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2200年前に「みむろ」と

【記録◆2024年9月13日】①

左上が大和盆地

 たたなづく青垣に囲まれた大和を、ひとは、なんと呼んだのでしょうか。「山ごもれる 大和」と呼びかける以前には。

 古人(いにしえびと)の地を巡ると、当時の名を知る機会が増えます。
「天香久山の古名は、龍王山だった」
「室生寺の古名は、龍王寺だった」
「三輪山の古名は、御諸山(みもろやま)だった」というふうに。

「御諸は、御室(みむろ)だったのでは?」という気がしました。
 山の背後に、「室生(むろう)の地」が控えているから。

「室生は、火口を意味する」と、どこかで読みました。
「宇陀市の東北部」「宇陀郡 曽爾村」「宇陀郡 御杖村」に広がる山地は、1500万年前の火山活動によって形成されています。

 その辺りの滝を巡ると、火山活動の跡が、地質となって見えるのです。

「三輪山の背後が室生」というのは、盆地に住む者の感覚でしょうか。
 それとも、縄文の神々と響き合う「魂や遺伝子の記憶」でしょうか。

 太陽は、三輪山の背後から昇ります。

 山頂から昇る太陽を遙拝できるのは、
 夏至が、『畝傍山(橿原市)の麓』
 春分と秋分が、『多神社(磯城郡 田原本町)』
 冬至が、『鏡作神社(磯城郡 三宅町)』

[注:田原本町にも「鏡作神社」があり、そこから立春(正確には節分)の昇陽が確認されているそうです。]

 ということは、冬至には畝傍山の西側に、他の時には神社の西側に太陽が沈むのでしょう。だいたいの感覚ですが、盆地内を自転車や車で走るとき、「秋は二上山に、冬は葛城山と金剛山の間に」と捉えていました。

「二番目の鳥見山(宇陀市 榛原)」から大和盆地の反対側を眺めたとき、
「東から連なる山々を、曙光は渡ってくる」とおもったのです。

東方の山々(2023年11月撮影)

 そして、振り返ったときには、
「大和盆地を渡り、西の果ての山々を越えて、太陽は沈んでいく」と。

西の果て(2023年11月撮影)

 大和盆地には、大和三山が目印のように浮かんでいます。
 とはいえ、目印になるのは常に、「畝傍山」と「耳成山」。

 それなのに、ふたつの山は、神代の伝承に出てこないのです。

 最初の王国が造られた場所から、大和盆地を眺め渡したときには、
「天気の加減で三輪山が見えないときでも、畝傍山は見えただろうに、なぜ古代人の視界には無いのだろう」と、ふしぎでした。

 ふと、「夏至に山頂から昇る太陽を見られたのは、王国のどのあたりか」と考え、『畝傍山』に当てた定規の先を見ると…………

 ああ、最初の王国を造ったクシヒカタが住んだ『鴨都波遺跡』のあたりになりました。
 しかも、遺跡の隣に記されているのは、「三室(みむろ)」という地名。

 盆地を斜めに横切って引いた長い線の先も、同じ名前だったのでした。
[注:地名の「御」は、しばしば「三」に交代する。]

 丸ピンで印をつけるためコルクボード(高さ90cm幅60cm)に貼りつけた地図が大きすぎるので、同じ地図を買って折りたたみ、厚紙(30×36cm)に留めました。104グラムの軽さだから、何か考えつくたび手に取ります。

2枚の分県地図

「では、冬至は?」と興味を引かれて線を延ばすと、そこには山がふたつ。  
 どちらの山の名も『三室山(みむろやま)』ですが、法隆寺に近いほうが線の先あたり。

 斑鳩町HPには、【「みむろ」は「御室」「三室」と書き、神の鎮座する山や森を表します】と書かれていたのでした。

 奪われても失われない古名は、陽が沈む側に託されたのでしょうか?
 とはいえ、陽が昇る側でも古老は、「いまも、みむろ山と呼んでいる」と言うのです。

 それでは、迷いなく「三輪山」を、「御諸山(みもろやま)」ではなく「御室山」と書いて、「みむろ山」と、縄文の頃のように呼びましょう。
 深い地層で眠っているひとびとのように。


◇みむろ山(三輪山)◇

「奥大和」へ向かう前、「みむろ山の標高326mあたり」を見失わないよう気をつけて、東へ向かう道から分岐を左に進みました。

「標高326mあたり」の正面にある『大神神社』へ行こうとしたのですが、
「二の鳥居前の駐車場が、いまは使えない」と聞き、「4年前にはそこから参道を二本杖で歩けたのに」とおもいました。

 それで、「身体障害者駐車場」から「COGY(足こぎ車いす)」で拝殿へ向かおうと考えついたけれど、4台ほどしか止められないと聞いて(空きの無い日が多い)、「山を遙拝できたらいい」と考え直したのでした。

 高架になっている道を通るたび、『初瀬川』を眺めていたので、その岸に下りられたら「みむろ山」が見える場所を探そう、と。

 遠くからは円錐形に見えても、180mの山頂が西南に、208mの山頂が南にあるため、ほんの少し行き過ぎても、手前の山しか見えなくなるのです。

 狭い道を行ったり来たりして、以下のように見える場所をみつけました。

みむろ山(三輪山)

「みむろ山」山頂(466.9m)の右側が、盆地から見える「326mあたり」。

標高326mあたり(右端)

 自然の地形なのに、横たわった陵が身を起こしかけているよう。
(ふと、麓の古墳群は後の王権が模して造ったのでは、と感じました。)

 真夏の真昼のような場所から、奥大和の涼しい山へ向かおうとした瞬間、
「標高326mあたりは、山頂の西南なのに、なぜ右側にあるのか」と、軽く混乱してしまいました。南側から山を見ていると思い込んでいたのです。

 高架の道に戻って右(南方)を見ると、「古代の遙拝所」だった鳥見山が斜め前に見えたから、「みむろ山の南にまで進んでいなかったため、西南が右側になったのだ」と気づけたのでした。

西南の麓から

 このとき、初めて分かったのです。
「まほろば」と呼ばれた地に自分を縒り合わせたかった理由が。

「自分が何処に居て、何処を向き、何処へ向かっているのか、ここに在れば見失わないから」と。

 そんな立ち位置に身を置いていたから、外と内が響き合って、
「何にも動じないひと」と名づけられるような在り方になったのでは。

 1300年前に「山ごもれる 大和」と記された地は、「春の新芽の色を愛でて出雲を『出芽(いづめ)の国』と呼んだひとびと」から、2200年前にはどう呼ばれていたのでしょう。

 ここに名が無かった頃、古代湖に占められた盆地をわたしが眺めたなら、
「みむろ(御室)」と呟いたかもしれません。
 そして、陽が輝きはじめる所を、「御室の山」と呼んだかも。

「室」は「周りを囲まれた所」を意味するそうです。

大和盆地(2023年3月に撮影)

 帰宅後に気づいたのですが、わたしが居た川岸は、クシヒカタの名が残る『神坐日向神社』から真っすぐ南へ線を引いた所でした。

 背中側に立っていたのです。
『神坐日向神社』は、他の神社とは違って北を向いているため。

 クシヒカタの眼差しの先には、『大神神社』があります。その拝殿は東に御神体があるので、おとうさん(大物主)を視るためではなさそう。

 しかし、わたしは今春(3月27日)、『神坐日向神社』の東から西へ続く参道で、御神体の山を見ています。もしかしたら『神坐日向神社』は、北へ向けられる前には東を向いていたのでは?

「ひとは南を背にすると力が弱まる」と、どこかで聞いた覚えが……

 けれども、「COGY(足こぎ車いす)で大神神社周辺を巡ろう」と計画を立てたとき(そのうち実行します)、わたしは北側で見つけたのでした。
 クシヒカタの妻となった「美良(みら)姫」の名が残っている所を。

 父「味鋤高彦」も、母「御梶姫」も、兄たち「塩冶彦」「多岐都彦」も『高鴨神社』に名が残っているのに、美良姫はクシヒカタ(奇日方)と共に存在を消されたのか、とおもっていました。

[注:『神坐日向神社』に記されている名は、クシミカタ(櫛御方)。]

「美良姫」の社は、「標高326m」あたりを向いています。
『神坐日向神社』のクシヒカタは、その横顔を(真横ではなく斜め前から)視ているのか、と想像もしたのでした。

「高天(たかま)」を背にして「みむろ」の曙光を遙拝するように、と。

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