大和の大和
【記録◆2024年3月27日】
「島根の出雲」で副王の「事代主(コトシロヌシ)が亡くなった後、妃の「活玉依姫(イクタマヨリヒメ)」は子どもたちと実家(大阪府高槻市)に帰りました。
息子の「奇日方(クシヒカタ)」は成長すると、新しい王国をつくるため「大和」の葛城山東麓に移り、その後、妹の「タタライスズヒメ(三輪山の初代祭主)」と「イスズヨリヒメ」が先に住んだ三輪山西麓へ移りました。
姉妹が住んだ『出雲屋敷跡』に行ったのは12日前。
同じ日、初代大王(タタライスズヒメの婿)が住んだという『穴師』にも行っています。
「大和の出雲」を巡るのは、以上で終えたつもりでした。
ところが、何で知ったのか、『神坐日向(みわにますひむかい)神社』の御祭神が「櫛御方(クシミカタ)」と判り、「奇日方(クシヒカタ)」とは同一人物だろうと前から考えていたので、そこにも行こうと感じたのです。
歴史を学校で学んだのは高校まで。
古代史の本を読むのは好きでしたが、「自由時間が1日に15分しかない」という生活が始まったとき「いまは手離そう」と決め、30年以上の時を経て取り戻したのが2年前。以来、車椅子から離れて、古代を巡っています。
一昨年の5月、奈良県曽爾村から帰ってきて、盆地に入る手前で「出雲」という地名が現れたときには驚きました。
「どういう由来で、ここは出雲なのか。なぜ、大和に出雲があるのか」と。
島根県は奈良県より西ですから、「出雲からの移住者なら盆地の西寄りに住むのではないか」と考え、「大和湖があった頃には、盆地の西部に土地がなかったのだろうか」と、当時は想像もしたのでした。
「最初の移住地は、盆地の西だった」と知ったのが同じ年の11月。
翌年10月には関連情報が次々と入ってくるようになりました(その前月に生前整理を済ませ、『リビング・ウィル(生前の意思表明)』の書類も用意しています。空きを創ると、なにか新しいものが入ってくるのでしょう)。
現代社会の様々な面について、わたしは情報だけで判断をしません。
古代に対しても、五感と経験と直感を使います。
◇三輪坐恵比須神社◇
目的地『神坐日向神社』の傍にある『大行事社(だいぎょうじしゃ)』が気になって調べると、『三輪坐恵比須神社』の元宮で「事代主」が御祭神と判ったため、「まずクシヒカタのおとうさんから」と順番を決めました。
根元から幹が二つに分かれています。この樹に触れて願えば想いが達すると書かれていますが、託したい想いは無いので、ただ手を合わせました。
上の写真のようなお姿だと、わたしは想っています。
下の写真のようなお姿で通っていますけれど。
ひとにも「枯死」という言葉が使われるのを初めて見たのは出雲の伝承。ふくよかな姿で祀られるのは鎮魂のためなのでしょうか。
左の『琴比羅神社』は、屈まないと鳥居をくぐれません。
「こちらの神社に来たのだ」という感じがしました。
(恵比須神社のほうに書かれていた御祭神は「八重事代主」。)
『琴比羅神社』の御祭神は「大物主(オオモノヌシ)」。
出雲の事代主(コトシロヌシ)が「大物主」です。
事代主は、出雲の「少名彦」でした。神話ではスクナヒコがスクナビコナという「一寸法師のような小さい神」に変えられています。
しかし、「少名彦」とは役職名で、副王のこと。
「鳥居が低いのは、おとぎ話に隠された歴史を示しているのだろうか」と、学問を修めていない者は自由に想像します。
「かみさま、撮らせていただきます」と、お願いをしました。
12日前のように鶯を見つけられるか、とおもったのですが、見分けやすい大きさの鳥でした(ヒヨドリ?)。
小さな鳥でなくても、花の蜜を吸うときには可憐に見えます。
鳴かないので、「メジロだろう」とおもっていたのですが、そのとおり、写真を拡大すると白い輪がくっきりと写っていました。
次に行った『大行事社(だいぎょうじしゃ)』の近くです。
『三輪坐恵比須神社』の元宮である『大行事社』は、御祭神が「事代主」と書かれていました。
◇神坐日向(みわにますひむかい)神社◇
先月27日、クシヒカタが最初に住んだ場所へ歩み入ると、涙がとめどなく流れました。
いま立っている所も、クシヒカタが住んだ場所なのかもしれません。
ここでも、涙があふれそうになるから。
三輪山の高宮神社が、麓の『神坐日向神社』と誤って入れ替わったままになっているとのことですが、何十年か前に読んだ本に、「高宮神社の御祭神『日向御子』は誰なのか。日向から来た御子で神武天皇なのか」という説が書かれていたのを思い出しました。
「クシヒカタは出雲王国の太陽の女神を三輪山に祀ったので、天日方奇日方(アマヒカタクシヒカタ)[天の奇しき力を持つ日を祀る人]と呼ばれた」
とのことですから、「日向(ひむかい)」はクシヒカタなのでは。
わたしには、クシヒカタが謙虚で考え深い方だったようにおもえるから、神山の山頂より麓で、居心地よくなさっている気がします。
『神坐日向(みわにますひむかい)神社』の御祭神は、
〇大物主の御子:櫛御方(クシミカタ)
〇櫛御方の御子:飯肩巣見(イイカタスミ)
〇飯肩巣見の御子:建甕槌(タケミカヅチ)
出雲王家の系図では、
〇事代主[大物主]の子:奇日方(クシヒカタ)
〇奇日方の子:建飯勝(タケイイカツ)
〇建飯勝の子:建甕槌(タケミカヅチ)
三輪山には磐座が3ヶ所あるので、どなたか3名が祀られているのでは、と考えていました。出雲神も三柱だけど、ひとならば誰になるかと。
知ったばかりなのですが、古い記録に、「3人の大物主が祀られていて、そのひとりはクシミカタマ」と書かれているそうです(真偽は不明)。
少しずつ名が異なるけれど、新王国を創り始めたのはクシヒカタだから、クシヒカタが祀った父「事代主」とともに、後の代で祀られたのかも。
さらに後には、「大和の出雲」は隠されてしまいますが。
ここは、三輪山(467.1m)山頂の「高宮神社(標高446.7m)」も視え、反対側には、メジロが居た所と同じ風景が見えるはず。
◇天香山神社◇
『天香久山』の行ったことがない麓に『天香山(あまのかぐやま)神社』はあります。『万葉の森』の反対側です。
12日前に行った「穴師」の『射楯兵主(いだてひょうず)神社』は大和の初代大王が父親を祀った神社だと、帰宅後に気づきました。
天香久山に父「香語山」を祀ったという話は記憶していたから、こちらで先日の無礼を赦していただこうと考え、「最初に祀った所から社が移されたとしたら、ここだろう」と見当をつけた『天香山神社』へ。
「香語山」は、島根の出雲で生まれたときには「五十猛(イソタケ」という名前でした。それが少しずつ変容して「射楯」となっているそうです。
山中には巨石があるけれど、この本殿の後ろにもあります。その巨石には近づけません。
祭神名にも名は残っていませんが、誰も負ったことがない荷を負わされた「香語山(カゴヤマ)」に心を向け、響き合えるかもしれない経験を自分の内側から差し出したのでした。
帰ろうとしたとき、前日の暴風雨によって小川と化した登山道から急流が境内に落ちてきている、と気づきました(写真右上の登山道が本日は川)。
その奥に湧いている『天真名井』という泉の名は、記憶にあります。
イソタケは「島根の出雲」から丹波(京都府宮津市)に移住したとき、『籠(この)神社』後方(香語山という山)にある元宮の地に住みました。
(出雲で成長したときには「大年彦(オオトシヒコ)」と名乗り、移住後に「香語山(カゴヤマ)」と改名しています。名前を追うのもたいへん。)
香語山が住んだ場所には『真名井神社』が建てられ、「天の真名井の水」という御神水が、現在も尽きることなく湧き出ているそうです。
(ふたつの神社は近所ではありません。現代でも車で約3時間。古代には、若狭湾、琵琶湖、巨椋池を通る船路でしたが。)
歴史から消されても、真実の糸の端はどこかに隠されています。
『万葉の森』のほうへ回って、ようやく鶯をカメラにおさめられました。
写真を拡大して探さないと判りません。
冬枯れの樹々の向こうに、「大和の出雲」は姿を現しました。
芽吹きとともに隠されていき、やがて繁る葉で見えなくなるでしょう。
しかし、わたしたちはどこかで常に視ているのです。「得られなくても、奪われても壊されても、たゆみなく創り続けてきた」という在り方を。
「大和の大和」は、古代からの在り方を豊かな水のようにたたえています。