夢渡り

第一夜

 「うわああああああっ!」
 ベッドの上で、彼は胸を押さえて飛び起きた。鼓動が速く、冷や汗までかいている。毛布をはねのけて、ようやくほっと胸を撫で下ろした。
「あぁ、夢か。……夢か」
 随分とリアルな、そして嫌な夢だった。しばらく見ていない。自分が殺される夢なんてものは。
 目が覚めた今も、まざまざと思い出せる。

 夢の中、彼はスーツを着ていて、見知らぬ住宅街に、一人ぽつんと立っていた。
 俺は、どうしてこんなところにいるんだ?
 早く会社に帰らなければと、些末な焦りを覚えて、まっすぐに歩き出した。
 西の空は夕焼けに燃えている。見知らぬ場所のはずなのに、帰り道は知っていた。
 ぶるっと肩が震える。雪が降ってきていた。しかし彼は、手袋もコートも持っていない。
「えっ」
 何か聞こえる。
 音も無く、雪がひらひらと舞い落ちる。聞こえるのはただ、自分の息の音と――靴音。
 はっとして振り返る。誰もいない。けれど確かに、音が聞こえる。

 ――こつ、こつ。
 ゆっくりと、奇妙に響く、ブーツの音。
「何で」
 何故、自分は、これがブーツの音だと知っている?
 彼は辺りを見回した。屋根も道も、すでに白で染まっている。その中に、違和感がひとつ。
 何故、薄く雪が積もったこの道で、ブーツの音が響くんだ?

 ――こつ、こつ。
 雪を踏みしめる音は聞こえない。ただ、コンクリートを打つブーツの音が近づいてくる。
 聞こえるはずのない、音が。

 恐ろしくなって、彼は走り出した。
 さくさくと雪を踏み、滑りそうになるたび、何とかバランスを立て直す。
 やがて四つ辻に差し掛かった瞬間、ひときわ強い恐怖が彼を襲った。
 思わず足が止まる。
 今動いたら死ぬ――そう、直感した。

 ――こつ、こつ。
 音が、今までよりも大きく、はっきりしている。
 右から聞こえる。
 おかしな話だ。彼は、音から逃げて走っていたはずなのに。

 おもむろに視線を向けると、そこにはうつむく一人の少女がいた。距離にして約五メートルは離れている。
 真っ黒なロングコートに、真っ黒なツインテールが、雪の中で際立っている。彼はその姿に目を奪われた。
 白い背景に際立つ、一つの影。
 彼女はポケットから両手を出した。その手に握られているのは、ぎらぎらと光る二振りの短剣。
 彼女はうつむけていた顔を上げる。赤い瞳が、彼をとらえた。
「ひっ」
 彼の小さな悲鳴を皮切りに、少女は彼が逃げる間を与えず駆けてくる。
 あっという間に彼のもとにたどり着いた少女は、それぞれの短剣を振り上げ――躊躇なく、彼の胸へと振り下ろした。

第一夜 裏

 老女は痛む胸を押さえた。
 頭も四肢も腰も、お腹も肺も心臓も、痛くて痛くてしかたない。
 けれど、いっとう痛むのはこの胸のさらに奥。
「最期が近いんだね」
 自然と笑みがこぼれる。ずいぶんとよく生きたものだ。

「おばあちゃん」
 優しい孫の、悲痛な声が聞こえた。
 冷たい手が、乾いてしわしわになった彼女の手をつつむ。まだ白く柔らかく、これから苦労を知っていく手だ。

「いいんだ。お前の好きにおし。けれど、いいかい。手伝えるのはあと二回だ」 
 孫娘は頷いて、涙にうるむ瞳が赤く光った。

 窓の外にまだ日は昇らず、かすかに雪が散り始めた朝のことだった。

第二夜

 夢だと気づいた時には、彼はすでに四つ辻に立っていて、雪はすでに靴音が聞こえないほど降り積もっていた。今日はスーツではなく、私服を着ている。
「……明晰夢、か」
 夢であることを自覚している夢。
 この夢が昨日と同じものであることは明白だった。

 ――こつ、こつ。
 やはり、ブーツの音が聞こえる。
 逃げても無意味だということはわかっている。
 だが、このままバカみたいに突っ立っているわけにもいかない。
 ともかく移動しようとして、彼は絶句した。
「マジかよ」
 明晰夢の中では自由に行動できるって言ったのは誰なんだ。
 彼の足は、地面に根を下ろしたように、どれだけ力を込めても動かない。
 そうこうしているうちに、足音は彼の背後まで来ていた。

「こんばんは」
 機械のように抑揚のない、少女の声。
「私のことを覚えていますか?」
 昨日と同じ少女だ。見ていないけれど確信できる。
 首筋のあたりがぞっとして、ひやりと金属が当たる気配がした。あの短剣を、突きつけられているのだ。
「大丈夫です。殺しはしません。……聞きたいことがあります」
 これは夢のはずだ。彼は何度も口に出さずに唱える。これは夢。ただの夢。夢。
「十四年前に犯したあなたの罪を、覚えていますか?」
「そんなの、覚えてるわけないだろ……っ」
 十四年前といったら、まだ高校生だ。ずいぶんと遊んでいた時期だから、いろんなことをやらかしたし、何よりガキだった。
 恨みを買った人数は一人や二人ではすまないだろう。
 だが、殺されるほどのことをした覚えはない。
「そうですか」
 短剣が首から離れる。少女は彼の前にまわりこみ、指を一本立てた。
「電車」
 もう一本。
「妊婦」
 最後にもう一本。
「複数」
 短剣が喉元に突きつけられる。
「思い出しましたか?」
 高校は電車通学だった。当然、行き帰りに妊婦に遭遇したことだってある。
 彼は必死で記憶を探る。恨まれそうな出来事で妊婦が関係あることといえば、一つ、思い出してきた。

 部活で口論になった日の帰り道、疲れていらいらしていた彼は、これ見よがしに具合悪そうにしていた妊婦に苛立ちを覚えたのだった。
 スポーツバッグで軽くその女の腹を殴った。でも、ただそれだけだ。

「あ、あ……お前、何? あの女の子どもか何か? 悪かったよ、ほんとに、あの時は」
 子どもが無事産まれていたことにほっとし、同時に気まずさを覚える。
 たじろぎ、数歩後ろに逃げる。足が動くようになっている。金縛りは解けていた。
「悪かったと、そう思うなら、殺される覚悟もありますね」
 少女は短剣を振りかぶる。噴き出す明確な殺意。赤い瞳に睨まれて、彼の恐怖は爆発する。
「ひいいっ、おい、やめろ。な? 殺さないって言ったじゃんかよ!」
「それは、さっきの話です」
 刃の切っ先が彼の胸に向かって振り下ろされるその瞬間。

「だめ!」
 絶叫とともに、彼の目の前で少女が突き飛ばされた。
 飛び出してきたのも、また女だ。息を切らすその姿には見覚えがある。
「はあ…っ」 
 元恋人の肩から力が抜けたのは、彼にも見て取れた。
 脱力した彼女は振り向いて、泣き出すように笑った。
「よかったあ、ケンタが生きててくれて」
「カオリ……」
 これが夢の世界だろうと現実だろうと、彼にはもう関係なかった。
 一年前、彼が飽きて一方的に振ってしまった関係だけれど、彼が殺されそうになった今この時、例え夢だとしても、彼女は助けに来てくれたのだ。もはや恋人でもない彼を。
「俺、ごめん。あの時、酷いこと言って」
 もう一度やり直したい。感動とともに、そんな思いが胸に渦巻いていた。
 事実、カオリほど優しく、彼を誠実に好いた女は他にいなかった。
 静かに近寄り、彼を抱きしめたカオリはにっこりと笑う。
「ううん、いいの」
 声には出さず、唇だけ動かして彼女は続けた。
「だって、今、殺されちゃったら、私が困るもの」
 彼を抱きしめるカオリの手に力がこもる。
 その瞳が、赤く光った。

第二夜 裏

 祖母は、眠る時が多くなった。終わりの時は、少しずつ近づいている。
 少女が二度目の“夢渡り”を終えた後、布団に寝ていた祖母はかすかに目を開けて、蚊の鳴くような声で少女に問うた。
「本当に、良かったのかい?」
 祖母の隣に正座し、その手を握っていた少女は頷いた。
「私より、きっと彼女の方が、もっと深い」
 しわくちゃの手が、少女の手を撫でる。
「譲ってあげたんだね。お前は本当に偉い子だ」
 涙が一粒、少女の頬を伝い落ちる。
「ごめんなさい、おばあちゃん。せっかく、おばあちゃんが手伝ってくれたのに」
「いいんだよ。私は、お前の気持ちが晴れるなら、それでいいんだ」

 まだ夜が明ける前の朝のこと。雪はまだ降り止まず、日の出前、祖母は静かに息を引き取った。

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