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「君の様子がおかしかったから、後をつけたんだ」とドラえもんは言った。

2015年1月

 このところ、子どもといっしょにドラえもん映画をたくさん見ているのだが、新劇場版にはやっぱりいまだに馴染めない。どうしたって1980年代作品がすばらしすぎていちいち比べてしまって、あれらのおかげで世界の不思議に目覚めた少年時代を思い出す。VHSの磁気テープが擦り切れるほど「ドラえもん」を見まくったあの頃。

 思い入れが深いだけに、2005年の全面リニューアルにはかなりの衝撃を受けたものだった。ハイビジョン制作への移行、声優陣と製作陣の一新、キャラクターデザイン・設定の変更など、新体制を迎えて 「ドラえもん」はそれまでとはまったく別の作品に生まれ変わった。その変貌については「よりマンガ原作に忠実になった」「新たな生命が吹き 込まれた」といった肯定的な意見もあれば、「いまだに違和感がある」「どうも馴染めない」など否定的な声も。いろんな考え方、捉え方があるのはもちろん承知の上で、ここではあくまでも思い入れ全開で旧劇場版と新劇場版を見比べた感想を述べてみたい。

■ 新旧『のび太の鉄人兵団』をめぐる葛藤

 新『のび太と恐竜』(2006)には正直唖然とし、思わず「誰だおまえたちは」とつぶやいてしまった。とくにドラえもんの「あたたかい目」の表現方法とそのしつこさには絶句。数年後に子どもを連れて見に行った『のび太と奇跡の島』(2012)には、何がなんだか心がピクリとも動かず。さらにその2年後の『ひみつ道具ミュージアム』(2013)はたくさんひみつ道具が出てきてアトラクション的に楽しめたものの、やはり心は完全に沈黙。というわけで、これまで私は新劇場版に対し、「名匠・芝山努の不在」を実感することしかできなかったのだった。

 ところが最近、あえて蓋をしていた新『鉄人兵団』(2011) を意を決して見たところ、とてもおもしろくて溜飲が下がってしまったので自分でも驚いた。あいかわらず感情表現が過剰なところとかやたら歌が挿入されるところとか、敵の頭脳を何のためらいもなく改造して味方にする代わりに心の交流で事を運んでしまうところとか、鼻につく〝いまっぽい〟箇所は数あれど、その 〝いまっぽい〟やり方によってこそロボットとの戦闘シーンはすばらしく魅力的なものになっているし(旧作の芝山努監督による空気砲の表現には敵わないとは いえ)、メカトピアの窮状を丁寧に描いていたり、のび太の部屋の窓からザンダクロスの足を外に出す際にドラえもんが窓枠をはずすなどといった細部への気配りもまた、〝いまっぽい〟アニメならではの好感の持てる努力だと思った。

▲ 旧『鉄人兵団』の空気砲

 そしてなにより、映画を横で一緒に見ていた娘の「鉄人、新しいやつの方がおもしろかった!」という無邪気な一言。これが私にとって決定的だった。父親になって数年間、「自分はもうこの人生の主役ではないらしい」と悟りきれない悟りを悟る瞬間が幾度もあったものだが、「ウムー」と唸る父の反応に気まず くなったのか「昔の鉄人もよかったけど、さ」と付け加えてくれた6歳児の困り顔を見て、私はその悟りの境地を行きつ戻りつしながらもついに、ドラえもん新劇場版をしぶしぶ受け入れたのだった。

■ 不思議じゃないリルル

 だが、と続く。受け入れた上でなお、やっぱりケチをつけたいのが大山のぶ代と芝山努で育った者の心情。旧作への愛の裏返し、新劇場版の完成度の高さへの負け惜しみとして、この先の過激な発言はどうか「あたたかい目」で見守ってほしい。

 なにしろ、新劇場版のリルルがちっとも不思議じゃないしちっとも怖くない。かつてあんなに不思議で、あんなに怖かった謎の少女リルルが。

▲ 旧リルル(左)と新リルル(右)

 人物設定の問題ではなく、これはやはりジュドーを問答無用で改造せず、リルルの葛藤の解説役として生きながらえさせた作り手の罪だと思う。わけのわからない心の揺らめきのようなものをわかりやすく説明しようとする過程で、本当は言葉ではあらわせない(あらわさなくてよい)はずのもやもやが無理やり耳ざわりのよい感動話へと歪められ、その結果リルルという登場人物の魅力を大幅に減じることになってしまったのではないか。彼女がのび太に向かって言い放つ「いくじなし!」は、少年時代の私にとって実に不思議で怖くて、なんとなくわかるようなわからないような絶妙な響きを持っていた。その機微が新劇場版 にはなかった。

■ もっと適当に子どもの顔面めがけて物語をぶん投げてほしい

 新劇場版を見て、「なんか足りないんだよな」と私が思ってしまう時のその「なんか」は、どうやらこの不思議とか怖さとか、わかるようなわからないよ うな感じとかそういうものだったようだ。 私はかつて、その感じをたとえば多摩川の底に沈んだはずのラジコンヘリが地下の大空洞に突如現れた瞬間に味わった。防護マスクをとった敵の首領が実はイケ メン少年だったあの瞬間に、あるいは不死身の精霊王の正体が実は科学者だと発覚したあの瞬間に味わった。妖怪たちによってじわじわと歴史が塗り替えられて いく現実世界の細部に、時空を超えて追ってきたメデューサの顔つきに、バミューダ・トライアングルの海底で7000年もの間核ミサイルの発射体制を維持し続けてきた狂気のコンピュータに、その感じを見出していた。

▲ 『のび太のパラレル西遊記』より、
いつの間にかとかげのスープが大好きになっているパパ

▲ 『のび太の竜の騎士』より、ひとり物語を動かすスネオ

 ああとてつもない物語がはじまった!おおはてしなく世界が広がってゆく!その感じへと没頭していく体験は、秘密道具の特性を生かした仕掛けとか、パラレルワールドや時間旅行といった概念を踏襲するだけでは再現できないものらしい。その感じが失われたのは、ひとつには新劇場版があまりに「わかる」こ と、「思い」みたいなものが「きちんと伝わる」ことを重視しすぎてしまっているからではないか。先に言及したリルルの変貌に、どうもそのような過度な説明と感動癖の弊害が凝縮されている気がする。

 そして、ドラえもんの威信がすっかりなくなってしまったのも、たぶんそのことと無関係ではない。秘密を抱えて悩み抜いたあげく、鏡面世界にこっそり忍び込んだのび太に声をかけるドラえもんのあのセリフ、「君の様子がおかしかったから、後をつけたんだ」にかつてどれほどほっとし、ドラえもんが頼りがい のある存在に見えたことか。そして、新劇場版でも一字一句同じことを言ったあの青い人にちっとも心惹かれないのはなぜ。単に声が違うからか、あるいは私が もう少年ではなくなったということなのか。とてもそれだけとは思えない。

▲ 『大長編ドラえもん10 のび太とアニマル惑星』
(1990)にも、同様のセリフがある

 なんというか、昔のドラえもん映画はもっと、子どもを置き去りにしていたと思う。

「子どもはバカだからたぶん理解できないだろうけど、なんか不思議な感じが伝わりゃいい」

「子どもはアホだからきっと何十回も繰り返し見て、そのうちなんとなく理解するだろう」

 そのくらいの感覚で放り投げられたものを、私は謎の不安に駆られながら必死で拾い集めていたような気がする。不安だったから、必死だったから、謎 だったから、少年は頼りがいのあるドラえもんに縋りついたのだ、きっと。いまやその必要はなくなってしまった。穏やかに進んでいく物語にのっかって、ドラ えもんはのび太らと同じ目線ではしゃいだり困ったり悪ふざけしたりしていればそれでよいのだ。

 いましきりに宣伝されている新劇場版の新作『のび太の宇宙英雄記(スペースヒーローズ)』はおもしろそうだけど、きっとおもしろいんだろうけど、でもやっぱり本当は、昔みたいな怖くて不安で不思議な冒険の始まりが見たい。現代の子どもの顔面めがけて、もっと適当に思い切り物語をぶん投げてほしい。そうは思いませんかみなさん。

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