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3年経ってやっと

私の祖父は、私が中3の頃(現高3)に亡くなっている。私はそのことで、悲しむことも寂しいと思うこともなかった。
周りがみんな泣いてるのに、私は泣いていない。泣きそうにもならない。

その時は(((あぁ、私って本当に感情ないんだ)))と思った。

この出来事の他にも、周りが泣いてるのに、自分は泣いてないことも何度もあった。その時も泣きそうにすらならない。
毎度、自分は感情というものを持ち合わせていないのか、と落ち込んだ。

さすがに祖父の葬式で泣けないのはショックだった。
確かに祖父からは愛情をたくさんもらって、私も祖父のことが大好きなはずだった。それを否定されたような気がした。
それにプラス、葬式の間、私が考えていたのは自分のことだった。自分が死んだとき、こんな風に泣いて悲しんでくれる人がいるのだろうか。そんなことで頭の中はいっぱいだった。私はどこまで行っても自分のことなんだな、まぁ人間というもの、そんなもんなのか、とも考えていた。

2年ほどして気づいたのは、祖父が亡くなってから、私は祖父が亡くなった実感というものが湧いていないということ。会わなくなっただけというか、もういないということがよくわからなかった。

それに気づいてからは、なんとなく気が楽になった。別にそれでいい、そうだから良かった、とは思いたくはない。だが、自分は感情がない、泣けないというコンプレックスの、解消へのみちを、一歩進めたような気がした。

考えてみれば、私は本当に泣けないわけではない。確かに泣くことはめったにないが、一人で泣くことはたまにはある。感情がない、に関して、感情表現は、周りを見ていると下手くそだな、と思うこともあるが、前向きな気持ちであれば、笑顔になれたり、笑ったりすることはさすがにある。


ここまで長々と書いてきたが、本当に書きたいのはここから。

今日は夕方、バイトをしていた。その時、祖父母と同じくらいの世代のご夫婦が買い物に来ていた。見ていたわけではない。会話が聞こえてきた。

そのご夫婦の会話が、特段ほっこりするものだった、などではない。旦那さんが「会計行くか?」と奥さんに言い、奥さんが少し早口で「ちょっと待って」と。私が聞いていたのはそこだけ。

どこか私の祖父母に似ていた会話。
久しぶりにあの二人の会話を聞いたような気がした。

じいじとばあばの、二人の掛け合いはもう聞けないんだ。
寂しく感じた。

…寂しいをやっと感じれた。
それで泣くことも泣きそうになることもなかったが、なぜか少しほっとした。
祖父が亡くなったことをやっと実感できたように思える。

私はまた一歩進むことができたのだろう。

#感情 #実感


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