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ひのもと
【記録◆2024年11月5日】
京都に住んでいた頃、家の前が真っすぐな坂道だったため、下る方向には道幅の視界に、遠くの高い山がおさまっていました。
また、ひとすじ向こうの道は、斜面を下りていく道と並んでいたため家が建てられない地形となっていて、そこから山城盆地を見渡せたのでした。
奈良と同じく京都も、視界の果てが稜線だから、地平線は見えません。
でも、遠くの稜線が闇に消える夜は、真っ暗な盆地の果てが冷たい宝石に埋め尽くされて、そこが空との境界であるように視えたのです。
都会は好きではないのに、その夜景だけはいつも「愛しい(かなしい)」としか名づけようのない想いを、胸の底から引き出してくるのでした。
奈良で暮らした年数が上回ってから、「あれは、どこの夜景だったのか」とおもって調べると、意外にも、そこは県境の向こう(大阪府)。
そちら側の稜線は、さらに向こうの六甲山(兵庫県)だったのです。
「たくさんの灯が煌めいていたのは、古代から栄えた『三島』(大阪府)」と知ったのは昨春。
「大和に最初の王国を造ったクシヒカタが育ったのは三島」と知ったのは、その5ヶ月前。
わたしが三島を見渡せる所に京都市から移ったのは、その60年前でした。
出雲で「事代主(コトシロヌシ)」が亡くなった後、妃の「活玉依姫」は子どもたちと実家に帰りました。大勢の出雲人がついていったので、三島は出雲王家の領地のようになったそうです。
先日、その範囲が「京都府向日市」にまで及んでいた、と知って、地図で場所を確かめると、向日市は「坂の上から見ていた山」の手前。
幼い頃から、「三島」一族の領地を見渡して、わたしは育ったのでした。
ひとは縁のある土地に引かれるそうです。
その土地を知らなくても魂は、根のある所を知っているのでしょうか。
歴史上の人物にはそれを規範としたい人の数だけ顔があり、その時代から遠く隔たった場所で、わたしたちは自分のうちに在る誰かを「見失いそうな理想の体現者」にして生きていきます。
確かめようのない「事実」を追求する必要はありません。
「大和に最初の王国を造ったのに、初代大王とならなかったクシヒカタ」の在り方が、わたしには好ましいのです。
「クシヒカタ」で自分の記事を検索すると、2桁の記事が挙がってきます。
ゆかりの地は、行ける範囲で巡りました。
冒険記を『note』に書きはじめた動機は以下のとおりで、水の美しい所を巡っていただけなのに、そこでは幾度も「出雲神族の痕跡」と出会うため、いつのまにか「日本古代史」とタグ付けもするようになったのでした。
「行きたい」と感じた所へ行くと、そこに「痕跡」があるのです。
では、前から行きたいとおもっていた『白藤の瀧』のあたりには?
そこは奈良県内ではありません。住所は、三重県伊賀市です。
「九州から攻めてきた勢力を紀の川で退かせた後、磯城王家のオオヒコが、『次には勝てない』と判断して大和から移った先が、たしか伊賀だった」と思い出して調べると、『白藤の瀧』のすぐ近くに名が記されていました。
伝え手によっては、伊賀に来たのはオオヒコの息子となっています。
しかし、オオヒコが『三島』にも住んだことには、異説はありません。
わたしの感覚では、出雲神族は「創る者」です(例外はあっても)。
「奪う者」に追われて移り住む間に、オオヒコは新王国を、伊賀だけでなく琵琶湖東南岸にも創りました。
和国大乱の数十年間、『野洲(滋賀県)』で王国を維持したそうですが、そこまでは足取りを追っていけません。
その先も、車椅子ユーザーの脚では。
はるかな先には、『日高見国』が在るのだけれど。
オオヒコは、古史古伝を考察する男性方に人気があります。
わたしも、クシヒカタの次に好きなのがオオヒコ。
「そこがどこなのか知らないまま眺めていた三島にオオヒコも住んでいた」と知って、その地がいっそう愛おしくなりました。
でも、都会が苦手だから、いまも栄えている所には行く気になれません。
今春、「1200年以上前に(実際は1489年前)隕石が落ちた所」へ行って、
「街を通って淀川を渡れば、クシヒカタの名が残る『溝咋神社』へ行ける」と考えはしたけれど、すぐさま大阪の入口から奈良に引き返したのでした。
山奥の方角には、迷いなく向かいます。
今回も、迷いなく『伊賀』の山奥へ。
◇◇白藤の瀧◇◇
もとは30mの滝でしたが、明治29年の大洪水により滝口が決壊し、滝壺も埋まって、現在の15mとなったそうです。
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30mの瀧が半分の高さになってしまうほどの水量とは…………
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滝の水が「藤の花房」にみえるので、『白藤の瀧』というそうです。
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◇◇二位の瀧◇◇
上流の滝にも行きました。道は、きれいに整備されています。
『白藤の瀧』ほど整っていなくて、わたしにはこちらのほうが歩きやすい。
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水面(みなも)に影を落とす樹は、いつか滝壺に抱かれるのでしょう。
◇◇三寶(さんぽう)の滝◇◇
さらに上流の滝へ。
健常者にとって最も歩きにくい道が、わたしの脚には最も歩きやすい。
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広い滝壺があるから、たぶん左が滝。
でも、正面に出る道が判らないので、無理に進まず引き返しました。
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来たときに下りる所を選んだら、滝が見られたかも。
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◇◇敢国(あえくに)神社◇◇
御祭神は、「大彦命(おおひこのみこと)」。
その歴史は、他の神社と同じく、出雲の伝承とは異なっています。
(出雲の伝承には整合性があるため、わたしはそちらを基にするのです。)
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オオヒコは、出雲王家を尊敬していたので、スクナヒコ、カナヤマヒメと祀られているのも納得できます(歴史と照合したなら混乱するだけ)。
「大和の磯城王家」の祖は、少名彦(出雲の副王)だった事代主で、出雲の龍蛇神は、とぐろを巻いた蛇。
カナヤマヒメは「とぐろを巻いた蛇体」だと、どこかで読みました。
[注:『note』の記事は、学問を修めていない者が想像した内容で、歴史を学ぶ方の参考にはなりません。念のため。]
ここの御神体は、本殿と向かい合う「南宮山」だとおもいます。
その山頂から遷したという岩が、境内の最も低い所に鎮座していました。
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奈良の『高天彦神社』でも、似たような違和感を覚えたのです。
もとは出雲神族の神域だったのかもしれませんが、神体山の『白雲岳』に在ったという岩が、境内に遷されていたので。
奈良では、『丹生』という名の神社の御祭神が「丹生都比売」ではない、というのも、似たような経緯によるものかもしれません。
神域を壊さないけれど、神の位置を移してしまう、という。
(実際に信仰されている方たちは、様々な思惑に乗せられず、どの神さまも大切になさってきたでしょう。)
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塀だけが残っていて、向こう側は草地となっています。
壊れた龍は、ほんとうの歴史を語ろうとしているのでしょうか。
和歌山の『紀の川』にも、三重の『熊野』にも、「先住民の女性首長は、頭、胴、脚とバラバラに埋められた」という伝承が残っています。
たしか、奈良の『高天彦神社』近くにも似た伝承が…………
しかし、「大和の最初の王国」から、昇陽は国土を照らし続けました。
どこよりも早く陽が昇る「東の地」へ運ばれた「出雲の太陽信仰」は、『日高見国』という国名となっています。
日高見国は後に『日本之国(ひのもとのくに)』と名乗り、鎌倉時代まで日本列島には「日本国(ひのもとくに)」と「和国」が並立していました。
ふたつの国があったことは、外国には広く知られていたそうです。
記紀に「ふじ」の記録がないのは、富士が『日本国』の山で、『和国』の山ではなかったためなのでしょうか?