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龍と桜実
【記録◆2024年8月28日】
大和盆地から東の山々が近く見える日には、
「三輪山の山肌を、指先で撫でられそう……」とおもいます。
そんな日に、三輪山の正面を通ると、円錐形となる山稜を見分けなくてはなりません。それが、多くの稜線に紛れてしまうため。
「奥大和に続く道」を進んで南側へ入っていくと、手前の低い山頂に視界が占められ、「どれが三輪山だったか」と迷うときもあるのです。
きょうも、そんな日でした。
『大神神社の拝殿正面には、ご神体である三輪山の山頂がない』という話は聞いていました。
あらためて地形図を見ると、南側でも数ヶ所、等高線が閉じています。
それらの最も高い所(326m)が、山頂の西南(三輪山山頂は466.9m)。
そこに、わたしたちは拝殿から、祈りを捧げてきたのかもしれません。
きょうは三輪山の南に入り込むとき、常とは違う所で焦点を結び、
「そこにいらっしゃるのですか……?」と問いかけました。
35年前、伊勢から京都へ帰るとき、三輪山の南で進路を択ばせた存在は、翌年にはわたしを、大和に根づかせてくれたのでした。
「古代には三輪山を西南から遙拝する聖地であった鳥見山(桜井市)」が、実は、ご神体を正面から遙拝する場所だったのでは……?
歴史の流れに従い、「桜井市の鳥見山」から「榛原の鳥見山」に遙拝所は移されました。そこは三輪山から遠く、視界は巻向山に遮られて、三輪山の山頂を見ることができません。
それで、「見えない山を心で視る場所だったのか」と考えもしたのです。
ところが、ふと、「上の記事の写真には、大和盆地に浮かぶ『耳成山』が写っていた」というのを思い出し、榛原の鳥見山から地図に線を引いたら、
「326mの辺り」を通ります。「古代人の視力を得たい」とおもいました。
◇櫻實神社(宇陀市榛原笠間)◇
奈良県には同じ名前の場所が多くて、混同されやすくなっています。
本日は、先月(8月16日)に訪った『櫻實神社(菟田野佐倉)』とは別の神社に行くのですが、そちらも名前は『櫻實神社(榛原笠間)』。
宇陀市は「辰砂(シンシャ)」の産地だったと知ったとき、
「櫻實(桜実)とは、鉱石の色を示しているのでは」という気がしました。
ヤマザクラの実と辰砂は、色が似ているように感じます。
土地の名は「桜」ではなく『佐倉』ですから、語源は「サク(狭間)」や「クラ(谷)」。『笠間』は「すげ笠を裏返したような土地」という意味。
谷間の里は、地名が似ています。
では、「桜実」という神社名が同じなのは、どこに共通点があるのか。
ところで、笠間という地名は、いっとき、わたしを混乱させたのです。
先々月(7月5日)に、ずっと北のほうで「笠間」という標識を見たため、宇陀市の北端が「笠間」だとおもったのに、そちらは、下笠間と上笠間。
また、同じ川ではないのに、どちらを流れる川にも「笠間川」という同じ名前がついています。ふたつは繋がっていないし、流れ込む先も違うのに。
「笠間に縁がある知人」の話を聞いて、遠い山奥だとおもっていたのに、『榛原の笠間』のほうは地図では、大和盆地から離れていません。
しかし、山間に入ると、「遠くないけれど山奥だ」と分かったのでした。
だから、人家が多くもない場所で、鮮やかな社が目に入ったとき、圧倒をされたのです。
「かみさま、撮らせてください」と、お願いをしました。
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「笠間に縁がある人」は、「子どもの頃、正装をして餅つきの形だけした」と話していました。それは年ごとの行事ではなかった、とのこと。
もしかしたら社を新しくした年では、と考え、計算をしてみたのです。
いまの意匠になったのは2008年ですから、その40年前の話だったのかも。
式年遷宮は20年ごとですが、この色彩があと4年で褪せるとは、とうてい考えられません。褪せてからではなく、その前に蘇るのでしょう。
心も、曇ってからではなく、曇らないように磨きたいもの。
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虎の上にウサギが描かれていると、帰宅後に写真で気づきました。
ウサギは、白い波頭を駈けているよう。波頭は、満月の手前を流れる白い雲のようにも見えます。
「御祭神は丹生都比売だった(過去形で書いたら、現在の御祭神に無礼ではないでしょうか)」と感じました。
「紀の川」の河口に近い『玉津島神社』には、「狛うさぎ」が座していて、「御祭神の稚日女尊は、丹生都比売の別名」とあったのを思い出して。
丹生都比売は、「元寇」という未曽有の危機に際し、神々の先駆けとして出陣され、十四万もの大軍を暴風雨によって退けた、とのこと。
「紀の川」を遡って外敵が進入できなかったのも、退けられたためでは。
白い波頭を駈け、和歌山に上陸した後、一族は辰砂を求めて「紀の川」を遡りました。たぶん、富や知識を辰砂と「交換」しながら。
先住民と融和した一族は、後発の者が「略奪」をしながら進まないよう、「紀の川」で退けてくれたのでは。
海から来たひとたちが、世界を巡る間も源流を忘れていなかったのなら、川になり、海になり、雲になって戻ってきたとき、列島の地霊と響き合い、海を渡らなかったひとたちと共生して、縄文の清流となったでしょう。
白兎は、「世界を巡ってきた月読の末裔」と名告っているのでしょうか。
そういえば稚日女尊は、天照大神の妹とも言われています。
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虎の反対側には、龍が描かれていました。
奈良県では、「丹生」の神社に「丹生都比売」の名が残されていません。
それらの多くは現在、龍神を御祭神としています。
龍の一族は聖地を奪わないでしょうから、丹生の一族がここに辿り着き、先住の民とともに、それぞれの神々を祀ったのではないかと想像しました。
(学問を修めていないので自由に、想像を巡らせているだけ。)
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鮮やかな色彩から目を離して、周囲の立派な樹々に気づきました。
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小高い場所なので、樹々の向こうは空。
もともとは、「祈雨の場」だったのかもしれません。
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「桜井市の街から車で数分」の場所とはおもえません。
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「一の鳥居」の所に賽銭箱があり、長い階段を上らなくても参拝できるよう心くばりされていることに感激しました。スロープも設けられているので、「COGY(足こぎ車いす)」を後ろから押してもらえたら上れるかも。
◇丹生神社(宇陀市榛原雨師)◇
隣村というほど近くに『丹生神社』がありました。
そちらは、「二本杖で進むのが快い山道」の先です。
こちらの地名の「雨師」とは、「雨を司る水神」の総称。
やはり、空に近い所で、龍神に祈りを捧げていたのでしょうか。
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この「丹生」の神社にも、丹生都比売の名は残っていません。
けれども、きっと、残っていないのは名だけ。
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「櫻實神社」と「丹生神社」の間にある『談山神社(宇陀市榛原安田)』に向かうと、大勢で奉仕作業をなさっているようでしたから引き返しました。
どこでも、住んでいる方々が信仰の場を美しく保ってくださっています。
ふと、「談山神社とは、丹山神社だったのでは」という気がしました。
同名の『談山(たんざん)神社』(桜井市多武峰)は、歴史の舞台として有名ですが、わたしは行ったことがありません。
歴史の表舞台のほうに影を感じるため。
それで、近くの滝にだけ行ってみよう、と決めました。
◇不動延命の瀧(桜井市多武峰)◇
少し前は、地図を拡大して川を上流へ辿っていくのが好きでした。
大和盆地の中央を流れる『寺川』を遡ると、この滝に行き着きます。
有名な「談山神社(多武峰)」の東大門まで車で2分の距離。
県道沿いだから落ち着かないかと考えていたのに、滝壺に下りてしまうと周囲は、水の音と蝉の声だけ。
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『寺川』の岸が赤いので、帰宅後、近くに「丹生」がないか調べてみると、滝の背後が、『多武峰水銀鉱山』の跡地でした。
こちらの「談山(たんざん)」も、「丹山」だったのでしょうか?
脆くて砕けやすい辰砂が、そこで小石状になって散らばり、桜実のように見えたのだろうかと想像します。