落ちるということ
重力に身を任せ、四肢を避けるようにして流れる空気を愉しめ。
脳の制御下を離れ、空間をひしめく粒子の密度によって、複雑に揺蕩う指先から、そのゆらぎの感覚のみが合田の元へと帰ってくる。
合田はかつての繋がりを、頭上遠くへ置き去りにしてきた。いつか逃走してやろうとは思っていた彼ではあったが、まさか逃落という形で、望まぬ自由を得るとは露知らず。
しかし落ち込んでもいられまい。不可逆的な事柄にいちいち頭を悩ませることもあるまい。
合田は、己へそう言い聞かせる。
落下と聞いて、転落と聞いて、絶望から希望への解放を連想はしまい。なにしろ、ヒトの歴史は重力に抗うことにあるのだ。かつて空を仰ぎ、星に願った人類は、かくかくしかじか、宇宙に足跡を残すまでに至ったのだ。
そして、今や地表に希望はない。
巨大な球形に縛り付けられ、利権を争い鎬を削る時代は遠い昔に終わり、今となれば、栄華を極めた巨大大陸群に息づくものの数は少ない。
合田は、穿たれた穴の遠く、彼の繋がりの糸先を見つめる。それはもう針の穴より小さく、さして時は過ぎていないだろうに、消えようとしているのだ。
彼は、少しばかり焦りを感じていた。
まさかこれほどまでに、視覚的情報が減少して、世界の解像度が指数関数的に単純化されていくことが恐ろしいとは知らなかった。
暗闇が、宇宙の黒が、足先から這い寄る。
全身が空に包まれている。幼な日に、近所の川で溺れた感覚を覚えている。これは、それとまるで似通っていた。縋る藁がどこにもない。川辺ならば、自生しているかもしれない。今の合田ならば、川に沈もうと、パニックを発す生存本能を抑え、冷静に水中の絡めから脱することもできよう。
しかし、空気中に藁は自生しないのだ。脳に至る酸素量が低下している合田は、具体的解決策と抽象的思考を判別するのに、時間を要した。
そうしてようやく合田は、無は希望か否か、考える。
死のない時代に、生きるという言葉はない。万物の取りえる選択は、動的であるか静的であるかの二者でしかない。朽ちず老いぬ時に、殺すという定義もない。生きる繋がりの地獄にて、永久に過ごすことをかつての人類は願った。
合田は、自分がどれほどの時を生きたのか自覚しない。それは彼に限らず、人々は同様に時を自覚しないのだ。
無限に続く、自然数の数直線上を歩く点は、その過程において自己が取る値を認識していない。終わりなき直線は、いつまでも道半ばなのだ。
落下を続ける合田は考える。
動的であるからして、私は未だ生きていると言えるのか考える。逃れようと切に願った繋がりを後にして、私は地獄を脱したのだろうか。
街には大きな竪穴が口を空けている。
穴には、地球が収まっている。
この宇宙を埋め立てた人類が、近宇宙で唯一、手をつけずに残した場所だ。過去への執着を捨てた人類だけれど、故郷を埋めはしなかった。起点となり、終点として今も残るのが、この穴なのだ。
合田は、終えた光の点を追う。
待ち受ける重力に、身を任せ。
かつて生きた希望へと、落下していく。
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