉の幹が八本とも龍のようになった理由」を考えてみました。
すると、「ここは、中央構造線に近いのでは?」という気がしたのです。
帰宅後に調べると、真上ではないけれど、遠くはありません。
『天河大辨財天社(吉野郡天川村)』の向かいには雌雄同体の巨樹があり、そこでは、「ふたつの地溝線が交差する所で、地から二重螺旋のような形で天へ向かう力があるから、ふたつのイチョウが固く縒り合わさったのか」と考えていました。
それで、『櫻實神社』にも、杉を直幹にさせない力が生じているのかと。
奈良県だと、『宮滝遺跡』が中央構造線上として有名です。
『櫻實神社(宇陀市)』は中央構造線の北側で、南側の『宮滝遺跡(吉野郡吉野町)』より中央構造線に近い、と判りました。
中央構造線が造った風景は、以下の記事の最後に載せています。
「白い鳥」という写真が、宮滝遺跡のそば。
「八ツ房杉の樹皮が赤くなった理由」も考えました。
その点も、通常の「杉」の樹肌とは異なるのです。
学問を修めていないため、知識を自由に組み合わせて想像します。
「辰砂(しんしゃ)を採掘する集団は、古代日本の和歌山県に上陸した後、中央構造線に沿って紀の川を遡っていった」と、どこかで読みました。
『丹生都比売(にうつひめ)』という女神を祀る神社に行った頃でした。
「辰砂」は紅色の鉱石で、古代日本では「丹(に)」と呼ばれていました。精製すると「水銀」になります。
水銀成分は有毒ですが、鉱物としては水に溶けにくいため危険は少なく、毒性の水蒸気が発生するとしたら、500度ほどの高温下にある場合のみ。
しかし、粉状だと害を及ぼすので、採掘は命も削る作業だったのでは。
「丹(に)」の鮮やかな朱色は、古くから多くの文化で使用されています。
「櫻實神社の土壌にも、赤い色素となる鉱物が含まれていたのでは」などと考えはじめました。
そこで、奈良の中央構造線付近で「採掘を終えた鉱山」の跡を調べると、「どうして、これまでに知る機会がなかったのだろう」とおもうほどの数が「水銀鉱山」だったのです。
しかも、1971年に閉山した『大和水銀鉱山』は、宇陀市だったのでした。
『櫻實神社』から車で9分。来るときにも横を通りました。
(粉状になった場合の毒性が、鉱山跡を完全に閉鎖した理由でしょうか。)
『櫻實神社』の横が『菟田の高城(うだのたかき)』という所だったので、「うだのたかきに しぎわな はる」という古事記の歌が浮かび、先住民の血で染まった所は「血原」と呼ばれる、という話も思い出していました。
けれども、「土を赤く染めていたのは辰砂」という想像で上書きします。
そして、採掘に従事していた民は『丹生都比売』に護られていたと。
たおやかな身に天衣をまとった女神が、幹の一部となっているよう。
「杉は、水を集める」と、どこかで読みました。
ここから近い『千杉白龍社(ちさんはくりゅうしゃ)』に行った頃です。
その地で古井戸を取り巻く杉は、水を集めるため植えられたようでした。
『櫻實神社の八ツ房杉』の横は切り立っていて、下の方に水面が見えます。
柵との間は杖も突けない狭さですから、足が滑ったら、はるか下方の池で大きな水柱を立てることとなるでしょう。杉が集める水量であるなら、
伝承によるなら、樹齢は2600年になります。歴史に従うなら1800年ほど?
いずれにしても、推定2000歳の巨木には、鉄柱やワイヤーの支えが必要。
ワイヤーは、コンクリート製のアンカーブロックに固定されています。
けれども、「2000歳の龍」は頭を上げて、起き上がろうとするのです。
分かれた幹は再び縒り合わさって、ひとつになっています。
根を囲む柵の一部が壊れています。コンクリートの土台さえも倒したのは折れてしまった幹? それとも、柵の下で根を張り続けてきた力?
秦の始皇帝は、辰砂を原料とした「丹薬」を不老不死の秘薬と信じ、その毒性によって命を落としました。
19世紀の西洋でも、水銀は薬として常飲されていたそうです。
(微量で抵抗力が増す場合があったとしても、大半は命を縮めたはず。)
『宮滝遺跡』は、飛鳥時代に造られた離宮(吉野宮)であることがほぼ確定しています。当時の吉野は神仙境と見なされていました。大和の権力者も、在位が長く続くよう願い、「神仙の力」を得ようとしたでしょうか。
「吉野宮の近くにも辰砂があったのでは?」と考えて地図を見ると、近くに「入野(しおの)」という地名が幾つも見つかります。「入」という地名は「丹生(にゅう)」と同じだと、どこかで読みました。
丹が生じた中央構造線からは、最期を遠ざける力が昇るのでしょうか。
記事を書くため、鉱石について少し調べたら、辰砂の別名が「龍の血」と書かれていて驚きました。
車で走る間は小雨が降っていたけれど、「雷雨の予報」は外れたらしく、二本杖で歩きまわる間、傘も差さずに済みました。
ここは宇陀市の南端ですから、視界に含まれるのは中央構造線が通る村。方角が合っていれば、『丹生川上神社中社』(東吉野村)の辺りです。