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「女尊男尊」の古代出雲
【記録◆2025年1月31日】
「現代の農家に根を張る男尊女卑」をそのままにしなかったのは数十年前。
当時、同年代だけではなく、80代90代の共感を得たことに驚きました。
そして、『娘には少しでも荷を軽くして渡したい』と同世代が語ったら、「負わなくていい荷は、ひとつも残さない」と、心の中で呟くのでした。
わたしは農家出身ではなく、勤め先が都市銀行だったため(勤続10年)、絡みつくように寄ってきた他家の家父長さんから、初対面の挨拶も無しに、
「あなたは、何の価値もない人間です」と告げられたことがあります。
面識も無いのにわざわざ「無価値」と伝えに来た家父長さんのご家族には「この10年、非農家出身だったため心を病んで過ごした方」がいらっしゃると聞いていたので、穏やかに迎え撃つ心づもりはしておいたのです。
『牛馬にも劣る』とされていた時代を生きているつもりはなかったから。
暴言を受け入れてもらえなかった家父長さんは、すぐさま余裕をなくして殴りかかってきましたので、「なるほど、いたぶられるままでいたほうが、心は壊れても身の安全は守れる、ということか」と、理屈は学べました。
とはいえ、『舅からバケツで殴られながら作業をしているが、実家の母に訴えても、農家とはそういうものと返ってくるだけ』という投書を読むと、非農家から来た者は、「バケツで殴り返せ」と、許可したくなるのでした。
けれども、わたしは他の方たちに働きかけません。どの分野でも。
「あきらめたひと」の心を変えて、と頼まれたら、その場で断ります。
ただ、「ひとつの在り方」を示せば(前例のない在り方は特に)、ひとがご自身に許可を与える合図となるようです。
全国各地から様々な世代と職業の方々がお手紙をくださいました。
「きょうから生き方を変えます」と。
年少者をいたぶって快感を得るのが楽しみだった家父長さんは、その後、同じ場に居るときでも近づいてきませんでしたし、ご家族の方は、わたしを大歓迎してくださって、心の病も良くなられたのでした。
(ほんとうに病んでいるのは、暴力を振るう側ですので。)
「現代」が「近代」となりつつある現在、
「負わなくていい荷を負わされた若い世代」の声を聴く機会はありません。
農業従事者の平均年齢が68歳になったためでしょうか。
しかし、農家でなくても、荷物を先送りにした家庭は少なくないらしく、若い方たちが世に出す物語の多くに、男尊女卑が描かれています。
歪んだ世界を、わたしは望みません。
だから、「古代出雲の女性たち」の美しい姿を追っていくのです。
◇◇長尾神社◇◇
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『吉野』の方々の祖神が、ずいぶんと離れた『葛城』に祀られていました。
祖神「水光(みひか)」を御祭神とする神社は、他に見つけられません。
『御船の瀧』へ行く道で「井光の井戸」という案内板を見て、
「尾のある人、井より出て来たりき」と『古事記』に記されたのはここか、とおもった記憶があります。
その時には、『井光(いひか)』という国つ神は「豊御富(とよみほ)」「水光姫(みひかひめ)」と呼ばれる女神だと知りませんでした。
『日本書紀』には、「人有りて、井の中より出でたり。光りて尾有り」と、記されています。光を放ちながら現れた女神だったから、近くにある滝は、『岩戸の瀧』という名前なのでしょうか?
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帰宅後に気づきました。上の写真の左下と右下に、「石の蛙」がいます。
左のほうは母子なのか、ちいさい蛙を背に載せて。
蛙も、「土蜘蛛」と同じく、先住民に与えた姿なのでしょうか……?
しかし、ここでは、敬意をこめて頭を撫でられてきました。
『なで蛙』は「無事に帰る」「若返る」といった願いを叶えてくれると。
沼地の大和で、水路を熟知している水人は、重要な存在だったでしょう。
『長尾神社』の地に水光姫は、「白蛇」の姿で降臨したと言われています。
また、三輪山の『大神神社』が蛇の頭、『長尾神社』が尾である、とも。
『長尾神社』の名称の由来は、「美女を嫁にされた神が姿を現さないから、神の着物の裾に付けた赤い糸を追っていくと長尾宮に入った」という話で、『大神神社』にも、ほぼ同じ内容の伝説があります。
赤い糸は、「赤土」で染まった麻糸だったから、「辰砂(シンシャ)」を意味するのでは、と想像しました(辰砂は、朱色の鉱物で、水銀の原料)。
北海道の水銀鉱山の名前になっている「イトムカ」は、光り輝く水という意味なのだそうです。奈良には、水滴状になっている自然水銀は、ほとんど無かったらしいけれど、先住民の言葉の一部が「糸」になったのか、と。
[注:『note』の記事は、学問を修めていない者が自由に想像した内容で、歴史を学ぶ方の参考にはなりません。念のため。]
『水光姫命は、吉野川を守る水神であり、井戸の神でもある』とのこと。
しかし、『長尾神社(葛城市)』から『吉野川』は遠く、車でも30分以上かかります。
『古事記』に、「尾のある人、井より出て来たりき。その井に光ありき」と記された場所が『吉野郡 川上村 井光』なら、『いひかの里』という施設が『岩戸の瀧』へ行く途中にあるのに、なぜか、井光の読み方は「いかり」。
『井光(いひか)』は別名、豊御富(とよみほ)、水光姫(みひかひめ)。
初代大王『ムラクモ』の系図(海部家)に、「伊加里(いかり)姫」と「豊水富姫」という名前が記されている、と気づきました。
では、水光(みひか)、井光(いひか)、豊御富(とよみほ)、豊水富は同じ方の別名で、『伊加里(いかり)』だけが違う方なのでしょうか??
混乱するばかりなので、「母系社会」だった時代の「父系の系図」からは目を離しましょう。
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姫君たちの名を追うのではなく、この地にいらっしゃったと判っている『大屋姫』の姿を追います。『長尾神社』から『大屋』までは、車で数分。
出雲(島根県)、丹波(京都府)、大和(奈良県)と住まいを変えられた『大屋姫』を、父や夫や息子の庇護がなかったら居場所も得られない女性と見なすのは時代錯誤です。2200年前は、「平安時代」ではありません。
『大屋(葛城市)』の地に立ちたい、とおもったけれど、農道は自転車でも出られなくなることがあるので、少し南の公園に車を止めました。
金剛山地の山々が、わたしを抱き取ってくれるよう。
北から南へ、想いを巡らせながら、山地の端まで眺めていきます。
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上の写真の最奥を、『吉野川』が流れています。
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そばに小鳥が来たので、「羽交」の実物を撮らせてもらいました。
下の記事に、万葉挽歌の「大鳥の羽がひの山」は『穴師山』なのでは、と書いていますが、広げた翼の形の山ではないと、わたしはおもうのです。
◇◇葛城市歴史博物館◇◇
予定になかったけれど、南へ走っているとき道端の案内板が目に入って、「葛城市に歴史博物館があるんだ。行ってみたいな」とおもったのです。
どんな所なのか少しも知らないから、進む先々にある表示が頼り。
「COGY(足こぎ車いす)」は家に置いてきたので、受付の方に、
「車椅子の貸し出しはありますか?」とうかがったら、介助用車椅子をすぐ出してくださいました。
真心のこもった対応をしていただき、入館しただけで心が温められます。
「COGY(足こぎ車いす)」ではない車椅子を使ったのは、2016年が最後。
それで、介助用車椅子に座った瞬間、「動かない……」とおもいました。
COGYだと、座ると同時に動き出すのです。
いえ、自分の脚で動かしているのですが、漕いでいるという自覚がない。
「広い空を翔ける龍になった気分」を、いつも感じていたのでした……。
[COGYで走り回っている動画は、5年前(2020年11月8日)の記事内。]
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『船は死者の魂を他界へ運ぶもの』という当時の人々の考え方が反映…………と説明されていますが、「再生の願いがこめられている」と感じました。
「舟は女性の象徴で、舳先は男性の象徴」と、どこかで読んでいたから。
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いつだったか、九州の『吉野ケ里』で古い棺が発掘されたとき、その蓋に「×」がたくさん描かれていたため、死者が蘇らないようにするためだろうと解説されていました。
でも、「×」は重なり合う男女を表すので、わたしは、「この世に、再び生まれてくること」を願ったのだろう、とおもったのです。
ここは、埴輪が作られる時代になっても、「還りたい」場所でした。
社会がいまのようになっても、葛城は、温かい巣のようです。
だから、母系社会の女性だった『大屋姫』は自分の居場所を自分で択び、過去であれ現在であれ不本意な境遇には留まらなかったと、この地に立てば分かる気がしてきます。
何百年か後、『紀の川』の河口から侵入しようとした外敵は、女性首長に退けられました。
(敗戦が悔しかったのか、後の世に伝えるときには、女性首長をバラバラに切り刻んで勝ちどきをあげた、という話に変えているけれど、志の高い者がそのような行為によって誇りを示すとは、わたしには考えられません。)
ひとびとが『大和』に、『亀の瀬』から来るにしろ京都から来るにしろ、『クシヒカタ』が最初に造った新王国の入口には『大屋姫』がいて、様々な差配をしていたのではないか………と想像するほうが、心に合います。
さっき、「大屋姫の視界」を撮るため、小高い丘に二本杖で上りました。
背中側は、足もとから街が広がっていて、大和盆地を一望できたのです。
新王国が造られた頃に、『亀の瀬』が埋まっていて、『鍵・唐古』ムラが水没していたとしても、この丘から復興の差配ができたかもしれません。
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『長尾神社』には、白蛇を封じた井戸があって、その井戸の蓋石を取ると、大和一面が水浸しになると言われています。もしかしたら、大和盆地の水が『亀の瀬』の土砂の堰の決壊によって抜けた事を伝えているのか………。
『大和』で祀られているミホススミも、父『事代主』が亡くなった後、母や兄とは違う道を択んで島根の出雲に留まり、他のひとびとにとっては困難な「ハタ族との融和」に心を尽くしました。
大屋姫は、ハタ族とともに出雲から移動しているので、周囲のひとびとに(ハタ族との間に生まれた子どもたちにも)、この国土で生きていくための心構えを教えたはず。
古代出雲の女性たちは、その在り方によって、女神となったのでしょう。
そして、2200年後の現在も、祖神として敬愛されています。
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古代の展示物を見ると、「出雲神族の方たちが触れたのでは」と考えて、時空を超えるのですが、上の写真の道具を見ると、おおかたが記憶にあり、過ぎた時代の一部を自分も担っていると分かりました。
◇◇葛木坐火雷(かつらきにいますほのいかづち)神社◇◇
地元では、『笛吹神社』と呼ばれています。
初代大王『ムラクモ』が最初に住んだ場所なので、ともに移り住んできた渡来系のひとびとに心を合わせてみました。
「龍神を形どった藁蛇を聖木に巻くのは、出雲王国の信仰」で、渡来人は、かつて出雲王国の人々を改宗させようとして藁蛇を切って回りました。
でも、ここに来た頃には、国土と響き合う心に変わっていたのでしょう。
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あと少しだけ山の傍に居たくて、帰りは遠回りをしました。
『茅原』を通って、「役小角の生誕地だ」と気づき、『曽大根』を通って、「大彦が育った所だ」と気づき、この地は過ぎ去らない歴史とともに在るとおもうのでした。
大和に移り住んできた順は、
『クシヒカタ』 東出雲王家(島根県)や三島(大阪府)のひとびとと。
『タギツヒコ』 クシヒカタを頼って、西出雲王家のひとびとと。
『大屋姫』 弟のタギツヒコを頼って………なのでしょうか?
『ムラクモ』 丹波の王国から、ハタ族を率いて。
大屋姫とタギツヒコの妹が、クシヒカタの妻です。
大屋姫の息子『タカクラジ』の異母兄が、『ムラクモ』です。
『大屋姫』は、大和に最初の王国を創ったひとびとの結び目だったのだと、わたしは考えます。
そうでなかったら、タギツヒコの拠点から最も遠く、ムラクモの拠点から最も近い土地に住み続けなかったでしょう。大屋姫が嫌がるような場所に、クシヒカタは住ませなかったでしょう。
大屋姫は、『笛吹』の北方で晩年を過ごし、いまは『紀の川』河口近くに祀られています。外敵を退けたのはタカクラジの子孫なので、大屋姫の血も引いていたはず。
『紀の川』は、県境で『吉野川』と名を変えます。
大屋姫は、身を離れた後、『吉野川の水神』となったのかもしれません。
[注:『note』の記事は、学問を修めていない者が想像した内容で、歴史を学ぶ方の参考にはなりません。念のため。]