虎塚古墳の謎が知りたい
以前から、行きたい行きたいと願っていたひたちなかの「虎塚古墳」。秋の一般公開に合わせてやっと行けました!
虎塚古墳とは
茨城県ひたちなか市中根(ひたちなかIC近く)にある全長56メートルほどの前方後円墳で、7世紀初頭~半ばの築と思われる、石室内にある鮮やかな装飾が特長の国指定史跡です。
1973年に初めて玄門が開かれた時、思いがけず壁画があったことで、勝田市(現ひたちなか市)中が大騒ぎになったということです。
装飾の文様
虎塚古墳の内部にベンガラ(第二酸化鉄)で描かれているのは、真円が二つ(コンパスを使って描かれたと学芸員さんが言っていた。)、その上に砂時計のような文様、武器や武具等の文様です。また三方の壁上部には、三角文が連ねてあります。
この連続三角文は、魔除けの意味があるのではないか、と後述する本に書いてありました。また、ベンガラは魔除けや再生を意味する赤い塗料で、日本では古代から使われていました。因みに神社の鳥居の赤も昔はベンガラで塗られていました。
福岡にある竹原古墳の装飾文様の現物を見たことがありますが、竹原古墳の文様に比べて、虎塚古墳のベンガラははっきりと力強い彩パワーを放っておりました。保存環境の違いでしょうか。こんなにハッキリ見えるとは思っていなかったので、とても驚きました。
この虎塚古墳と少し似た幾何学文がある古墳は、主に九州北部から発見されています。福岡の王塚古墳や熊本のチブサン古墳は私の憧れで、近いうちに絶対に行ってみたいと思っているところです。
装飾古墳といえば、九州がメイン。しかし遠く離れた太平洋沿岸である宮城・福島・茨城からも発見されています。二つの地帯を繋ぐのは海路。「海の交流」だったのでしょうか。ロマンです。
「装飾古墳と海の交流」稲田健一 著 新泉社
「装飾古墳と海の交流」は、遺跡を学ぶシリーズのうちの一冊です。今回の虎塚古墳見学に際し購入しました。
著者は小学校5年の時に虎塚古墳を見学して感激して以来、古墳研究の道に入ってしまった学者さんです。淡々と正確な研究結果を記述しているのですが、時に興奮を抑えきれない様子が所々拝見でき、読んでいる私まで興奮してきてしまいます。
虎塚古墳は乗っ取りがあったかもしれない?
この古墳の築造は、7世紀初頭で、初葬もその頃ではないかということですが、その後この古墳は追葬された形跡があり、今残っている被葬者は、入れ替わった人ではないかという説があるそうです。
初葬の時の副葬品と思われるものが石室外から出土した、そして元々埋葬されていた人の石棺もどこかに持ち出されてしまったようだ、通常そんなことは無いので、初葬と追葬の被葬者はおそらく血縁関係はなく、もしかしたら古墳が乗っ取られたのかも?! とこの本の中で筆者は疑問を提起していました。
初葬と追葬があった時期は数十年くらいしか離れていないと思うので、もしかしたら両者は全然知らない間柄ではなく、しかし何らかの理由で関係が悪くなったのでしょうか。それとも、もともと相反する権力同志だったのでしょうか?持ち出された初葬のご遺体はいったいどこへ?近くの十五郎穴へ改葬した?
・・・色々想像してしまいます。
被葬者は誰?
古墳の見学の際、案内の方に「この古墳の被葬者は誰ですか」と聞いてみましたが、回答は「分からない」でした。
多分色んな意味を込めての「分からない」なのでしょう。
一般的に、古墳で見つかった骨は集められて施設内で保存することが多いそうなのですが、虎塚古墳の被葬者は骨壺に入れて石室の入口近くに安置されています。古墳の中で永い眠りにつき、年に二度ほど一般公開の期間だけ外界の気配を感じているのですね。
埋蔵文化財センターで入手したひたちなか市教育委員会発行の「発掘調査の概要」には、第一次調査の陣頭指揮を取った大塚初重の文章が掲載されていました。大塚初重は、虎塚古墳の被葬者として「もしかしてもしかしたら九州の古族である多氏一族に関係のある人物かも? でもなんの証拠も根拠もないから分からないけど・・・ 」と想像していました。
追葬されたこの被葬者は、古墳時代の終焉とはいえ副葬品があまりにも少なく、亡くなった時には、もう勢力を失くしていた人かもしれないという意見も書かれていました。
また壁画の中で玄門よりの一部のものについては、少し異質な感じがするのでもしかしたら追葬の時に描き加えたものかもしれない、とも。だとしたらその意味は?
益々謎が深まります。
いずれにしても、これから先、科学の進歩と共に真実が明らかになっていって欲しいです。
次の一般公開は、2025年春
2024年秋の一般公開は11月17日(日)まで。
次は春の予定です。
レプリカは、ひたちなか市埋蔵文化財調査センターにて常設しています。被葬者の腰に置かれていた副葬品の太刀も展示していますので、興味のある方はぜひご見学ください。