天香久山の山頂
【記録◆2024年1月9日】①
小さい住処なので、車椅子は室内では椅子として使うだけ。
移動するときに左手で突くのは、自立式の4点杖(家事をするときには、頭のてっぺんから膝下まで自作の補装具も着けます)。
右手でフローリングワイパーをつかんだら二本杖となり、なんとか床から立ち上がれます。ハタキを持つ手が足らないので、自転車用の傘ホルダーを杖に取り付けました。
わたしは40歳のとき、「1年だけでも踊れたら」と願ってジャズダンスを始めたら身長が3センチ伸びたため、ぎりぎり金具が留まる高さで4点杖を使っていたのでした。元の身長だと傘ホルダーは取り付けられません。
杖に体重を預けると下の方に手が届きやすく、脚に強い痛みを感じないで済むから、「痛みに伴う怒り」を覚える回数が減りました。
40年前に亡くなった父の身体障害が重度だったため、自分は恵まれているとおもっていて、「痛い」と口にしません。痛みに伴う怒りも表しません。
不機嫌は周囲の気を枯らすと知っているから。
『気枯地』から自分を切り離したい時には、自然のなかへ行きます。
「脚がちぎれそう」と想いつつも、意識から痛みを切り離して。
「冬枯れ」という言葉があっても、樹々は葉を落とすだけで枯れません。
求めなくても常に満たしてくれます。
きょうも、『天香久山』の山頂(152.4m)を目指します。
きょうは、東側の『万葉の森』を通って。
先月22日には、西側の登山口から山頂へ向かいました。
先月28日には、『万葉の森』の中を進み、山頂には行けませんでした。
前回とは違う道を選んだため、万葉歌碑が下り坂の先に見えます。
山の斜面を進んで振り返ると、三歩後ろで見た景色が変わっています。
それで、三歩ごとに振り返るのでした。
年末に土地の方が教えてくださったから、
「あのあたりが多武峰」と判ります。
前回とは違って、山の色の濃淡で遠近が判ります。
上の写真のような道だけスタスタと歩けて、そんなふうに歩いていた頃の感覚を取り戻せました。こういう道では、地面に足を置くのではなく、足を置いた所に地面が在るのです。杖を突く所にも。
「おもうように動かない身体で、おもいのまま動ける時間」が数分あれば、身体のどの部分に対しても「無いほうがいい」と考えずに済みます。
「山中では、夏には気温より涼しくなり、冬には暖かくなる」と、説明板に書かれているのを読んで、「不動窟鍾乳洞のようだ」とおもったのですが、たしかに、頭上を見上げると洞窟のよう。
『不動窟鍾乳洞』の洞内は、年間を通じて平均気温13度でした。
道の先に陽が差しています。山頂が近いのでしょう。
鳥たちの声も、山道を取り囲む「無形の洞窟」のよう。
きょうは、行ったことのない場所へ行く予定だったのに、『万葉の森』に入ったとき、「もういちど山頂の神さまの所へ行きたい」と感じたのです。
神さまのおうちは撮らないのですが、祠の扉についている「金色の龍」に惹かれたので、「失礼をして申しわけないのですが撮らせてください」と、お願いしました。
上が左の神殿の扉、下が右の神殿の扉。
左に國常立命が、右に高靇神が祀られています。
神さまのおうちも撮らせていただきました。いまだけの風景だから。
山頂は風が強いためか柱が傾いています。
先月は、『高龗神』だけが龍神(白い龍の女神)だとおもっていました。
「國常立命を『地球の創成に深く関わった金色の龍神の人型』とする説」を知ったのは大晦日です。
同じ日に、天香久山の古名は「龍王山」だったと知りました。
現在は、大和盆地の東側で最も高い山(586m)の名となっていますが。
『天香久山での雨乞い神事のとき、龍王神が大蛇に乗って降りてきた』
という伝承があって、「龍なら大蛇に乗らなくても」とおもったのですが、龍神が人型であったなら大蛇に乗る必要はあったでしょう。
海外の先住民の長老が、日本人は金龍の末裔であると語っています。
天香久山は、創成の地なのでしょうか。
北西の空に、白い龍の神さまがいらっしゃるように感じました。
前回と同じく快晴なので、生駒山、矢田丘陵、二上山、耳成山、岩橋山、畝傍山、葛城山の見え方はそう変わりません。
それらの山々は、以下の記事に載せています。
冬至(12月22日)には、『金剛山』も見えると知らないまま帰りました。
例年より気温が低く、山頂を吹き渡る強い風が冷たかったため、そちらへ顔を向けられなかったのか?
天香久山の山頂から、西南西に葛城山(右)、その南に金剛山(左)。
遠くから見た金剛山は、以下の記事に載せています。