君想ふ

 夏の夜、君がいつも私の隣にいたことを思い出す。
 笹に短冊をくくりつける時、ご飯を食べる時、動画を見て笑う時、暑さに負けて畳に寝転がっている時、扇風機の前で涼む時、みんなで花火をする時。君がいなかったことは一度だってなかった。
 もちろん、たまにはケンカもしたし、泣いてしまう時だってあった。私のことなんて知らないフリした時もあったよね。だけど次の日にはけろりとして、何事もなかったように振る舞う、そんな君が好きだった。
 気づかずにうっかり足を踏んでしまった時はものすごく怒られたっけ。でも君は、そんなことすら覚えていないでしょう? それからは私も気をつけるようになって、今では笑い話だよね。
 でもね、私が君と過ごした日々で、一番覚えていることは、一番大好きな時は、覚えているかな、三年前の八月二十日。湿気てしまった花火を、私が一人で片付けていた時のこと。点くかな、点かないかなって、花火を一本ずつろうそくの先にかざしていた。そんな私に寄り添うように、君はずっと見守っててくれた。線香花火だけは袋に入っていて無事だったんだよ。これは大事にとっておこうねって約束、覚えてる?
 来年の今日、もしこれが湿気てなかったら、一緒に線香花火しようね、って言ったこと君は覚えていてくれたかな?
 会いたい。君に会いたいよ。どうしていなくなっちゃったの? 何も言わないままだなんて、そんなのずるいよ。私ばっかり、悲しい思いをして。でも、それ以上に君は辛かったよね。苦しかったよね。痛かったよね。私じゃ、君を助けられなかった。それが今でも、すごく悔しいんだよ。

 秋波は、どれだけあいつのことが好きだったのだろう。ページを開いて文面を読み、ゆっくりと破り取る。そんな作業を、もう二百三十二日分行った。ただただ単調に、ページを繰って読んで破り、目の前でちろちろ燃えている火に、はらりと落としていく。想いの紙きれは端からじんわり炎に溶ける。
「秋波……っ」
 たった一粒、涙が俺の頬を伝ってページに落ちた。文字がぼんやり歪んで、俺は束の間、ページを破く手を止める。
 秋波があいつに対して思ったことを、俺も秋波に対して思うと、そんな風には考えなかったのだろうか。答えはすんなり浮かんできた。考えなかっただろう。あの時の秋波にはそんなことを考える余裕すらなかった。
 だから、これは俺の責任だ。
 想いの塊をただの紙切れへと変える作業を再開する。それが俺にとっての贖罪だ。一番大事な時に、一番秋波が苦しんでいる時に助けてやれなかった、俺の罪。
 当初に比べて随分軽くなった秋波の日記帳を読み進める。春のある日を境に、あいつへの想いが、思い出だけが書き綴られるようになった日記。遺書には、俺にあてて、あいつの墓前で日記を燃やしてほしいと書かれていた。
 秋波は、何を思っていたのだろう。死んでしまうその瞬間、秋波は幸せだっただろうか。あいつのところへ行けると、これで苦しみから逃れられると、あいつのいない世界から自分もいなくなれると、そう思っていただろうか。
 炭になっていく紙きれを眺めながら、俺は自然と呼びかけていた。
「なあ、爽太」
 小さな木の板で作られた墓標に、筆ペンで丁寧に書かれた名前。もちろん、秋波が書いたものだ。その下に眠る、小さな体を思い出す。
「ほんと……バカだよな、秋波は」
 八月二十日。そこで日記は終わっている。秋波が死ぬ前日の日記だ。そっと炎の上にページを落として、俺は脇においていた細長い袋を手にする。これも秋波の言葉だ。
『それから、隼人くん。一緒にね、線香花火もお供えしてほしいの。爽太と花火するって決めてたんだけど、約束してたんだけど、できなくなっちゃったから。せめて、お供えだけでもしてほしいの』
 パリパリとプラスチックの袋を開けて、まだ揺らめく炎に花火をかざす。秋波には供えるようにしか言われてないけれど、花火をただ墓前に供えるだなんて、そんなことは望んでいないだろう。
『みんなで花火できたらいいね』
 秋波が言いたいのは、多分そういうこと。
 火のついた花火は、パシッ、パシッと数回火花を散らせて、橙色の球をその先に生んだ。
 すぐに落ちてしまうものもあれば、長らく灯っているものもあった。一本が終われば、また次の一本を点ける。ロボットのようにその動きだけを繰り返していたけれど、俺の思考は爽太のことを思い出していた。
 呼べば眠そうに返事をするし、機嫌がいい時は俺にもすりよってくる。昼に見た時の、まどろみかけたあの顔は忘れない。気持ちよさそうに目を細めて、のどを鳴らす。そんな爽太にどれだけの人間が癒されてきただろう。爽太が一番なついていたのは秋波だ。親戚からも「爽太くんは秋波ちゃんが大好きなのねえ」なんて言われるほどだったらしい。冬には固めの毛の下にある、あたたかな爽太の身体を触るのが好きだった。時折嫌がりはしたけれど、爽太も寒かったのだろうか、俺の膝にちょこんと丸くなったりしていた。
 爽太が死んだのは、事故だった。車に轢かれていたところを見つけたのは、秋波の母親だ。遺体を秋波には見せないようにと俺も念押しされた。秋波がどんなに泣き、叫び、ドアを叩いても、俺は爽太を秋波には見せなかった。見せたら、もっと酷いことになるのはわかりきっていたから。
 最後の線香花火が落ちる。これで、秋波からの遺言はすべてやり終えた。何だか空虚な感覚を残しながらも、ごみとなった線香花火をまとめる。帰る準備をして
から、ゆっくりとその場にあぐらをかいた。未だ日記を燃やすこの炎がついえるまでは、ここで爽太と共にいよう。
 揺らめく炎をずっと見ていた。辺りの闇が薄明るく照らされる中、じっと火だけを見つめていた。だから、それはきっと俺の幻覚だったのだろう。
 「にゃおん」と、声がした。つん、と獣の臭いがした。
 はっとして見回してみるけれど、誰もいないし何もいない。涙がこみあげてくる。両手に顔をうずめて、俺はもう一度爽太の名を呼んだ。
「俺は大丈夫だから——そっちで、秋波を守ってやれよ」
 そういえば。涙をぬぐい、ポケットから一枚の写真を取り出す。今の今ま
ですっかり忘れていた。それも迷わず火にくべる。
 俺が撮った写真だった。秋波と爽太、一人の人間と一匹の猫のツーショット。秋波の宝物も、そっちに一緒に送ってやるからな。
 俺は——こっちで頑張っていくからさ。
 炎が消えた後、残ったのは灰になった想いの残滓。月明かりだけが冷たく俺と爽太を照らす中、深呼吸して立ち上がる。
 八月二十日が終わっていく。秋波と爽太はいなくなってしまった。それでも、ここで後を追うことが彼らの望みではないだろうから。俺は、まだ生きているのだから。
「そっちに行くのは、もう少しかかりそうだ」
 俺は爽太の墓に微笑んだ。
「それまで、秋波をよろしくな」

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