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解像度の上げ下げはできるのか

曇りガラス越しでなければ見えないものもある。

「解像度」という言葉を目にする機会が増えて久しい。液晶や画面だけでなく、物事の捉え方をはじめとした世界そのものの認識の精度を意味するようになった。言語化への称賛が続く今の時代にあって、その寵児となるべくして転用が起きた表現なのだと思う。

多分、解像度は高い方がいい。大概いい。事実を伝えるにしても自分の感情を表現するにしても、より精緻な言葉で再現されているほうが望ましいとされる。ここで「…とされる」と書くあたり、高解像度が良い理由についてぼくの解像度が十分でないことが露呈している。

今「再現」と書いた。再現は、写し取られる原型の存在を前提とする。ではその原型は元々ディティールの凝らされたものなのだろうか。自分の感情は常に複雑か。いや、必ずしもそんなことないわけで。むしろ再現という営みによってはじめてディティールが生まれることもある。言語化の積極的作用と呼ばれるものがまさにそれだ。

絵画に置き換えてみる。再現といえば写実的な絵が思い浮かぶが、歴史は何も写真のような絵だけを追い求めてきたわけではない。感性で捉えた世界をありのままに表現、つまり再現しようとしたのは象徴主義も抽象絵画も同じだろう。自分の感性というフィルターを通して、誰もが解像度の高い世界を描こうとしてきたはずだ。だから、おそらくここで「再現」は適切な言葉ではない。

上げた解像度は、下げられないのか。言い換えれば、世界の認識方法を改めることはできないのか。そう問い直すと、方法はいくらでもある気がしてくる。

解像度を下げたい。見えないものを見ようとして望遠鏡、否、怪我をするぐらいなら解像度は低いままの方がいい。でも人は、喪失の悲哀や孤独の不安のようにネガティブな感情にこそ高解像度を求めるきらいがある。見えない恐怖を説明可能な状態とし、見える安心に置き換えるためだ。

説明不能な状態に戻せばいい。

異質な情報を投下するのが手っ取り早い。そうすれば世界は揺らぐ。自分のルールで精緻に秩序立ててきたキャンバスに、今まで使っていなかった色の絵の具を放り投げる。瞬間、すべてが振り出しに戻る。

でもそんなの、よく考えるまでもなく当たり前だ。強い外力を受ければ何だって変形する。異国体験が価値観をアップデートするなんて往往にしてあること。

では既成秩序を内破するにはどうすればよいのか。外力によらず、自分の内側から湧き上がる力で破壊するために何ができるだろうと問うとき、「命名」という行為が一つの答えになるのではないかと思っている。

言葉は、雲のような連続体である世界を区切るもの、いわば境界線を引くための道具である。それ自体が名を有するのではなく、あくまで線を引く作用のことであり、ここではそうした境界線の見直しを「命名」と呼びたい。

解像度の高さは、必ずしも緻密な細分化と同義ではない。選び抜いた一つの言葉がピタリと重なる瞬間は、誰もが経験のあることだろう。その逆をするのだ。全くサイズの違う言葉を当てはめてみる。既に引かれた線の筆跡が見えない新しい言葉を。

「エモい」という言葉が生まれてきたのも、そのためなんじゃないかと思うと見方が変わる。

幾重にも交差するように引かれた境界線に構うことなく、その網目に無造作に割り当てられた言葉。それが「エモい」なのかもしれない。元々の意味を持たないから、それがどんな感情で構成されているかは一から組み立て直さないとわからない。解像度は、ゼロに戻る。新しく生まれてきた言葉を曖昧と切り捨ててはいけない。いつの時代も若者は挑戦者である。

文章を磨くこと。それは書き手が自分自身の世界と対峙して深く潜っていくことであり、書き手と読み手がお互いに揺り動かされることで実現される双方向の運動でもある。そんなことを去年書いたが、どちらも向かう方向を無意識に決めてしまっていた気がする。

海に深く潜っていけば息をしたくなる。螺旋階段も別に上がるためだけのものではない。常にアウフヘーベン(止揚)である必要はなく、階段を下りる自由は全員に与えられている。

ときには駆け下りるようにして、自分が築き上げてきた世界を静かに壊してみる。そのとき人は、下の階に置き忘れてきた物を見つけたり、そこから見える景色にハッとするのかもしれない。


1年前と何が変わっただろう。今年も、6月はまた解像度について考え続けてみるつもりでいる。





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