
〔連載小説〕 うさぴょん ・その8
8時30分のチャイムが鳴り終わるまでに学校の敷地内に入ってしまえば遅刻にならない、という話を前にお姉ちゃんから聞いた。「何いらんこと教えてんにゃな、ちゃんと余裕を持っていきなさい。ほんまにもう」と、お母さんは怒っていたけれど、これは重要な情報だ。僕は事前に所要時間を計算し、乗るべき電車を特定した。
そして、今日がすべり込み登校の初実行日だ。
ホームに地下鉄が入ってきてわっと風が吹く。見回してみたが、昨日の美人はいなかった。まあ、もう少し余裕を持って登校しているのだろう。
地下鉄は時刻表通りに北山駅に到着した。その後も時刻表通りに進んでいき、明日からもこれで大丈夫だ、と安心したところで、ふと気づいた。紀伊高校の制服を着た人が誰もいない。烏丸御池を過ぎたくらいから、あれっ、と思い始めて2つくらい車両を移動してみたけれど、同じ制服の人を見つけることはできなかった。自転車通学が多いのかもしれない、と思うことにしたけれど、なんかおかしい。
くいな橋駅に着いても紀伊高校の生徒を見つけることができず、駅を出ても同じだった。予定では速足で歩いて間に合うはずだったのだが、どこかで計算を間違えてしまったみたいだ。これは後で検証が必要だ。
検証はともかく、僕はまあまあ必死に走っている。
学校は鴨川沿いにあって、駅を出て少し歩いて橋を渡ってちょっと行ったところに正門がある。
川向こうの学校を見て少し安心したが、橋を渡っている最中にチャイムが鳴り始めて、正門にたどり着く前に鳴り終わってしまった。初日からこんなことになるなんて、あーあ、だ。
正門のところには先生が3人立っていて、そのうちの若い男の先生に話しかけられた。
「1年5組の宇佐美です」
「はいはい、宇佐美って、あれっ?」
先生がまじまじと顔を見てくる。
「もしかて、喜和ちゃんの弟さん?」
「えっ、あっ、はい。そうです」
「へえー。お姉さんは元気?」
昨日若山先生にしたのと同じような話をした。
「なるほど、あー、らしいねえ。あっ、明日からはもっと早よ来いやあ」
まだいまいち慣れていない校舎の廊下をきょろきょろしながら小走りで教室に向かう。どの教室もすでに担任の先生が来ていてホームルームが始まっている。
1年5組の教室が見えてくる。後ろの戸の窓から中を覗くと、やっぱり先生が来ていた。正門での立ち話のせいで余計に遅くなってしまって、なんか入るのが気まずい。
けれどずっと廊下から覗いているわけにもいかないので僕はそうっと戸を開けて、こそこそと席に向かい、席に着いた。
今日もあのきついにおいがしている。昨日と同じだ。ため息が出る。とその時、ふと隣の席を見て、「あっ」と声が出てしまった。僕は教室を間違えてしまった、のか。
あの美人が隣の席にいた。
「ん、宇佐美君、どうしたん?」
先生に聞かれた。飯田君が振り返って僕を見ている。隣の美人も、ほかのみんなも僕の方を見ている。
「えっ、あの、いやっ、なんでもないです」
教室を間違えた、というわけではなさそうだ。先生は若山先生だし、飯田君はいるし、小野村化学もいる。「小野村化学」というのは、昨日お風呂につかっている時に思いついた。小野村さんは「香害」だから公害で、公害といえば鉱山会社か化学会社で迷ったけれど、化学会社にした。それで小野村化学。コンビナートの厄介者だ。いやっ、今の問題は小野村化学ではなく、隣の席の美人の方だ。
僕はもう一度、隣の席を見てみた。間違いない、さすがに間違えるはずがない。昨日のあの美人だ。駅で見て、地下鉄で目が合って、帰る時に勧誘のビラを渡されたあの美人。
昨日は教室にいなかったし、入学式には出ていなかったはずだ。それがどういうことだろう。何か勘違いしているのだろうか。僕が正門でしゃべっている間に何か説明があったのだろうか。