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護国の女神

【記録◆2024年10月7日】

「源流の地」から海へ向かった方々は、世界を巡る間も母系家族制を保ち、海を渡らなかった方々と「源流の地」で融和しました。何千年も前です。

 その後にも何千年か保たれた調和は、一瞬だけ入り込んだ父系社会により大きく揺れますが、やがて秩序を取り戻します。
 揺らされたために散らばった種は、各地で根をおろしていくのでした。

 大衆は母系家族制を長く続けていたと、どこかで読みました。けれども、父系社会に生まれた現代人には、その真偽も判りません。

 48年前、「就職希望者は手を挙げて」と、担任が皆に進路を尋ねました。手を挙げたのはわたしひとりだったため、教室がざわめきました。
 説明が必要になったら、「父親が病気だから」と話し、「成績が良くても女だから進学はさせない」と、母から言われたことは黙っていました。
「成績が悪くても男の子は進学させる」と言われたことも…………

 早くに学問から離れたため、いま自由に、古代の庭を逍遥できます。
 知識に囚われず、惹かれる分野には責任もなく。

『やまとの高佐士野(たかさじの)を七行く(ななゆく)媛女(をとめ)』
[訳:狭井川(さいかわ)沿いの台地で野遊びをする7人の乙女]
という『古事記』の情景を先月(9月26日)、みむろ山の麓で視ました。

 初代大王の「ムラクモ」なら、『幸川(さいかわ)』のほとりで、7人の先頭に立って歩く「踏鞴五十鈴姫(タタライスズヒメ)」を択んだだろうと納得をするのです。この時代には、ひとの在り方も自然でした。

 現代人だと、最年長の姫が望まれたことに抵抗感を覚えるでしょうか。
(タタライスズヒメは、出雲の「副王」の子で、同じ代の「主王」の曾孫がムラクモです。)

 それが、いまのところ古代史も母系制の視点では語られていない理由?

 50代の頃、求められて「オブザーバー」と呼ばれる立場になったとき、
「50代の男性は、子どもがほしいとおもうようになったので結婚したい、とおっしゃるとき、女性の出産適齢期が現代も変わらないのをご存じではないと感じます。女性自身にさえ、知らされていませんが」と伝えました。

 同世代の友人は、「自分が高齢出産したことで、何歳になっても大丈夫とおもわせてはいけないから、子どもとは遺伝的な繋がりはなく、出産までに何ヶ月も絶対安静のまま病院で過ごしたことを公言している」と言います。

 わたし個人は、ひとが愛で結びつくことに障害は無い、とおもうので、
「誰かにとっての障害は他者にとっても障害になるはず」と考えませんが、願いの成就を相手に託してしまう「要望」は、妨げとなるでしょう。

 特に、年長者が年少者に応諾を要求するのは、自然に反しています。
 年齢を重ねた分だけ経験を重ね、軽々と荷を背負えるのが年長者なのに、負ってこなかった自分の荷を年少者に運ばせるのは、ニンゲンだけかも。

 自然界には、「ほんとうの多様性」があります。
 そこから離れてしまった社会に、古代を想う力は残っていません。

 古代の母系社会を微かに浸食した父系社会は、その狭間で生まれた子から母親を奪いました。「ムラクモ」の父「五十猛(イソタケ)」が幼いうちに取り残されたのは、家長が放棄した「父系家族制の家」だったのです。
[詳細は、以下の記事。]

 それでも養育者によって健やかに育まれたのだと、いまは分かります。
「高佐士野(たかさじの)」に佇んだとき、「このような心やすらぐ所が、出雲王国にも存在しただろう」と感じられたため。

「イソタケ」は、「集団の長が逃げたため取り残された人々」を率いて、「次の代が出雲王家と融和して創られた新しい王国」の礎となります。
 幼子を救いあげた手は同時に、新しい流れへ送り出したのでした。

(成人したイソタケと、養育者であった「大屋姫」の間には、後に紀伊国を創っていく「タカクラジ」が生まれています。)

 ほんとうに高佐士野にも「7人の媛女」が住んでいて、子どもたちを皆で育てていたのかもしれません。
 皇后の名から、二代目も三代目も大王はここで育った、と推測できます。

 どこの国の方だったか、「母系社会だから、子どもの頃にはおかあさんが大勢のうち誰なのか判らなかった」という話をされていました。
 年少者が年長者に受容されて健やかに育つのは、自然に即しています。

 大和に最初の王国を造った「奇日方(クシヒカタ)」は、晩年の大屋姫に安息の地を進呈しました。ともに移り住んだ息子のタカクラジは、その後、「紀の川」河口に移住して『大屋都姫神社』を建て、母を祀っています。

 もしかすると、その地で「丹生の一族を迎え入れる基盤」を創ったかも。

「学問を修めていない者の想像」に過ぎないけれど、中央構造線の西端から戦禍を逃れて九州に移り住んだ「丹生都比売(にうつひめ)」姉妹の末裔が出雲王家と結びついて、この国を創っていく方々が生まれたのでは?

 北九州へ行って「王家の分家(宗像家)」を興した王子の名は父親として系図に記されていますが、ふしぎなことに母の名は明かされていません。
 姫君たちの名は、タゴリヒメ、タギツヒメ、イツキシマヒメ。

 タゴリヒメは、クシヒカタの祖母。
 タギツヒメは、イソタケの祖母。
 イツキシマヒメは、ムラクモの祖母です。

 クシヒカタが新しい王国を大和に造ったのは、「彗星が戻ってきたとき、いま居る都が隕石で消滅する可能性を考え、落下予想地点から離れた山地を選んだのでは」などと想像していました。

 あるいは、中央構造線に沿って移り住む「丹生の一族」と融和するため、「紀の川」の近くを選んだのだろうか、と考えもします。

 出雲王家では王族の葬儀に、大量の「水銀朱」が使われていました。
 それは、クシヒカタが成人するまで住んだ『三島(大阪府高槻市)』に、奈良県の産地から鉱石「辰砂」の形で運ばれてきていたのかもしれません。

辰砂の産地から

 上の写真は、「辰砂(シンシャ)の鉱床」付近から撮っています。
 最遠の稜線は左から、鳥見山、貝ヶ平山、額井岳。

 鳥見山からの眺めは、以下の記事内。

桜の紅葉

 クシヒカタの母が、出雲の副王「事代主」の妻となったのは、
「辰砂(シンシャ)」=「丹」が繋いだ縁だったのかも。

 そして、クシヒカタは、「丹生の一族が紀の川に到達して本格的な採掘が始まるとき」に備えて王国を造ったのかも(大王となったのはムラクモ)。

 その後、クシヒカタとムラクモが、大和盆地の反対側に移り住んだのは、『三島』に繋がる水系だけではなく、大和盆地内の水系で「辰砂」の運搬ができるよう考えたためでは。

宇陀川(午前に撮影)

『宇陀川』の水は、三重に入ると『名張川』と、京都に入ると『木津川』と名を変え、大阪では『淀川』となって、『三島』の地に繋がります。
 古代には舟で行く道が、「山奥のハイウェイ」でした。

「名張川」の風景は、以下の記事内。

 何百年か後、紀の川の河口から外来勢力が入り込もうとしたとき、それを退けたのはクシヒカタやムラクモの子孫と、タカクラジの子孫です。

「紀の川」河口付近の風景は、以下の記事内。

 さらに後の時代、【丹生都比売は、「元寇」という未曽有の危機に際し、神々の先駆けとして出陣され、十四万もの大軍を暴風雨によって退けた】と知って、「大和へ向かった航路を逆へ進んだのでは」と考えていました。

 同時に、「大軍を退けたのはクシナダヒメ」という伝承も知りました。
 クシナダヒメは、出雲の伝承によると、出雲王国初代大王の妻です。
(注:記紀には、別の人物の妻になったと記されていますが。)

「クシナダヒメは、海面を埋め尽くす蛇たちと戦場へ向かった」と知って、「蛇は、記紀で蛇神にされた出雲神族の暗喩か」と考えました。 

(余計なことに、稲の女神(奇稲田姫)ではなく、海の難所も障害としない「奇灘姫(クシナダヒメ)」なのでは、ということまで。)

 もしかしたら、王国の「母系の祖」を祀る民が、国土を護ったのか……。
 それは、いつか隠された歴史が表に出るとき、照合できるでしょう。

 いま確かなのは、「女神を祀る一族は、護るためには闘う」ということ。

 奥大和の滝周辺を巡ると、しばしば、「隠された女神」が立ち現れるのを感じます。

嶽神社

 辰砂(シンシャ)の産地なのに御祭神は「丹生都比売」ではなく、ここも龍神になっていました。

 すぐ近くの阿蘇神社には祠の後ろに磐座(いわくら)がある、と知って、「行きたいけれど、車で行けないから、招ばれたら行こう」とおもいつつ、細い林道を走ります。

 すると、華奢な若い鹿が、正面に立っていました。
 分岐したばかりの角が無かったら、牡鹿とおもえなかったでしょう。

 こちらを真っすぐに見ています。
 鹿の焦点が、わたしの目のなかで結ばれるよう。

 優美な姿を撮りたくなって鞄を探りますが、なぜかカメラが触りません。
(後で確かめると、隣の仕切りに入り込んでいました。)

 鞄のほうに目を落とすたび、「目をあげたら居なくなっているのでは」とおもうのですが、少しも動きません。

 やがて、丈高い草の間に跳んで、軽々と斜面を駈け上がっていきました。  
 撮らなくて良かった………道が暗くてフラッシュで驚かせただろうから。

 車で行けない神社には、その方角に手を合わせただけで通り過ぎました。
『嶽山』の麓を回って、5000mほど走り(山の中を歩けば500mらしい)、『神御子美牟須比命(みわのみこみむすひめ)神社』へ。

神御子美牟須比命神社

 いつも、「地図を眺めるうちに、行きたいと感じた所」へ行きます。
 ここもそう。

 すぐ近くに『丹生神社』があり、最初はそこへ行くつもりだったのです。地名も、『入谷(にゅうだに)』だったから(「入」は「丹生」)。
 ところが、名の揃った所でさえ、御祭神は龍神になっていたのでした。

 ここまで圧力をかけた跡があると、そのために龍神を使うのは失礼では、とおもいます(もちろん、実際に信仰されている方たちは、権力者の思惑に乗せられず、どちらの神さまも大切になさっているでしょう)。

『神御子美牟須比命神社』は、何度か祭神が変更されて、どうやら現在では戻っているようです。

 神社には詳しくないため直感で情報を選り分け、辰砂(シンシャ)の山で「出雲」と「丹生」が融和しているのを感じ、
「踏鞴五十鈴姫(タタライスズヒメ)が御祭神」と受け取りました。

 みむろ山(三輪山)の『大神(おおみわ)神社』の奥宮と称され、ここは地名も『大神(おおみわ)』です。

 わけもなく行きたいとおもうのは、山中にあるという「奥の院」。
「大神神社の奥宮の神御子美牟須比命神社の奥の院」と頭の中で唱えます。

 地図に記載がないため、行ける距離なのか、分かりません。
 本殿の近くで周囲を見渡しても、道はありません。

周囲

 拝殿まで戻り、きれいに草が刈られた斜面を二本杖で上っていくと……

この奥へ
頭を屈めて入る

 行き着けるか判らないときには写真を撮りません(帰りに撮りました)。
 立ち止まることには脚力を振り分けず、ひたすら腕の力で進みます。

「踏み跡」のような道しかないかとおもっていたのに、細い細い道ですが、きれいに草が刈られています。長い長い道なのに、どこまでも。

「ここまで来られたから、引き返してもいいかな」と、何回も考えました。
 でも、そのたび進みたくなります。行き着きたいのです。

 なぜ?

磐座
磐座の横

 着きました。

 急に陽が差したので、「来たことを許された……」と感じます。
(雷雨の予報が出ていたため、『嶽山』では急いで下山したのです。)

 祠のある岩は「陽」、注連縄が張られた滝は「陰」。
 ここに何があるか知りませんでした。水が流れているということの他は。

 この滝も赤い(露出した鉱脈なのか、わたしにはわかりません)。
 しかし、「辰砂(シンシャ)」を求めて出雲神族や丹生族が来る前にも、ここはきっと聖地でした。

 この美しい国土をいっそう輝かせる子どもたちが増えていくように、と、祈られてきたのでしょう。

 ひとびとは、経てきた場所によって容姿が少し異なったかもしれません。
 けれども、融和しようとする心は同じだったから、この国の民となって、ここに在り続けてきたのです。

帰り道

◇この記事の「見出し画像」は、「丹生都比売」を追って県境を越えた日、『紀の川』河口の空を渡っていった雲です。わたしには、国難を退けるため神々の先駆けとして出陣されたときの姿に視えたのでした◇

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