ASMRという名の祝福
俺は男が嫌いだ。女は好きだ。だからASMRを聴く。
AVはゴミだ
なぜ男体を視界に捉えながら絶頂に至らねばならない?
事後、理性が淡々と「汚物が画角に映った状態でなぜ悦べるのか?お前はホモなのか?」と語りかけてくるのに耐えられず、見なくなった。(余談だが、まどマギにハマっていた時期は、事後にキュウべえが「訳がわからないよ」と語りかけてくることもあった)
そんな時に出会ったのがdlsiteである。嗚呼、運命的な出会い。
ASMRは素晴らしい
一切の音が、女から奏でられた音だ。
胎児は母親の音だけを聞き、いずれ迎える誕生の時を粛々と、
生への祝福に満たされながら、待ち構える。
ASMRを聴く間、我々は再び、人生に祝福と希望を見出すことを許される。
皆、三大欲求はご存じだろう
そのうちの一つである性欲は蔑ろにされがちだ。
しかし、我々の本能に深く関わる部分であることは間違いない。
ガンジーですら性欲に完全に打ち勝つことはできなかった。
であれば、俗世に生きる我々がそれを乗り越える日が来るとは言い難いだろう。
畢竟、考えるべきことは、性欲との上手い付き合い方だ。
それを軽視しているから、適当な動画や、適当な画像で、満足のいかない形で処理することとなってしまう。我々は己の欲求を満たすことに対し、妥協をすべきではない。栄養バランスと味の両方が良い食事を摂るに越したことはないし、身体の調子が最適化される睡眠時間を確保すべきだ。
それは性欲においても同様であり、”完璧なシチュエーション、完璧な刺激”を追い求めなくてはならない。
結果として俺はASMRに辿り着いた。
青春とは
満足のいく青春を過ごしたと考える人間は少ない。モラトリアム期、一切の青春の風に吹かれさえしなかった人も多いことだろう。無論俺もその一員だ。
だが青春はいつでも、どこでも、容易く取り戻せる。
そう、青春×フェティシズムの手にかかればね。
純愛おま○こ当番、名前だけ聞いてあなたはギョッとすることだろう。
いわゆるエロを全面に押し出した、ドスケベ作品の響きがするからだ。
だがその認識は間違いだと俺は主張したい。(ドスケベは否定しないが)
青春は微かなエロスを内包するものだ。
それは青春が性の目覚めにより息吹くことに起因する。純情な恋だって何処か性欲が顔を出すことを否定することはできまい。否定するのは”こころ”に登場するクズ男くらいだろう。
話が逸れたが、純愛おま○こ当番は至って普通の青春だと俺は考えている。
普通にドスケベで、普通に甘酸っぱくて、普通にとろけそうな、そんな青春。
自身をただの性処理当番だと割り切る女の子と、本気で彼女のことが好きな”僕”は、作中で何度もまぐわる。初めは当番として優しく”僕”を包容してくれる当番ちゃんだったが(彼女の名前は作中で明かされない)、次第に”僕”の真剣さに惹かれていく。その心境の変遷は、そこらの恋愛作品より遥かに精巧に描かれており、聴き手も感情移入しやすいものとなっている。世間的にタブーな性交渉を緻密に描写できるアドバンテージを上手く活用しているためだろう。
我々はただ、性欲に向き合えば良い。女神が如く、彼女は全てを許してくれる。
そして特筆すべきは最後のパートだ。
真夜中、彼女と2人、学校のプールで互いに求め合う。
”書を捨てよ、街へ出よう” 当番ちゃんは、寺山修司の言葉を引用する。
殻に篭りがちな彼女を変えたのは、紛れもない”僕”なのだ。
彼女は”僕”をいつでも認めてくれる、励まして、優しく頭を撫でてくれる。
青春だけではない、我々は母の姿をそこに発見するのだ。
最後に
ASMRとは、母胎への回帰に等しい。絶対的な安心感に包まれる、唯一の場所。
愛に飢え、過酷な日常に疲弊し、希望を失った人々が、救いを得るのはここだ。
あなたはただ身を任せるだけで良い、必ず癒されるから。
それは絶対他力のようなものだ。陽向葵ゅかの少々嗜虐的な囁き、逢坂成美の艶やかな母性により、辿り着く先は極楽浄土に相違ない。
俺は、ASMRが、好きだ。
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