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自分の音楽の土壌
会社員の自分が趣味で作曲をはじめてから、不思議だなと思うことがいろいろある。
その一つが、
「私から出てくるこの音楽はどこから出て来たのだろう」
ということ。
自分から出てくる表現という意味で、言語と音楽には似たものを感じる。
大学時代は外国語学部だったのと、現在は毎日英語を使った仕事をしているのもあり、言語についてはそれなりに長い間考えたり感じたりしてきた。
私が日本語を話すようになったのは、生まれてからたくさんの日本語を聞いたからで、もしドイツ語を聞いていたらドイツ語を話していただろう。関東育ちなので関東の言葉を話しているけれど、関西で育ったなら関西弁を話していただろう。
第一言語習得には、「聴く(聞く)」ことがとても大きな役割を持つ。
音楽の場合も、これまで聴いた音楽が作曲に影響するという話はよく聞く。
それには私も同じ感覚を抱くのだけれど、ひとつ不思議なのが、
「作曲時に自然と出てくる音楽の範囲が偏っていないか・・?」
ということ。私だけのことかもしれないけれど。
J-POP、洋楽、クラシック、ジャズ、映画音楽、ロック、アニソン、インスト、ヒーリングミュージック・・・いろんなジャンルの音楽をたくさん聴いてきたけれど、私が作曲するときに一番顔を出してくるのは讃美歌と宗教曲。
中学、高校がキリスト教の学校で、毎日礼拝でパイプオルガンの伴奏で讃美歌を歌い、中1の音楽の初回授業でヘンデルのハレルヤコーラスの英詩の楽譜を渡され、毎年創立記念日に全校生徒・教職員で合唱。
学校のクリスマス礼拝では臨時聖歌隊に入って讃美歌やクリスマスソングを歌い、卒業式は卒業生全員でバッハの宗教曲の合唱。
個人的にもウィーン合唱団などの合唱曲や歌曲をよく聴いていた。
だからか、作曲を始めたばかりの段階から無意識にアーメン終止を多用していた。
なじみがありすぎて、私にとっての「終わった感」はドミナント終止ではなく、アーメン終止の方が強い気がする。
というより、アーメン終止というものを知らずに使っていて、作曲の勉強を始めて少ししてから、これはアーメン終止というものなのか、と知った。
他にも、いろんな音楽を聴いてきたのに。
フレンチポップスや、イギリスのロックにはまっていたこともあったし。
全米チャート系の曲も聴きまくったし、ジャズもオールディーズも、B’zもQueenも大好きだった。
でも私から出てくる音楽は、なんとなくアーメンな空気をまとっていることが多い。
きっと、聴いて楽しんだ音楽と、自分の中に沁み入った音楽があるのだろうと思う。
その違いについて個人的な感覚では、
「10代の頃に耳を澄ませて聴いていた音楽」が、体の中によく沁みこんでいるように感じる。
10代という自我が強くなり多感になっていく時期に聴きたくなった音楽には、おそらく無意識に自分の揺れる心を支え安定させてくれるようなものを選んでいたのかもしれない。
なぜその音楽で心が安定するのかと思いを馳せると、それは自分の中の何かと波長が合い、だからこそ肯定感を得られる音楽だったのではなかろうか。
音楽を聴いて心地よい、好きだ、惹かれる、という感覚は噓のない実感であって、それはまぎれもない自分自身の真実だと言える。
その真実が与えてくれる否定しようのない肯定感こそが、音楽とともに自然と自分の中に沁みこんで、自分の音楽の土壌を育ててくれていたのかもしれない。
高齢の方々が、子どもの頃に聴いた音楽で記憶を取り戻したり、元気になったりすると聞く。
作曲をせずとも、楽器を演奏せずとも、音楽を好きで聴いた人の中にはその人なりの音楽の土壌があるのだろう。
自分から自然に出てくる音楽は、長い長い年月の間、自分の音楽の土壌でゆっくりと育ってきた音楽なのだろうと思う。
そう思うと、自分のつたない曲も、なんだか愛おしく聴こえてくる。