仮想世界と旅記
四年ほど前から仮想世界を揺蕩い、やおら漂流している。
モニターの前に座り、或いはヘッドマウントディスプレイを被り、点と線と、そして面で構成された世界の住人と対話をして過ごしてみる。
私から観て、彼ら彼女らはそこに住まい、あたかもヴァーチュアルに生を享け、かつてよりそこに生きているかのようなので、そのポリゴンの集合の中には現実に呼吸する人がいることを、ふと見失うことがあった。
当たり前のように、髪色の奇抜な美少女であり、鱗に覆われたモンスターであり、金属光沢を放つロボットは、私の彷徨い歩く側を闊歩している。
そこには、現実と同格な人の営みが広がっている。互いの容姿を言及し、住まう世界の情勢について語らい、そして、身辺の関係について複雑な葛藤を持つ者もいる。
果てなき技術の先鋭に輝く、ディジタルネットワークの潮流に、人々の描く世界はまるで現実と変わらぬ様相を見せつつも、リアルとはまた違う彩色があり、より人間の本来の欲に忠実な社会を形成しつつあるようにみえた。
私はこれを醜く、そして美しいと想う。
性差やルッキズム、物理現実に身体を晒し過ごす住人らは、いつまでも克服することのできずにいる縛りを超え、己のなすがままの姿を魅せ、両者共に褒め称え慰み合っている。
孤独に生きること、そして群れることを天秤にかけ、しかし答えの出ない理性の居場所が、電気信号の緩衝材を巧みに利用した社会に在るのだと思えば、それは新たな時代のユートピア足り得るだろうか。
四年の間、仮想世界で流れた時間と旅した私は、行けど行けど、煌々と照るトゥモローランドの姿はなく、かつてのインターネットの旅先にて、スタンプを押して回った光景と変わらない。
しかし、仮想世界の何処の影には、いつもリアリティが潜伏していた。
インターネットの秘匿性とリアルの公開性の綱渡りは、振る舞おうと躍起になる理想的自己と、それでも捨てきれぬ物理現実に住む自分の片鱗に苦しむ姿こそ、産声を上げたばかりの、新しいインターネットの魅せる人模様であって、旅行先にしては少しばかり鬱屈としていた。
それでも、技術の粋を集めた未来へ、一足先に歩を進めた住人が窮屈に感じているのは、物理現実に対してまた同じなのだ。
バイナリデータの集合に愛を覚え、物理的感触の無い情報に接触を覚える。
脳みそ同士が眼鏡をかけ、錯覚の作り上げた世界でじゃれ合うこと。
己の肉を邪魔だとすら思う者もいる。
肉体と離別し、絡み合う精神同士のネットワークの中で、ディジタルの個をみつけて心ゆくまで演技をしよう。
メタバースのビッグバンが描くのは、輝かしいユートピアではなかったけれど、私はそれで良かったのだと想う。一三八億年前の光と同じように、苦しく寂しい世界を創ろうと、それでも良い。
人は心に生きるようになり、肉体への興味を失うかもしれない。
全てが見透くリアリティから、色眼鏡と錯覚の生み出した幻視に生きるかもしれない。
対して、反動もあるだろう。
リアリティに生きることを”正解”だと吹聴する者もあるだろう。
だけれど、その対立も創られたネットワークの中に始まるのだと思えば、リアリティに握られた拳の振り下ろされる場所は何処なのだろうか。
心を育むサナトリウムを、精神の蛹をインターネットに造る世代は、今を生きている。
私は、国境は無く、ニュートンすらいない、産まれたばかりの宇宙を旅している。