見出し画像

水光(みひか)~吉野の女神~

【記録◆2025年1月21日】

「吉野山には行かないままになるだろう」とおもっていました。
 桜の季節には徒歩でしか山を巡れない、と聞いていたため。

 舗装された道は、着地衝撃が大きいので、二本杖で歩けません。
 舗装されていても急坂だと、「COGY(足こぎ車いす)」が使えません。

 3年前の春、『吉野川』を渡って『吉野山』へ入っていく車が少ない、と気づいたとき、「国境も県境も越えづらい現在だけは、走行可能な範囲を、もしかしたら流れるように巡れるかも」と、一瞬は考えもしたけれど………

春の吉野山(写真素材)

[上の1枚は、素材をいただきました。ありがとうございます。]

 今年になって、『観桜期以外は、全山を車で走行可能』と知り、「紅葉の季節にも交通規制がありそう」と考え、「夏の間なら」とおもっていたら、雷雨の予報に行動を阻まれるのでした。

 高校のとき暗記した百人一首に、
   朝ぼらけ 有明の月と みるまでに 吉野の里に ふれる白雪

[月明かりかとおもうほど、白雪が降り積もって、明るくなっている]と、詠われていますから、冬の吉野山に入っていける気もしません。路線バスも積雪及び凍結のため冬期運休となります(12月2日~3月7日まで)。

 でも、暖かい日が続いたので、「いまなら行ける」と感じたのです。

冬の吉野山(Ⅰ)
冬の吉野山(Ⅱ)

 自分が撮った写真は、「春になれば桜で埋め尽くされるのだ」と想像して眺めます。
 樹々の向こう側が見えるのは、いまだけ。

冬の吉野山(Ⅲ)

 山に入ると、意外なことに、古い町並みが続いていました。
 そして、数えきれない神社仏閣が、それも町並みのように続いています。

吉野山の町並み

 高い所から見ると、繁華な通りは参道だけなのに、走ってくる間には町がどこまでも広がっているような気がして…………。それなのに舗装路の幅は、両側に建物があるためか、林道より細いように感じられるのでした。

 似た場所を他に知らないので、感覚が混乱したよう。

実際は山中の町

 たくさんの鳥居や山門の前を通り過ぎて、ここまで走ってきました。
 このあたりには、古代が残っているようにおもえたから。

 町の向こう(北西)に、『二上山』が見えます。
 その左に、『葛城山』と『金剛山』が。

二上山(右)
金剛山(左)と葛城山(右)
南西の方角
南の方角

 わたしは、崖のふちに立っています。この先には一歩も踏み出せません。

 何かが近づいてきます。
 背中側を見回しても、何の姿も無いけれど。

 さらに近づいてきます。
 視界の端にさえ、地面は無いのに…………

 すぐ下から鋭く音が打ち上がり、鹿が駈け下りていきました。
 斜面と呼ぶには角度が急なのに、木々の間を。

 後を追うように、もう一頭。
 どちらにも角はありませんでした。

「野生の鹿」が視野を駈け抜けていくと、自分はここに居ることを許された存在なのだとおもえます。
 下の記事内で見つめ合ったのは、若い牡鹿でした。

[野生と言ってしまうたび、「奈良の鹿は全て野生」と言い直しています。奈良公園では神鹿として、また、天然記念物として保護されているけれど、街に居ても山に居ても鹿は、ぜんぶ野生なのです。]

二頭の鹿が走り去った方向


◇◇吉野水分(よしの みくまり)神社◇◇

「暖かいので、吉野山へ行く」と決めたとき、行こうと感じたのはここ。
 観桜期の賑わいはありません。いえ、ひとの気配がしません。

吉野水分神社の鳥居
吉野水分神社の樹
吉野水分神社の境内

 きょうは、今年だけかもしれないけれど、季節と共に気温も選べたから、ここまで車で来ることができました。

 長い長い参道を少しも歩まなかったためか、神仙境に身がなじみません。

 それで、以前に二本杖で歩いた登山道へ回ってみよう、とおもいました。
「いま居る所」に、そこからは、自分の脚では決して行き着けないけれど。


◇◇吉野宮滝万葉の道◇◇

「さっき居た所」の近くまで辿り着けていた、と気づいたのは帰宅後。
 地図を見ると、吉野山の麓をまわって違う所から近づいていたのです。

『吉野水分神社』の近くにあった案内板を撮っておきましたので、そちらで説明しますと、

吉野山の地図

〇『現在地』の右下が、『吉野水分神社』
〇『吉野水分神社』から、地図の左上へ。
〇『吉野川』を遡って、地図の右端まで来たら、『喜佐谷川』を遡ります。
 車で山中と麓を走ってくるのに、ここまで30分以上。

〇北流している『喜佐谷川』の上流には向かいません。
 西から流れてくる川(高滝川)のほうを徒歩で遡ります。

〇『吉野・宮滝万葉の道』と白い字で書かれている所は、わたしの身体でも進みやすい道。整備されていて舗装はされていないから。
 途中に『高瀧(20m)』があります。昨年、たくさん写真を撮りました。

 冬には、道が凍ると滑るので滝には行けないけれど、きょうなら大丈夫。    

 ただし、晴れた日が続いたので、水の量は少ないでしょう。いいのです。今回は滝に行きたいのではなく、山頂に向かって歩みたいのだから。

この先には進まない

 滝の神さまに、遠くから挨拶をして引き返します。

 この先へ進むには体力が要ると、前回に学んだので、
「また来られました。お目にかかれて嬉しいです」と、何回も申し上げて。

八代龍王の石碑(右)

 古い石碑は、前よりも「代」という文字が判りにくくなっています。

 昨年、「なぜ、八大龍王ではなく、八代龍王なのか?」とおもったので、翌月に、ずっと離れた『生駒山』の神域へ向かうこととなったのでした。

 滝壺まで行かなかったから、その体力を使って上流へ向かいます。
 昨年は、滝壺まで行ったから、上流までは行けなかったのです。

 滝壺からは上がれないので、滝前へ下りて来た道をだいぶ引き返した後、別の道を上っていきます。

 そこからは少し歩きにくい道でした。石に足を取られないよう、注意して進みます。麺棒ほどの枝がたくさん落ちています。風で裂けたのでしょう。

 倒木も越えて進みます。

 滝までの長い道が美しく整えられていたことをありがたくおもいました。
 手入れをしてくださっているから、わたしのように身体障害がある者も、『高瀧』には2回も行けたのです(ものすごい筋肉痛になるけれど)。

「あの上まで行ったら、何も無くても引き返そう」と決めて進んだ先には、祠がありました。滝の落ち口なので、「龍神か、不動明王か」と考えながら近づくと、お地蔵さまだったのです。

 その瞬間、「ここも出雲神族の神域だったのでは」という気がしました。出雲神族が奪われたものは多く、出雲神はお地蔵さまに変わっています。

 以下の記事に書いたとおり、この川沿いにある『櫻木神社』の御祭神は、出雲王家の主王と副王。櫻木神社創建の由来は、「感染症の治癒の神さまが象に乗って天から降りてきたこと」となっていますが、出雲神の一柱は象。

 また、帰宅後に知ったのですが、『吉野水分神社』は現在の場所ではなく「広野千軒」という地にあり、北へ谷を下った「象(きさ)の小川」沿いの山麓に住む人々が拝んだ神社だったそうです。

 では、わたしは無意識に、「象の小川」沿いに谷を上って、幻の伝承地にまなざしを向けていたのでしょうか。
 かつてはそこに水分神社があったと、知りもしないのに。

祠の近くの説明板

 神代の頃から、多くのひとがここで足を止めて休んだのでした。

 帰って行くとき、『高瀧』の動画が、昨年とは違う方向から撮れました。


 どこかへ行くときには、「行こう」と感じた所へ行き、行き先については詳しく調べません。
「その場で感じること」は、知識より大切だとおもうから。

 帰宅後、「吉野のひとびとの祖神」を知って、とても驚きました。

『古事記』に、「尾のある人、井より出て来たりき。その井に光ありき」と記された国つ神『井光(いひか)』は、男神ではなく女神だったのです。
 これまでには、まったく知る機会がありませんでした。

 上の記事に、「龍の血とは何か知ったので、光る井から出てきた国つ神は辰砂(シンシャ)を採掘していた丹生の一族だろうと見当がつきました」と書いています。

 今回、『井光(いひか)』という国つ神は、豊御富(とよみほ)、水光姫(みひかひめ)と呼ばれている、と知って、さらに驚いたのでした。
「富」という名は、出雲系だから。

 そのうえ、丹生族の女神『丹生都比売(にうつひめ にふつひめ)』にはなぜか、「みふつひめ みほつひめ」という読み方も添えられていたので、
先々週(1月7日)に行った神社の名を思い出しました。

『村屋坐彌冨都比賣神社』の彌冨都比賣は「みふつひめ」と読み、御祭神は美穂津姫で「みほつひめ」と読む、ということも思い出し、「丹生族という謎の一族」がそこで不意に姿を現したから、わたしは驚いたのです。

 上の記事内では、以下のように書いています。


「学問を修めていない者の想像」に過ぎないけれど、中央構造線の西端から戦禍を逃れて九州に移り住んだ「丹生都比売(にうつひめ)」姉妹の末裔が出雲王家と結びついて、この国を創っていく方々が生まれたのでは?

 北九州へ行って「王家の分家(宗像家)」を興した王子の名は父親として系図に記されていますが、ふしぎなことに母の名は明かされていません。
 姫君たちの名は、タゴリヒメ、タギツヒメ、イツキシマヒメ。



 最近では、「ハタ族の技術者には当然、採鉱や精錬に優れた人々もいて、
大和や紀伊に移り住んだ後に、そういう人々が丹生族と呼ばれたのでは」と考えはじめていました。

 すると、『丹生都比売は、神代に天から降臨して紀伊国と大和国を巡り、農耕と機織を広めた』という伝承も見つけたのです。

 ハタ族も機織を広めました。そして、ハタ族を率いて海を渡ってきた者の名前には、「ふつ」という音が入っています。

 丹生都比売が「豊御富」なら、大和で出雲神族やハタ族が住んだ山々を、「天」と見なしたのかもしれません。

 現在でも、その山地には『高天(たかま)』という名の場所があります。古に高天山(たかまやま)という名だった金剛山で高天原(たかあまはら)と呼ばれていた聖地が。

『尾のある人、井より出て来たりき。その井に光ありき』と、
「異形の蛮族」のように語られてきた『井光』は、光輝く女神なのでした。

 上の記事に、「尾があるのは龍神」と書いています。

 光を放ちながら現れた女神は、「何者か」と尋ねられて、
「天降った白雲別神の娘で、名は豊御富(とよみほ)」と答え、
「水光姫(みひかひめ)」という名を新たに与えられたそうです。

 その伝承を知って、「シラクモワケとは三輪山の神では」と感じました。

 以下の記事にも書いているのですが、雨があがると、大和盆地を取り巻く雲が現れて、山の麓だけを隠します。まるで、大きな白い龍が、平野部との境に身を横たえているよう。

 直感に従い、「水光姫を祀る神社」を調べると、ひとつ見つかりました。
『長尾神社』の地に水光姫は、「白蛇」の姿で降臨した、とのこと。

 また、三輪山の『大神神社』が蛇の頭、『長尾神社』が尾である、とも。
 また、大神神社で七回り半のとぐろを巻いた後、尾が届いている、とも。

「龍神信仰」では神木に藁蛇を8回巻くと、どこかで読んだ気もします。

 三輪山の大物主(事代主)は、東出雲王家の「富家」出身だったので、
「豊御富」は富家の姫だと、尾の先で示しているのでしょうか?

 雷雨の予報に阻まれて『吉野山』へ行けなかったのは(出先を変えると、予報は1回も当たらなかった)、「隠された歴史を知っていく順番」が予め決まっていたためか…………

[注:『note』の記事は、学問を修めていない者が自由に想像した内容で、歴史を学ぶ方の参考にはなりません。念のため。]

いいなと思ったら応援しよう!