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鏡合わせの僕ら (一)

                               

 今日最後のチャイムが鳴り終わって早二時間が経つ今この頃。教室には僕を含む四人だけを残して、クラスメイト達は皆帰っていった。

 窓際の席に座るエツルと、彼女を囲むように佇む二人の女の子—名前は知らないが、おそらく彼女の友人なのだろう。それから、窓際から少し離れた所に座る僕の四人だ。

 年頃の女の子らしいエツルは、今日もエネルギーを発散しきれていないようで、放課後になってもなお溌剌と友人との談笑に耽っていた。対して年頃の男子高校生らしからぬ僕は、今日も今日とて、さみしい放課後を一人でやり過ごしていた。

 側から見れば、それは可哀そうな青春を送っていると同情されるに違いない。それ程、僕のまわりには陰湿なオーラが漂っているのだろう。しかも、そんな僕との対極に位置するエツルと一緒にいるこの状況だと尚更無理もない話だろう。

 僕はときどき宿題をやっては、読みかけの本を開き、ひと段落読み終えると、先日姉からの誕生日祝いとして送ってもらったウォークマンにイヤホンを挿して、それを聴いた。

 四曲目が始まるところで、僕はうとうとし始めて、終わる頃にはとうとう転寝を始めていた。

 やがて目が覚めたときには、プレイリストの半分ほどの曲をすでに聴き終えていた。どうやら随分ぐっすりと眠っていたらしい。

 欠伸を噛み殺しながら再び課題に取り掛かろうとしたとき、ふと、先程エツルの傍らにいた二人が消えている事に気がついた。

 その二人の物と思しきカバンや持ち物が見当たらないあたり、きっと帰ってしまったのだろうと僕は思った。

 一人取り残されたエツルは、机に突っ伏していて、形の良い耳からは白いイヤホンがだらしなく垂れ下がっていた。その無造作な彼女の姿を見て、きっと先ほどの僕同じ格好で寝ていたのだろうと思い、少し苦笑いをした。

 残りの課題に取り組むのも忘れて、僕はしばらく頬杖をついて彼女を見守った。そうしているうちに、僕の頭にはある映像が流れ始めた。それはレトロな投影機から映し出される古い映画のように不鮮明で、しかしどこか暖かみのある光で象られたものだった。

  * * *

 今から七年前、つまり僕がまだ小学三年生だった頃の話だ。

 当時の僕はまだ幼く、純粋無垢な子だったが、決して周りから嫌われずとも好かれる様な子どもではなかった。

 大人たちが求める愛想の良さも、自分と同じ子ども達が好む面白さのどちらも持ち合わせていなかったからだ。大人も子供も寄り付かない僕はまるで絶海に浮かぶ小さな島の様に孤立していたのだ。

 そんな現実を嫌った幼い僕は、物語の世界へと逃げ込んだ。読書や音楽を聴き始めたのはちょうどこの時だった。

 嫌なものから目を逸らし、耳を閉ざして、うやむやとした黒い靄を頭から追い払ってくれる存在。たとえ辛さや災いに襲われても、必ず明るいハッピーエンドを迎えて幸せになる。そんな都合のいい話がその時の僕にとって、なによりの救いだったのだ。

 いつしか、僕は家よりも図書館にいる時間の方がずっと長くなり、閉館時刻のギリギリまで居座り続けることも少なくなかった。また、学校でも例外はなくどれだけ短い休憩時間も逃さず、本の貸し借りだけでもせめて済ませるようにしていた。やがて、片時も本を離すことのなくなった僕に学校中の児童が怪訝な眼差しを送り始めたのはそういう理由だからだろう。

 そんなある日のことだった。四時限目の終了を告げるチャイムが聞こえたところで、僕は授業終了の挨拶も待たずに、ずっしりと重いお弁当をランドセルから引っ張り出して、学習机に音を立てて載せた。その音に驚いた何人かがこちらを振り向いては、青い風呂敷に包んだ弁当箱と気味の悪い笑みをを浮かべる僕を交互に睨んだ。

 きりーつ、きをつけ、れいっ。

 腰を少し浮かした程度に立ち上がり、適当に号令に合わせたお辞儀をすると、僕は急いで風呂敷の結び目を解いて、現れた黄色い弁当箱の蓋を開けた。

 炊き込みご飯と、甘辛煮を咳き込みながらも平らげると、弁当箱を雑に包んでランドセルの中に押し込んだ。

 未だ、リスの様に膨らませた頬袋をもぐもぐさせながら、僕は学校の図書館へ駆け出した。紆余曲折な道を経て、たどり着いた図書室は、幸い人の気配がなかった。そのことにはほっと胸を撫で下ろした自分がいる。

 ゆっくりと扉を開いた室内はやはりひっそりとしていて、どこか学校ならざる様な重厚とした雰囲気を纏っていた。数え切れないほど訪れた僕でも飽き飽きしない、独特な心地良さを本がつくり出していた。

 僕はキョロキョロと辺りを見回しながら、そびえ立つ本棚の間を縫う様にして進んだ。あまり広いとは言えないこの場所でも、きちんと行き届いた手入れや、豊富な本の種類が僕を感心させた。

 ゆっくりと時間をかけて満喫した僕は、自然と机の前で足を止めた。

 図書室の中央にどっかりと置かれたこの存在感ある大きな机は、月に一度だけ仕入れる新刊や週間ランキングなどを几帳面に並べ、展示するために係が設置したものだ。

 そして、今日は新刊の到着日だった。いつもより早く昼食を済ませたのは他ならぬこれのためだ。僕は二十冊あるそれらを一通り眺めると、気になる文庫本三冊と、ハードカバーが一冊を脇にはさんだ。

 そのままカウンターへ向かって借りても良かったが、午後の授業まで幾分と、時間があったのと、午後の日だまりに包まれた椅子が目に入ったので、それに腰掛けて、少し読んでいくことにした。

 日のやさしさは、僕に今が夏であることを忘れさせた。

 僕は頭の中のあらゆる物事を片付けて、眠る様に物語の世界に沈んでいった。

  * * *

 ピアノの音が聞こえた。

 その調べに、思わず頁をめくる手が止まる。僕は眉をひそめてみたが、決して読書を妨害されたからではなかった。

 しばらく音色に耳を傾けてみると、音は頭上から流れるものだと分かった。しかし、それがスピーカーからではないことを知ると、やはり上階の音楽教室にいる誰かの演奏なのだろう。何とも言えぬ哀愁を音に含んだかの様な演奏は実に秀逸で、妙に惹かれる何かがあった。

 僕は徐にしおりを挟んで、腰を浮かした。チャイムが鳴るまでの間を、上にいる誰かの演奏へあててみたくなったのだ。我ながらおかしな選択だったと後々思った。

 図書室を出てすぐ右手にある階段を渡るとすぐ音楽教室に着くのだが、僕はあえてゆっくりと、一歩ずつ踏みしめる形で上った。これによる旋律が深まり着々と距離を縮めているのを肌で感じられた。やがては、自分は奏者の誰かに誘われているのではないかとさえ思えてならなくなってしまった。

 果てしなく長いかに思える道のりも、気づけば僕は音楽教室の前にいた。室内を覗けば、奥には鎮座する巨大なグランドピアノと、その巨体に似合わない小柄な少女が夢中な様子で例の楽曲を奏でていた。

 こちらに背を向ける形で演奏していたので、顔はよく見えなかったが、せいぜい自分と同い年くらいだろうと僕は推測する。にもかかわらず、見る者を圧倒するその演奏と、その年齢とは思えぬほどの華麗な指さばきに、僕は思わず舌を巻いた。

 長らく僕は音楽教室の入り口に佇んだまま、恍然と聴き続けていた。夢の様な時間だったと、今でも思うくらいに。

 聴き入った僕の手から、先ほど借りた本が滑り落ちたのはその時だった。うっかりしている内に、全身の力を緩めていたらしい。

 慌てて落ちた本を拾い上げると、少女は驚いた様子でこちらに目を向けていた。その姿はさながら、働いた悪事を大人に見つかった時の子供そのものだった。

 しばらくの間、僕らが見つめあっていると、徐々に少女の目には怯えの色が浮かび始めた。それを見て、僕は何か言わねばと焦り出した。

 本当にごめん、驚かすつもりはなかったんだ。

 君、ピアノ上手だね。

 そんな言葉が次々と思い浮かんだが、いずれも声となって彼女に伝えることは敵わなかった。まるで喉に何かがつっかえてしまったかの様に、僕はついに一言も話せないでいた。

 少女も頑なに口を開こうとせず、その場を気まづい沈黙が支配した。

 やがて、昼休みに終了を告げるチャイムが廊下からこの音楽教室まで響き渡ると、一気に全身から力が抜け落ちていくのがわかった。同時に心の緊張も解けてか、どっと背中から汗が大量に吹き出る。

 僕が妙な安心感を覚えていると、少女は徐に立ち上がった。慣れた手つきでグランドピアノの蓋を閉め、布を被せると、楽譜を胸に抱えて足早に僕のいる扉を経由して去っていった。

 僕は、彼女が廊下の向こうに消えて無くなるまで、ただ茫然とその場で立ち尽くしていた。



つづく

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