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大和の出雲(Ⅰ)

【記録◆2024年3月15日】①

 この日にみた最も美しい光景は、桜花に可憐なくちばしを差し入れて蜜を吸いつつ花から花へ移っていく鶯が、飛び立つときにだけ散らした花びら。
 ゆっくりと3枚ほどが、輝きながら風に舞って落ちていく様でした。


 大和盆地が沼地だった頃に最初の王国が創られた「葛城山の東麓」から、東の視界の果て「三輪山の西麓」に「奇日方(クシヒカタ)」が移ったのは何年後だったのでしょう。

 わたしは、「週」と「日」で数えられる時の後、三輪山の麓に居ました。
 三輪山の初代祭主「蹈韛五十鈴媛(タタライスズヒメ)」が住んだ所に。

 三輪山の女神であるかのように崇拝されていたタタライスズヒメは、妹の「イスズヨリヒメ」と、後に「出雲屋敷」と呼ばれる宮に住んだのでした。
 この姉妹は、クシヒカタの妹です。

 葛城山の麓にいた日の記事を、以下に載せておきます。

 クシヒカタは事代主の御霊を三輪山に移し、出雲の神霊も三輪山の西北に移し、出雲王国の太陽の女神を三輪山に祀りました。それで、クシヒカタは天日方奇日方(アマヒカタクシヒカタ)と呼ばれるようになったのでした。

「天の奇しき力を持つ日を祀る人」という意味です。

出雲屋敷跡へ

 この小道を兄妹も歩いたでしょうか。

奥垣内祭祀遺跡

 地図では、『出雲屋敷跡』と表示されるのが右の奥。
 そして、さらに奥の『山ノ神遺跡』が出雲屋敷跡だと言われています。

 地元の方は『奥垣内祭祀遺跡』が出雲屋敷跡だとおっしゃっているので、「二本杖で進める距離が限られている車椅子ユーザー」は、ここより先へは行きません。「姫君たちが住まうのなら、ここだろう」と感じて。

 古代には、『山ノ神遺跡』からも三輪山が見えたのでしょうか?
 現代でも、ここからなら、早咲きの桜の間に三輪山の山頂が見えます。

早咲きの桜

 先月の寒い日、クシヒカタが最初に住んだ『鴨都波(かもつば)遺跡』で真っ先にわたしを二本杖で歩かせたのは、入り口で招んでいる桜でした。
 それまで、2月に咲く桜があるとは知らなかったのです。

 そこから車で40分離れた所でも「春分の5日前」に桜が咲いているのは、おもいがけないことでした。歓迎されているようで嬉しくなります。

鶯が居たあたり

「桜の蜜を吸う鶯」にカメラを向けたのに、ズームで撮った分にも、桜しか写っていませんでした。視力がよくないので、目で見たものをカメラ越しに捉えられないのです。

 ズームで撮らなかった「下の写真」を拡大すれば、どこかに居るはず。
 いつか探してみます。

鶯の声がする
磐座

 発掘調査のとき、この磐座のそばから多数の遺物が出土しています。
 この磐座は、似た物が代わりに置かれている、とのことですが、元の岩はどこへ移されたのでしょう? なにか刻まれていたのでしょうか。

「見慣れた白い線……」とおもいました。
 ここから車で20分ほどの『天香久山』あたりで、ふたつ見ています。
 天香久山の山中と、その近くの『御厨子神社』で。

狭井川を越えて

 三輪山には、出雲の「幸姫命(サイヒメノミコト)」が祀られたので、『狭井(サイ)川』という名の清流は、もとの意味では「幸川」。

「出雲屋敷跡は、久延彦(くえびこ)神社から続く小道の先にある」という文章を読んでいたため、逆に出雲屋敷跡のほうから二本杖で行けそうなら、「歩けない神さま」の所に行ってみたいと、ひそかに願っていました

 クエビコは、歩けないが天下のことは何でも知っている、とされていて、「誰も知らなかった神の名」も知っていたのです。
「三輪山の大物主の名は?」と尋ねたら、それも答えてくれたでしょう。

 両腕の力だけで小道を進んでいき、ふと地面の杖先から目を離したとき、小高い丘が目に入りました。
「あと少しだけ進めば、大美和の杜(おおみわのもり)展望台なのでは」と気づき、そこにも反対側から近づいていたと分かったのでした。

 舗装された街を歩いて展望台へ行くのは、わたしの脚では無理です。
「COGY(足こぎ車いす)」で行ける所まで行っても、二本杖で展望台まで上がる間、車椅子を置いておけません。
 だから、その丘には自分は行けない、とおもっていたのです。

 街のようではなくても、整えられた道はわたしの脚には衝撃となるので、「あと少し、あと少しだけ」と唱えつつ、空が広い場所まで進みました。

 そして、展望台へ続く階段の手すりのそばに咲いている花をみたのです。

馬酔木

 丘の斜面には、花の帯が垂らされていたのでした。

花あしび

 昭和28年発行の「昭和文学全集18 堀辰雄 集」は旧仮名遣いなのですが、そこに収められた『花あしび』という作品を、10代の頃から愛しています。
 旧仮名遣いではない文庫本では、『花あしび』は『大和路』という題名になっていました。わたしが、京都出身なのに京都を巡らないで奈良にばかり来ていたのは、この本に内包された世界と響き合っていたかったため。

 堀辰雄は馬酔木を、「氣品がある」「いぢらしい風情」と書いています。
(その馬酔木は、白い花でしたが。)

大美和の杜から

 左端の「天香久山」は見分けにくいけれど、中央が畝傍山、右が耳成山。それら『大和三山』の背後が、左から金剛山、葛城山。

 冬の間に低い山や丘を巡り、「樹に花や葉が無いから遠くが見える」と、しばしば感じていました。

耳成山
背後の三輪山

 新芽が葉となり、蕾が花となったら、見えなくなる風景です。

 展望台から『久延彦(くえびこ)神社』には楽に行けました。
 もし表参道から向かっていたら、長い階段の途中で引き返したでしょう。

久延彦神社の東方

「神山遙拝所」から三輪山が見えます。

久延彦神社の北西

 北西には、遮られることなく、二上山(中央右)が見えます。

久延彦神社の南西

 南西の左端に「天香久山」。右に見えているのが『大神神社』の大鳥居。
 これまで巡った場所のうち、ここからだけ「天香久山」が円錐形に見えると気づきました。霞が微かな遠近を際立たせているためかもしれませんが。

 クエビコなら、この地を歩いた方々の「ほんとうの名」と、その名にだけ結びつく事実を尋ねたとき、歴史に織り込まれた糸をていねいに引き抜き、記録の真偽が判らないわたしに、真実を答えてくれるはず。

初代

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