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不変的な気持ちとして残っていくだろう元旦の記録

久しぶりに約7時間もの長丁場を一人の配信者と過ごした。(配信を流しながら寝てしまった回を除くとして。ちなみに、仕事が終わる頃から、寝て起きて次の日の仕事に行っても配信していたこともある人物である。)
視聴者参加型でゲーム配信をしていて、私自身がゲームに参加したわけではなかったけれど、その様子を見ながら絵を描いていた。その人の絵だ。事前に頭の中でイメージしてたものより良くなった気がするのも、たぶん配信を見ていたからだと思う。間でご飯も食べたし、手帳時間をとったりもした。配信していた彼も、一旦ゲーム配信を切り上げてご飯を食べ、お酒片手に雑談をする限定配信に移った。そしてそのまま一緒に年を越した。
途中から他の配信も見ていたし、SNSでの投稿も追っていたから、「あけましておめでとう」や「一緒に年越しをしてくれてありがとう」を言う先はいくつもあったけど、一番にその言葉を打ち込んだのは彼のところだった。

私は寸前で迷っていた。PCの画面には配信がふたつ映っている。どちらも同じユニットのメンバーの配信。どちらかと言えば、後から配信を始めた他メンバーの方がグッズも熱心に買い揃えていて、いわゆる『一推し』のメンバーだった。普段だったら、グッズだったら、他メンバーの方を優先していたと思う。でも私は、その時点ですでに6時間半を一緒に過ごしていた彼の方に気持ちが向いていて、どうしてもチャットの入力カーソルを移動できなかった。それくらい、一人で観ているのに一人で過ごしていない配信の時間が、楽しくて心地よかった。

配信というのは『時間の共有』だと思う。インターネットを介しているから、そこに温度感はあまりないけど、物理的な距離や住んでいる世界さえすっ飛ばして、同じ部屋で同じ映画を見たり、ゲームをしたり、はたまた同じ部屋に居ながらそれぞれの好きなことをしたりするような、近しく親しい間柄のようで、とてつもなく遠い相手との時間だ。
だから私は、いつも一人で配信を見たい。配信は配信主との共有なので、その『配信を見る行為』自体を誰かと共有するのは、なんだか違う気がしている。(チャット欄にいる他の視聴者はまた別として。)ライブの公演中や映画の上映中に、隣の友人と目も合わせず感想合戦もしないのと同じ。

こうして同じ時間を過ごしていくうちに思い入れが強くなって、シンプルに『好き』という言葉では収まらない気持ちになっていくんだよなと気付くと、自分で自分の業を深めてしまったような気がする。
そもそもの前提として、ある程度好ましく思う気持ちがあって、わざわざ早い時間から配信を見に行っていたのだから、『好き』という気持ちに深みや重みが出るのは必然なのだけど、久しぶりにしっかりと『時間の共有』をしたことで、『気持ちが深まる瞬間』がよりリアルに自分に迫ってきた。配信が一緒に遊ぶ、一緒に他の配信を見ながら感想を言い合うという、一体感や共感、距離の近さを強く感じる内容だったのも大きい。
『一推し』を差し置いてコメントをした、一年に一度しかやって来ない年越しの時間を一番長く過ごした相手が彼だったという事実はこの先も残るし、ゆっくり増していく気持ちの深みや重みの一部として積み重なる。

配信を見始めるまでは、なんというか、割と軽い気持ちなのだ。興味を引かれるものが、自分の手隙の時間に始まるから見ようという、それだけだ。他の誰か、それこそ『一推し』が配信を始めれば、そちらをメインに見始めることもできるから、割と低いハードルで見始める。だけど、内容や過ごした時間の長さで、その瞬間だけ優先順位が入れ替わってしまって、それが自分の不変的な気持ちとして残っていく。

こうやってまた、どんどん思い入れの強い相手が増えていくんだな。私は私の『好き』という気持ちに、死にそうなほど悩みながら生かされるんだろうな。そんなしみじみとした実感とともに、私の2024年は始まった。

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