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『コンテンポラリージュエリー』誕生までの変遷を調べてみる ♯2(古代エジプトからローマと弥生時代まで)


 今回は古代エジプト、ギリシャ、ローマについて。前回のメソポタミアも含まれますが、横の繋がりを意識することが重要な時代です。世界史の特徴でもある戦争、侵略、統合など各場所とタイミングで複雑に交差しています。ペルシア帝国からヘレニズム帝国、シリア王国、ローマ帝国など人々の移住にともない装身具文化も一緒に移動していきました。このことにより装身具文化と技術が国際的に均質化へ向かうその過程を説明できればと思います。


【古代エジプト】

 古代エジプトでは紀元前3000年頃からゴールドと銅を材料とした装身具やオーナメントが制作され始めました。天然の宝石や人工のガラスなどの色石を使用した象嵌による多色性が特徴的で、銅の精錬技術やファイアンス技法(錫釉の軟質陶器)が確立されました。古代エジプトでの多色装身具は宝石自体の珍重ではなく、図像に顔料を施す(ゴールドの表面を覆う)という目的があったとされています。造形やプロポーションは基準(規則性への愛とシンメトリー)によって制作され、美術作品と同様に実験的な試みや自由な表現の為のメディアではありませんでした。特に古代エジプトでは短命の運命から死後の世界を想像し、次の世界へ旅立つ際の必需品として豪華絢爛な装身具が一緒に埋葬されました。そして王の名前や神々をシンボルとしたデザインが多用されていきます。またロストワックスでのキャスト製品が誕生し、ある程度の塊になったゴールドとそれまで一般的だったシート状のゴールドが組み合わされて造形されました。この頃になると現代でも目にするような装身具の種類(ネックレスやリングなど)が一通り開発されました(ブローチを除く)。

 紀元前2300年頃の古王国時代になると権力者中心の装身具だったものが一般人にも普及していました。毎日身につけていたほどポピュラーな文化(生活に不可欠なもの)となったのです。動物や花をモチーフにした豪華なネックレスや髪飾りは権力者用の宝物品として制作され、モチーフや色彩にはそれぞれ価値、意味、階級が強く象徴されていました。富と多様性を示す為に集合体で装身具が用いられ、限られた人物(ファラオ/王)の為の装身具です。一方で一般向けにはゴーストの概念があったことからお守りや祭事用として装身具が身につけられるようになります。このような庶民文化は豪華絢爛で限定的だった装身具に対抗したカウンターカルチャーとして次第にヒエラルキーの上部へ浸透し、民族全体で流行、メインカルチャーとして定着していきました。また、紀元前1540年ごろの新王国時代には王が英雄たちに軍功として装身具(ゴールドのハエのデザイン)を贈呈していたことも知られています。この風習は後世にまで継承され、アレキサンダー大王やナポレオンも行っていたそうです。

 職人の中には新しい制作環境、マーケットを求めて移動する者が増えていきました。この時代の最大のパトロンといえばエジプトの王です。神に近い存在として、多くの貢物が献上されていました。この時代の重要なポイントとして新規のパトロン獲得を目指して移動する職人たちが道中で技術を教え歩いたこと、そして情報交換が積極的に行われていたことなどが挙げられます。デザインや技法、アイテムなどが徐々に伝搬し、ゴールドジュエリーの国際化へと向かっていったのです。装身具のメリットである持ち運びの容易さ、希少価値の高さによる資産的役割が装身具文化の普及と職人たちの移動を促す結果に繋がりました。その後紀元前525年にはペルシャに服属、紀元前332年にヘレニズム帝国に併合され、ギリシャ化されたヘレニズム時代が始まりました。


【古代ギリシャ】

 紀元前3500年頃のクレタ島を中心としたエーゲ海でミノワ文明、青銅器時代が始まりました。高度な青銅器の武器や道具、装身具が製造され、他にも宝石彫刻やエナメル技術などがミノワ文明で完成しました。ゴールドがメイン材料として使用されていましたが、同時にシルバーも普及し始めた時代です。宝石ビーズやワイヤー、シート、箔状のゴールドが造形の基本となっており、モチーフは動物と植物が好まれる一方で完璧な美を象徴した神々(人型)を形どったデザインなども使用されていました。この頃のギリシャでは“神=王、人間中心”の世界です。装身具は一般向けではなく選ばれた人物に対して制作され、古代エジプトよりも小さく造形的で豪華なゴールドジュエリーが特徴的でした。そして“哲学”が発展した時代背景を考えてみると「人間はなぜ装身具を身につけるのか」という問答があったかもしれません。

 紀元前900年頃からは幾何学様式の時代が始まり、立体的なデザインが多かった時代から平面的な装飾性の強い装身具の時代へと移行していきました。特に重要だったのはフェニキア人の移住で、文字を輸入したことやゴールドスミス(金細工職人)として工房を構え始めたことが挙げられます。高度な宝飾技法の国際化です。紀元前330年頃のヘレニズム時代に突入するとペルシャ人の財宝が流布した影響により、ゴールドがふんだんに使用可能になりました。エジプトを起源とするヘラクレス・ノット(英雄の固結び)がアミュレットとして、またギリシャ起源のエロスやニケ像モチーフのネックレスやイヤリングが人気を博しました。裕福な女性たちが装身具を愉しんだ証拠として大量のペンダントとイヤリングも発見されています。神々の像やオリーブ、月桂樹のリースなどのアイデンティカルなモチーフは、スキタイ(遊牧民)のアニマルスタイルと融合して“グレコ・スキティアンスタイル”として昇華しました。

 他にも紀元前605年頃にリディア王国で金銀を使用した貨幣経済の始まりによりギリシャにもコイン作りのノウハウが持ち込まれ、独自のコイナージュ(メダル・アート)として発展しました。


【古代ローマ】

 紀元前900年頃のイタリア・トスカーナ地方では、エトルリア人が確立したアート・スタイル、エトルスカン様式(メタルワーク)が始まり、史上最高の粒金技法(最小0.18mm)などの繊細で高度な技法を用いた装身具が制作されました。宗教的な役割よりも実用性を求めた装身具が一般市民へと普及していきます。服装の変化により衣類を留めるボタン(フィビュラ)やブローチが発達し、石への彫刻(カメオやインタリオ)も盛んになった時代です。

 ローマ初期の時代は性別も関係なく男女ともに装身具の着用されていましたが一部規制がありました。贅沢品の一つとして装身具は公的な認可が必要だったそうです。女性は様々な装身具を身につけていましたが、着用できるゴールドの重量が規定(1.6g)されており、また男性は社会的な装いや宗教上の儀式用としてリングやリースが着用されました。他にも死者とともに埋葬するゴールドジュエリーの重さも決まっており、これらは戦争の資金調達の為に法律で定められていました(オッピアン法)。各地で大きな戦争が起こり始めたこと、戦争中心の政治が装身具のデザイン、文化に大きな影響を及ぼした時代です。

 共和国時代では規制があった為に主にブロンズ製だった装身具が、帝政の始め紀元前27年頃にはゴールドジュエリーが再び主流となりました。この頃まではギリシャ出身のゴールドスミスの移民が多く、ギリシャの影響が色濃かった時代です。宝石彫刻も盛んに利用され、大王直属の彫刻師も現れました。また、パールやエメラルドといった宝石が重宝されるようになり、徐々に硬度の高い貴石の利用が始まりました。未カットのダイヤモンドもこの頃登場しています。他にもニエロ技法やローマン・セッティングなども誕生し、宝飾技法が成熟していきました。そして戦争後に属領となった地域の装身具職人や文化を吸収することにより、ローマの装身具文化は世界の頂点にまで上り詰めました。つまり、現在にまで続く宝飾技法とデザインの本格的な国際統一化がなされたのです。
 メソポタミア文明以降の装身具は民族の移動と交流がもたらした“ゴールドの普及によるゴールド至極主義時代”だったと言えるのではないでしょうか。


一方その頃の日本では


【弥生時代】

 弥生時代(紀元前200年頃まで)になると部落の構築と権力の差に伴う生活レベルの向上が装身具文化の向上に繋がりました。大陸文化の流入で鋳造技法が伝わり、ガラスや青銅器などの使用によって色彩への意識が高まっていきます。また、青銅器と同時期に伝わったとされる鉄製品の影響は大きく、鉄は道具の高度化を促して複雑な模様や造形の工芸日用品の制作が可能となり、周辺部落との輸出品として金工職人が誕生しました。この青銅器時代と鉄器時代がほぼ同時に始まった日本は諸外国とは異なった特殊なケースとされています。メソポタミアでは約2600年を経て時代が変わっていったことを考えると、当時の日本には想像以上の革命が起きたのではないでしょうか。

 稲作の輸入により狩猟をしていた食生活から一変して安定した食事の確保が可能になり、人々の暮らしに余裕(生活サイクル)ができてきました。その結果、専門的な職人などの“食”には直接関係ない仕事が普及し、身分の差が少しずつ目立ち始めます。農業をする労働者とそれ以外の専門職です。他にもこの時代で重要だったのが稲作のもたらした富の概念です。米は長期間貯蔵できるという利点により、貯蓄量が豊かさの象徴として可視化され始めました。このことにより貧富の差が生まれたのです。そして貧富の差は個人の単位から大きな部落の単位にまで拡大したことにより隣国間での戦争が始まり、皮肉にも鉄や青銅器の加工技術は武器に利用されていきました。文明を形成していく中で始まった奪い奪われる時代の到来は世界で共通しているのかもしれません。

 装身具文化はというと実利、機能を優先した造形美。愛しき人、死者を慈しむ深い愛情の証。動物の持つ呪力や霊力を得る為。政治的、宗教的色彩の強い文物としての流通。など装身具に対する考え方が生活力向上と共により哲学的へと高度化していった時代です。大陸文化を吸収し、日本国内でも徐々に文明が形成されていきました。しかし、西洋で浸透しているゴールドジュエリーは未だ日本国内で制作、着用されていませんでした。それは古墳時代に入ってからようやく始まることになります。

次回に続く

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寺嶋孝佳【装身具作家/CJST企画運営】
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