100年という月日

米津玄師さんの『さよーならまたいつか!』と
いう楽曲にすごく気持ちを持っていかれています。

この曲は、歌詞に選ぶ言葉の強さにだけ
捕らわれてしまいがちですが、
もしそんなリスナーだけであったとするならば、
ここまでヒットしないかなと思っています。
軽やかな音に切ない言葉たち。
聴いている人が強烈に切なくなってしまう楽曲だと思っています。

米津さんのインタビューの中で「100年先を思うことで、救われることが自分は多い」というようなことをお話しされていて、私もそこに共感しています。

私はこの曲の2番が特に好きで
「100年先のあなたに会いたい」くらい好きな人が、今の環境下を考えて今は会えないとしたら、その環境を考えなくて良いだけずっと先=100年とこの歌詞に繋がってしまうし、自分の気持ちを押し殺して100年待つとしたら「消え失せるなよ」って100年先のことまで好きな人を心配する歌詞が重くなりすぎないように、少し投げやりになるのも許してもらいたいかなと感じています。
(サザンの名曲『いとしのエリー』にも、「行きうせても」という表現があって、うせる時まで大事な人のことは気になって大切なんです、きっと)

『口の中 はたと血が滲んで 空に唾をはく』のもすごく傷が大きいから唾をはかざるを得ない感じがしていて、だからPVの衣装が真っ赤なのかなとも思いました。

したり顔で触らないで
背中を殴りつける的外れ
人が宣う地獄の先にこそ 
私は春を見る

中途半端に私のことを想い描くくらいなら、
もう触れないでいてください。
今一番大切な人のことを想った君の気持ちを
描いてください。
大切な人が私ではなかったとしたら、
そこは地獄だとみんなは言うけど、
きっと私は君の幸せを願って
春のように気持ちを穏やかにするのでしょう。

大丈夫。君が想う前から、
私はずっと私だったのだから。

と歌詞を解釈したら、
この曲はすごく切ないのです。
歌詞の解釈をこんな風に自分が書くのは
野暮かもしれないけれど、こういう解釈の広がる
歌がヒットする日本と私の読解力も
悪くないと私は感じてます。
私はこの曲が好きです。