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車椅子で「大和の出雲」へ

【記録◆2025年2月14日】

「COGY(足こぎ車いす)で大神神社周辺を巡ろう」と計画を立てたのは、「大和盆地の夏は、11月の最初の週まで………」と呟いていた昨年。

「立冬を過ぎても、半袖を着ていた年」と、記憶に残るでしょう。炎天下を避けていたら、夏がいつまでも終わらなかったのです。

 混雑を避けるには、紅葉の季節を選んではいけません。
 ようやく寒くなると、初詣が落ち着くまで行けません。

 それで、「寒波」という波を読んで、戸外へ漕ぎ出したのでした。


◇◇大神(おおみわ)神社◇◇

 5年前は、「二の鳥居前の駐車区画」から参道を二本杖で歩きましたが、現在はそこに車が止められなくなっています。

 他の駐車場は遠くて、わたしの脚では「二の鳥居」にも辿り着けません。
(舗装された道は、着地衝撃が大きいため。)

 それで、「身体障害者駐車場(4台ほど駐車可)」から拝殿に向かおうと決めたのでした。そこに車を止められなかったら参拝は諦めようと。

大神神社(拝殿)

 以下の記事に、
「衰弱した御神木を、有用微生物群が復活させた」と書きました。

 蘇った御神木は、生き生きと輝いています。

巳の神杉(御神木)

 現在(2025年)のバリアフリー状況を記しておきましょう。

「車椅子通行可能参道」から「拝殿」までは、進みやすいとは言えませんが「COGY(足こぎ車いす)」で辿り着けました。

 玉砂利は薄く敷かれているので、タイヤが空回りすることはありません。  
 石畳との間に、「健常者なら気づかない段差」があるので、なるべく差が小さい所を探し、勢いをつけて上りました。

 本日の目的地は、大神神社の摂社『大直禰子神社』。
 そこまで車椅子で辿り着けるか、確かめに行きました。

 身体障害認定を受けてから、大神神社の「祈祷殿」には行っていません。
 拝殿の前から3mの高低差が階段になっているため。

 しかし、地図を拡大すると、階段の横にエレベーターができていました。2014年に完成していたそうです(正月期間の12月31日より1月15日までは、境内が混雑するため閉鎖される、とのこと)。

「COGY(足こぎ車いす)」は、広いエレベーターなら、乗ってから向きを反対側に変えられます。
 でも、たいていは前進で乗り、後進で降りなくてはなりません。

 狭いエレベーターだと、COGYのハンドルを持つ手が壁に擦れないよう、また、反対側のタイヤが引っかからないよう外に出るのは、けっこう困難。

 ですから、前進だけで乗り降りができる「大神神社のエレベーター」は、ありがたい構造。奥にも扉があって、降りるときにはそちらが開くのです。

『狭井(さい)神社』に続いている『くすり道』という小道は階段らしく、その北側の道は急坂なので、「COGY(足こぎ車いす)」では上れません。

『大直禰子(おおたたねこ)神社』は、その坂を下った先。
 上れない坂は下りも急なので、たぶん、COGYでは戻ってこられません。

 以下の記事内で、坂道を上っています。動画で角度を確かめてください。

 という情報までは、バリアフリー状況として共有できるでしょう。

 わたしは、行きたい所があると、知恵を絞って方法を考えます。
「行ってみたい」と感じるときには、何か方法があるのです。

 無自覚であっても支配欲がある人は、ここで勘違いをなさいます。
「なにを命じても、できるはず」と。

 でも、他人がさせたいことは、わたしのしたいことではありません。


◇◇大直禰子(おおたたねこ)神社◇◇

おだまき杉

 大物主と活玉依姫の神婚に登場する「おだまきの糸」が、この杉の下まで続いていた、という伝説が残されています。
(大物主と活玉依姫が、クシヒカタの両親。)

 そういえば、以下の記事内で、「赤い糸は、赤土で染まった麻糸だから、辰砂(朱色の鉱物で、水銀の原料)を意味するのでは」と書いていますが、その後、『葛城』の遺跡から出土した糸玉(縄文晩期)を写真で見ました。

『糸に水銀朱の赤漆を塗り、束ねて輪にした製品』と説明文にあったので、
「調べていたわけでもないのに、実物と照合できた」とおもったのでした。

「大直禰子(おおたたねこ)」は、正しくは「太田タネヒコ」。
 オオタタネヒコの時代になると、伝承は枝分かれします。

 島根の「東出雲王家」は、「富家」と呼ばれました。
「富家」の「クシヒカタ」が大和に移り住むと、そこからは「登美家」と。

「富家」の分家が「登美家」で、「登美家」の分家に「オオタタネヒコ」の名があるけれど、オオタタネヒコが「登美家の9代当主だった」という説もあるのです。

 九州から攻め上がってきた勢力を大和に導き入れたのはオオタタネヒコと認識していましたが、道案内したのは「登美家のオオミケヌシ(5代目)」という説もあるのです。

 頭で解らないことを追究するのは止めておきます。
 この地に惹かれたのは、クシヒカタの妻「美良姫」の名があるため。

御誕生所社

 古代出雲では、「神」を「カモ」と発音したそうです。
 それで、「登美家」は「葛城」で、カモ家(神家)とも呼ばれました。

 クシヒカタが「葛城」から「三輪」へ移り住み、登美家は「磯城地方」に住んだので、「磯城家」とも呼ばれました。
(同じ家の複数の名前を覚えるのがたいへん。)

 西出雲王家のタギツヒコは、クシヒカタを頼って葛城の南部に移り住み、登美家と同じく「カモ族」と、そして、「高鴨家」と呼ばれたそうです。

 タギツヒコの妹が、美良姫。
(母系社会だから、クシヒカタが婿入りしたことになるのでしょうか?)

 ところが、神社では、「美良姫は、オオタタネコの母」とされています。
「登美家」の初代が9代目の両親になるのは不可能なのに。

 古代出雲の姫君たちは、夫とは違う人物の妻であったと記されがち。

御誕生所社の御神体

 境内には、これより大きい「御饌石(みけいし)」が祀られていました。写真は撮らなかったのですが、この神社より高い所にある『久延彦神社』に神饌をお供えするのが、その石なのだそうです。

『久延彦神社へお参り出来ない方はここから遙拝してください』とのこと。
 久延彦(クエビコ)は、歩けない神さまです。歩行障害のある者は参道の長い階段を上れないだろうと、配慮してくださっているのでしょう。

 わたしは昨春(2024年3月15日)、知らない小道を二本杖で歩いていくと『久延彦神社』に辿り着き、「もし表参道から向かっていたら、長い階段の途中で引き返した」と、以下の記事に書いています。

『登美家は、出雲(島根)の神門家(西出雲王家)から、ミラ姫やミケ姫を迎えている』という話を読み、「ミケ姫を迎えたのは誰」と考えていたら、別の本に、『大田田根子は神門家の美気姫を奥方に迎えた』とありました。

「御饌石(みけいし)」は、オオタタネヒコが迎えた姫の名前を伝えようとしているのでしょうか?

[注:『note』の記事は、学問を修めていない者が想像した内容で、歴史を学ぶ方の参考にはなりません。念のため。]

大直禰子神社の鳥居

 鳥居の神額には、「若宮社」と書かれています。

『大田田根子は大物主の子』という話もあるからでしょうか。
 大物主(事代主)の子のクシヒカタを祀ったという話もあります。

「由緒」として伝わる話は、しばしば数百年の差を無いものとするのです。

 それで、長い年月や多くの場所に同じ名が現れる場合は、初代から子孫をひとりの人物に束ねているのだろうと、わたしはおもいます。

「姫君たちの名」が残る場所に立って、想像を巡らせました。
「出雲屋敷跡から若宮社の範囲に、出雲神族の姫君が住んだのでは」と。

 東出雲王家の姫君たちが高い所に住んだのは、大王の后だからではなく、初代大王「ムラクモ」が住んだ『穴師』に近かったため、と想像します。

 そして、西出雲王家の姫君たちがやや低い所に住んだのは、クシヒカタが住んでいた所に近かったためでは、と。

 以下の記事内の『神坐日向神社』がクシヒカタの家だったのでは、と。


◇◇大神神社(再び)◇◇

拝殿

 帰りに「宝物収蔵庫」のあたりで、地面が平らではないと気づきました。
 健常者なら気づかないかもしれませんが、車椅子は左右に振れるので。

「COGY(足こぎ車いす)」は、タイヤとキャスターが3つずつ付いていて「6点支持」だから、なんとか進みたい方向に進めます。
 また、座面が低いため、さして振動の影響は受けません。

(ひいおばあちゃんのお古の車椅子を使っていた頃は、振動によって自分の輪郭が何重にもなっていたのです。)

振り返って

 上の写真の右側にある『成願稲荷神社』にも参拝しました。
「ここのお稲荷さんは怖くない」という気がしたので。

(お稲荷さんのお使いが並んでいると、後ろめたくはなくても謝らなくてはならないような気がして、どこでも鳥居の前で頭を下げるだけでした。)

大神神社(裏参道から)

 35年前、ここをくぐって、わたしは京都から奈良に根を移したのです。
 どなたが大物主なのか、当時は知らなかったけれど。


◇◇奈良県立橿原考古学研究所附属博物館◇◇

「COGY(足こぎ車いす)」で移動するには適していない所を進んだので、
「龍のように翔けたい」という気分になり、バリアフリーの博物館へ。

ジオラマ(南から)

 吉野の山々から、京都のほうを見ています。
 写真の上端中央から、クシヒカタやムラクモは大和に来たのでした。

 当時、『天香久山』は、「海中の蓬莱島」のようだったそうです。

 現在でも、大和盆地の中央部は「磯城」という名ですし、先々週に行った『葛城市歴史博物館』の地名は、「忍海」でした。

『亀の瀬』で大規模な地滑りが起きて、盆地が湖になったのか、という気もしてきました。4万年以上前から滑り落ちている地層はまだ残っています。時には『亀の瀬渓谷』を、あり得ないほどの高さにしたのかもしれません。

ジオラマ(西から)

 上の写真の右側あたりが、「カモ(神)族」の最初の拠点でした。
 盆地が湖になっていたのなら、大きい船で荷物をたくさん運べたのでは。

『亀の瀬』が塞がっている間は、京都の南で舟を下りて、奈良の北まで歩く距離も短かったのでは。

ジオラマ(向こう側に舟)

 銅鐸は、出雲神族の神器ですから、埴輪より時代は古いのです。

ジオラマ(鳥装の巫女)

『野見宿禰が埴輪を創出した』という記紀の伝承が事実ならば(事実なら、と2回書いておきます)、埴輪も出雲神族が創ったことになります。

埴輪(鹿)
鳥形木製品
埴輪(動物たち)
見つめられて

「COGY(足こぎ車いす)」で、展示物の間を流れるように巡った後、
「漕ぐだけではなく、身体を動かしたい」という気分になりました。


◇◇鳥見山(桜井市)◇◇

 輪を描くように車で走り、「大神神社の御神体」が見える所まで戻って、
『鳥見山』の登山口へ向かいます。

 二本杖で歩く力が充分に残っていないので、麓の『等彌神社』では各所で頭を下げ、『黒龍社』だけを参拝しました。
(この黒龍は、大神神社の白蛇と対になっているようです。)

みむろ山(三輪山)が見える
鳥見山霊畤 遥拝所

『鳥見山の霊畤』が、三輪山遙拝地だというなら、『霊畤の遥拝所』とは?

 わたしのように山頂まで行けない者が、ここで祭りに参加したのかしら。
 樹が多くて、ここからは「三輪山」も「鳥見山山頂」も見えないけれど。

倒木の枝が幹となる

 この山の樹は、他では見たことがない形状になります。

 前回に来たときより、先へ進めました。このあたりで引き返しましょう。

山頂に続く道
霊畤遥拝所の手前(帰り道)

『大神神社』の御神体は「三輪山」ですが、以下の記事に書いたとおり、
「拝殿」は山頂ではなく、「標高326mあたり」の正面にあります。

 そして、「鳥見山霊畤 遥拝所」から「三輪山の山頂」に線を引いてみると「標高326mあたり」を通ります。

 つまり、「三輪山の山頂」の手前が「標高326mあたり」になるのです。

「クシヒカタは出雲王国の太陽の女神を三輪山に祀ったので、天日方奇日方(アマヒカタクシヒカタ)[天の奇しき力を持つ日を祀る人]と呼ばれた」
と、以下の記事に書きました。

 三輪山の山頂には、「太陽の女神」が祀られているのでしょうか。
(問うと同時に答えが見つかりました。『鳥見山の山頂は三輪山の太陽神の遙拝地』とのこと。)

 では、クシヒカタが父「事代主(大物主)」を祀った所は………?

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