CIVILTALK 05:橋本麦
いつでもどこでも誰でも誰とでも、パソコン一つでなにかができることが当たり前でなかった私たちは、麦さんの物心ついた時からインターネットを使いこなせる経験を羨ましくも感じつつ、不便だった自分の時代を懐かしむ気持ちがありました。
私たちの時代はなにかを探す場合、雑誌を買い、テレビを録画し、マスメディアを貪ってあたりはずれに出会いながら、自分の趣味趣向をゆっくりと形成してきました。多くの人が少ないメディアを共有しあっていたので、次の日学校で昨日やっていたテレビの話をするというようなことも多かったと思います。そしてゆっくりと形成されていったパーソナリティーは、何を好み、何の道に進むのか、自分のしっくりくるものになかなか出会えないことも多く、数ある選択肢を知らないまま周りの声に惑わされていたこともあったのではないでしょうか。
幼少期よりプログラミングとインターネットに戯れながら育った麦さんは、それはちょうど私たちが放課後に友達と校庭でサッカーをするのと同じぐらい気軽にパソコンと触れ合いながら、当たり前に検索を繰り返してきたようです。Flash動画や今のSNSのようなBlogやYouTuberの流れにつながるような動画を見たり、好きな音楽などを関連や検索でどんどん掘り下げていったりするようなことを遊びとしてやっていたというのは、現在の麦さんを形成する上でとても重要な役割をになっているのではないか、ともするとこの経験まんまなのでは、とお話を伺っていて感じました。
Windows95が発売されてから約20年。この20年で何百年・何千年分の知識を溜め込んだインターネットのどんなことでも検索ワードで調べられる時代の恩恵を受けて育ち、またその膨れ上がった参考例と向き合いながら作品をつくる窮屈さの狭間で、新しい表現に対する貪欲さと自らナードだと称するユニークな人柄は、これからもトレンドなどにとらわれない新しい作品をつくっていかれるのではないかと感じました。きっとその時代感のなさにすらこだわりもないのだと思います。
デジタルというとどこか自動でなんでも簡単に作ってくれると勘違いしてしまいがちですが、技術と独特な視点に裏付けられたおよそオートマチックとは言い難い長く地道な作業の連続によって出来上がった作品群を目の前にして、私たちは驚きの連続でした。今回受賞された作品で言えば、ロケハンという名のGoogle Street Viewをひたすら見続け、ストックしていく作業などおおよそ写経に近いものではないでしょうか。いつの時代も、どんなにテクノロジーが発達しようとも、最後はその人の力次第であるということも再確認させていただいたと思います。是非たくさんの参考動画とともにどうぞご覧ください。
本日は事務所にお招きいただきありがとうございます。文化庁メディア芸術祭でノガミカツキさんと制作されたgroup_inouのMVを拝見させていただき、とても惹かれました。その後3人で麦さんのサイトを見て、ぜひ一度お会いしてお話を聞きたいと思い、ご連絡させていただきました。ご快諾いただきありがとうございます。
橋本麦(以下、麦):こちらこそ、ありがとうございます。
我々3人は1984~85年生まれなんですが、麦さんは92年生まれですよね。
麦:そうです。今年24歳ですね。
僕たちとは世代が一つ違うという感じですよね。麦さんのサイトでプロフィールを拝見させていただいたんですが、大学ではどのようなことを学んでいらっしゃったんですか。
麦:映像系と言うよりは、メディアアート系の学部でした。ただ、大学2年くらいからほぼ学校には行っていなかったんですよ。武蔵野美大では1年では彫塑、油画、タイポグラフィなどの基礎的なところをまず一通りやるので、学部で専門的な部分はあまり学んでいないというのが正直なところです。
では、映像の技術などは完全に独学ということですか。
麦:そうですね。でも、多分みんな独学なんじゃないかなと思います。CG系は特にそうですね。
映像制作はいつ頃からやっていらっしゃるんですか。
麦:高校の部活からです。放送部だったんですよ。
麦さんのサイトで当時の作品を拝見しました。全国高校放送コンテストで最優秀を受賞されたそうですね。
麦:スポーツ医学や交通管制のシミュレーションを駆使して、遅刻魔をどうやったら遅刻せずに登校させられるかというのを検証するフェイク・ドキュメンタリーのようなものをつくりました。Nコンは放送部の甲子園みたいな感じなんですけど、それで最優秀をいただいて、それで少し勘違いして、「美大行くか」と思ったんです(笑)僕の高校はいわゆる自称進学校で、僕は理系だったんですが、そういう環境に対する天邪鬼というかクソ食らえ感もあったと思います。
クソ食らえ感は、大学に入ってからもありましたか。
麦:ありました。僕は映像学科だったんですが、実は僕が受験する年に映像学科の教授だった今敏さんが亡くなってしまったんですよ。今敏さん目当ての受験生も多かったと思うんですが、そのことで映像学科の教授陣で現役で活躍している方が少なくなってしまったんです。その頃は、現役で手を動かしている人しか尊敬しない、くらいの気持ちでしたので、反発心はあったと思います。
麦さんも今敏さん目当てで映像学科を志望されたんですか。
麦:いえ、僕はパソコン得意キャラだったんで、そのイメージどおりに工学系の大学に行きたくなくなってしまったという、本当にそれだけです(笑)でも、少し意識が高い話をすると、高校時代は川村真司さんの作品が好きで、川村さんの大学時代の教授というつながりで佐藤雅彦さんを知ったんです。僕が受験する頃には東京藝術大学にいらっしゃったので、いかにして東京藝大の大学院の映像研究科の佐藤研に行くか、芸大は無理なのでとりあえず美大の誰でも入れるところに行ってから進学しよう、と、うっすら考えつつムサビを選んだ所もあったりします。結局中退しちゃったのでまったく意味ないんですが…
中退されてしまったのはどうしてですか。
麦:留年したから中退したんです。大学にほぼ行っていなくて、留年するかなと思った段階で、親に「中退する」と早めに伝えて留年したことがバレないようにしたつもりだったんですが…でも、中退届けを出した後に成績表が実家に届いちゃって(笑)
なるほど。麦さんの学科はどうだったんですか。
麦:僕の学科は映像学科と言いつつもメディアアートよりで、僕の当時好きだったMVやCMのような広告映像というよりは、ナム・ジュン・パイクのようなビデオ・アートから勉強しようみたいな感じはありましたね。一方でProcessingやMax/MSPも授業で軽く触りつつ。でも、それはそれでメディアの存在みたいなものがわかってよかったと思っています。僕が高校でドキュメンタリーをつくっていた頃は、16:9で、24fpsっていう映像のフォーマットやプロトコルがあって、その作法の中でいかにうまいものをつくるかを考えていました。でもメディアアートって、より自由度が高いですよね。16:9じゃなくてもいいし、フレームレートをめっちゃ上げてもいいし、そもそも平面じゃなくてもいいし。そういうメディアそのものの形態をメタ的に扱うっていう発想を、あまり真面目にやってた訳ではないですが、一通り知れたのはよかったな、と思ってます。とはいえ、原点は映像なので、デジタルなことを薄く広くやってると思われたりもしますが、あくまで自分は映像制作者です、ということにしてます。
(伊藤)僕も写真学校で、木村伊兵衛や土門拳から流れや、そもそもパリのリュミエール兄弟がカラー写真を実用化して、みたいなことは写真学校で学びましたし、僕の行っていた学校では1年の時はモノクロのフィルムでしか撮らせてもらえなかったんですよね。
麦:僕も学校でやりました。カメラ・オブスキュラから始まり、みたいな。
(伊藤)そうですそうです。ピンホールカメラを自分でつくって、みたいな。そういうのをすっ飛ばしてやってますっていう人も全然いいと思うんですが、モノクロの、黒の強弱だけで出てくる感覚を知ったことで、カラーになった時に少しの色の強弱でも判断できるような能力がついたと思っています。実は学校に内緒でカラーのデジタルで写真を撮ったりPhotoshopで加工してみたりもしていましたけど、そういう自分が興味あることに加えて、歴史の知識などの土台の部分を学ぶことは大切だと改めて思いました。
麦:そうですね。
仕事ということになると、クライアントによって求めるアート性や作品のトーンが違うと思いますが、そういう時に基礎的な部分があれば、自分の手法とこれを組み合わせて、みたいな柔軟な対応ができると思うんですよね。そういうのがないと自分の手法だけに溺れがちになってしまう気がします。
麦:でも僕は、デザイナーの方がおっしゃるようなクライアントの依頼に対して最適解を返す、みたいなのはあまり得意じゃないです。そういう風にしようと思ってやっていた時期もありましたが、しんどくなっちゃいました。だから最近は、僕のやりたいアイディアの中からどれかを、無理矢理クライアントワークにこじつけてぶっこんじゃう、みたいなやり方をしてしまってる気がします…
ただ、著名なデザイナーの中にはどちらかと言うと作家に近いような方もいらっしゃいますし、自分のやりたいことをこじつけて仕事として成立させるというのは少なからず必要な部分なのではないかと思います。
麦:確かに…いや、それでは無理やり自分を肯定しているような気がしてしまいますね。僕は自分が作家然としているつもりはないんですが、今のところ僕に任せてくれる仕事が多いっていうのは幸せだと思います。
今のお仕事を始めたきっかけはなんだったんですか。
麦:在学中に、今いるINS Studioの方と仕事する機会があったんですよ。実は昔からgroup_inouのアートワークやMVなどを手がけてたチームで、僕は学生の頃からファンだったんですけれど、初めてスタジオに打ち合わせに来た時、group_inouの『MONKEY / JUDGE』のジャケットのポリゴンの「考える人」の実物がボンと置いてありました。それでふわふわっとフェードインしてきた、みたいな流れですね。なんか良いなーと思って作業環境も置かせてもらってるうちに気づいたら一員になっていた、という感じです。
大学在学中からプロとして仕事をされていたというのはすごいですね。
麦:映像だとあまり珍しくないと思います。
どんな仕事をされていたんですか。
麦:スマホアプリの紹介ムービーをつくったり、テレビ番組のランキングで「1位!」ってドーンと出てくる文字のグラフィックとかやっていました。僕は僕で、「俺はプロとして仕事してるぜ」みたいな承認欲求が満たされちゃってたので、あまり相場感もわからないままやっちゃってました。
自分が学生だった頃で想像すると、ちょっとぐらい大変な仕事でも5万円もらえたら手放しで喜んじゃいそうですもんね。その経験がその後に生きる部分もあると思うので無駄ではないと思いますが…
麦:僕は学生の頃に仕事をしてしまったのは少しだけ後悔してます。当時お仕事をくださった方には本当感謝してますが、授業が疎かになった上に、そういった方々にたくさん迷惑をかけてしまいました。
でも、誰でも簡単に映像がつくれちゃうみたいな話は、1980年代にMacが出てきてグラフィックがすごく軽いものになった、みたいな話と近いような気がしますね。
麦:僕はその当時中学生だったんですが、その頃はStashみたいな映像系マガジンがありました。StashはDVDマガジンで、僕には高すぎて買えませんでした。だから当時は、サイトの最新号のページでサムネイルの文字情報を読み取って検索かけて、The MillとかPsyopっていうプロダクションがヤバイんだ!みたいな感じで、Stashを一度も買うことなく、各プロダクションのサイトでStashに載っているような映像を見まくってました。あとは日本だとteevee graphicsっていうプロダクションの映像も見てました。Vimeoなどもないので、320×240pxくらいの小さい画面で(笑)
僕たちと麦さんは7~8歳違うので、僕たちの中高生の頃はやっとADSLが出始めたくらいの頃だったんですよ。だからネットで検索をかけまくったり、映像を見まくったりっていうことがあまりなかったんですよね。
麦:僕の家はダイアルアップもすごく早い時期からありましたし、中学になる頃には光回線が通ってました。確かにそういう環境は大きかったかもしれないです。
僕たちが中高生の頃は、まだ雑誌を買って情報を仕入れていました。
麦:僕は雑誌は見ていなかったですね。初めて音楽を買ったのもオンライン音源でしたしね。
CDじゃないんですね。それはいつ頃ですか。
麦:小学4年だと思います。なぜか雅楽演奏家のCDで(笑)当時、NHKスペシャルの「宇宙 未知への大紀行」っていう番組が大好きで、その番組の音楽をやっていたのが東儀秀樹だったんです。なんの先入感もなしに、あの番組の音楽好きだなーって感じで…
音楽を初めて買ったのが音源ダウンロードっていうのは世代の違いを感じますね。僕たちは初めて買ったのはCDですし、高校の時の話をするとRelax読んでたよね、みたいな話になるんですが、そういうのは一切ないんですか。
麦:僕の場合、雑誌がテキストサイトに置き換わっているんですよね「僕の見た秩序。」とか盛り上がってました。あと、フラッシュの話もよく出ますね。今の小学生がYouTuberにハマってるみたいな感じで、僕の小学生の頃はクソフラが流行っていました。
クソフラ?
麦:クソみたいなフラッシュ動画です。アスキーアートのやつとかハゲの歌とか、そういうのが僕の世代にめっちゃヒットしてるんですよ。
YouTubeよりも前の世代ということですね。ニコニコ動画やVimeoもまだなかったですか。
麦:ニコ動は中学2年くらいから流行ってきてはいましたね。Vimeoはもっと後です。でも逆に、僕は雑誌やCDに原体験がないので、その曲がどういうシーンでどういう文脈の中にあるのかということを知らないまま大学まで音楽を聴いちゃってたんですよね。もともとミュージックビデオは好きだったので「ヤバい MV」で検索していて、そうしたらAutechreやAphex Twinのやつとかが引っかかって、大学までIDMという言葉も一切知らずに聴いてたりしました。
僕たちは、例えばrockin’onみたいな音楽雑誌の「今年出たアルバム100選」みたいなのを読んで、上位に入っている全然知らないクラブミュージックのアルバムを知ったら、近くのレンタルショップやCDショップに行って探すみたいな感じでしたね。目当てのCDが見つからなかった時は、これがクラブミュージックだったらいいな、って感じでそれっぽいCDを適当にジャケ買いしたりしてました。今、たまたま音楽の話になりましたけど、ものの入り方がぜんぜん違うな、と思いました。僕たちが最先端なものやかっこいいものを見つけるのは、テレビでチャンネルを切り替えて見る、という感じだったので、麦さんは自分で探して見つける、という感じですよね。僕たちは「あ、今のもう一回見たい!」と思っても見られなかったりしましたからね。
麦:でも、東儀秀樹を好きになったのはテレビですし、それ以外にもAppleが大好きだったので、タイアップ曲はとりあえず片っ端からチェックしてました。
プログラミングのコードに触ったのはいつ頃からなんですか。
麦:2004年くらいですかね。普通にJavaScriptやC言語からスタートしました。僕のおじいちゃんがどこからかPhotoshopをもらってきてくれたので、それも意味もわからず触ってみたりしてました。
純粋に遊び道具としてそういうものに触れていた環境だったんですね。僕らがそういうものに出会った時には、仕事になるんじゃないかとか、そういういやらしさがすでにあった気がします。ホームページは、最初はどのようなものをつくっていたんですか。
麦:ペン回しの技のサイトをつくってました。ビギナーズ・ペンスピニングみたいな感じで(笑)ペン回しって、その頃のインターネットが好きな中学生たちのちょっとした趣味みたいな感じだったんですよね。すごいダサいんですけど、根暗なオタクがハマりやすいものだったんですよね。ヨーヨーみたいな感じで、変な技名も載せてたりしました。
技名は麦さんが命名していたんですか。
麦:いえ、化学者でペン回しが趣味の人がいて、化学物質の命名法と同じようにペン回しの技の名前を体系化した人がいたんですよ。指に番号がついてて、「4,3-フルーエントソニック」みたいな(笑)中学生だったので、そういうのがかっこいいと思っちゃったんですよね。
いわゆる「中二病」ですね(笑)
麦:僕の周りでもペン回しが流行っていて、ペンを改造したりもしていました。その改造ペンの軸に入れる柄をオリジナルでつくるためにPhotoshopを使ったりしてました。バド部のユニフォームとかでよくある炎みたいなテクスチャをつくって、スポーツ選手みたいな感覚を味わっていました。世代的にはデジタルネイティブって言われますが、僕たちにとってパソコンやインターネットって、空気みたいなものとして接しているので、そういう自覚はあまりないんですよね。CIVILTOKYOのみなさんも、「雑誌ネイティブ」って言われると変な感覚になると思うんですが、それと同じだと思います。
それが普通ということですね。麦さんがそういったJavaScriptやPhotoshopなどのパソコン文化に深く触れられたのは、実際にそれが手元にあったのも大きいですが、周りに同じような趣味や目標を持つ友達がいたというのも大きいのではないですか。
麦:そうですね。でも、学校にそういう友達がいたというよりも、ネット上のフォーラムを通して知り合った友達の影響が大きいと思います。
モーショングラフィックスが出始めの頃は、クライアントもそういうジャンルができたことは知っていても、それが何なのか、どうやって頼んでいいのかわからないという状態があったかと思います。最近ではプロジェクション・マッピングなどにも利用され、一般にも浸透したと思いますが、逆にやりづらくなったことはありますか。
麦:ジャンルとして知られてしまったことで、形にはなっていないけど面白くなるだろう的なアイデアに対してチャレンジがしづらくなるのかな、という感じはします。リファレンスありきで進むことが多いです。企画会議も、VimeoやPinterestでストックしたかっこいい動画をラップトップ開いて見せ合って終わっちゃったりして、そういうのは寂しいなと思います。結果、二番煎じ的な作品が増えてしまいますし…Kinectもそうで、Kinectを使ったミュージックビデオが一時期に流行ったんですが、だいたいRadioheadの「House of Cards」みたいな、点群で顔がビジュアライズされてるみたいな感じになっちゃったんです。Kinectって本質的には奥行きが取れるカメラでしかないわけで、奥行きをワイヤーフレームやポイントクラウドでデジタル空間上にビジュアライズしなきゃいけないとは限らないじゃないですか。でも「kinect music video」とかで画像検索してみると…
デジタルっぽい表現が多いですね。Kinectといえばこういう使い方、となってしまうということですね。
麦:何かしら流行りのデバイスを使うにしても、僕としては別にこういうトーンに収まらなくてもいいし、もっと新しい使い方やルックを試したいなと思っていても、同じデバイスを使った作品の先例が変にイメージを固定しちゃったりすると、もどかしかったりします。
インタビューの前に、麦さんが「FITC Tokyo 2016」でプレゼンされた時のスライドを拝見しました。「『ルック』を考える」というタイトルで、今のお話とつながるような気がします。リファレンスが増えて求められるものの幅が狭まり、やりづらくなったというお話でしたが、これからさらに指定される幅が狭くなってくるのかなと思います。そういう状況になった時にどうやって渡り合っていくのか、麦さん自身のお考えはありますか。
麦:こういうアイデアが面白いと言ったところで形がないと伝わらないので、とりあえず自主制作としてつくってみたものが仕事に発展していく、みたいなやり方が出来たら楽しいです。
美術やクリエイティブと商業の結びつきの歴史の中で、最初は絵のうまい人が王様のお抱えの画家になってお金をもらって、みたいなところから始まり、現代ではテレビができて、つくり手が考えた面白い動きが商業の場で試せた時代がありました。今では昔のテレビは面白かったみたいな感じになっていますが、昔は面白かったハチャメチャなことも、今では一般認識として膨大にストックされてしまっていて、麦さんがおっしゃるように前例がないとつくりづらい時代になっています。でもつくり手は新しいことをやりたいと思っているわけで、今麦さんがおっしゃったような自主制作に力を入れていくようなやり方をお聞きすると、また大きく時代が動いているような気がします。
麦:そういう風にしていくしかないのかな、というのもあります。スケジュール的にどうしても、試行錯誤したり、プロトタイプから作る時間が無かったりする場合が多いので…結局手っ取り早いリファレンスに頼って作っちゃったりするのは少しさみしいです。自主制作とまではいかずとも、日頃から実験し溜めておくのは大事だなーと思いました。
麦さんもお忙しいと思うので、なかなか難しいのではないですか。
麦:お金をかけて時間をつくるっていう考えって重要だと思うんですよ。お金をかけてっていうのは、直接的には稼ぎを少なくしてっていう意味ですけど、そこはお金を使って時間をつくっているんだと考えます。例えばですけど、仕事を詰め込めるだけ詰め込んだら月40万稼げるところを、時間をつくるために月々25万出したら、稼ぎは15万だけど暇になる、みたいなことですよね。
好きな作家を教えてください。
麦:Michael Paul Youngがいいです。もとは普通の街の写真とかなんですけど、それをポリゴンに貼り付けてディストーションしまくってグラフィックをつくってる人です。日本でこういうことをやっている人はあまり出てきていないですよね。色味もデザインされていて、いいですよね。Nic Hamiltonもすごく好きです。ジェネレーティブ的な技術を使ってつくっていたりするんですけど、ありがちなジェネレーティブ感じゃない。そういうのがすごくかっこいいと思います。あと、Albert Omoss。キャッチーだし、めっちゃかっこいいです。
今見せていただいたグラフィックや映像を見た時、つくり方の検討はつくんですか。
麦:なんとなくは見当つきます。ただ、なかなか仕事じゃ許されないトーンですよね…僕は同じデジタルツールでも、予定調和的じゃないトーンのほうが好きです。プログラミングって、物理的な制約のない画材みたいなものだと思います。絵の具の量の制限もないし、どれだけ細かく描き込めるかという制限もない。その自由さが楽しいのに、誰に言われてるわけでもなくなんとなく均質化しちゃう感じがあまり好きになれなくて。自分も人のこと言えないですが…だから、彼らみたいに、もっといろいろ実験してみたいです。実際にgroup_inouの仕事はそういうことも自由にやらせていただけるので楽しいです。
今までお話いただいたMVやネットアートなど以外で、興味があるものややりたいことなどはありますか。
麦:今、地図にハマっていますね。Google Mapの上の方に、世界史や地理で触れられもしない島があるんですよ。バフィン島とかスヴァールバル諸島とかノバヤ・ゼムリャとかセーヴェルナヤ・ゼムリャとかゼムリャ・フランツァ=ヨシファみたいな。ゼムリャっていうのがロシア語で島とか土地みたいな意味らしくて、ロシアの北方にたくさんゼムリャがあるんです。あと、カナダの北東の辺りとかも気になるんですよ。この辺り見てると、めっちゃヤバい形した島があるんです。「島の形を描けって言われた時に絶対描かない島」暫定ナンバー1がこの辺にあります。それから、「世界飛び地領土研究会」っていう個人サイトがあるんですよ。いろんな飛び地が載ってて、すごいところだとオランダとベルギーの国境線が入り乱れてて家の中を国境線が貫通してる街があったりします。あとは、Wikipediaも見るのも好きです。「Q」の後に「U」以外の文字が続く英単語が極端に少ないって知ってますか。
知らなかったです。確かに思いつかないですね。
麦:1回気づいちゃったらめっちゃヤバいじゃないですか。それで調べてみたら、Wikipediaに「qu以外の綴りでqを含む英単語の一覧」っていう記事があったんですよ。それを見ると、「Q」の後に「U」がつく単語っていうのは中国語やアラビア語からの音訳がほとんどなんです。言葉として知ってるのはケバブ(qabab)とか氣(qi)ぐらいで、見たことない単語ばかりなんですよ。こういうのって見てて楽しいですよね。
面白いですね。そういうことをアウトプットとして出すことは考えていらっしゃいますか。
麦:趣味として、何らかの形でまとめてみたい思いはあります。自分はファッションライクなことはできない自信があるし、もう少しナードくさくていいかなと思っています。
学生の頃から現在までのお話や、やりたいと思っていること、興味を持つポイントなどのお話を聞いていて、今まで拝見していた麦さんの作品と全てがつながった気がします。本日はありがとうございました。
インタビュー収録日:2016年3月5日
橋本麦 Baku Hashimoto
映像作家、デジタルアーティスト。1992年生まれ、武蔵野美術大学中退。実験的なルックやジェネラティブな制作手法を用い、映像作品からWebまで幅広く手掛ける。これまでにgroup_inou、Koji Nakamura、fhána等のアーティストのMV、アニメ「すべてがFになる」のED映像などを手掛ける。第19回文化庁メディア芸術祭新人賞受賞。現在、INS Studioに所属。