流れ着いた先で
【記録◆2024年7月29日】②
本日の行き先として考えていたのは、『仏の小屋瀧』。
ふだんは水量が少ない、という情報があったため、目的は観瀑ではなく、地図では判りづらい場所を確かめることでした。
また、『伐った樹に道を塞がれ、瀧まで行けない』という情報は現在でも変わらないのか、そこまで行って見ておこうと考えもしたのです。
通れるようになっていたら、水量の多い日に再び訪えば良いので。
先に別の滝へ行ったのは、『仏の小屋瀧』に水がない場合にも、きょうを「瀧で過ごした日」にするためでした。
三重と奈良の県境に近い所からは、南西へ向かえばいいのですが、ナビに案内は頼まず、「通ったことのない道」を選びました。
『宇陀川』に沿って『室生ダム』へ向かいます。
室生ダムの駐車場には、平日なのに車が何台も止まっていたので、
「ダムにひとの姿が無いのは、ここから歩いて数十分の『深谷龍鎮渓谷』へ皆が行ったためか」と推測。
渓谷には駐車場がなく、路肩にも3~4台しか止められないのです。
ダムの向こうの細い道を静かに走り続け、路肩に駐車した車を数えて、
「きょうは、渓谷では滝だけを撮れないだろう」とおもいました。
わたしが行った3年前には、「ひとの居ない写真」を撮れたのですが。
渓谷の入口を通り過ぎて、そのまま『室生湖』の南側を走り続けました。
湖の南端で『宇陀川』が名を取り戻す辺りから、その支流を遡ります。
ここも宇陀市なのですが、街を通らない川は、このうえなく水が美しい。
そして、やはり、ひとの居ない所は、神の領域であるように感じます。
先日(7月17日)、『滝谷不動瀧』に続く道を見落としたように、今回も滝へ続く道を見落としてしまいそう。林道の途中に標が無いから。
どこに在っても、わたしたちは居させてもらっているのでしょう。
家でも窓を開けるたび、「この美しい世界に人間を居させてくださって、ありがとうございます」と伝えずにいられません。
山に入る時には、周囲と響き合える面だけで場に触れるよう努めないと、弾かれそうな気がします。
林道から見渡したとき、足元に小さな白い骨があると気づきました。
どこかで命を終えた鹿の顎だけが、大雨で流れ着いたのでしょうか。
土に埋もれなければ、細い林道を越えて、清流に辿り着くはず。
距離は少しでも、何年かかるか何十年かかるか分からないけれど。
◇仏の小屋瀧◇
林道からは、道というより「踏み跡」。
大丈夫。二本杖なら、なんとか上っていけます。
このほうが、わたしには進みやすいのです。
規格外の身体では、規格(階段や段差)に合わせるのが困難なので。
『肋骨の筋肉をひとつに束ねたら、バラバラでは出なくなっていた筋力が、遠く離れた両脚を動かせるほどに増えた』と、先月(5日)に書きました。
暑いけれど、山を歩くときも服の上から束ねています。それで、きょうはここで2回目なのに、「滝まで坂を上ろう」とおもえたのでした。
道を塞いでいたという樹は、中央が切断されています。
『鳥見山(桜井市)』でも、新しい倒木はそのように切られていました。
道の幅だけ幹が除かれて、道の左右に、枝と根が残っているのです。
辿り着いた滝では、「水量が多いときの幅」を示されただけでした。
水は流れています。岩肌を濡らす程度に。
水音も絶えません。
いつか雨が続いた後、この幅いっぱいに流れ落ちる水を観ましょう。
その日が本日であったなら、たぶん滝周辺には目が行っていません。
『仏の小屋瀧』のすぐ右側が、まるで「磐座」のよう。
「大和の出雲」の聖地『ダンノダイラ』までは歩けない身だから、この春、「山の奥に鎮座する20メートル立方の巨岩まで飛びたい」と願ったけれど、おもいがけない所で巨石から見下ろされたのでした。
写真で見た『ダンノダイラの磐座』と似ているわけでもないのに、ここも「神の依り代」という感じがしたのです。
来た道を振り返ると、どこを歩いてきたのか判りません。
でも、足元には「踏み跡」が続いています。
帰りにも、道のそばの巨岩から見下ろされている感じがしました。
古代メソポタミアのジグラート(階段ピラミッド状の聖塔)のよう。
「古い宇宙図で、甲羅に地球を載せている大亀」を思い出しました。
上の写真は、渓流なのです。
水が少ないため、水面は植物の下になっています。
「踏み跡」は、わたしの脚には合いますが、進みやすい道ではありません。
当たり前だけど草が刈られていないので、土の部分も渓流と似た状態。
どの種も群生していない、ということに驚きました。
ごく小さい区画であっても、そこを独占している植物が無いのです。
他所では、こんな光景を見たことがありません。
『大台ヶ原』の樹々は多種多様だったけれど、車道わきの草は排気ガスにも耐えられる種だけだったのかも。
だけど、「踏み跡」に連なる植物の種類は、歩数と同じ数のよう。
注意して踏み出す一歩ごとに、異なる美しさが待っているのです。
どれもが、その名の代表であるかのように、たったひとつ。
隣り合う所を浸食しようと試みなかったのでしょうか。
そこに落ちた種子が、ひとつだけ命を繋げば良かったのか……
ひとつだから、その場の生気を集めて、このうえなく美しくなったのか。
「踏み跡」を豪雨の水が流れ下っても、その種のひとつだけは残るのか。
一歩ごとに足元の写真を撮りたかったけれど、進むことに専念するため、まったく撮れませんでした。
でも、瞬きの数だけ、視界という小さな区画の記憶が残っています。
ひとも、水のように世界を巡って、いっときは根づくのなら、隣の誰にも似ていなくていいのでは。