水辺の小径
【記録◆2024年6月12日】
雨があがると、大和盆地を取り巻く雲が現れて、山の麓だけを隠します。まるで、大きな白い龍が、平野部との境に身を横たえているよう。
地の龍は、三輪山が頭、龍王山が胴体、桃尾の瀧が尾で、天川に眼差しを向けているから、陰陽のように白い龍は寄り添っているのかもしれません。
ひとの眼差しも遠い山稜に一瞬で着くのに、晴れた日でも、山中に入ると行き先を見失うことがあります。
盆地から見えている所へ行くには、いったん大阪側に出なくてはならないと知り、二上山と岩橋山の間は2月に通ったから違う道を選んで、二上山と屯鶴峯の間を抜けました。
南東へ向かう「山奥のハイウェイ(信号の少ない国道や県道)」は幾つか覚えたけれど、用事がなければ街へは行かないので、西へ向かう道も少しは覚えておこうと考えたのです。
大阪側でも、金剛山地の麓には、奈良と変わらない風景が続いています。ただし、町を通る道には信号が多く、わたしには林道を走るほうが楽。
何度も停止しながら進むと、ようやく、目的地の村名が現れました。
ところが、ナビに従って山中に入ったら、なぜか奈良側に戻り、そこから「廃道」へ誘導されてしまったのです。
説明書を読まずにナビを使っているため、どうすれば違う道に行けるのか解りません。来たことがない所だから、どこに居るのか見当もつきません。
無限記号のような軌跡を描いて山中を彷徨ってから目的地を変えました。
奈良側に出たら、どこに居るのか分かるので、
『鴨都波(かもつば)神社』を再訪しよう、と想ったのでした。
魂が最も心地よく感じる場所です。
東へ向かう道で不意に、「まず高鴨神社へ行こう」とおもいつきました。暑い日だったため、「そちらのほうが、休むには涼しいだろう」と。
『鴨都波神社』は海抜97mで、『高鴨神社』は海抜292m。
前回(2月27日)に感じた違いは、気温の差ではなく、境内に満ちている「温かさ」と「厳しさ」でした。
「なぜ生きていられるのか分からない」という症状が750日続いていても、痛覚の無い所に原因があるのか、いまでも苦痛は先天性の身体障害によって生じます。そちらは10代の頃から続いているのです。
(その頃から、「老いて弱った時には、この痛みが心臓を止めるだろう」と考えていた激痛は、0歳のときの手術で癒着した所が剥がれたのか、60歳で消えました。)
不具合が気力を削ぐときには、「生きていることを休みたい」と、正確に言語化して、「やめたいのではないから、休むこともできない」と、自身に伝えるのです。
今月初め(6月4日)に「軽登山級の道」を初めて辿って、
「日常生活のほうが、比較にならないほど体力は要る」と判りました。
右脚が利かなくなってから、「坂道を超えること」も止められたけれど、
専門家と意見が異なるとき正しいのは、常にこちらのほう。
「わたしは、わたしの専門家」と、10年以上前に発言しています。
急な坂道は、前方の地面が近いため、腕の力で進むには楽なのでした。
家に居ると、床が遠くて、しかも、たえず屈まないと家事が進みません。
「二段グリップの杖」を、しばしば手の届かない所に置いてきてしまって、「さて、どうやって立ち上がろう」と思案するのです。
「COGY(足こぎ車いす)」を使って脚を動かすようになってから、背中や首にかかる負担が減り、指が動きやすくなりました。それでも、まだ何回も物を落としてしまいます。床に手が届かないので、拾うのは大ごと。
右手にも左手にも杖だけを持っていればいい「秘境での冒険」は、室内で多くの物を移動させなくてはならない「毎日の家事」よりも楽なのです。
(保険料を納付しているから、医療も支援も受けられるのですが、わたしはどちらも希望しません。良くなることは身体に任せ、楽になることは自分で工夫をして、その経過も結果も納得して引き受けるため。)
片膝でも床に着けたら、立ち上がるのはバーベル上げのよう(自分の身がバーベルのほう)。わたしが舞台で踊っている姿を描いてくださった方は、束になった筋肉を絵に表せて「大満足です」とおっしゃっていました。
◇高鴨神社◇
前回とは違って新緑が、拝殿を隠しています。
ひとの少ない平日ですが、「撮影禁止」の立て札がある所は撮りません。
大和盆地に満ちているのが、出雲王家の主王ではなく副王の気配なのは、最初に国を造ったのが、「奇日方(クシヒカタ)」だからでしょう。
クシヒカタは、副王「事代主」の子で、大和では父を祀ったのです。
しかし、平野部に近い神社からは「事代主」の名が消されています。
主王の気配が濃くないのは、「奇日方(クシヒカタ)」を頼って島根から移住した「多岐都彦」が、主王「大国主」の孫であるためでしょうか。
「多岐都彦(タギツヒコ)」は、祖父ではなく父を祀ったのでした。
この標高になると、「まつろわぬ民」の領域なのか、祭神は、元のままであるようです。追加はされていますが。
本殿の横は、摂社・末社が鎮座する神域。
東側には、前回に行きました。
西側にも階段があると気づき、今回はそちらへ。
『宮池』の水辺に、小径が続いています。
こんな所があるとは知りませんでした。
「宮池」を巡る小径に、たくさんの祠が並んでいました。
それぞれに、わたしには懐かしい名が書かれています。
心の中で、「出雲神族の小径」と呼びました。
出雲神ばかりではないのですが、世界を巡って大和に還ってきた方たちが神となったのであれば、美しく融和して、ひとすじの道を創っています。
屈むことが難しい身であり、見下ろす形になるのは申しわけないけれど、「国土をお護りくださって、ありがとうございます。日本人が美しい国土にふさわしい魂を取り戻し、その美しさと響き合う心となっていきますよう、お導きくださって、ありがとうございます」と申し上げました。
(よく存じ上げない神さまには、お辞儀だけにさせていただいています。)
祠は撮らないつもりだったのに、陽が差して輝いたから、
「かみさま、撮らせてください」と、お願いをしました。
一言主神社 事代主命(コトシロヌシ)
猿田彦神社 猿田彦命(サルタヒコ)
聖神社 大物主命(オオモノヌシ)
金刀比羅神社 大己貴命(オオナムチ)
親しい名前が続きます。
「ゾウの鼻のように突き出た物」を「サルタ」と呼び、「サルタヒコ」とは出雲のゾウ神(猿は当て字)。
「オオモノヌシ」は「コトシロヌシ」であると伝わっています。
「オオナムチ」は、正しくは「大名持」で、役職名なのだそうです。諸説のどれが正しいのか、わたしは判断できない立場ですが。
小径の奥に、鮮やかな社がありました。ここは高くなっています。
「本殿」に祀られていたのは、出雲王家の系図と照らし合わせると、
「味鋤高彦」=タギツヒコの父=大国主の子。
ともに祀られているのは、「下照姫」=「味鋤高彦」の妹。
「西宮」に祀られているのは、
「多紀理毘売命」(古事記では大国主との間に味鋤高彦と下照姫を生んだとされていますが)系図では「多岐津姫」=「味鋤高彦」と「下照姫」の母。
「天御梶日女命」 系図では、「御梶姫」=「味鋤高彦」の后。
「瀧津彦命」 系図では、「多岐都彦」=「味鋤高彦」と「御梶姫」の子。「塩冶彦命」 系図では、「塩冶彦」=「多岐都彦」の兄。
大和盆地が大和湖だった頃には、地の龍に寄り添う「白い龍」のあたりが水辺だったから(『山の辺の道』が現在の呼称)、いま居る所は出雲神族が移り住んだ「古代大和」の相似形のよう。
最も遠い山頂が、たぶん、「本日の行き先」と決めていた所。
梅雨入り前に行きたかったのですが……
帰宅後、『関西道路地図(1320円)』を買いました。
ナビの機能を詳しく知るより、最新の地図を見たほうが早いので。
道に迷ったあたりは、だいぶ北のほうで、葛城山の山中でした。そこにはおもいがけず、「いつか行こう」とおもっていた瀧があったのでした。
この日の最初に撮った写真ですが、ここに載せておきます。
「役行者(修験道の開祖)」が葛城山へ修行に行くとき、ここで身を清めたとのこと。
このあと『高鴨神社』へ行き、帰りはこれまでと異なる道を進みました。
来るときに、「電線が横切らない場所」を見つけておいたのです。
前回(3月4日)には、霞んで見えなかった所まで見渡せました。
◇鴨都波(かもつば)神社◇
前回(2月27日)には、おもいがけず「早咲きの桜」に迎えられました。
今回は、おもいがけず「様々な彩りの紫陽花」に迎えられたのです。
わたしは、新しい帽子と服で薄紫色をまとっていたから、紫陽花の仲間に入れてもらえたような感じがしました。